◇それは暁の◇Capter07


 宿の近くまで来てみれば、喧騒が一層と激しくなっていく。何やら騒ぎがあったようで、見物人がごろごろしている中へと入っていくのは勇気がいる。
「どうかなさったんですか?」
 持ち前の正義感がうずくのか、ヤニスが宿の主に聞いた。
「なに、大した事じゃないんですよ。騎士の方がアルンゼアと揉めましてね」
「あんた、あの騎士さんの仲間かい?」
 ふらふらと赤ら顔の男が近づいてヤニスに問う。ヤニスが軽く頷くと、分かったような顔をして男がにやけた。夜理には気色悪く映るが、ヤニスは平然としている。職務で慣れている風でかっこいい。
「ありゃ、アルンゼアの完全な言い掛かりだったぜ。ちょっと騎士がぶつかったからって、スリだのなんだのって良くもまあ言えたもんだよなあ!?」
 段々と声が大きくなって、もはや男が誰に聞かせているのか分からない。ヤルノが気になった夜理があたりを見回しても見つからず、代わりに硬い毛で覆われ、両腕を抑えつけられている姿を目の端で捉えた。どうやらアルンゼアと言われているのは、あの者のようだ。
― アルンゼア・・・・・・獣人ってこと? 民族名かな? 顔が良く見えない。
「それで、そいつは」
 ヤニスが男から聞き出すより早く、夜理が近づいていく。子供から目を離してはいけないという鉄則は夜理にも通用しそうだ。
 そろそろと近づいた夜理に気付いたアルンゼアは睨みつけ、夜理の異様な姿に目を眇めた。
「何だよ」
「腕、痛くないですか?」
「あ? うるせえな」
 つまらなそうに言うと、そっぽを向かれてしまう。隣で腕を阻んでいる者が驚いたように夜理に声をかけてきた。
「お嬢さん、こいつは犯罪人なんだから近づいちゃ駄目だよ。ほら、離れて」
「犯罪? 話を聞いたところ、何もしてないようでしたが?」
― まだね、まだ。けど、しそうにないし、最初っから偏見で見ちゃ駄目だよ、おっさん。
「それに最初にぶつかったのは騎士なのでしょう? それなら、言葉が荒くなってしまっただけでしょうし、良くあることです」
「お前・・・・・・」
 呆気に取られてるのをしり目に、ヤニスの方へ振り向いて、夜理は平然と言った。足はがくがくに震えていたが、そこは夜理だ。ぐっと力を込めてへたれないように気合だけで立っている。気付かれてはいけない。恥をかくのは一人の時で十分だ。
「ヤニス、この人も反省してるし、処罰するほどでもないように思うけど、なんか問題あるかな?」
― のんきに、気楽に。分かってくれるよね。
 夜理の必死な思いは伝わり、ヤニスは困惑しながらも笑んで見せた。
「まあ、兄さんも気が短いところがあるからね。無粋な真似をさせてすまなかったな」
 ヤニスが謝ったのはアルンゼアではなく、腕を掴んでいた男達だった。彼らが腕を離すと、アルンゼアは舌打ちをして宿の外へと去っていく。どうやら一先ず落ち着いたようだ。
― やれやれ。偏見も差別も人間がいる以上は無くならない問題のようだ。面倒なこって。
「ヨリ、部屋に行こうか。兄さんのところで三人でお茶しよう」
 いまだガヤガヤとしているロビーを抜けたとたん、夜理は怒られた。静かに淡々としているのに、北極に飛ばされたぐらいの冷気が隣から溢れてきている。さっきよりも膝の震えが激しくなりそうだ。夜理はヤルノの部屋に入ったとたんしゃがみ込んでしまう。
「おいおい、どうした?」
 二人が入ってきたのと入れ替わりに宿の人間が出て行った。事情説明に時間がかかっていたようだった。
「どうもこうも。全く、ヨリには驚かされることばかりだ」
 かいつまんで話すヤニスに、ヤルノはいちいち驚いている。全て話終わったところで、夜理を引き挙げてくれた。まだ膝の震えが止まらないせいで、しっかり立てていない。
「そんな無茶するなんて。ヤニスが怒るのも無理はないな。危ないだろ?」
 もう完全に幼児扱いだ。
― ほめろとは言わないが、称えろ。
 あのまま見過ごせば、寝ざめが悪いのは夜理なのだ。ヤルノ達が慣れていても、夜理は慣れることが出来ない自分を知っている。
「正義感があるわけではないけど、言い掛かりもひどいとは思うけど、拘束している人たちの方が嫌な気がしたので。勝手な行動で悪かったとは思います。すみません」
 硬い声で告げる夜理に、ヤニスよりも柔軟なヤルノが肩をすくめた。夜理をソファに座らせ、ヤルノが向きあう。
「ヨリ、俺のためだろ? あのままアルンゼアのあいつが見世物になったままだったら、俺の評判が落ちるものな?」
 ぱっと顔を上げた夜理に、ヤニスがやっぱりなと頷いて苦笑している。見透かされた夜理は羞恥に顔を赤くして、精いっぱい首を振った。ここで意地でも肯定しないのが、天の邪鬼と言われる所以だ。
「いいって、分かってる。俺だって、見せしめとか考えてたわけじゃない。穏便に済ませられるなら、それにこしたことはないしな。宿の奴にも言ったが、揉め事と言えるほどのもんでもなかったんだ。ただうるさい客が一人いて、そいつが騒ぎを大きくしただけさ」
― それって・・・あいつか!! あの酔っ払い、胡散臭すぎるもんな! ん、あれ? 分かっててヤルノは止めなかった?
