ヤニスが到着したと聞かされたのは、部屋で暢気に紅茶を啜っていた時だった。こちらでも嗜好品となると良い値段がするのは体験済みで、町におすそ分けのお礼に持っていったら平身低頭されてしまった。そんなわけで紅茶とかお菓子なんかは、いっぺんに手をつけずにチミチミとやっている。
イッロ達が旅立った後、二度ほど勝手に町に出たのだが、今は散歩がてら町に出ようとすると、何かあっては大変とばかりに止められている。ヤニスの帰還によって、慣れない窮屈さにようやっと終止符が打てるのだ。もっとも、窮屈さだけではないかもしれないが。
「ヤニス様、お待ち下さい」
慌しい扉の向こうに嘆息しつつもベールを被り、あまつさえ首を振って落ちないようくくりつけた紐を顎に巻く。珍妙な様子だったが、ベールが二重になっているおかげで目立たない。
「旦那様がお帰りになるまで、どうかお部屋で」
「せっかく客人がいるというのに挨拶も無しに過ごせないよ。母も君達も、客人の遠慮を鵜呑みにしては失礼にあたる」
― 律儀、ってわけでも無さそうだ。今どきの若いもんはという台詞をどこで使えば良いのかな。あっ、紅茶片付けないと。そういや食事は・・・ひきこもるしかないか。
扉の向こうが静寂を取り戻し、軽くノックされた。姦しさが無くなってみると、うっすらと夜理の顔に緊張が走る。継承式にはもっとひどいのかと思うと。うんざりとした気持ちになるのもいたしかたない。
「はい」
「失礼するよ」
ベールに覆われて相手に顔が分かりづらくなっているのは良いが、これでは夜理も見えづらい。ヤニスは夜理の姿に驚いたもののすぐに冷静さとにこやかさを取り戻していた。
― うーん、さすが騎士様。しかもタラシっぽいなあ。雰囲気がね、雰囲気が。イサクに似てるかと思ったけど、ちょっと違うかも。父親似か。良いな、良いな、眉目秀麗な旦那。見たこと無いけど。イッロが選んだ人だからすげえカッコいいのは当然だろうから、写真とかないよね。絵か! 絵ぐらいあるよね。肖像画の一つや二つぐらいあるかもしらん。ササにでも聞いてみようかな。
「初めまして、このような格好で申し訳ないね。知っているかもしれないけど、この家の三男のヤニスだ。今は近衛隊王族警邏第三部隊に所属してる」
― おお! いい声。というか、王都団の正式名称ってやけに長いじゃない。あれだね、派出所が交番と一緒だ。愛称って大事だからな、うん、良く分かってる。
イサクやイッリ、イッロ、ササと四人も見てきた。この家の顔の良さは町の人々や使用人達と比べても随分と上である。それでも舞い上がる要素になりえないのは、単に王族に近いからだった。夜理の敵・・・という位置づけになるかもしれない不確定人物に気を許すのは間違いなのだ。ベールの下の顔は不必要に強張っていても口元を無理に引き上げて笑顔を作った。
「初めまして。私はヨリと申します。私の方こそ、このような姿で申し訳ありませんが、どうかお許し下さい」
慣れない言葉遣いのせいで、いつもより二割り増しなゆっくりさ。トロさが全面に押し出されていても、ヤニスの態度は軟化しなかった。
「ああ、顔に傷があると聞きました。賊に襲われたとも」
ひやりとする視線とわざと夜理を脅かす物言いに嘆息しつつも、びくりと肩を震わせて、更に俯き加減を加えてみる。肩が震えるのも、俯き加減なのも後ろめたさの為だが、臆病でいたいけな女性に見せるには好都合だろう。
「はい。困っている所を旦那様には助けて頂き、本当に感謝しております。お屋敷の皆様もお優しく」
「君はいつまでここにいるつもり? どうせ賊に襲われるような格好をしていたんだろう。お祖父様は面倒見が良いから、君の申し出を断らなかったんだろうけど、君が入り込む余地などこの家にはないよ。ああ、言っておくけど僕は君のような女性はタイプじゃないし、兄達にとっても同じだ」
蔑むような言い方に、意外と腹は立たない。それどころか必死な感じで可愛いなどと思ってしまう夜理は、やっぱり感覚がずれこんでるのだろう。
「そ、そのようなつもりでは。旦那様方にはご迷惑をおかけしておりますが、これ以上のご迷惑になるようでしたら、すぐにでもダートに向かう予定でおります」
「あっそう。そういえば、君も継承式に出るとか? もし期待しているなら無理だよ。君みたいに女性としては劣る容姿で身分差のある者を迎えようという人はいないだろうからね」
― ひ・・・ひねてる。捻くれてる。や、しかし耐えねば。ここでばれるわけにはいかん。いかんですよ。頑張れ表情筋。頑張れ私。
「承知しております。私のような者が招待されて良い席とは思っておりません。ですが、それでは客人をないがしろにしたと旦那様方の評判にも傷がつくと仰られましたゆえ、お受けした次第でござます。もし、よろしければヤニス様が式への『正当なる』不参加をご助言下さると旦那様方もご納得下さると存じます」
― ああ、なんて言い難い。けど、ヤニスさんがうんって言えば、出なくて済むし危険も減らせるし。チャンス? チャンスなの、これは!?
