一 「あたしが悪かったので、どうかお許しください」
あたしはタッちゃんを連れてよく公園へやってきます。
タッちゃんというのは小さくて可愛らしいねずみ怪獣です。
「たまむし」シティ一番の広さを誇るこの公園では、モンスターをカプセルから放して運動させることができるふれあい広場という場所があります。
ここはジムとは違ってお金を払わずに利用できるので、休みの日になると怪獣勝負を楽しみたいアマチュアトレーナーがたくさんやってきます。
ところがあたしはトレーナー、怪獣使いではありません。
まだ八歳のあたしは、本当ならまだモンスターを持つことは出来ないのですけれど、父の飼っているタッちゃんがとても大好きで、このモンスターもまたあたしによくなついているために、本当はいけないのですけれど、こうしてふれあい広場に連れて来て一緒に遊ぶのです。
ならなぜ自分の家でそうしないのか、と思う方がおられるかも知れませんね。
それにはあたしの家庭の事情が関係しているのです。
あたしがこうして公園にやってくるのは、決まってあの意地悪な継母があたしを厳しく叱りつけるときなのです。
この継母は実子の弟にはやたらとあまく接するくせに、あたしに対しては無視したり叩いたりするのです。いろいろと用事を押し付けるくせに、済んでみれば何が良くないとか手際が悪いとか、いちいち難癖をつけるのです。それはきっとあたしが悪い子だからしょうがないことなのでしょうけど、そういう人のいる家の中であたしがおだやかな気分になることは許されません。
ですから仕事であまりモンスターに構えない父の代わりにという口実を使って、こうしてふれあい広場でタッちゃんを運動させる時間というのは、あたしにとって大きな心の支えなのです。
そしてあと二年もしたらあたしも成人しますから、怪獣取扱免許を取得して、きっとトレーナーを目指して家出をしようと心に決めています。父にはすでにあたしが十歳になったらタッちゃんを譲ってくれるよう約束だって取り付けてあります。
ですがそれはまだずっと先のことで、今のあたしとタッちゃんの遊びというのはもっぱら追いかけっこやボール遊びのような他愛のないものでした。
ところがきっとそれが勝負をしたいトレーナーの方々の反感を買うのでしょう。
ことあるごとにトレーナーの方々はあたしたちを呼び止めてこのようなことを言うのです。
「幼稚な遊びのために貴重な場所を独り占めされては困る。俺たちは勝負がしたいのだ」
こういったことは幾度もあって、その度にあたしたちはしぶしぶ場所を明け渡すしかないのです。
それというのも、トレーナーの方々の連れているおどろおどろしい怪獣だとか、ムチとかいう武器みたような道具だとか、それから怪獣勝負なんていうむごたらしい競技だとかが、あたしには恐ろしくて恐ろしくてたまらないのです。
家で継母にいじめられて、唯一心を許せるタッちゃんとの触れ合いを邪魔されて、あたしはどうしたらいいのでしょう。
あるときとうとう勇気を出して、あたしたちを邪険にするトレーナーの方にこう言ってやりました。
「あなた方が怪獣勝負をしたいのは分かります。ですけれど、それでどうしてあたしがこの子と遊ぶことを禁じられるのでしょう」
この訴えを聞いて、いくつも年上らしい二人のトレーナーたちは目を合わせ、それからニヤニヤと嫌らしい笑いを浮かべながらこんなことを言うのでした。
「そうか、お前も遊びたいのだな。よろしい、俺たちと勝負をしようではないか」
「眼が合ったならば仕方がない。売られたケンカは買わねばならぬ」
そうしてこの二人組は、彼らの怖そうなモンスターを使ってあたしのタッちゃんに乱暴し始めたのです。
あたしは大変に驚きましたが、これまで怪獣勝負なんていうものをしたことがないのでどうしていいのか分かりません。手酷く痛めつけられているタッちゃんが可哀相でたまらず、ただ泣くばかりです。
「ごめんなさいまし。あたしが悪かったので、どうかお許しください。もうここには来ないですから、お願いですからタッちゃんをいじめるのをやめてください。やめてください」
「ハハハ、トレーナーに背中は見せられぬ。トレーナーの仕来りを知らないか」
このように何度謝っても許されませんでした。
タッちゃんが瀕死というものになるまで、彼らの悪行は終わりませんでした。
ようやく二人が満足して傷だらけのタッちゃんを解放しますと、あたしは急いでタッちゃんを抱きかかえ、逃げるように公園の林の中へ駆けていきました。
あたしの腕の中でタッちゃんはぐったりとして動きません。小刻みに呼吸をするばかりで、呼びかけても、さすっても、応えてはくれません。もしこのままタッちゃんが死んでしまったら、死んでしまいでもしたら! ああ、一体あたしはどうしたらいいのでしょう!
木陰の下で弱りきったタッちゃんを抱いていると、再び涙がこみ上げてきました。
あたしは怪獣取扱免許を持っておりませんから、怪獣病院でタッちゃんを治療してあげることが出来ません。
家に帰ればあの継母はきっとタッちゃんに構いもせず、父のモンスターを勝手に連れ出したことを嫌味たらしく責め立てることでしょう。
タッちゃんの本当の飼い主である父はいつも仕事で夜遅くなるまで帰ってきません。それまではタッちゃんに手当てをしてあげることが出来ないのです。
ですからあたしが出来るのは、せいぜいタッちゃんをモンスターカプセルに入れてあげることだけでした。
「ごめんね。タッちゃん、ごめんね、ごめんね……」
あたしはこのときふれあい広場にやって来たことを深く後悔しました。
はじめからトレーナーでもないのにタッちゃんを連れ回したのがいけなかったのかも知れません。
しかしどうして子供がモンスターを連れていてはいけないのでしょう。どうしてただモンスターと遊びたいというだけのことが許されないのでしょう。一体誰のためにそんな規則があるのでしょう。そんな規則のためにどうしてあたしとタッちゃんが虐められなければならないのでしょう。
家に帰れば継母にいじめられ、公園ではトレーナーに嫌がらせをされる、あたしはあと二年間もこうした暮らしを辛抱しなくてはならないのでしょうか。
今のあたしにはあの家から逃げ出すことも、タッちゃんを守ってあげることさえできません……
タッちゃんを入れたモンスターカプセルを手に、あたしはどうすることもできずに一人日が暮れるまで泣いておりました。
そのうち泣きくたびれて、林の中からトボトボと出てこようとしたときのことです。
日の暮れたふれあい広場から話し声が聞こえてきて、あたしは足を止めました。
もし先ほどの意地悪なトレーナーだったらと思うと末恐ろしくて、木陰からこっそりと覗いてみますと、ふれあい広場には確かに人が二人きりおりましたが、それはあのトレーナーたちではありませんでした。
「トレーナーで稼ぐのは大変だろうね。ところがこれがR団ならば面倒な資格はいらないし、年をうるさく言われることもない。モンスターを使っているだけでお金がたくさんもらえるのだよ」
「あなたはしつこいですね」
「俺たちの仲間になれば強いモンスターももらえるし、君のモンスターをもっと強くする薬だってもらえるのだ」
「いい加減にしていただかないと警官を呼びますよ」
二人の会話を盗み聞く限りでは、どうやら若い男がもう一人の男の子を何かに……そう、アール団? というものに誘おうとしているようです。
あたしにはこの男の話が不思議と興味深く思えました。
資格が無くともモンスターでお金が稼げるというのは、一体どうしたことでしょう。
ところが男の子はさっぱり乗り気でないらしく、男を残してさっさと立ち去ってしまいました。
それで男も舌打ちをして立ち去ろうとしたところを、あたしはいてもたってもいられず声をかけたのです。
「すみません」
「なんだね、君は」見下ろす男の顔はよく見えませんでしたが、その声色からはいぶかしげな様子がうかがえます。「暗くなるから子供は早く帰りなさい」
「あのう」あたしは勇気を振り絞って先ほど抱いた興味をぶつけます。「それはあたしにもできるでしょうか」
この出来事が、やがてあたしとタッちゃんを大変な運命に巻き込んでいく、そのきっかけとなったのです。
「たまむし」シティのゲームコーナーの地下に、秘密組織のアジトは隠されてありました。
薄暗く少しばかり埃臭い、倉庫みたようなその一室に、あたしとそのほかにも新しく入った団員十人ばかりが集められています。
それらはみんな黒尽くめの制服に着替えさせられていて、不安げな顔やよそよそしい仕草を盗み見合って過ごしているのでした。
ところがあたしはといえば、きっとまわりからしてみたら不思議なほどにニコニコと笑みを浮かべていたことでしょう。
だってそれまであたしは満足に服も買ってもらえないので、いつもよれよれの洗い古し、それも自分でツギハギした服ばかりを着ていたものですから、こうして自分が真新しいきれいな服を着ているということだけでウキウキとした気持ちでいっぱいだったのです。
あの公園での出来事の後にあたしがどうしたかと申しますと、かの男からR団という組織の存在を聞きだしたのでした。
R団というのはモンスターを使ってお金を儲けるマフィアとかいうものの一つで、そこでは政府認定の資格やら何やらと一切関係なく、団員はモンスターを使ってよいことになっているのだそうです。
そこであたしが資格を持たないためモンスターの怪我を治してあげられない事情を話しますと、男は親切にもタッちゃんの傷に合う薬をみつくろって分けてくださいました。
この薬を飲ませてみますと、驚いたことにタッちゃんは傷がふさがってもいないというのに、みるみると元気になってあたしの胸に飛び込んでくるではありませんか。
こうしてR団への信用を深めたあたしは、是非にと頼み込み、R団の勧誘係だという男に従い入団手続きを行ったのです。その日のうちに保証人の要らない安アパートに放り込まれて数日を待たされ、今日になっていよいよこの秘密アジトへやってきたというわけです。
この一室に背広を着た男が現れますと、一瞬のうちにピンと空気が張り詰めました。それというのも、R団に入るためにこれからこの幹部の方から訓示を受けようと言うことで、あたしたちはこうして待っていたのですから。
「よくぞ集まってくれた。俺はR団の幹部をしているニドキングという者だ。諸君はR団に入ろうという若者たちだが、であるならば我々R団が一体どのような活動をする組織であるのかをまずは知っておかねばなるまい。そこで俺がこのように諸君に訓示を垂れようというわけだから、心して聞いておくことだ……