「兄さん、それじゃあ」
「そう。アルンゼアとの対立が激しいってのは本当らしいが、店主の話じゃあ、扇動してる奴がいるらしい。しかも、運良く、俺はそいつと鉢合わせ出来た。失敗したのはあいつも俺の顔を知っていたことぐらいな」
「ヨリだけかと思ってたら、兄さんも無茶してたわけだ」
「そう言うなって」
「あのですね」
 夜理が頭一杯になっている情報を整理しようと口を挿むと、二人はぴたりと言い合いを止めた。これでは、続きが言いにくい。
「ごめんね。全部は話せないけど、僕達の仕事の一つが解決しそうなんだ。図らずも兄さんが揉め事を起こしてくれたおかげで」
 どこか棘がある言い方だったが、あっさりと夜理は無視した。そんな所で引っ掛かっている場合ではない。
「仕事? アルンゼアに関係あるんですか?」
― そもそもアルンゼアって何?
 夜理の問いにヤルノが簡単な説明を付けてくれる。話の中から、かいつまんで推測すると、アルンゼアは獣人の中でも、硬めの毛に覆われた部族を差すらしい。彼らは幾つかの海を渡って来ていて、自国を持たない部族のようだった。
 荒々しい気性のせいで人間と衝突が多く、近年になってその数が急増したのを憂慮した国王が騎士団に勅命したのが発端だという。
「調べたら、不可解な事ばかりでね。喧嘩好きで有名だけど、筋を通すのが好きな部族でもあるんだ」
「報告して、指示を仰いだ方がいいな。お前達も気を付けとけ」
 ヤルノがそう締めくくると、今度は夕食の話になっていった。デザートで満たされているので、夜理は積極的に参加しない。それよりも気にかかるのは件のアルンゼアだ。
― 結局、誰も謝ってない。私が謝るのもおかしいけどさ、なんか腑に落ちないんだよ。嫌になるなあ。
 拘束していた連中も大概である。不条理だと喚けるのは差別から遠いからか、それとも近すぎるからか。どちらにせよ、気分の良い物ではない。
― かといって、それをヤルノ達にぶつけるのもお門違いなんだよ。分かってるよ。
 夜理はヤルノ達を見ながらため息を呑みこんだ。言っても仕方がないことがごまんとある。
「ヨリ、あんま気にするなよ」
 夕餉を取るために部屋を出ようとすると、夜理の耳元でヤルノが囁いた。気遣いは嬉しいが、耳に息がかかるのが苦手だと告げると、それは楽しそうに笑いを喉で噛み殺している。
― 失礼な。弱点らしい弱点があったって良いじゃないか。
 先頭を切っていたヤニスが不審にしているのをごまかして、夜理は先を急いだ。行き先が分からないので、さすがにロビーの入口で止まる。笑い声が両隣から聞こえてきて憮然とする夜理に、ヤニスが手を差し出した。
「さあ、行きましょう。お嬢様」
 嫌味なほどに似合うヤルノの手を軽くパシッと叩くと、今度はヤルノが差しだしてくる。それすらも叩き落とし、腰に手を当て偉そうだが、悲しいかな、そこは身長差が物を言う。傍から見たら滑稽なだけだった。
 二人は夜理で遊ぶかのようにして宿を出て、お目当ての店まで夜理の脇を固めて歩く。
― うん、やっぱりヤルノは歩くのが速い。
 先ほどの大事で忘れていたが、ヤニスがぴたりと夜理の横を歩くのに対して、ヤルノはやや斜め前を歩いているのが分かる。分かったからと言って、特に使い道がある考察ではない。けれど、今はその無駄が夜理を支えている。
― 一人でも人目を引くのに、二人だもんね。そりゃ、見るよね。うん、見て良いよ、良いですよー、ご婦人方。真ん中からずれたいのに、ヤニスは分かってないんだよなあ。
 ヤルノも別段に分かっているわけではないだろう。ひっそりと生きてきた夜理でも、女性の目がいかに怖いかは知っている。ベールがあったからこそ一緒に歩けているが、無かったら一目散に駆け出していただろう。そのとろい足で。
 三人が入った店は、宮殿でエトが仲良くしていた古参の料理人が経営している店だという。エトの料理が好きだった夜理はもちろん喜んだ。ベールを被っていても夜理の表情が輝いたのは隠せなかった。
「ヨリは食べるのが好きなんだね」
 そうヤニスに言われるほど、夜理はわくわくとしていたのだ。出された料理を一口、口に運べば頬が緩む。濃厚なソースにさっぱりとした柑橘の匂いがする肉料理は、ほろほろと口の中で解けて柔らかかった。