ダートに行けると知った時は嬉しかったが、継承式での顔合わせを考えると逃げの一手が良い様な気がしているのだ。ダートの当主に会わなければいけなくとも、王都団の面々と対するよりはいい筈だ。イッロやイサクの様子から当主あたりならば情報が降りていないと見当を付けている。
「確かに君は賢い人のようだ。それにここまで言われて怒らないところを見ると、随分と人が良い。演技でなければね」
からかうような声に俯いていた顔を視線が合わないようにそろりと上げると、ベールで霞がかった先に微笑んでいるであろうヤニスがいる。先程までの警戒心を解いた様子に、夜理は自分が上手くやり果せたと思った。
「冷静で慎み深い、か。なるほど。試すようなことを言って悪かったね」
「いえ。私のような者がいては不審に思われても仕方がありませんから」
仕方がないどころか、現に不審人物である。簡単に疑いを晴らして良いのかと、少々不安になるぐらいだ。
「この家は女性が一人でいるには広すぎるだろう? 一人で心細かったら僕のところへおいで。もっとも使用人達がいるから危ないことはないけれどね。改めて歓迎するよ、小さなお客様」
― タラシですね。認めます。認定許可します。決定的なタラシですよ、奥さん! 流し目してるのが目に浮かぶ。正面きってご尊顔を拝す事は出来ませんけどね。見える見えますよ私には。しかもちょっと男尊女卑傾向? 小さいって何だ、小さいって! 標準にちょっと足りないだけだぞ、こんちくしょうめ。
実際、本当に憎たらしいとかタラシだとかは思っていない。ただ歯茎が浮き上がりそうな台詞に拒否反応を示す体と脳みそに血液と酸素供給を行っているだけだ。
「お気遣い頂き、ありがとうございます」
「こちらこそ、いくら気が立っていたとはいえ本当に済まなかった。先ほどのことはどうか忘れて。お爺様の見る目は確かだと信じているけれど、ちょっとしたいたずら心が騒いだだけだから。こんなに愛らしい方に無粋な発言をして後悔しているんだ。許してくれるかい?」
完全に常軌を逸してると受け取れる発言にめまいがする。加えて動悸息切れ。丸いちっちゃな球体がお世話してくれても良い。
「どうぞお気遣いなく。ヤニス様のお言葉はご家族をお思いでしたら当然のことと承知しておりますので」
夜理が深々と頭を垂れるとヤニスは困ったように頭をかいた。固い口調から一変して羽毛のように優しい声が頭上から注がれる。
「考えなしに酷い言い方をした。ベールを被っているのも僕みたいな心無い者がいるせいだね」
― おお! そこまで話が飛ぶのか。参るね。
「ベールを付けたままではご無礼と承知しております。ですが、生きて尚醜い傷跡を晒すのは心苦しいのです。ヤニス様がお考えになっているようなことはございません。全く無いとは言い切れませんが、この傷を見ればお心を痛める方も多くいらっしゃいます。旦那様方には事情をお話する上でお見せいたしましたが、大層、辛そうなお顔でした」
― 傷も何も無いですけどね。つか、表情が見えないだけに相手の反応が読めんです。完全に顔を隠すのは考えた方がいいかも。相手の不信感を煽りすぎるな。
「そう。・・・けれど、門番に貴女を良く知っているような口ぶりで言われてね。もしかして使用人達は知ってるのかな?」
探るような視線が送られる。せっかく窮地を脱したと思ったのに、振り出しに強制送還されているではないか。そこまでの口裏あわせはしていない。背中に汗がたらりと零れる。
「ヤニス様、恐れながらヨリ様のお顔の事は私共も知っております。旦那様からは万が一を考えてと配慮下さいましたので。また一部の領民達も存じております。こちらは当主様のご配慮です」
