「ゼノン様!」
夜理の肩がひくりと震えた。ゼノンと呼ばれた男は、ヤニスよりも背が高く、髪も目もここでは珍しいぐらい黒々としている。黒髪をカラスの濡れ場色と評すことがあるが、まさにそんな色だった。料理人のビルマも似た容姿だが、あちらは肌の色も濃い。ゼノンはヤニス同様、肌はコーカソイドに近い色だ。
「ここにいたのか、ササ。もうすぐ、最後の曲が始まる」
「ごめんなさい。ヨリと喋っているうちに時間を忘れてたみたい。ヨリが踊らないというから、部屋まで送ろうと思って・・・・・・」
夜理へ視線を投げてくるササに苦笑するしかなかった。学校生活で培った踊りは、ここで通用しないのは自明だ。盆踊りを前の人の見よう見真似で踊っていたのだ。ここでやったら顰蹙だろう。嘲笑も一緒についてくるのだけは、イーガン家の人々に失礼だ。
「君は? こう言っては何だが、相手が必要なら友達を紹介するが」
「いえ!」
話がついたら、やんわりと別行動にしようと思っていたのに、ゼノンの誘いに声が大きくなる。
― お友達なんぞ紹介されたら、それこそ危なっかしくて踊るどこじゃない。別の踊りなら出来るかもしらんけど、どっちも勘弁です。結構です。遠慮します。
「無学なので、その・・・踊れないんです。踊った事がなくて。ですから、私のことは気にせず、楽しい時間を過ごして来てください。ササも、一人で大丈夫だから」
取り成すように、出来るだけ落ち着いた声で言ってみたものの、ササはまだ不安そうだった。
「本当に良いの? せっかくの機会なのに・・・・・・」
こそりと耳そばでササに呟かれるが、せっかくだ。優秀なセールスマンに引っかかってしまった気分を味わいながら夜理は答える。
「うん、残念だけど。慣れないから疲れちゃったし、明後日のこともあるから今日は辞めておく。ごめんね、気を遣わせてしまって」
「ヨリが良いなら良いんだけど。あっ! 曲が始まったみたい。ゼノン様、急ぎましょう! それじゃあ、またね」
忙しく後にするササとは対照的に、ゆったりとゼノンが後にする。その背中が見えなくなるまで手を振り続けた。最後の最後で、気を抜いたばかりに失敗した経験から慎重に、彼らの姿が完全に見えなくなって数秒経つまで振り続けた。
― し、痺れた・・・どんだけ軟弱。こっち来てからナイフとフォークしか持ってないせい? 顔も痛い。見えてないって分かっていても、どうにも愛想笑いが止まらない。
「失敗したか」
漏れた声が意外と低い。
― こっちに来てから数日。イサクに僕ん家とか言われて連れて来られてから、めいいっぱい散策してますよね、私。毎日毎日、隠居生活なみの探索ごっこしてましたよね、貴方。もう意味がわからん、この家。部屋はどこ。
強盗防止にしても入り組んだ屋敷内だ。方向音痴と名高い夜理が、いつもとは違う通路から、自分の部屋に辿りつけるわけがない。地元でも迷子になりかけたのだ、この広大な屋敷を覚えるにはあまりにも短い時間だった。
「あれ? ヨリさんじゃないですか!? どうしたんです、こんなとこで」
にこにこと近づいてきたのは、厨房でも下っ端ないつかの若者だ。それにしても、ここの家の者は皆、人の良さそうな顔をしている。
「えっと、ちょっと。そうだ! もうお仕事は終わった?」
下っ端なのは厨房だけではなく、イーガン家の誰よりも年下なせいか、夜理が真っ先にくだけた相手は彼だった。彼のような下っ端は、とりわけメイドさん達と仲が良いのだ。なのに、名前は知らない。教えてもらえないのではない、夜理が忘れっぽいだけなのだ。
それでも、名前を忘れようとも、夜理からしたら、やんちゃな弟みたいで世話を焼きたくなるタイプだ。たとえ現実は夜理が世話される立場だったとしても。
「ええ、まあ。後は交代でお客様の飲み物を用意するぐらいですから。明日の事を考えると、さすがに、ずっと起きてるわけにもいかないですしね」
肩をすくめて言う彼に夜理が首を傾げると、彼が呆れながらも諦めたように言った。
「聞いてません? これ、明日の明け方まで続くらしいですよ?」
「ちょっと待って。ササが、ついさっき最後の曲が流れたって言ってたんだけど?」
泊められるだけの部屋数はあるが、あの人数と一緒に朝を迎えるのは遠慮したいと、自分の家でもないのに心配になる。目の前の彼は、面白そうに夜理を見ながら言った。
「きっと『幸福な時間』が最後だったんでしょうねえ。へえ、そういうお相手がいるんだ、ササ様」
「なに、それ」