まず第一に、我々の活動が世間一般には悪事と呼ばれているものであるという事実である。諸君は果たして悪事というものをどのように心得ているだろうか。殺人、窃盗、詐欺、強姦、まさかこういったものが人間社会から絶対に排除されるべき罪悪だと信じてはいまいか。確かに今挙げた行為が多くの国家、社会において禁止されているという事実はある。古代の未開社会の時代から、人類は自らにタブーというものを課してきた。ところが、どうして人間を殺してはならぬのか、という至極単純な命題に対してさえ、人類史上の哲学者たちは一度たりとも明白な回答に成功した試しが無い。この矛盾がなぜ起こってくるかに深く考えを巡らせたことのある者が、果たしてここにいかほどいようか。諸君の中にこれまで一度たりとも悪行を働いたことがないという者はよもやおるまい。けだし子供時分には詰まらない悪戯を親に叱られた経験くらいはあることだろう。しかし、子供という純真無垢な穢れのないはずの人間がなぜ自ずから悪行に走ることが出来るのか。実は悪と呼ばれるものの本質がここにあり得る。子供自身に穢れがないとするならば、その子供の働く行為にもまたそれ自身に穢れはあり得ぬ。ところがここで親という子供にとっては絶対であるところの、いうなれば国家に値する者によって、それが悪戯である、悪いことであると教えられたとき、途端にそれが悪行になり果ててしまい、反対に褒められ、尊ばれた場合には善行として成立してしまう。すなわち、行為というものはそれ自体には悪の要素も善の要素も持っておらず、ただ他者の評価によってのみ善悪が決定されてしまう。個人個人の思想は必ずしも一致するものではないわけだから、自らの働いた行為が自身の親に叱られたにも関わらず、別人の子供が同じ働きをした所その子供の親は褒めそやす、と言ったことが起こってしまうのもこういった理屈である。このとき悪行の行為者の持つ思想が国家によって無化されている点も留意しておくべきであろう。タブーとは社会が個人に押し付けた呪詛であり、個人の影響力を幻滅させるべく執り行われる前時代的な政治なのである。これらの考えの及ぶ射程を拡大してみたとき、ある地域での犯罪行為、例えばその住民を虐殺するなどしたことが、また別の国家においては反対に英雄的行為と看做されるといった場合が容易に理解出来てくる。要するに、諸君らの現在までに信奉してきた善行、悪行なるものの正体は、社会または国家が定義して諸君らに押し付けようとする一つの価値基準に過ぎないということである。
第二に、我々がこの悪行と呼ばれる方式によって経済活動を働くということである。ここまでに悪事というものが行為者の思想に関係なく他者によって勝手に申し付けられたレッテルに過ぎないことが分かった。そしてもう一つ、国家の定義しうるものなぞは、あるいは簡単に変幻してしまうものということを知っておかねばなるまい。一昨年に起きた「しおん」発電所事故はまだ記憶に新しかろう。それ以前には国策として推奨されてきた新方式による発電施設の開発が、「しおん」発電所で起こった事故に付随する電気怪獣の大量発生とその被害という惨事によって、途端にあたかも中世の魔女狩りがごとき弾圧を受けるようになった。このことからも、社会や国家のいう善行や悪行の決まりというものが、始めから矛盾を孕んでいるがためにあるとき暴走する危険のある非常に不安定なものであることが分かるのである。ゆえに、我々の活動がときに悪事として朝刊に飾り付けられ、凡人の浅はかな良識を脅かしたからといって、それによって我々の思想や哲学が不当に貶められる謂れはまったくもってないのである。R団に入団したからには諸君もこの先、俺や他の者に人の金やモンスターを奪うことを命令されることもあるだろう。初めのうちは他人の財産を脅かそうということに抵抗を感じるものもあるかも知れない。しかし他人の財産を奪うという意味では、怪獣勝負で賞金を得たり、顧客から取引によって利益を得るなどといったことと我々の悪事と、一体何が違うというのか。ただ単に我々の行為の方が見た目に利己的であることが分かりやすいばかりに、国家によって犯罪行為と決め付けられてしまっているに過ぎず、その本質はなんら変わるところがないことは自明である。すなわち悪事によって富を築くということは、その行為のみに観点を絞ったときに、堅気の者が日々努力して稼ぐのと比較しても同じ程度に尊いということだ。ただし後者を利巧な者が行うべきでないことはいうまでもあるまい。悪事を働きより効率よく稼ぐことによって、諸君は自身の人生をより豊かにしていくことができるのである。ということは、果たして悪事と罵られようとも、我々の思想の方が実はより尊いものであることもまた自然と判明してくるのである。
第三に、我々がその活動方法にモンスターを利用するということである。経済におけるモンスターの活用が普及するに従って、トレーナーにはモンスターがよく懐き、トレーナーもまたモンスターに優しく接するということを美徳とする風潮が生まれた。しかしこのような美徳というものもまた国家がトレーナーという職業の印象を故意に歪曲するために社会に押し付けたものに過ぎない。もしトレーナーというものが本当にモンスターに優しく接するものであるならば、なぜ認定ジムは合格者にそのジムの特色たる性能を発揮するムチを配布し、トレーナー自身もこれに疑いを持たずしてモンスターにムチを振るい従わせるというのか。例えばこのムチが一度人間に対して振るわれ、命令が強制されようとしたならば、社会正義はこれを犯罪として制裁するにも関わらず、モンスターを擬人化する国家がこれをモンスターに対しては推奨するという矛盾を見よ。トレーナーがモンスターにムチを振るうことが単なる暴力ではなく、それがモンスターを取り扱うために有効であるためであって、すなわちモンスターを過剰に保護してはならないことを国家自身が認めているのである。モンスターを可愛がるなどという方便は、自分だけは潔白であろうとする者がこのことから眼を反らさんとする欺瞞に過ぎない。それが分からないから、娯楽のためにモンスターを決闘させるなぞということがおこる。我々には怪獣勝負を楽しむなどということがあってはならない。怪獣勝負によって動物との絆が深まったと感ぜられるならばそれは錯覚に過ぎず、我々はこういった幻想を拭い捨て去らねばならない。なぜなら、金儲けのためにモンスターを利用するのは非常に有効な手段であるから、これを最大限に有効活用するためには、ときにはモンスター自身が嫌がることであってもやらねばならない場合があり得るからだ。モンスターは我々にとって大事な商売道具であるから、それにはモンスターの人間に服従しようという心情をより自覚的に、そして誰よりも上手に利用してやらねばならないのである……」
あたしは幹部の訓示に耳を傾けながら、その指し示すものがあまりにも恐ろしいので、身体中が芯からぶるぶると震え上がってしまうのでした。
けだしその理屈ごとの全てを理解するまでには及びませんが、その一つ一つが指摘するもの、犯罪はよい行いであること、それからモンスターと仲良くしてはいけないらしいこと、それらはあたしにとって世界を逆さまにしてしまうようなお話でしたので、一度に受け止め切れないのです。
ところが一方では、不思議とそれらが深く心に突き刺さってくるような感覚もまたあるのでした。
どうしたことか、これからR団の団員となるための心構えに怯えると同時に、幹部の言葉とはかけ離れた私事に関係すること、あたしがいくら継母に叱られようとそれをもってしてあたし自身の価値が減退するわけではないと、そう言ってもらえているような気がして、まるで幹部があたしのことをよくよくご存知で、あたしのためだけに特別に言葉を選んで慰めてくださっているかのような、喜ばしい気分になってくるのでした。
三 「あなたが悪事で心地よくなれるよう助けてあげるわ」
その夜、あたしたち新入団員は娑婆気を抜くための交遊会という催し物に招かれました。
アジトの広い一室にはすでにたくさんの食事といろいろなお酒が供されていて、そしてあたしたちにとって先輩にあたる方々が待っておりました。
交遊会というのは、あたしたち新入団員が先輩方とたくさんお話をすることですぐに親しくなれるようにということで設けられた一種の歓迎会のようなもので、女子の入団が許されるようになる以前から行われていたR団の伝統行事の一つなのだそうです。
あたしの同期たちはすでにこういった宴を楽しむ術を知っていたらしく、さっそく先輩方と打ち解けて、賑やかにお話をし合っている様子でした。
そんな中であたしはと申しますと、せいぜい初めて口にするお酒の味を一口だけ確かめてみるのが精一杯といった具合でして、こういった晴れやかな場にまったく不慣れだったことと、それから先ほどの幹部の恐ろしい訓示が未だに心に重く圧し掛かっているために、出来るだけ隅の方の席に座ってしまって、終わりまで一人でおとなしく過ごそうと考えておりました。
そうして男の方たちがそれは楽しそうにお話しているのを眺めておりますと、あたしなんかがここにこうしているのはひょっとすると何かの間違いなのではないかというような気さえしてきて、なんだか心もとない気分になってしまいます。
ところが若い女子団員というのは物珍しいらしく、先輩方や同期の男の方たちはあたしに話しかけようとしきりにやってくるのです。
あたしはこれまであまり男の方と親しくなった経験がありませんし、その上先輩方やそれから同期の方たちときたら、見てみるとあたしよりよっぽと年上の方たちばかりなのですから、あたしはご挨拶の言葉さえ舌がもつれるありさまで、ますますちぢこまってしまうのでした。
そんなあたしを見かねたのか、先輩らしい一人の女性団員があたしのそばへ分け入ってきて、
「お若いのね」
と声をかけてくださいました。
「こういった席は私も得意じゃないの」
男の方の多い交遊会の中で、こうして声をかけてくださったのが自分と同性の先輩でしたから、ずっと緊張していたあたしでも少しお話してみようかという気になりました。
「あまりに初めてなことばかりなのでとても驚いているんです」
あたしがそう申しましたら、この女性はそれまであたしを取り巻いていた男の方たちに向かって、
「この子はこれから私とお話するのですから、どうぞ皆さんはほかの方とお話しくださいませ」
と訴えました。
そうすると男の方たちは、「そういう趣向なら仕方ない」などと言い残して、ようやくあたしたちを二人きりにしてくれるのでした。
こうしてあたしを助けてくれたこの女性は渡世名をメノクラゲといって、今年で十三になり、あたしより一年ほど早く入団したのだそうです。
お酒を口にしているらしく頬にほんのりと紅をさしている様子がとても美しく感ぜられました。
やがてあたしはこの方の親切さに安心して、
「お姉さまは優しそうだから」
と、心の内を打ち明けることにしました。
「白状しますけど、きっと内緒にしてくださいますね。先ほどあのニドキング様という幹部の方の恐ろしい演説を聞いてからというもの、あたしは今にも不安に押しつぶされそうでたまらないのです。悪いことというのが、一体あたしにもできるかどうか、自信が持てません」
「だいじょうぶよ」
とメノクラゲ姉さまはとても優しく、
「私も初めのうちはとても出来そうにないと感じられたものだわ。今でも一月に一度くらい、自分の犯した罪が恐ろしくて死にたくなる日があるわ」
このように明け透けに胸の内を晒してくださることに、あたしはメノクラゲ姉さまへの信用を深めるのでした。
「でもね、先輩たちに教えられて悪いことを一つ一つ出来るようになってくると、いつのまにか悪事を働くことに慣れてしまって、なんとも思わなくなってくるの。
そればかりか、反ってそうすることが心地よくてたまらなく思えてくるのよ。
悪事を働くことに病み付きになってしまって、もっと悪いことをしてみたらどれほど気分がよいだろうかと期待してしまうのよ。
