Don't Leave me 第四章・13
こちらも息を荒げているエルゼに向かい、彼は手にしていた小銭をばらばらと投げつけた。
「受け取れよ、てめえの代金だ! 俺は商売人の子だッ、押し売りでもやっちまったもんには金ぐらい払ってやるさ! だけど忘れるな、これで貸し借りなしだからな!」
力一杯投げつけられた小銭がエルゼの顔や腕に当たる。
それを見てアシェンは真っ青になった。
「に、兄さん、だめだよ、やめて……!」
エルゼはあのバベルの手下である魔物。
しかもついこの間はアシェンに襲いかかり、喉を潰そうとした凶暴な化け物なのだ。
理由は全く分からないが、そんな相手にこんな真似をしてただで済むはずがない。
「アシェン!?」
ようやくカルアンもアシェンの帰宅に気付いたようだ。
慌てたように乱れた服を直す彼の前にいた、エルゼもアシェンの方をはっと振り向いた。
その顔は薄赤く染まり、美しい紫の瞳の縁がきらきらと輝いている。
エルゼが泣いている。
これにはアシェンも更に驚いたが、エルゼもエルゼでアシェンの存在に今初めて気付いたらしい。
「……くそっ!」
狼狽した声を出したエルゼは、次の瞬間ぱっと身を翻した。
襲いかかられるかと思い思わず目を閉じたアシェンだったが、一向にそのような気配はない。
恐る恐る開いた瞳に映ったのは、茫然としているカルアンの姿のみだった。
「何だよ………あいつ。何であいつが泣くんだよ……」
納得いかない、というようにつぶやく彼の目は、さっきまでエルゼがいた辺りに向けられている。
とにかくもアシェンが近付いていくと、兄は思い出したように慌てて服を直し始めた。
「兄さん……あの…………どうしたの?」
はだけた服の前をかき合わせた彼の肌はうっすらと汗ばんでいる。
アシェンも無邪気なだけの子供ではもうない。
何度もジラルドと肌を合わせ、肉体の悦びを知った身だ。
だから分かる。
「……兄さん…………まさか、兄さん、エルゼに……!?」
「……そうだよ」
観念したようにぼそりと返され、アシェンは目の前が真っ暗になる思いがした。
ジラルドはエルゼはもう自分を襲わないと誓ってくれた。
だけどそれでカルアンが襲われるのならなお悪い。
命を取るような真似をされなかったのは幸いだが、命があるからいいというものではないのだ。
思い出されるのは初めてのあの日。
視力を奪われこの身を引き裂かれた時の、恐怖と羞恥が蘇る。
「に……兄さん、兄さん、ごめんなさい…………!」
取り乱し、必死になって謝るアシェンの様子に何を想像しているか悟ったのだろう。
慌てたようにカルアンはこう言った。
「おい、違うって! オレはその、違うよ、オレが女役じゃねえよ!」
「え?」
「だかっ…………あいつが、オレに乗っかって腰振りやがったんだよ勝手に!」
日頃兄貴風を吹かせ、何かに付けアシェンを子供扱いするカルアンだ。
だが性的な話題に関しては、弟の前ではあまり口にすることがない。
それこそ子供扱いしているからなのだが、その分アシェンはあけすけな彼の言葉にびっくりしてしまった。
カルアンもカルアンでまずいと思ったのだろう。
懸命に言葉を濁して説明しようとするがもう遅い。
「だから! ……そのッ、オレが家で勉強していたらだな……急に周りの音が聞こえなくなって、あいつが部屋に入って来て……それで、まあ、気が付いたら、そういうことに」
もごもごとつぶやくカルアンの鼻先は赤い。
あ然としながらもアシェンは、エルゼの企みを朧気ながらも感じ取っていた。
きっとジラルドが、エルゼにアシェンに手を出さないように言ったのだ。
だからエルゼはアシェンではなく、その兄であるカルアンを籠絡しようとしたのだろう。
ところがカルアンは持ち前の負けん気と商売人の矜持でもって、魔性の誘惑をはねのけた。
代金と称した小銭を叩き付けるなど怖い者知らずにもほどがあるが、事実としてエルゼは撤退していったのだ。
涙まで浮かべて。
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