要姫 第二章・10



今度こそナイアは何も言い返せなかった。
違うと、頭の中では反論が渦巻いてはいるが、唇は震えるばかりで言葉にならない。
肉欲を隠そうともしないアレクシの瞳を怖いと思った。
だがそれは仮面によって封じられていた、ありのままの彼の姿ではないか?
ランクーガ王がナイアを要姫として要の神殿に閉じ込めたように。
ナイアもまた、アレクシを理想の騎士の偶像に閉じ込めておくことを願っていたのではないか。
…………アレクシは浅ましい本性をさらけ出したナイアを、更なる情熱を持って求めてくれたというのに。
「彼が変わったのはあなたのせい。いや、あなたのためですよ、ナイア様」
薄い笑みを口の端に蓄え、クラウディオはとどめのように言い放った。
「確かに私は理術を用い、ほんの少しだけアレクシ殿の理性のたがを外して差し上げた。しかし理術は世の理を瞬間的に、わずかに書き換える力しか有さぬつまらぬ術であることはあなたもご承知のはず」
それはナイアも知っている。
奇跡の術のように言われている理術だが、世の理をねじ曲げて何でも好き放題に出来るわけではない。
大陸最高の理術師であるクラウディオだって、書き換えられる範囲が人より多少広いだけだ。
「無から有を生み出したわけではない。覚えておいて頂きたいですね、ナイア様。アレクシ殿はあなたのせいで、あなたのために変わったのです。あなたを想うがゆえに、あなたを要姫の重責から解放することを願った。私はそのお手伝いをしただけ」
私のせい。
重い言葉が喉をふさぎ、息が出来ないような錯覚に囚われる。
「それで嫌われてしまうなら彼もお気の毒なことだ……おっと、アレクシ殿の支度が出来たようです。では、失礼」
言い置いてクライディオは、にこやかな笑顔に戻り踵を返す。
着替えたアレクシがかけてきた出立の挨拶に言葉を返すことも出来ず、ナイアは唇を噛み締め寝台の上で硬直していた。




一人きりになったナイアは、それからもしばらく横になったままクラウディオが残した言葉を繰り返していた。
「……私のせい……」
アレクシ殿はあなたを救おうとした。
それで嫌われてしまうなら、彼もお気の毒なことだ。
「…………違う。私は、あの方を嫌いになったわけじゃ、ない……」
か細い声に不意に被さった女性の悲鳴。
はっとして身を起こそうとしたが、アレクシが残した理術の鎖はまだ四肢を拘束している。
しかし、聞こえてくる悲鳴は一つではない。
数を増し、罵声と怒鳴り声をも含み始めたそれらの声は、徐々にナイアの側へと近付いてくる。
「ランクーガの……、うわ、うぎゃあああ!」
あれは多分、ナイアの部屋の警備兵の声。
妻を人目に触れさせることを嫌うアレクシは彼らを一定以上の距離には近付けさせなかったが、時折安否を尋ねられることがあるためそうと分かる。
一番近くにいるはずの彼らが襲撃を受けたということは………
冷や汗を感じた全身に、扉を蹴破る音が衝撃となって浴びせられる。
部屋に乱入してきた数人の体格のいい男達が、どうすることも出来ず寝台の上にいるナイアを見下ろしていた。
「ここにおわしたか、要の巫女よ」
奇しくもクラウディオが要の神殿を襲った時のような台詞。
その声を発したのは乱入者の内一際体格のいい男だった。
身なりは誰も似たようなもの。
全身傷付いて血にまみれ、武装はしているものの身を守る最低限度のものでしかない。
戦場をうろつく死体剥ぎと変わらぬ外見だったが、彼らの動作には訓練の成果と思える統一性があった。
身をやつしているというよりも、敗走を続ける内に自然とこういった風体になってしまったのだろう。
そして何より、最初に声を発した男はナイアもよく知っている相手だった。
「ソーン………、将軍……?」
間違いない。
ランクーガ随一の武勲を誇る将軍・ソーン。
目をつぶされる前に姿を見たことがあるし、例え視力のない状態でもこの見る者を圧迫する威圧感でそうと知れる。
国と民を守る軍人であることを何よりの誇りとしている、短い黒髪にいかめしい外見の大男。
アレクシのような見目麗しい美男では決してないが、純粋に一人の戦士として見るのならソーンの方が評価は高いだろう。


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