不安に思うというのは単にそれまでは禁止されていた行為だったからというだけのことで、悪事を働くことは全然平気なことなんだと一度分かってしまえば、あとはもうそれがとても気持ちのいいことだと感じられるものなの。
きっとそれまでは悪事を働いてはならないというような考えが自分をがんじがらめにしてしまっていて、本当は好きなことをやりたいのに、全然ツマラないことしか出来なくさせていたからだわ。
そんなものは初めから必要がなかったんだって気付けさえすれば、きっとあなたは何からも自由になって、とても晴ればれとした気分になれるはずよ。
例えば世間では未婚の女が男の方と懇意になることはとても恥ずかしいことだと教えられるけれど、それというのは女の権利を不当に制限するものにほかならないわ。
本当は男の方に対する愛情なんて面倒なものは始めから不要で、まして女が男を誉めそやしたり尽くしたりする必要なんかまったくなくって、むしろ自分の楽しみのためだけに厳しく苛め抜いてやるのが正しい姿勢と言えるのよ。
なぜなら女が本当に心を分かち合えるのは粗暴な男なんかじゃなく、私たちが求めるものをよく知りえている同性でなくちゃならないからね。
だから、男女がお話しするというのは実はロマンチックなものでもなんでもなくて、男という道具を消費してそのスリルを楽しむという女の嗜みのことなのよ。
でもあなたはさっきから男の人を恐ろしがっていて、私といえばそんなあなたを守っていてあげたいと思うから、あなたがよければ今日はずっと二人きりでお話していてもいいわ」
「ああ、お姉さまのお言葉を聴いていて、なんだか鬼胎観念があっという間に取り除かれてしまったような気がいたします。お姉さまが手を引いてくださったらあたし、悪いことでも何でもきっと出来てしまいそうな気がいたしますの」
あたしがそう申し上げますと、お姉さまはとても嬉しそうなお顔で、
「私はあなたが悪事を働いて心地よい気分になれるように助けてあげたいわ。悪事をおっかながるあなたがそれは可愛らしいものだから、もっといろいろと教えてあげなくてはと思えてくるの。だからこれから先、困ったことがあったらいつでも私を頼ってちょうだい。そうしてくれたら私も嬉しいからね。だって、楽しいことは誰かと一緒にやったほうがもっと楽しいに決まってるもの。
そうよ、きっと一人では難しいことだって分かち合うことさえできたら少しは違うはずだわ……一緒に立派なR団員になりましょうね」
こうしてメノクラゲ姉さまのお陰で、あたしはようやくR団の一員になれそうな気持ちが湧いてくるのでした。
まだ自らが悪事を働くということにこそ実感が持てませんでしたが、お姉さまとこれからもっと仲良くなれるというならば、もしかして本当にできてしまえそうにも思えます。
それからあたしはお姉さまにご一緒していただいて先輩の方々にご挨拶をすることができましたが、その後はもっぱら二人きりでお話することを好むのでした。
四 「ああ、お姉さま、あたしに悪行をご指導ください」
以前も申し上げましたように、あたしは怪獣取扱免許を取得しておりませんから、モンスターのタッちゃんをそれまで怪獣勝負のためにきちんと訓練したことがありませんでした。
怪獣勝負といえば、互いの飼っているモンスターを喧嘩させてその勝敗を競う競技のことですから、そのようなことのためにタッちゃんに痛い思いをさせることなんてあたしには考えも及ばなかったのです。
ですが今やR団となったあたしがタッちゃんを召抱えのモンスターとして連れてきましたからには、将来のR団の活動に役立つようきちんと訓練を施しておくというのがスジでありました。
そういうわけであたしは、メノクラゲ姉さまのご指導を受けながら、タッちゃんを立派なR団のモンスターに育て上げるべく馴致調教というものを始めたのです。
タッちゃんを連れて調教室にやってきたあたしは、お姉さまから一本のムチを頂きました。
革紐を編みこんで作られた、あたしの身長の倍もありそうな長さのムチです。
「馴致調教に際してはデリカシーというものが大切です。そうして厳しくムチで責めるのよ」
「エッ……これでタッちゃんを叩くのですか」
タッちゃんをムチで打たなければならないということに、あたしはたいへんな戸惑いを覚えました。
お姉さまに仰る通りに、ムチを振りまわしてタッちゃんの身体にビシャリと叩きつけます。
するとタッちゃんは、金切り声を上げて転げまわるのです。
胸が締め付けられます……きっととても……とても痛いでしょう……あたしが代わりにムチを打たれたとしたら果たして我慢できるでしょうか……
以前ではあたしのもとで自由を許されていたタッちゃんが、あたしが打ちつけるムチに怯えた様子をみせるのです。
それが可愛そうでたまらないのです。
「お姉さま、伺ってもよろしいでしょうか……調教のためとはいえ、あたしがムチを振るうことで、タッちゃんはあたしを嫌いになったりしないでしょうか」
「いいこと。モンスターをムチ打つことと、モンスターを自分勝手にいじめることとは、ぜんぜん違うことなのよ。何度も何度も繰り返しムチで打ちつけられて、あなたの方が強くて偉いんだということを教えてあげなくちゃいけないわ。そうしたらモンスターはあなたに服従して、あなたのいうことをなんでも聞くようになるわ。それが畜獣の悦びというものなのよ」
ムチで打たれて、痛い思いをさせられて、どうして従順になれるものでしょうか。あたしには分かりません……
いいえ、でもお姉さまがそうおっしゃるのですから、きっとその通りなのでしょう。
恐る恐るタッちゃんをムチで責めていくうち、不思議なことにあたしは、お姉さまのおっしゃることの意味がだんだんと分かるようになってきました。
ムチで打てば打つほどにタッちゃんはあたしを怖がって、あたしの顔色を伺い、立ち居振る舞いを気にするようになったのです。あたしの気に障るまい、気に入られようとして、どうして欲しいかを必死にくみ取ろうとするのです。
決まった場所でトイレをさせたり、あたしの後をきちんとついて歩くよう教えるということができるようになったのです。
そうしてムチで打たれまいと頑張っているタッちゃんの姿を見ていますと、これこそが人間に従うべく生まれたモンスター本来の姿だったのだと気づかされるのです。
あたしはそれまで、ときおりタッちゃんがいうことを聞いてくれないといったことに、何やらモンスターの自主性のようなものを感じていて、ややもするとそれが可愛らしいというくらいに思っておりました。なぜならあたしにとってタッちゃんは唯一の逃げ場でしたから、そう思わずにはいられなかったのです。でもそんなものはお姉さまやニドキング様のおっしゃるように単なるあたしのエゴであって、見たいものを見ていたに過ぎなかったのです。
だって、お姉さまがそうおっしゃるのですから、そうに違いないのです。
果たして不可能に思えた様々な芸が、ムチを使って一つ一つ覚えこませていったならばタッちゃんにも出来てしまうということが分かってきますと、モンスターをムチ打つということが次第に耐えがたい快感として感ぜられるようになってくるのでした。
「人間に服従するということの悦びを教えてあげるのですね」
このご指導の中で、ムチ、すなわち体罰というものが、モンスターの調教に大変有用なものであることを学びました。
それはあのふれあい公園にいたトレーナーたちが行っていたように、乱暴に振り回してモンスターを傷つけるためのものではありません。
あたしはまだそれほど上手には扱えませんけども、お姉さまがお手本に振るってくださるムチというのはそれは美しく優雅なものなのです。
そしてこのR団式の怪獣調教方法というのは、とある認定ジムの流派にゆかりを持つたいへん由緒正しいものなのだそうです。
「モンスターの調教にムチを使わないジムもあるけれど、そういう流派はたいがい、モンスターをあまえさせたい人間のエゴを満足させるだけで、モンスターの本当の幸福を願ったものではないの。R団ではこのほかに薬も用いるけど、それはあなたがもう少しステップアップしてからにしましょうね」
そしてこのタッちゃんに調教を施すという行為それ自体が、あたしが一人前のR団員になるための、R団式にモンスターを調教する方法を学ぶ訓練でもあるのでした。お姉さまがおっしゃるには、
「あなたはこれを機会に調教というものがどういったものか学ばなくちゃいけないわ。
それというのも私たちの資金繰りの一つにモンスターを売りさばくというものがあるからなのよ。
珍しいモンスターなら仕入れた現状でいくらでも売りつけることが出来るわ。捕獲や繁殖が難しいモンスターというのは、それだけでいくらでも買い手がつくものですからね。
でもそうでないモンスターには、あらかじめ馴致調教を済ませて出荷するということがあるの。
調教というのは手間と技術が必要だから、そういう付加価値をつけて商品にするということね。
調教師という堅気の商売も調教業を売り物にするけれど、これは顧客のモンスターを預かるために行政の認可を受けているわ。
あたしたちの場合は自前で仕入れたモンスターを調教してから売り渡すので認可を受ける必要はないの。
そしてあなたはいずれこの商売で調教係を担えるように努力していかなくちゃいけないわ。
例えばここに、これからモンスターを飼いたいと考えておられるお客様がいらっしゃったとしましょう。
お客様は、自分にすぐになついてくれるモンスターと、なかなかなつかないモンスターと、どちらを欲しいと思うかしら」
「それは……すぐに目いっぱい可愛がりたいと思うのではないでしょうか」
「そうね。普通の人はモンスターになつかれることで自己陶酔たいと考えるものね。
ところが困ったことに、一度人に育てられたモンスターというのは、それ以外の人にはなかなかなつかないものなの。
モンスターは世話をしてくれる相手に愛着を示し、より親密な関係を要求するわ。
そしてその相手が突然いなくなることにはストレスを感じてしまう。
これを《愛着理論》と呼ぶのよ。
モンスターを調教した上で売るためには、調教の中でこの愛着形成を起こさないようにしてやる必要があるわ。
そうでないと、モンスターは売られた先で愛着対象の喪失を経験することになるから、愛着障害だとか、発達の遅滞を招く可能性があるの。
だからお客様がモンスターにとって最初の愛着対象であるのが理想とされてるわ。
モンスターを不用意にあまやかしてはいけないのにはこういう理由もあるのよ。
モンスターの調教というのはどんなジムであれ絶対服従が基本よ。
私たちの用いるR団式調教術では、この愛着理論ではなく、身体的な刺激に基づく適応すなわちムチと薬を使用した条件付けモデルによってモンスターの調教を行うの。
モンスターは人間への愛着を形成しなくても、条件付けモデルによって使役関係へ適応することができる。
愛されないということの抑圧と共感能力の欠落が攻撃衝動を増幅させるから、モンスターを戦わせるために調教する場合ならこの方が一層効率がいいのよ。
注意しなければならないのは、使役者がモンスターより上位であることをムチと薬物によって常にモンスターに対して知らしめなければ、反噬する場合があることね。