「これ、すごく好きです。美味しい」
 料理とお喋りを楽しんだら、締めくくりのお茶が運ばれてきた。ミルクで煮込んだお茶は、ほのかにバニラの匂いがする。これもまた、夜理の記憶にしっかりと刻み込まれた。
「ヨリの食べ方は本当に綺麗だな。どこかで教育でも受けたのか?」
 ヤルノが感心したように言う。教育も何も、旨い食事をしたい一心の夜理が辿りついた答えにすぎない。旨いのためには上手く食べる、食い意地の張った夜理の結論はマナー本と合致した。
「いえ、強いて言えば母がうるさかったくらい」
 ついでに叔父もうるさかった。箸が上手く持てるようになったのは、食卓を共にする機会が多かった叔父のおかげだ。
「そうか。良い親御さんだな」
 ヤルノがしみじみと言う。そこまで感心されると、今度から食べに行くのも憚られる。まさか骨付きリブは素手で食べるとは言えない夜理だった。
― ファーストフードみたいなもんは無いのかな。ヤルノ達だったら、似合わないけど。パンも固いからサンドウィッチみたいなもんも無いよね。あっ、パンは自宅で出来るんだったっけ? けど、窯が無いと無理だろ。あっても無理だろ。
 自分の器量を自分で推し量れるのが夜理の不器用な所だ。挑戦する前に分かってしまうせいで、やる気という最も大事なステータスが足りない。
「ヨリは苦手だったり、嫌いな物ってあるのかい?」
 心底、真面目な顔でヤニスが尋ねてきた。ヤニスは意外と好き嫌いがあり、香菜の類は苦手なのだと言う。
「食べ物に関しては殆どないな・・・あっ、でも食感が悪いのは嫌いかも。ぐずぐずになった果物とか、すかすかした根菜とか」
「それは誰だって嫌だろ」
 ヤルノの突っ込みは鋭い。本当は辛かったり苦かったりするものが嫌いなはずだが、貧乏性ゆえに食べられる。それを説明する気になるほど、夜理は心が広くなかった。
「食べられないほど嫌いな物は無いよ。逆に、大好きな物もそんなに多くない」
「例えば?」
 ヤニスに聞かれ、口をもごもごと動かす。昼にあれほどデザートに食いついておきながら、改めて好きな物をあげるのは気恥ずかしい。
「甘い物は好きかな」
 昼間のスコーンに付いていたジャムは美味しかったと回想にふけっていると、ヤニスが考えるようにして顎に手をやっている。
― ここの紅茶も美味しいけど、種類が分からないうえに自分で淹れたことがないからねえ。ケーキはさすがに普段から食べられないだろうけど、せめてスコーンぐらいは出来たら良いな。
 パンが無ければと言った王妃も、自分で作っていれば死なずに済んだはずだと夜理は考える。素人の自作菓子がいかに危険な代物かを分かっていたら、無謀な発言は慎めた。
「それなら、ナスカは良い所だ。砂糖が豊富にあるから菓子職人達が集まりやすい。幾つかの店は宮殿にも納めているからな」
 ヤルノの言葉に引っ掛かりを覚え夜理が聞くと、さもありなんと頷かれる。
「砂糖も他の調味料も、原料が安定して収穫出来るようになってきたから流通量が増えてきたんだ。それでも、セレメントのような場所まで行き届くようになるには、もう少し時間がかかってしまう」
「コールも?」
 町に降りた際、調味料のコーナーは閑散としていた。塩と胡椒、辛みのスパイスが幾つか、それとグラムにしては高価な茶色の砂糖があるだけだったのを思い出す。
「そうだね」
 海に面する地域もあるコールだが、領民達の中には変化を好まない者が多く、ことこういった事に関しては消極的だった。
「明日の今頃には付いているはずだ。グラハム様の所から人が来るから手続きを済ませたらヤニスと見て回ると良い」
「あれ? ヤルノは一緒じゃないの?」
 夜理が聞くと、ヤルノがおどけた仕草で夜理に胸元の紋章を差し示した。
「そう簡単に暇にさせてもらえなくてな。残念だが、ここはヤニスに譲ってやることにしたんだ」
「よく言う」
 ヤルノ達が楽しげに言い合いを始めるのを横目に、夜理は部屋に戻って階級のおさらいをしようと心に決めた。イサクが持っていた文献から抜き書きしておいたのが役に立ちそうだ。

2010/03/30