「ええっ!? 知らないんですか? 俺でも知ってるのに・・・」
微かに混じる憐れみに、夜理は元から合っていない視線を更に盛大にずらした。色事に弱い夜理でも、ササがゼノンと踊るのを特別楽しみにしていたのは知っている。ただ、ここが夜理の世界とは違うというのを失念していただけだ。
「こういった所で踊るのには順番が合ってですね。最初は結婚してる男女、つまり夫婦です。稀に御兄弟同士とか、血縁関係で一緒になることもあるみたいですけど。その次は婚約している二人、それからお付き合いしてる二人、と続くんです。で、ササ様は、最後の『お付き合いしてる二人』が踊る、最後の曲を言っておられたんですねー」
ねーと言われても、夜理にはさっぱり分からない。彼が教師に向いていないことだけが分かる説明だった。
「もうちょっと詳しく! あ、歩きながら話そう。出来れば部屋まで一緒に行こう」
どさくさ紛れに道案内を頼んだ。人が良い彼は、夜理の情けない背景を疑うことなく一緒に歩き出す。良い奴である。メイドさん達の評価は低い(主に男として)が夜理は好きなタイプだ。お人よしも節度があれば嫌いじゃない。
「さっきの話だけど、ササとお相手の人が付き合ってるってことで良いの? そんな感じには見えなかったけど?」
夜理が鈍いとはいえ、そういった雰囲気があれば気がつくものである。まして、ササのような子がその手の話を避けるとは思えなかった。現に、前日の作戦会議という名の恋愛談義をしたばかりだ。
「まあ、目安ですよ。目安。なんで、アプローチしたい人が誘ってもありです。けど、ササ様ぐらいになったら、方々からお誘いがあるから、普段は断ってるんですよ」
「うーん? 今までは断ってたの?」
ササなら、相手がよっぽどでなければ喜んでつきあいそうなものだ。相手がゼノンだから受けたというよりも、ゼノンだから必要以上のテンションだったと説明されたほうが納得がいく。
「華やかなのはお好きですよ。けど、こういうのは割り切れない人だからってエトさんが言ってました。王宮で働いてるってのもあるかもしれないです。普段、周りにいるのは格好良い人ばっかでしょうから。あ、ここを右に曲がらないと・・・・・・もしかして」
「うん、まあ、いいから。それで? さっきの時間がどうのって言うのはなんで?」
あっさりと受け流した夜理に、青年は口元に浮かんだ笑みを抑え、ごまかすために咳ばらいをして気を取り直した。屋敷の広大さは、生まれながらの庶民にとって不自由なものだ。
「そうでした。男女が一緒になって踊る曲の最後に、付き合っているなら結婚の約束を交わしたり、お付き合いを申し込んだりするんです。踊ってる最中でも良いし、一番は踊り終わった直後ですかね」
うっとりしている青年を促して、夜理は部屋に招き入れた。戸を少しだけ開けてくれるのは、彼の優しさと無為な誤解をされたくないという気持ちだ。
― 要は告白場所なわけだ。なんか親公認の合コンに聞こえるのは気のせい? でも、ササが喜んでいたのとはちょっと・・・期待に胸を躍らせているようには見えなかったしねえ。憧れの人と急接近っていうイベントの楽しみはあるとしても、それ以上は求めてないんじゃないかな・・・・・・
夜理が感じたまま青年に言うと首をかしげていた。
「今まで無かったんだから、今日もそうとは言い切れないでしょ?」
「けど、今までなかったからこそって言うのもありますよ。お相手って誰なんですか? ヨリさん、聞いてるんですよね?」
気まずげに夜理は、そわそわとしている青年にゼノンだと告げる。案の定、がっくりと肩を落とされた。きっとササに身分違いの恋でもしていたんだろう。
手が伸ばせないのを承知で、それでも想っていた相手に恋人らしき人物が出てきたのだ。夜理は不得手ながら、青年が落胆で泣くかと思って慰めの言葉を考えていた。なのに、思いのほか青年は晴れやかな顔つきだった。
「そっかあ・・・・・・ゼノン様かぁ」
スポーツ後の爽やかささえ滲ませている。夜理は、遠くにいった青年を現実に戻すのに苦労した。
「ゼノン様がいる隊は文武両道なんですよ。本当、すごいんですから。相手がゼノン様なら、ササ様も本気かもしれないですね」
― 本気っちゃあ、本気だったな。実にアイドル目線で。
「その王都団なんだけど、ゼノン様とヤニスとでは隊が違うんだよね? みんな二人と同じぐらい仲良くなるもの?」
字が読めないせいで、本が読めない。結果、人に聞くしかないのだが、知っていて当たり前のことだと疑われるせいで、なかなか真意に辿り着けないのが惜しい。