厳しすぎてはいけないし、それと同じくらい優しくてもいけない。とてもデリケートな、気難しいものなのよ」
お姉さまのお話を聞いているうちに、R団のためにモンスターを調教するということがどういうことなのか、自分が何をしたらいいのかだんだんと分かってきたような気がします。しかしそこであたしの胸に小さな不安が芽生えるのでした。
「ということは、売り物にするモンスターはあたしたちが厳しく調教しても、あとでちゃんと愛着というのを持てる飼い主ができるんですね」
「そうよ。売り物のモンスターの場合はね」とお姉さまが答えます。
それなら売り物にしないタッちゃんの場合はどうなるのでしょう。タッちゃんはそれまで確かにあたしになついていました。そのタッちゃんのあたしへの愛着というものは、R団式の調教を経てどういう風に処理されるのでしょう。
お姉さまはそんなあたしの考えを見透かしてか、「私の飼っているモンスターをご覧なさい。これは内臓に毒ガスを孕んでいるけれど、きちんと躾けているから決して私たちに刃向かって猛毒を吐こうというような恐れはないのよ。あなたの調教を見ているとそれがたいへんスジがいいので、もっと訓練すればそのうちあなたもこのようにモンスターを自由自在に躾けることが出来るようになるわ。R団式調教術をあなたはまるでスポンジのように吸収していくんですもの。教えている私の方が嬉しくなっちゃうくらいだわ」
「そのお言葉が本当でしたら、それはきっとお姉さまがとても調教がお上手で、それからあたしへのご指導がとても丁寧なために違いありませんわ」
訓練の中でお姉さまがことあるごとにあたしを褒めてくださるのがとても嬉しいものですから、あたしはつまらない不安などすっかり忘れてしまって、タッちゃんへの調教をますます熱心に励むのでした。
だって何をしても叱られていた以前とは違います。
お姉さまが褒めてくださるたびに、あたしの心は大きくふくらんで、わくわくとした気持ちになってくるのです。
モンスターと触れ合うお姉さまの姿がそれは美しい……そのお姉さまとご一緒できる心ときめく時間……継母にいじめぬかれて過ごしたあの家での日々からは考えられない充実した毎日でした。
お姉さまはモンスターの調教以外にも、R団の秘密アジトで過ごす日々の生活の中で、黒尽くめの制服をより可愛らしく着こなす方法とか、お菓子をこっそりと隠しておくための場所だとか、それから男を虜にしてこき使う手練手管だとか……そういうとてもステキな秘密ごとをたくさん教えてくださるのでした。
「あなたは」とお姉さまはおっしゃいました。「こういったことを絶対に内緒にしなくちゃならないのよ。それというのも、こういったことが本来ならばR団の規則に違反することがらなんですからね。定められた規則に反抗することが日々の暮らしをどれだけ刺激的なものに変えうるかということをあなたはご存じかしら」
それを聞いてあたしは胸にときめきを感じながら、「あたしはきっと秘密を守ることをお約束しますわ。なぜならこの罪悪の共有と秘密の遵守があたしとお姉さまの絆をますます強固にすると信じられますから」
こういった親交の中で、あたしはお姉さまをますます敬愛するようになっていきました。
R団に入る以前のあたしにとって唯一の友達であったタッちゃんとのそれよりも、もっともっと親しく深い絆であたしとお姉さまは結ばれているのです。
それはあたしが忘れていた、ややもすると生まれてから一度も知りえなかった、人から愛されるということの喜び、そして人を愛するということの貴さを、あたしに知らしめてくれるものだったのです。
こうしてあたしのR団員としての生活はやがてお姉さまとできるだけたくさん、できるだけ長くご一緒できるようにというのが至上命題となっていきました。
お姉さまはいつもご自分の仕事の合間を縫ってあたしに指導してくださいます。
あたしはというとお姉さまのお仕事が終わるのを待ったりしました。
そんなあたしにお姉さまがこんなことをおっしゃったことがありました。
「あなたは以前とは違って随分表情が豊かになったようだし、R団の男の方ともいくらかはお話ができるようになったようね。だからこれからはできれば一人でモンスターを調教してみてごらんなさい。いいこと。あなたが一人前のR団になるためには、一人ででもモンスターを調教できるようにならなきゃいけないのよ。私には私の仕事、あなたにはあなたの仕事があるんですからね」
「お姉さま」あたしは答えました。「あたしまだまだ一人でタッちゃんの調教なんてできません。だってこないだ教わったムチの振るい方をもう少し詳しく教えていただけませんと。それからタッちゃんにはどんなエサが合うでしょう。ねえお姉さま、あたしいつお薬を使った調教を許していただけるでしょうか。お姉さま、ああ、お姉さま、きっとこれからもあたしにご指導くださいませね。一人でやれだなんて、そんなこときっとおっしゃらないでくださいませね。それにあたし、お姉さまと一緒にいられるなら一人前になんてなれなくても別にかまやしないんですわ。さあお姉さま、今日も調教室までご一緒しましょう。あたしずーっと待っていたんですから」と、あたしはそれほどまでにお姉さまのことが大好きだったのです。
ところが、R団員として過ごすこういった楽しい毎日の中にも、あたしの気に入らぬことはありました。
たとえばある日、アジトの中の調教室へやってきたときのことです。
この日もあたしはあわよくばメノクラゲお姉さまと過ごしたいと考えまして、お姉さまのお住まいを訪ねてみたり、それからほかの団員たちのたむろする部屋を探しまわったりしたのですがお姉さまはなかなか見つからず、もしや先に調教室へ行ってしまわれたかも知れないと思い、一人で調教室へやってきたのでした。
ところがそこにもお姉さまはおらず、代わりに一人の男の先輩がモンスターの世話をしているのでした。
しかたなくここで少し待っていてみようかとその男の様子を見ていましたところ、モンスターをブラシで優しくなで上げたり何やら言葉を話しかけたり、モンスターの方も男を慕っているらしくすり寄ったりしていて、どうにも甘やかしているといった感じなのです。
あたしは今ではそんな様子を見ていますと虫唾が走る思いなのでしたが、お姉さまがやってくるかも知れませんからしばらく我慢して待っていました。
そうしますと男はようやくあたしに気が付いたらしく、手を休めて話しかけてくるのでした。
「お前はこのところメノクラゲに懐いている新人だな。メノクラゲはここには来ないぜ」
「どうしてあなたがご存知なのでしょうか」
「お前の知ったことではないな。そうさね、舎弟に付きまとわれるのが面倒になったので隠れているのではないかな」
こういった言いようにあたしは頭にきまして、
「さきほどからお先輩さんの様子をうかがっておりますと、幹部さまのおっしゃる間違ったモンスターの扱い方に見受けられますが」
「ニドキング幹部か。あれはエゴイストというものだぜ。どれか一つのやり方が正しいということはないのだ。ムチ打つばかりがモンスターじゃなし。俺には俺のやり方があるのだ。お前なんぞに指図される覚えはないな」
驚きました。
私とお姉さまが深い絆で結ばれてはいても決してその立場の上下というものを侵しませんように、R団というのは基本的に厳格な縦社会を形作っています。
その中でこのように目上の者への批判を軽々しく口にできるものがいようとは。それもこのような陰口じみたかたちによって……
「お言葉ですけども、あたしはメノクラゲお姉さまのご指導のおかげでずい分とモンスターの取り扱いが上達いたしましたものでして、今では幹部さまの仰ったことがよくよく分かるのです」
「ふん。教えておいてやろう」とその先輩は申しました。「メノクラゲというのはな、モンスターの扱いが下手で下手でしょうがないのだ。お前は三下だから知らぬだろうが、あいつはそのために全然金回りが悪くて、いまだにパチモンの調教なんてチャチな商売をしているのだぞ」
敬愛するお姉さまの悪口を言われたものですからあたしはますます腹が立ちまして、
「あなたは先ほどから他人の文句ばかり仰っているようです。そのようにさっぱりとされていればR団のほかでも充分にやっていく方法がございましょうに、それでどうしてここへいる必要があるのでしょうね」
「そんなもの、金のために決まっているだろう」と男はケタケタと笑いながら、「モンスターを使っているだけで金がもらえるんだからこれほど楽なものはない。そういう意味じゃここはいいとこだぜ。金が貯まったらすぐにでもやめてやるがな。なに、足のつくようなことはしちゃいないぜ。お前だってほんとは年をごまかしているのだろう。みんな気づいているぞ。面白いもんだから誰も言い出さないだけさ」
「あなたの仰っていることは仁義にもとるように思うのですけど」
「端から悪行を働こうって組織だぜ」
「あたしはあたしを立派な悪人に育てようとしてくださるお姉さまや幹部さまを尊敬します。悪人であろうとも、いえ、もしかすると悪人だからこそ、仁義も必要なのではありませんか」
「きっとお前は幹部の言葉はあんまりにも真面目に受け取っているんだなあ。あんなものは大親父の言葉を受け売りしているだけに過ぎないのだ。R団の存在を正当化するための方便をそのままうのみにしている浅はか小物だよ。親切で言ってやる。あんなやつに感化されるのは詰まらんからやめた方がいいぞ。幹部がエゴイストなら、よし俺もまた個人主義者だ。動物を可愛がりたいと思う気持ちだってまた個人の欲望に違いない。細かい主義の違いについては実際のところ、金さえもらえるなら文句はねえが、俺はお前みたいな奴がどうにも気に入らねえな。手前の心情を他人に預けてやがる。気に入らねえ」
あたしはとにかくお腹がムカムカとしてたまらなかったのですが、それ以上言い返す言葉も見つからず、諦めてただ立ち去るしかなかったのです。
この先輩こそ、将来のあたしの仇となりますゴーストとかいう男なのでした。
五 「他人に尽くすことこそ、一番低俗な悪徳なのだ」
次の交遊会のこと、このときもメノクラゲお姉さまは何か用事があったらしくいらっしゃいませんでしたので、あたしは大変寂しい思いをすることになりました。
近頃のお姉さまときたらあたしをたびたび一人ぼちにしてしまうことがあって、交遊会の日にはきっと思いきりあまえてやろうと考えていましたから、それは落胆したものです。
あの腹の立つゴーストという先輩もまたこの席にいなかったのがせめてもの救いと言えましょう。
お姉さまがいらっしゃらないとなれば特にお話しする相手もいないあたしは、先輩の一人からニドキング幹部のお相手をするようにと申しつかりました。
幹部さまのことはもちろん尊敬していましたが、いざ二人きりでお話ししようということになると、あたしはとても緊張してしまいました。
そんなあたしに、
「R団に入ってみてどうかね」と幹部さまがあたしを怖がらせまいと気を使い努めて穏やかに聞きます。「悪事を働くことが怖くはないか」
「まだきちんと活動したことがありませんから」あたしはなんとか受け答えします。「せいぜい配達をして小遣いをもらうといった程度なんです。けれど、可愛がっていたモンスターを、今まで間違った接し方をしていたタッちゃんをはじめてムチで打ちつけましたとき、感激にふるえました。きっと悪事というものはこのように気持ちがいいものだろうと思えますわ」