ベールを渡してくれたメイドさんの機転でヤニスは納得している。後でイサク達にはどう伝えてあるのか聞いておいた方が良さそうだ。
「そうか。どうも貴女に関しては普段の僕らしくないようだ」
気落ちしているのだろう言葉よりも、声ににじんだ疲れの方が夜理は気になった。推測でしかないが、こちらに向かっている途中でイサクからの知らせを受け、ここに来るまでさぞや気を揉んだのだろう。
「ヤニス様、お疲れなのではございませんか? 疲れていては普段どおりにいかないのも無理からぬことでございますから」
夜理自身が疲れからこの非常事態である己が身。フォローというよりも同病相哀れむ。
― 若いし。若そうだし。声に張りがある当たりがもう若い証拠なんだけど、根が真面目っぽい。手抜きとかへ理屈とか考えなさそうだ。あー、こんな時代も欲しかった。
ササの年頃には既に夜理は夜理だった。変わりようの無い事実は変えられなかった環境も一因だろうが、それ以上に夜理の生まれ持ったものに違いない。
だが、夜理のちょっとした羨望と庇護欲をヤニスが理解できるわけがない。夜理からは見えないが、花のような美貌が綻んでいる。
「ありがとう。・・・優しい君にお願いしても良いかな?」
「な、なんでしょう?」
「僕のことはヤニスと」
― そんなことか! 改まって、しかも変な枕詞つきで言うことか!
「そんな事でしたら」
言うとほんの少しばかり笑いが零れてしまう。一度、朝餉の時にイサクを旦那様と言ったら渋い顔で注意された。
「申し訳ありません。イサクも、皆さんも同じように仰るから・・・」
「お爺様が? ああ、あの人なら言いそうだ。それなら普段どおりに話して欲しいというのも聞いてもらえる? ・・・・・・それもお爺様達から言われているようだね」
小さな笑い声を軽く咎められて肩を引っ込める。畏まった口調でササに言ったら、烈火のごとく友にそんな調子で話すのかと指摘されてからそう日が経っていない。
「ありがとう、ヤニス」
短い付き合いとは言え、友好関係を築けたのは良いことだ。これ以上の詮索も深入りもしてこなければ珍しい客人の一人になるぐらいだろう。継承式さえ終わればこの家からも足が遠のく。街で有名になるぐらいの優男ぶりがベール越しになってしまうのは残念だがいたしかたない。
「逢えて良かった。式までは近くの警備にあたっているから、何かあったら呼んで。時間がきてしまったからこれで失礼する」
ヤニスはそう言うと、名残惜しそうに時計を確認して部屋から出て行った。ヤニスが完全に屋敷から離れて行ったのを見届けてから、被っていたベールを外す。一気に開けた視界にヤニスがいた気配は既に消えていた。
― 紐痕になってる・・・年のせい? まさかね。きつかったからだと思いたい。ハリが無くなるにはまだ早いはずだ!
弾力の無さが原因かは分からないが、くっきりとした縄文土器痕はいただけない。次回からはもう少しゆるく結んだ方がいいだろう。間違って絞まってしまったら取り返しようがないもんだ。
夕食の時間までは大分ある。夜理はバッグから手帳を取り出し、頭の中身の整理をする事にした。悲しいかな書き留めておかないとすっぱ抜ける記憶力である。
― ヤニスや王都団の詳細、式当日の食事と行動範囲は調べとかないと不味いわ。そういやダートの偉いさんに挨拶すんだっけ。イサクに聞いてみないといけないかな。ダートでの生活スタイルも気になる。帰り方が分かる日ってくるんだろうか・・・
もはや自分が帰りたいのか、このままでいたいのかすら曖昧になりつつある。慣れてきた弊害に苦悶した夜理は、エト達が夜理のためだけに用意したデザートのついた夕食を上手く味わえなかった。それでも見事に完食したあたりは、やはり夜理だったとしか言いようが無い。
2009/07/24