「うーん、どうなんでしょう? 俺も王都団に詳しいわけじゃないから。けど、近衛隊の中でも優秀な人間ばっかり集めてるせいか、全体でもそんなに人が多いわけじゃないですしね」
「隊ごとの違いって、結構大きいの?」
あたかも知っているような口ぶりは、綱渡り会話に慣れてきた成果だ。夜理のはったりが自然になっているおかげで、青年は毛の先ほどの疑いも持っていない。
「そうですね。よく第一の武、第三の策ってと言われてますけど、あんまり変わらないみたいですよ」
「ふーん・・・ねえ、そう言えば第二って何だったかな?」
「第二って言えば、お飾りで有名じゃないですか。なんで忘れられるんです」
度忘れしたといった風の夜理に、青年が呆れながら言った。夜理が庶民だと信じているからで、庶民でも次元が違うのを知らない。
― 税金泥棒って、どこ行っても肩身が狭いな。そんじゃ、ゼノンもヤニスも実力ありってことなんだ。ヤルノも・・・
そこまで考えて、ヤルノの噂が町の人から一切出なかったのが気にかかる。人気がないのだろうか。
「ヤルノも王都団の一員だよね?」
「ええ、そうですよ」
それがなんだと言わんばかりの青年に、夜理も言葉に窮した。めげずに聞くと、青年は夜理が言わんとしているのが伝わったようだ。
「ヤルノ様は、お付き合いしている方がいらっしゃるからですよ。っというか、本当に疎いんですね」
― おっ・・・それは失礼じゃないのか!?
ひくりとこめかみが疼いたが、それはそれ。年の功を見せねばならない場面だ。青年に悪気はない。
「まあ、俺も見たわけじゃないですから。ステン様がまだお相手のいない状態で、大っぴらにしてないですしね。噂に聞くところだと、ササ様と正反対なタイプで、ヤルノ様から交際を申し込まれたって話です。ライバルが多くて大変だったらしいですよ」
続けようとして、ぴたりと青年の口が止まった。夜理が振り返ると、壁にかかっている時計が視界に入った。
気がつけば、青年を長く足止めしている。夜理は特別なにか言うでもなく、青年がエトに後でどやされるのは確定だな、と他人事に思った。
「ええっと、すみません! ちょっとまずいんで、俺はこれで」
夜理は慌てて出ていく青年を見ながら、戸を閉めてベールを脱いだ。もちろん、がっちりと鍵は閉めてある。
― ここを出る前に関係図でも作っておくかな。何かの役に立つかもしんない。名前を覚えておくのに便利だろうしねえ。
顔は一度で覚えられるのに、名前と結びつかないせいで損をしている。イーガン家の面々は覚えやすい名前だったが、間違えやすい名前だったから苦労した。ダートに行けば、間違えたうえ忘れているなんてこともありうる。
― ササ、どうなったかなあ・・・ゼノンは良いやつぽかったけど、突っ込み厳しいイメージ。漫才やりたいわけじゃないから、避けておくのが正解だよね。
漫才は関係ないが、ササの今後は気にかかる。ゼノンと良い関係を築いていけば、夜理が冷汗をかく機会も増えることだろう。潔いまでに他力な夜理は、イーガン家と連絡を絶やしたくないところなのだ。
― グラハムさんも悪くないんだけど、どうも同じ釜の飯を食ってないから心許ないんだよねえ。釜っていうより、ここじゃあ窯って感じだろうけどもさ。
穀物の中でも、麦は量販するのが容易い。ここでも同じで、麦を使用した料理が豊富だ。麦だと夜理は思っているが、麦ではない可能性もある。ただし、見た目と味が一緒なら、細かい品種区分など問題ではなかった。
― どっかで食べたパンに似てるかも。外側が硬くて中がもっちりしてるんだよね。パン食文化って太ると思ってたけど、体重が変わった気配ないしな。余計な間食がないからか・・・お菓子っていっても、ほとんど砂糖不使用って感じだしな。
厨房で見た砂糖は焦げ茶色だった。製糖技術は近代文化の証だから、ここになくとも不思議はない。塩やスパイスが豊富で、砂糖を必要としない食文化だ。健康にいいが、夜理が作れる料理は格段に少ない。
夜理はぼんやりとダートでの食生活を思うと、きりきりと胃が痛みだした。こちらに馴染んでから、元の世界に戻されてはひとたまりもない。手帳に書き記したバツ印が恐ろしい。
― 寝るか・・・・・・
もう呼び戻されることもないだろう。規則正しい生活こそが、今の夜理には必要だ。暗くなってから起きていれば、その分だけ余計な考えを起こすのだから。
2009/09/30