「お前はなかなか感度がいい。R団員として見込みがあるようだな」と幹部さまはあたしをなでて下さいました。
あたしは褒められたことに気をよくして、「ところが、ある先輩さんがこのようなことをおっしゃるのです」とゴースト先輩との口論の件をすっかり話してしまったのです。
すると「けしからんな」と幹部さまがおっしゃいます。「確かにお前の言うとおり、悪人にも仁義というものがある。
R団とはもともとジム付けトレーナーの互助組織のようなものだったのだ。今の時代、トレーナーを目指して夢叶わなかった者が働き口も見つからず路頭に迷うというのが一種の社会問題になっている。トレーナーという職業はやれ資格だの認定だのとうるさいものなのに、一度道を踏み外せばそんなものは何の役にも立たない。そういう者たちはほかにまともな職業にはつけない、モンスターカプセルの投げ方を知っていたところで決して役人にはなれんのだ。お前の言う団員も似たようなものだ。今現在R団がこれほど勢力を伸ばしているのは、偏にはこういった者たちをいくらでも受け入れているためなのである。我々の組織は国家によって反社会的存在とひとくくりにされてしまっているが、社会というものも所詮は個人の集合にほかならないよ。このような者たちが相互扶助を行うことで辛うじて人間社会に踏みとどまることのできる場がどうして社会を侵すものか。何者かに必要とされているからこそ、我々は社会の寛容によって成り立つ。この互助関係性をもって我々は仁義と呼び習わすのだよ。
悪行であることによってただちにその品位は損なわれぬということは以前にも話したな。今日はそこからさらに考えを深めてみようではないか。もし我々が彼らを雇用しなければどうなる。国はトレーナー業を推奨こそするが、落ち零れた者たちに対して何の保障も行わない。こういった視点でものごとを捉えてみたときに、果たしてどちらが善でどちらが悪かまるっきり分からない、より社会を成り立たせているのはどちらかを考えてみれば、もはやはっきりと逆転して感ぜられることがままある。そのほかにも、国家が我々を弾圧する理由の一つに略奪行為というものがあるな。我々は確かに他人の幸福を奪って我が物とする。しかし例えば一つのパンを十人に分け与えたとして、誰一人として満足はすまい。それならばただ一人が一つのパンを喰らい満足を得るほうが、より多くの者が幸福になったとは言えまいか。こうした事実を考えてみたときに、不平等というものが、引いてはそれを生み出す略奪というものが、憲法も定義するところの公共の福祉を真に全うするものであると言えるではないか」
「悪徳が本当に人間の目指すべき真理であることは理解できます。しかしあなたさまのおっしゃるように、一体どれがさげすまれるべき美徳で、どれが敬われるべき悪徳であるのか分からなくことがあるようです。そういったとき、あたしたちは一体なにを信じたらよいものでしょう」
「お前はそんなことも分からんか」と幹部さまは笑います。「その指針となるものがつまり、自らの欲望というものだ。世間一般の道徳はかように見る立場によって変幻してしまう、非常に頼りないものであることは分かるな。そのようなものに行動の規範を則るなどというのは危険極まりない。ところが欲望というものは自らの心のうちの奥深いところから生まれてくる。その発生過程を考慮するなら、欲望とはただ自分だけのものである。他人の欲望を評価しようなどというのは、他人の庭に勝手に踏み込んでこの花は綺麗だの汚いだのというようなナンセンスな行為といえよう。欲望には人間の生まれ持った自然のままの姿が投影されている。それすらも疑えてしまうとするならばそれはすでに自我喪失、狂人にほかならない。道徳というものは個人の欲望を一意に縛り上げるものである。とするなら、道徳の反対として定義できる悪行こそが、人間の本質的な欲望に通じているものだと考えることができる。悪行というものがかように心地よいものである理由がすなわちこれなのだ」
そう説きながら幹部はあたしの身体にべたべたと触れてくるのでした。
はじめのうちは幹部なりにあたしを可愛がってくださっているものだとあたしも思うようにしていましたが、それがあんまりにもしつこいのでいいかげん気持ちが悪くなってきていました。
「ゴースト先輩は動物を可愛がりたいと思う気持ちこそが自分の欲望だと申しておりました」
「ええい、はなはだしく不愉快だ。お前は決してそのような考えを持ってはならんぞ。他人に尽くそうという考えこそ、この世で一番に低俗な悪徳なのだ。お前はこれを欲しがっているのだろうなどといって要りもしない親切を贈られる、まったく不自然な浪費行為である。自立した人間同士というものは必ず打算的関係で結ばれなければならぬ。互いの欲望をより尊重するならそれが理想の態度なのだ。一方モンスターというのは明らかに人間より下等な存在であるから、決して人間と同等に取り扱ってはならぬ。徹底して搾取すべき存在なのだ。それを人間の赤子のごとく愛で慈しむというのはつまり、一種の性的倒錯にほかならないのだ」
あたしは実のところ、この幹部の演説をいまひとつうんざりして聴いていました。
仰っているところはお姉さまの主張に近しいものでして納得もできますが、お姉さまのお言葉に比べれたらこの幹部なんていうのはただ自分のしゃべりたいことをしゃべっているだけのように思えてなりません。
ですからあたしは適当なところで相槌を打って、聞き流してしまっていたのでした。ところが幹部はあたしが本当に感激していると思い込んでいるようでした。
そこであたしはこの男にひとつ仕掛けてやることを思いつきました。
「ニドキングさまの仰りようはあたしの心に深く染み込んできます。ああ、どうぞ、あたしをしっかと抱きしめて頂けませんか」
「そうするとしよう」
そこで幹部があたしの唇に吸い付こうとするのを避けて、「あら、いけませんわ。その前に一つ、あたしのほうからもお話を聞いていただかなくては」
「よし、聞こうではないか」と幹部が促します。「早く述べよ。それはゴーストのやつめのケジメのことか」
「いいえ、あたしがそんなたれこむようなつまらない真似をするとお思いで」あたしはできるだけ回りくどくじらすように、「来週には出入りが予定されてますわね」
「うむ。諸君らには地下通路を封鎖する仕事を任せることになっている」
「それよりかもっと容易い方法がありましてよ」
R団が行う企業テロ……そこから警察の目を欺くため、地下通路に毒ガスを充満させて大きな騒ぎを起こすという計画がなされました。
そしてこの毒ガスを撒くという重要な役目を、メノクラゲお姉さまが担うことになったのです。
これこそがあたしが幹部に提案した作戦でした。
怪獣を暴れさせたり、バリケードを張って立てこもったりするよりもずっと安上がりで手間も要りません。
それにこの地下通路というところには普段からガラの悪いアマチュアトレーナーがたむろしています。そこへお姉さまのモンスターが毒ガスを撒き散らしたらどうなることでしょう。あたしはきっと、苦しむトレーナーたちの顔が見られるのです。
あたしに対して平気でひどい仕打ちを行ったトレーナーとかいう人たちが、毒ガスに苦し身悶えさせて、どんなに表情をゆがませることでしょう。
そうした期待に胸躍らせるあたしを見つけて幹部が、「君は悪事によってますます美しくなるな」と申されました。
「それは嘘ではありませんことね」
ところが……
私はまだこのとき、自らの犯した大きな過ちに気がついておりませんでした。
六 「あたしは悪人にならなければならなかった……」
毒ガス作戦は開始されませんでした。
それというのも、作戦前夜にメノクラゲお姉さまが行方をくらましてしまったのです。
この作戦は、お姉さまの使役する毒ガスモンスターがいなければ実行に移すことが出来ません。
さて大変なことになりました。
あたしの提案のために出入りの手筈が大きく狂ってしまったのです。
急遽幹部の指示のもと、団員の中から決死隊が選び抜かれ、各所に送り出されました。
街中に凶暴な怪獣を放ったり、人質を取って怪獣病院や地下通路に立てこもったりして、警官隊をおびき寄せるのです。
そしてある者は怪獣を殺られて取り押さえられ、またある者は警官隊の銃弾に倒れ、結局彼らの多くがもう基地に戻ってくることはありませんでした。
噂によれば、メノクラゲお姉さまはこの出入りの数日前から高飛びの用意をしていたといいます。それもよりにもよってあのゴースト先輩が一緒だったらしいと聞いて、あたしはそれはきっと何かの間違いだと思いました。
だって、それではまるで、あたしのお姉さまとあのゴースト先輩が駆け落ちをしたみたいに聞こえるではありませんか。
お姉さまがあたしに何も言わずにそんなことをなさるなんて……裏切られたような気持ちになりました。
それというのもあたしがメノクラゲお姉さまを信じていたばっかりにです。
そうです、あたしはお姉さまを信頼していたのです。
しかし元来、人というものは信じてはならぬものなのだということを、このとき初めて気付かされました。
自分の都合で人を信じ、ひとりでに裏切られたような気分におちいるなどというのは、まことに手前勝手な事情といえましょう。
それでもあたしはどうしても辛抱たまらない気持ちなのです。
「お前は一つ過ちを犯した」
打ちひしがれるあたしにニドキング幹部が語りかけます。
「お前とメノクラゲは懇意であったらしいな。つまりお前は自分の欲のためではなく、他人の名誉のために働いたのだ。お前はメノクラゲのR団の中での立場を知ったがために、彼女が活躍できる機会を作り出そうとあのような進言を思いついたのだ。しかし他人の問題をどうしてお前が勝手に解決できるというのか。俺はいつかお前に教えてやったつもりだぞ。ただ自らの欲望を追及することこそ、間違いの起こりえない確かな道だとな。お前が欲望に対してより素直になるためには、お前にとって唯一必要なものは何かということを考えてみることだ」
「あたしがあのような思い付きをしましたのはお姉さまの名誉のためなどではありません。ただお姉さまが喜んでくれると期待したばかりにそうしたのです。それがこのようなことになるなんて」……
幹部はずっとあたしのそばにいてくださいました。そしてこんな話をあたしにしはじめました。
「およそ八歳から十二歳に前後して訪れる前思春期はまたギャングエイジとも呼んで、人間の人格形成に重要な精神成長期の一つである。
まったく自己中心的であった幼児期を終え、同性同年輩の他者と友好的な関係を結ぶことが出来るようになる、すなわち友人関係のことだな。この過程において人間は初めて他者を通して外界を認識し、安全保障の有効性を学習し、他者と自らとの同一視を体験し、そしてここに初期的な愛情を発生する。これを前思春期における静かな奇蹟と呼ぶ。
なぜこれが重要かというと、たとえ幼児期までの生育環境にいくらかの不全があったとしても、この過程を満足に経験することができたならば充分に健全な精神を育むことが可能だからなのだ。
