俎上の子羊・1



悲鳴と乱闘の音が次第に収まっていく。
古ぼけた聖典と石で出来た神像をぎゅっと握り締め、ルシアンは荷馬車の陰でかすれた声で祈る。
「神よ…」
紺色の地味なお仕着せの修道服に身を包んだ、生真面目な印象の少年である。
青灰色の髪と瞳は、間近で行われている血の惨劇になすすべもなく震えていた。
見た目で分かる通り、彼はこの大陸一帯を宗教的に支配するアルロイド大教の若き修道士だ。
巡礼の旅の途中、親切な旅商人たちに同行させてもらい山向こうの修道院に向かう予定だった。
盗賊が出るから一人じゃ危ない、とは商人の誰かに確かに聞いていた。
だがまさか、本当に盗賊に襲いかかられるとは思っていなかった。
三台あった荷馬車の内、最後尾の荷馬車の隅に最初ルシアンは小さくなって座っていた。
単調な揺れにいつしか眠気を誘われ、うつらうつらしていた彼は知らぬ間に荷物の影に潜り込むような状態になっていたのだ。
それが幸いしたのだろう。
盗賊たちは先頭と最後尾の馬車に一気に襲いかかり、驚く商人たちとその護衛をあっという間に斬り殺していった。
ルシアンが目覚めた時、最初に目に入ったのは無残に切り裂かれた商人の一人の死体。
最後尾の馬車は護衛が少なかったため、一番先に制圧されてしまったらしい。
そのため盗賊たちは他の馬車の制圧に熱心になり、ルシアンは現在のところ無事である。
だがこの幸運がいつまでもつだろう。
冷たい汗をかきながら震えている間に、やがて外が静かになった。
「頭ぁ、こっちの馬車には大した荷がありませんぜ」
盗賊の一人らしい、妙にのんびりした声が聞こえて来る。
「よく探せ。聖地行きの馬車だ、貢物を相当積んでいるに違いないぞ」
それに答え、低いがよく通る声が言った一言にルシアンはびくっとした。
聖地、というのはルシアンが目指す山向こうに広がるアルロイド大教の聖地のこと。
そこにある修道院に祈りを捧げる、それが彼の旅の最終的な目的だった。
目的達成の直前で出会ってしまった災厄に、ルシアンは唇を噛み締める。
その時だった。
突然上から光が差し込み、遠かったはずの声が驚くほど近くで聞こえて来た。
「おい、まだ生き残りがいるぞ!」
野太い腕がぬっと突き出され、抗う暇もなくルシアンの腕を掴む。
半分破壊された荷馬車から、彼は乱暴に外へと投げ出された。
「痛っ……!」
体を強く打ちながら、必死に聖典と石像だけは抱き締めている少年に好奇の目が注がれる。
はっと顔を上げたルシアンを、十数人の粗末な身なりの屈強な男たちが取り囲んでいた。
「巡礼者か」
服装で何者か一目瞭然の少年を見る、盗賊たちの目付きは冷ややかだ。
彼らの顔にも服にも無数の血飛沫が飛び散っている。
見回せばそこここに商人たちや護衛たちの死体がごろごろ転がっていた。
「あっ……、あ」
ぶるっと全身を震わせたルシアンの近くに、さっき彼を外へ投げ出した盗賊が立った。
その手には幅の広い武骨な剣が握られている。
「気の毒になぁ。だが、死ねば神様には会えるさ。そうだろ?」
言って無造作に血まみれの剣を振り上げた男を、ルシアンはやけになってにらみ返し必死に叫んだ。
「こ、こんなことをしてはあなたの魂は救われない…! 死した後地獄で後悔しても遅いのですよ!?」
おとなしそうな少年の口から飛び出した突然の説教に、盗賊たちは一瞬呆気に取られたような表情になる。
「……このガキ、なめた口ききやがって。上等だ、手足を切り落されても同じことが言えるか試してみるかぁ!?」
ぶん、と派手な音を立て、怒りに燃えた先の盗賊が剣を振り下ろす。
だがひっと喉を鳴らして身を竦めたルシアンにそれが届く前に、横から差し込まれた別の剣が刃を弾き上げてしまった。
「頭!?」
驚いた盗賊の声に恐る恐る顔を上げれば、ルシアンの頭上で二本の剣が噛み合っている。
盗賊たちが頭、と呼んだのは、長身で体格の良い黒髪の男だった。
胸当てと肩当てだけの簡易な武装が、逆にその肉体の素晴らしさを際立てている。
顔立ちも荒削りながら悪くなく、十分整っていると言っていい。


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