お前の家庭の事情についても俺はよく知っているぞ。母親にいじめぬかれて育ったようだな。
そこでお前は、失われた親子関係をメノクラゲとの友人関係において再演し、幼児期に充分に得られなかった愛情をそこにおいて補填しよう試みていたのだ。これこそが人間が自然本来的に保有している能力だと認められよう。
ところがお前の不幸というのは、このメノクラゲの愛情表現を後輩を育成するための偽りであると気付けなかったことにある。
お前はメノクラゲと盃を分けてはおるまい。盃を分けるという行為は我々にとって互いの安全を保障することを明示し合う儀礼なのだ。
ところが我々は盃を分けた兄弟、下ろした親子相手であっても決して信用したりはしない。信用というものが必ず裏切られる可能性があるということを知っているからだ。だからこそ盃によって築かれた関係性を犯すものには制裁を与える。信用ではなく、そういう約束事の上に相互安全の関係性を築くのが我々の仁義というものだ。信用に由来しないからこそ我々の関係性は強固なのだ。
お前はこの仕来りに従わず、ただひたすらメノクラゲを妄信し、その結果、メノクラゲの裏切りを受けた。すなわち静かな奇蹟を失敗したのだ」
「盃を受けなかったのが……あたしの犯した間違い……」
幹部のおっしゃる仁義とはすなわち、自らの前思春期的体験をマフィア特有の擬似家族関係によって回復しようという試みなのでしょうか。
だからこそゴースト先輩は前思春期的体験の不要から仁義をおろそかにしていて、お姉さまを巻き添えに裏切ることさえできてしまう。
一方あたしにとってはそれが必要不可欠だったと、そうおっしゃるのでしょうか。
「そうだ。
このままではお前は人格の荒廃を招くことが予想されよう。他者を理解できずに恐れ、あるいは愛情を強要し、そしてより深く他者に信頼を寄せることで裏切られる恐怖から逃れようとあがく。
そうして自ずからますます深く傷付いてゆくだろう。世間の者は目まぐるしく変わるお前の感情にいちいち構ってやれるほどお人好しではないからな。
両親の愛を受けられず、友にさえ見放されたお前がほかにどのような生き方を見つけられようか。
これを避ける手段はただ一つだ、俺の盃を受けよ、お前は俺の養女となるのだ。
前思春期には相互安全の関係性を持つことが必要であるというのに、今のお前に誰がこれを取り結ぼうというのか。
しかし俺ならばお前に父親という役割を演じてやって、新たな、そしてもはや唯一の人間的関係性を構築してやることができる。身に結ぶすべての糸が切られ地の底に崩れ落ちたお前という存在に、ただ一本の確かな糸を括り付けて現世に繋ぎとめてやることができるのは、娘を自らのもとに支配しようと目論む父性的存在でしかありえない。
お前を救ってやれるのは俺だけだ。お前はこれより俺の養女となるよりほかに道はないのだ」
「そんな……いいえ……いいえ……そんなはずはありません」
あたしはゾッとしてふるえ上がります。幹部の誘惑の忌まわしいこと……予言されるあたしの未来のおぞましいこと……そんなときあたしが思い馳せるのは、あたしにこんな仕打ちを強いたメノクラゲお姉さまなどではなくて、唯一あまえることの許されていた、あの継母から助けてくれることさえなくともあたしを裏切ることなんて一度もなかった、実の父、その優しい顔。
「ああ、あたしには本当のお父様がいます。確かに生きております」
ところがそれは恐怖のあまりかおぼろげで、遠い昔に生き別れてしまった人のようにさえ感じられて、なんともたよりなく……
「なに」幹部はあたしに詰め寄ります。「お前がどうして家族のもとに帰れるのだ。
愛着理論の指し示す通り、家族関係というのは血縁によって成立するものではない。日々の生活の中でこそ育まれるものだ。
お前はR団に入ってからというものずっとアジトで暮らしておるではないか。貸し与えられた閨に寝泊まっていて、実の父に会いに行ったことなど一度たりともないではないのか。
よいか、そのためにお前の本当の父親というのはお前のことなどとうの昔に忘れてしまっているのだ。そればかりかお前の弟やお前にとっては意地悪な母親と、お前がいなくなったことにせいせいして、水入らずで仲良く暮らしているに違いないのだ。
悪の組織に身を捧げている者を、堅気者がどのような目で見ると思っている。
お前がこれから父親に会いに行こうものならば、あるひとつの幸福な家庭を破壊するためだけに彼らの過去の汚点をわざわざ見せ付けに行くようなものなのだぞ。それが今のお前にとっての家族なのだぞ。
ましてお前というのは父親から預かったモンスターをどのように扱っている。今や父親との関係を証明するのはもはやそのくたびれたモンスターしかおるまい。
ところがお前はそれをR団式に馴致して、ムチ打って調教し、悪行の供に使役しているではないか。
そのモンスターはお前にとってなんなのだ。お前にとって実の父とはなんなのだ。お前みたいなものがどうして本当の父親との間柄を主張できるというのか」
そうです、あたしに付き添っているのは幹部だけではありませんでした。あたしのそばにはいつも、いついかなるときだってタッちゃんがいてくれていたのです。
ふれあい広場でトレーナーに嫌がらせをされたときだって、R団に入り立てで不安だったときだって、お姉さまがいなくって心寂しいときだって、それに今だって部屋の隅に小さくちぢこまりながら、幹部に組み伏せられたあたしのことをつぶらな瞳でじっと見つめているのです。
あたしは幹部をようやく押しのけて、タッちゃんのもとへ這っていきました。そんなあたしを幹部は止めはしませんでした。
あたしの小さな可愛らしいねずみ怪獣は、あたしがこれまでに与えた傷跡を生々しく身体に刻んでいました。
だってあたしたちは怪獣病院でモンスターの治療なんてさせてもらえやしないんですもの。
R団の中でも三下のあたしは安価な傷薬しか分け与えてもらえないので、こういったように怪我を満足に手当てしてやることすらままならないのです。
「タッちゃん……」と、あたしはタッちゃんを抱き上げようと手を伸ばします。
するとタッちゃんはおびえた様子であたしの差し出す手を避けるのです。それを見たとたん、
「どうして……ネエ、どうして逃げるの、ネエッタラ」あたしは頭にきたものですから、気付けばタッちゃんにムチを振るっていました。
ビシャリと叩かれたタッちゃんの小さな身体が転がってうずくまります。
はっとしました、望まぬ行動に対して速やかに懲罰を与える、普段の調教を条件反射的にやってしまったのです。
そうして抵抗のなくなったタッちゃんを抱き上げると、あたしはいよいよ悲しくなりました。
だってムチで引っぱたかなければもう抱き上げることすら出来ないのですよ。腕の中でぶるぶると震え上がっているのですよ。ああ、きっとあたしにはもう以前のようにタッちゃんと心から触れ合うことができないのでしょう。それがあんまりにも切なくて、
「アッ……アッ……あたしはもともとタッちゃんを守りたくってR団に入りましたのに……それなのにあたしというのはこのようにタッちゃんを傷付けています。こんな馬鹿な話があるものでしょうか。今ではもうムチで打ち付けなければあたしたちは一緒にはいられない関係になってしまっただなんて、そんな、そんな……」
あたしの悲鳴を聞いて幹部はニッタリとしながら、
「お前のモンスターへの傾倒もまた必要な友人の代替物に違いない。もしこれから俺と健全な人間関係を築いていけたならば、いずれ自然と忘れていけるものと考えられよう。
お前がこのモンスターをR団式に調教すること教えたのは誰だ、あのメノクラゲとの交遊の中でのことだろうに。メノクラゲがここにいない今、お前に必要なものは本当の父親でもモンスターでもない、この俺なのだよ。
さあいい加減観念するのだ。俺にひざまずけ。調教を受けよ。悪徳に従え。その身を捧げよ。お前は俺のものなのだ」
怒鳴りながら幹部があたしをものすごい力で組み敷きます。
「なにがいけなかったんでしょうか。あの家から逃げ出さなければよかったのでしょうか。お姉さまと仲良くならなければタッちゃんは今でもあたしに懐いていてくれたのでしょうか。お姉さまと仕来りに則る方法で打算的擬似家族関係を結んでいたら、お姉さまのために働いたりしなければ、身の程知らずにもこの男を篭絡しようとしなければ、何か違ったというのでしょうか。あまりにも理不尽です。一体あたしのどこが悪かったのでしょうか。悪いことなんてこれっぽちだってしてはおりません。だってあたしがしたいことをしなければ、望むことを望むようにしなければ、何一つ手に入りはしないではありませんか。だってそうでしょう、あたしを助けてくれる人なんて初めからいないんですからネエ。
それなのに……そ、そうか……ハハッ……そうだったんですか……それならばあたしは悪人にならなければならなかった……悪行の快感だとか、仁義だとか、あたしというのは偉そうに口先ばかりで御託をならべて、いまだ根っから悪徳を信奉することができないでいたのですね。愛情も、満足も、すべて自分の手で他人から奪い取るべきでした……ちっぽけなねずみ怪獣など早々に打ち捨ててしまわねばならなかった……愛着感情に支配されていたのはあたし自身に過ぎなかったのです。悪人になることではなく、愛着対象を失うまいとすることにばかり気をとられていて、だからお姉さまにも捨てられてしまった……なら、それならドウシテお姉さまはあたしに優しくなどなさったのですか……ドウシテ……。はじめからあなたがそうなさらなければあたしはきっとこんなところとっくに逃げ出していたでしょうに。そうです、あたしというものはいつだって誰かにすがっていなくてはいられない性分だったのです。
アアッ……幹部さま、後生ですからそんな痛いことはやめてください。いくらなんでもあたしには耐えられそうもありません。謝りますから、どうぞお許しください。そのように乱暴をされると身体がブルブルと震えだして止まらなくなるんです。頭が真っ白になって何も考えられなくなってしまうんです。背筋が凍って身動きが出来なくなってしまうんです。やめてくださいまし。なんでもいたします。言うことを聞きます。いい子にいたします。言いつけを守ります。ごめんなさい、ほんとうに、ほんとうに、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。ヒ、ヒエ――ッ……誰か……誰か助けてエ――ッ……お、おおお父さまアア――ッ……」
七 「悪事をなすたびにあなたの心は貧しくなっていくのよ」
お姉さまとお別れしてから三年の月日が流れました。
その夜、サイレントヒルズという地方都市の少し寂れた歓楽街の片隅で、あたしは数人のゴロツキに取り囲まれておりました。
彼らは精一杯にドスを利かせた声音で、「こちらで商売をするならね、お嬢さん、ショバ代はきちんと払ってもらわねばならないな。しからずんば少し痛い目を見てもらおうか」といったようなことをおっしゃいます。
けれどお嬢さんだなんてまったく馬鹿にされたものです。あたしがR団の黒尽くめの制服を着ていないばかりに、そこいらの小娘と一緒にされたのではたまりません。
モンスターを使って適当に追い払ってしまうのは簡単ですが、しかしここの親分さんに目をつけられてはあたしも面倒な身の上です。いっそこれを機会にひとつスジを通しておくのもよいかしらなどと思案してましたそのとき、あたしたちのあいだに割り込んで口を挟むものがありました。
「恐れながらうかがいます」女性でした。言葉通りいささか強張りながら、それでも凛とした声で、「さきほどから拝見しておりましたが、立派な殿方が子供一人によってたかって一体なにごとでしょう。あなた方がもしその子へ乱暴を働こうという了見でしたらどうぞおやめなさい。人を呼びますよ。警察へ出ますよ。社会正義はきっとあなた方を許しはしませんよ」
間の悪いことに彼女が現れたことであたしは面通を通すこともままならなくなりました。まったくもっていらぬ世話です。
けれどこの横槍にゴロツキたちがよそ見をしたスキをあたしは見逃しませんでした。
おもむろにモンスターカプセルからタッちゃんを繰り出して攻撃を指示します。
タッちゃんは眼にも留まらぬ電光石火の早業で、アッという間にゴロツキたちを伸していきました。
ところがこの大ねずみが男たちを一人二人と組み伏せているあいだに、一人の大男が無防備なあたしをガツンとやりました。
あたしは建物の壁面に額をしたたかうちつけられて目がくらみます。
指示のとどこおったタッちゃんはそれでも暴れまわっていたようで、あたしの意識がシャッキリしてきたころにはゴロツキたちは一人残らず伸びてしまっているようでした。
そしてついにはさきほど割り入ってきた女性をもその鋭い牙にかけようとしたタッちゃんを、あたしはムチで鋭く打ちつけます。
「えい、分からない子だね」とあたしが叫びます。「ヤクザ者と堅気者の区別もつかないか。これでもか、これでもか」
そうしてしきりにタッちゃんをムチ打ちます。
この大ねずみ怪獣ももう年ですし、こうしたムチ打ちというものはくたびれたモンスターの体力なんてかんたんに奪い去ってしまうものです。
あたしはひとしきりの懲罰を行った後、ムチ打たれ縮こまったタッちゃんの尻尾をむんずとつかみあげ、驚いてポカンと呆けてしまった女性を尻目に、さっさとその場から離れることにしました。
ところが、「待って」と先ほどの女性が追いすがってきて、「額が割れているわ。そんなお顔で一体どこへいくつもりかしら」とハンカチをあたしの額に押し当ててきます。
かと思うと急に驚いたような顔をして、「アレ、あなたは……あなたは……お顔をもっとよく見せて頂戴」とあたしの顔を覗き込みます。
そして必死に払いのけようとするあたしを捕まえて、こんなことを言い出すではありませんか。
「……ええ、きっとそうよ。こんなところで偶然にあなたと再び出会えるだなんて、なんて素晴らしいのかしら。アア、私は運命というものを感じないではいられないわ」
ところがあたしの方ではこんな人はてんで存じません。ややもすると気の触れた御仁ではなかろうかと、なにやら気味が悪くなってしまいます。
「どちらさまでしょうか、オクサマ。いらぬお世話でした。どうもありがとうございます。身の程をわきまえませんと今に痛い目をみますよ。それではどうか夜道お気をつけて。ごきげんよう」
「マア、そんな他人行儀な口の利き方はよして欲しいわ。私よ、メノクラゲ、あなたのお姉さんよ。もちろん覚えているでしょうね。件の組織にいたころはあんなに仲が良かったんですもの。
心配していたのよ、あんまりに突然のお別れで、ろくにあいさつも出来なかったものだから」
「エ……エッ……」とあたしは思わずまごつきました。
この方は今なんと申したでしょう。
お姉さまですって、いいえ、そんなはずがありませんよ。だってあたしのお姉さまはそれはお美しい方でいらっしゃって、こんなに胸の張った、いやらしく尻がずんと突き出たご婦人とは、とても似ても似つきません。コンナ人をあたしは知りません……よくよくお顔を見てみましてもずいぶんふくよかでそれでいてくたびれた、その上なんとも商売気のあるお化粧などしていて、あまりの印象の違いが信じられません……
それにも関わらずこの女性は、
「あなたはちっとも変わっていないわね。まるであるときを境に成長をやめてしまったみたいだわ。背丈まで出会ったあの頃のまんま。それに隠しているけど袖口からのぞく沢山のアザ。いつも何かにおびえて不安そうな瞳。アア、私の可愛らしい唯一の妹」と言ってあたしを優しく抱きしめてくださいました。「困ったことがあったらいつでも私を頼ってちょうだい……」
ふんわりと優しい香りにつつまれて、脳裏から懐かしい記憶がようやくよみがえってきました。
以前にもきっとこんなことがあったんですね。
ずっと昔もあなたはそう言ってあたしを抱きしめてくださったのです。
あれから……そうです、お姉さまがあたしの前から姿を消してから、すでに三年の月日が経とうとしていました。
けだしあたしはこの三年のあいだ、お姉さまとの思い出をあんまりにも美化していて、まるで空想の人物を記憶していたのかもしれません。それでお姉さまのお顔を見ても気付くことが出来なかっただなんて……
「あなたは私のこと……忘れてしまったの……」とお姉さまが寂しそうにつぶやきます。
……でもやっぱりお姉さまはお姉さまでした。ちっともお変わりないお姉さま。間違えようもありません。あたしに優しくしてくださるこのお声はやはりお姉さまに違いないのです。
それまでの思いが胸いっぱいにこみ上げてきて、いつのまにか涙があふれてきて、たまらずお姉さまにしがみつきます。
「お姉さま……お姉さま……アッ……アッ……大変な失礼をいたしました……いいえ、いいえ、忘れるわけがないじゃありませんか。だってあたし、本当はお姉さまに一目だけでもお会いしたくって、この街に暮らしているらしいという噂だけを頼りに、こうして一人この街にやって来たんです……お姉さまにお会いしたくてたまりませんでした……だからあたし来る日も来る日も、見知らぬ街で待ちぼうけていたんです。確かな噂じゃありませんから、お姉さまがもしこの街にいらっしゃらなければどうしようかと思うこともありました。まかり間違ってとっくに情死でもなさっていたらと思うと胸が張り裂けそうでした。出会えたとしてもずいぶんとご無沙汰ですから、もしお姉さまがあたしと分からなかったらどうしようかと不安でたまりませんでした。そうしてついにこうしてお会いできましたのに、あたしというのはお姉さまのお顔さえ覚えていなかっただなんて、申しわけなくて、恥ずかしくてたまりません……アア……お姉さま……」
「そう、会いに来てくれたのね……うれしいわ……いいえ、いいのよ……あなたは幼かったし、それに私の方だってこのねずみ怪獣を見なければ思い出せなかったかもしれないわ。
それにしても驚いたわ、モンスターをあんな使い方するんですもの。R団式にメチャメチャにムチ打たれてしまって可愛そうに……これまでもずいぶん酷使してきたのでしょう、くたびれてしまっているのがよく分かるわ。昔はあんなに元気のいい子だったのに、私感心できないわ……いいえ、それは私があなたに仕込んだのだったわよね。ごめんなさい。そうよ、私一言謝りたかったの。あなた一人を組織に残して逃げ出してしまったこと、本当に謝っても謝りきれないわ……」
「そんな、謝らないでくださいませ。タッちゃんはこれでいいんですわ。だってこの子はあたしを喜ばせるためだけにいる、ただの道具ですもの。それにもし勢いあまって死んでしまってももう大丈夫です。こうしてお姉さまにお会いできましたもの。
今ならお継母さまのお気持ちが分かります。慣れてしまえば別に可愛そうだなんて思わないんです。昔お姉さまのおっしゃった通り、むしろとっても心地がいいの。
ねえ、お姉さま、もっとお話をしましょうよ。あたしのこと、お姉さまのこと……
あたしたちの組織といえば、今では公安に目を付けられてどこの街でも面倒な身の上でしょう。ですからあたし、ニドキング幹部の下で潜んでいたんです。美人局をして暮らしていたんです。いいえ、ニコニコと楽しく暮らしていますわ。タマはあたしじゃないんです。とっても面白い方法なんですの。あたしが考案しましたのよ。そこらで若い男や娘をさらってくるんです。なるべく器量のいい。トレーナーが簡単ですわ。トレーナーなんてものは誰だってお金に不自由していますからね。それらを金持ちに売りつけますの。いくらでも乱暴していいって言って、そのあと強請りますでしょう。そうすると乱暴した負い目があるものですからいくらでも払いますのよ。ああ、若者ですか、そんなこと。そこらに打ち捨ててしまえばいいんですよ。だってこんなご時勢でしょう、トレーナーの野垂れ死になんて珍しくありませんもの。黒狩りのせいで怪獣はサバくのに難儀しますから、こうしてお金を稼ぐんです」
黒狩り……というのはR団残党に対して行われる熾烈な取締りを指します。三年前、企業テロが失敗に終わったことを引き金としてR団は内部抗争が激化、反社会的勢力の取締まりは強化され、R団は公然と活動することが難しくなりました。現在ではあたしを含む一部が地下に潜みながら、組織復活の機会をひっそりと待っているというわけです。
「本当です、嘘なんかじゃありません、本当ですのよ。あたしは何にもしなくていいんです。モンスターを売りつけるよりよっぽど楽な商売です。心も体も傷つきませんし、暴力を振るう人もおりません。だからあたしは今でもちゃあんとお姉さまに一途なんですのよ。本当ですのよ、信じてくださいますわよね。泣いたりなんてしませんわ。誰も気にかけてくれませんもの。逃げ出したくなんてなりませんわ。どこにも行くあてがありませんもの。
いつかお姉さまがおっしゃったように悪事というものがどれほど心地よいものか知りました。三年前のあたしといえばいつまでたっても悪人になれないので、お姉さまは去ってしまわれたんですよね……でもお姉さま、あたしも今ではこんなに悪いことができるようになりましたよ。ですから、ですからね、お姉さま、アア、あたしのお姉さま、これからはあたしとずっと一緒にいてくださいますよね」
「……なんて恐ろしい話をするの……あなたは……あなたは……私が目を離した間にきっとあの忌々しい幹部に洗脳されてすっかり悪人になってしまったんだわ。
あなたに更生の機会を与えるには一体どうしたいいのかしら。きっと警察に捕まればあなたは相応の罰を受けるでしょうけども、事情を何も知らない刑務官はきっとあなたをいじめ抜くだけで満足するに違いないわ。
なら勇気を振り絞ってあなたを受け止めましょう。だってそれは私にも原因があるのでしょう。
R団の姉貴分などといって、一人ではやっていけないためにあなたを引き入れてしまった。ごめんなさい。本当にごめんなさい。
あまつさえ、あのときの私はあなたの好意に答えられなかった。あなたが私のような者を無批判に敬愛することが信じられなくて、恐ろしく思えて突き放してしまった。それがあなたの人生を狂わせてしまったのね……
青春の一時期、社会に挑戦しようという志を持つ過ちは誰にでもありえるわ。私もそうだったから分かるの。でもそれはあなたのせいではないのよ。いいこと、あなたは多くの理不尽の中で暮らしてきたので、他人に同じように振る舞うことで満足が得られるのだと誤解してるわ。そんなことをしたところでどれだけ心が満たされるかしら。友人と喜びと悲しみを分かち合うことで本当の安らぎが得られるというのに。他人を強いたげ搾取するたびにあなたの心は貧しくなってしまって、それをどうにかしようとますます悪行を重ねていく。そうした悪循環をあなたはニドキングに利用され、助長させられているに違いないわ。だから、あたしがきっとあなたを助けてあげます。黒狩りから、いいえ、ニドキングの束縛から救ってあげましょう。あなたの心を真実の愛で満たしてあげるわ。誠実に生きることで充足した日々を送れるということをあなたに教えてあげるわ。
さあ、これから私の住処へいらっしゃい。傷の手当をきちんとしないといけないから」
「……アッ……エッ……お姉さま……一体何を……おねえさま……」
一体全体お姉さまは何をおっしゃっているのでしょうか……どうして褒めてくださらないんでしょうか……変ですね……なんだかおかしいです……どうして以前みたく一言おっしゃってくださらないんでしょうか……えらいわね、いい子ねって……ただ頭をなでて欲しかっただけなんです……
それをごめんなさいだなんて、謝られたら空しいじゃないですか、切ないじゃありませんか……あたしに謝って、あたしを否定して、それでお姉さまは満足なんでしょうか、すっきりなさるんでしょうか……あたしはお姉さまのお言い付けどおりに、お姉さまがおられなくても、立派に悪行を積んでいますのに……どうしてそんなことをおっしゃるんですか……どうして……
あたしはただ認めて欲しかっただけなんです……あなたはあなたでいいのよって……そうしていただけたらあたしは、ただそれだけで……それだけで満足しましたのに……それなのに……それなのに……お姉さまはこうして変わってしまわれて……でもあたしにはもう……いままでの自分を無下にすることなんてとてもできないのです……
あたしの手でお姉さまを取り戻そうと思いました。
八 「悪徳こそすばらしい人生を送る秘訣に違いありません」
小さな安アパートの一室に、扉を開けて入ってくる者がありました。
「オ――イ、帰ったぞオ――ッ。いないのか、寝ちまったのか」
廊下からの逆光が真っ暗な室内に男の影法師を落とします。手探りに玄関の明かりを点けました。そして目の前につっ立っているあたしをようやく見つけてくれました。あたしはこの男のやってくるのをこうしてずうっと待ち構えていたのです。つかの間目を見合わせるあたしと男、その後ろでひとりでに扉が閉まりました。
「お兄さん、どうぞお控えあそばせ」
聞けばお姉さまはR団を抜け出して以来このゴースト先輩と同棲していたというじゃありませんか。仲のおよろしいことで。お姉さまのおっしゃる愛というのがこれですか。こんなつまらない男にかかずらうのが愛ですか。
あたしは立ち上がり、なるたけ丁寧に申し上げました。「お邪魔いたしましてご免あそばせ。本日はお姐さんにうかがいまして、お兄さんがお帰りになられるのを三尺三寸お借りしまして待たせていただきましたのよ。恐れ入りますがどうぞお控えあそばせ。向かいましたお兄さんとはお見知りおきまして、ゴーストさまと存じあげますわ。私、縁たまわりまして継父はR団麾下ニドキング幹部に従ってますの。渡世名と発しますはマダツボミと申しあげますわ。稼業駆け出しの青いつぼみでご免あそばせ。長らくご無沙汰のほどたいへん失礼いたしました。お兄さんにおかれましてはお元気そうで何よりですこと。いつぞやは急にいらっしゃらなくなりましたので、皆さんたいそう寂しくしてらっしゃいましたのよ。この度は継父に代わりまして僭越ながらご挨拶にうかがいましたの。ぶしつけではございますがいっそご仲裁、お盃など略しまして仲直りといたしませんこと。ではよろしくて、目下ご覚悟あそばせ……」と微笑んで、ムチをパチンと打ち鳴らしタッちゃんをけしかけました。
R団式に厳しく躾けたタッちゃんはあたしの期待通りに素晴らしい残虐性を発揮しました。
衰えて息も絶え絶えといった様子の老体でなお、ゴーストめをその牙と爪でメッタメタの八つ裂きにしてしまいます。
「そう、そうですよタッちゃん。あなたはとてもお利巧なモンスターだからよく分かってるわ。えらいですね。もっとよ、ほら、そこです。ほらモット、モット」といって、あたしはますますムチを打ち鳴らします。
仲直り式とは言葉ばかりの制裁、私刑でした。
そこへ、縛り上げて奥の間に閉じ込めておいたお姉さまがまるで芋虫みたいに這いずってきました。
「やめて――ッ、その人に酷いことをしないで。私があなたを見捨てたことを恨んでいるのなら、まるで筋違いでしょう。私のせいなら、私が罰を受けるのではなくて」
「あら……お姉さま、いけませんわ」とあたしは振り向きます。「大人しくしていただきませんと。これがR団に反目したことの始末なんですから。そちらでご覧下さってもよろしくてよ。断末魔の悲鳴というものをお聞きあそばせ。ぞくぞくしますよ。とってもステキですよ。
ご安心くださいね。もちろんお姉さまへも制裁入れてさしあげますから。お姉さまにおかれましては、ゴーストにさらわれたようなものですから、ちゃんと落とし前がつけられますよ。そうそう、お姉さまはこの方が大変気に入ってらっしゃるんですよね、ロマンチックですこと。でしたらこんな男は殺ってしまいましょう。エンコ詰めなんてつまりませんよ。誰だって愛着対象を剥奪されるのは苦しいものですから、でしたらこれを以てお姉さまも許されますわ。そうしたら優しいお姉さまはきっとあたしを愛情で包んでくださいますわよね。ねえ、そうでしょう。この男がいなければ、あたしはお姉さまとずっと一緒にいられたんですから。思う存分お姉さまににあまえることができたんですもの」
「なんの話をしているの。それはR団も何も関係のないまったくあなたの都合でしょう。私の方から言い出したのよ、R団を抜けたいって。嫌で嫌でたまらなかったのよ。それに応えて彼は一緒に逃げてくれたわ。どこか遠くの街へいこう。R団の名も聞かない遠くへ。悪徳を捨てて、堅実に日々の糧を得て、可哀相な人にはできる限り力になってあげるようにして、そうして罪を購おう。二人でそう誓ったわ。ゆくゆくは結婚だって考えていたわ。本当ならあなたにも祝福してもらいたかった。幸せになれたの。働くというのは素晴らしいことよ。だれかの役に立ってる、だれかが助かってる。そうして私たちもだれかから恩をさずかってるの。私があなたを置いてけぼりにしたことで、それをあなたが妬む気持ちも分からないではないわ。けれど愛情というのはそうやって人に強要するものではないのだと私は知らされたわ。心のうちから自然とあふれでてくるものなのよ。人間はそうやって気持ちを交換していくものなの。他人の幸福を奪うことばかり考えていては、いつまでたってもあなたの望むものは手に入らないわよ。あなたはもう正しい感覚を失くしてしまっていて、伝わらないかもしれない。でもそうなのよ。私はこの一つの真理に従って、あなたが可哀相だから助けてあげようとしたのに。昔だって今日だって。それなのにあなたはどうしてこんな恩をあだで返すような真似をするのかしら。あなたはてんで混乱しているようだわ。本当は心から愛情を欲しているのに、人を傷つけることでしかそれを求める術を知らないだなんて」
「お姉さまって誰にでもああして助けたり、優しくしたりなさるんですか。あたしはどこかのだれかじゃなくて、お姉さまの寵愛をいただきたかったんですのに……けれど、もはや世の道徳がいかにあるべきかなんて説教されたくありませんわ。お姉さまのおっしゃるように、ただ悪行があたしの幼い自尊心を辛うじて支えた、それだけが事実なのです。心が貧しいとおっしゃいましたね。そうかも知れません。お姉さまのような方にいくら同情を積まれようと、気高さがなくては人は生きていけないのです。お姉さまは変わってしまわれました。こんな小さな部屋で、そんな安ぽいお洋服を来て、何が幸せですか。お姉さまはこんなつまらない男にかどわかされたんですね。あたしを裏切るからこんな目に遭うんですよ。こんな暮らしにどうして満足できるっていうのでしょう。ざまあごらんあそばせ。そんなお姉さまでもあたしが可哀相ですか。助けてくれようとしたんですか。お優しいんですのね。お姉さまはやっぱりとてもお優しい方です。ですけどね、それがとても腹が立つんです。会えて嬉しいですって、ならどうしてあたしを置いていったりなさったのですか。ごめんなさいですって、お姉さまは裏切った相手へ謝って、自分ひとりだけすっきりとした気持ちになるんですか。裏切られたあたしがどんな思いで過ごさなければならなかったか、お姉さまはご存知かしら。頼る人もなくマフィアに取り残されたあたしが、保身のためにどれだけたくさんの屈辱にあまんじなければならなかったか……お姉さまから見捨てられたとき、幹部さまの辱めを受けたとき、欲望のはけ口にさせられたとき、あたしはこの世のすべてからノケモノにされているんだって、徹底的に思い知らされました。結局お姉さまの優しさというものは、ご自分に向いたものでしかないんですのよ。でも別にいいじゃないですか。こんなあたしに罪を感じたりしないで、手前勝手に幸せになればよかったんですよ。罪ほろぼしなんて馬鹿げたまねはおよしあそばせ。あたしだって、ただあたしの願いをかなえるために悪行を働くんですから。確かに憎く思うことさえありました。でも今ではそういうよこしまなお姉さまを恨んだりしません。尊敬するばかりです。ますます愛情が深まるのです。その気持ちを受け取っていただきたいんですよ」
でもみなさん。
メノクラゲお姉さまがあたしをこんな悪人に育てただなんて思わないでくださいね。
あたし……本当は人間にいいも悪いもないと思うんですよ。
あたしみたくこうしてひねくれていたり、今のお姉さまみたく美徳にすがったり、それから自堕落だったり、自惚れていたり、それらがせめぎあって世界ができあがってるだけなんだって思うんです。
だからあたし、何が正しいとかって人に押し付けたり、押し付けられたりするの、もうやめたいんです。
「ごらんあそばせ。これは怪獣用のムチですわ。人間に怪我をさせるのに充分な代物ですよ。これを本気で打ち付けられたらどれだけ痛いことでしょうね。そんなことをしたら壊れてしまわれるかもしれませんね。お姉さまがあたしを置いてきぼりにできたのは、けだしその愛着があたしに向いていなかったためでしょう。ですからひとつR団式の調教を試みますわ。条件付けモデルは愛着理論にとって代わる……でしたわよね。ほらあの交遊会を思い出してください。お姉さまの手解きを受けて打ち付け合ったあのムチのことですよ。懐かしいですわ。そういえばお姉さまは昔、怪獣の躾がお仕事でしたわね。条件付けの後に売り付けられたモンスターがそのあとどうなるかご存じかしら。ムチで打ち付けられないのが不安で不安で、最後には壊れてしまうんですよ。発狂して死んでしまうんですよ。ああもっと罰を受けたいと思って、そうしないと自分にはぜんぜん価値がないと思って、気が狂ってしまうんですよ。ご存知かしら。お姉さまはこのように悪のしもべだったんですよ」
「ヒ……ヒエッ……やめて。私の罪を思い出させないで。いつだって罪悪は私の心をズタズタに引き裂いていくの。どれだけの人の心を苦しめたか、どれだけの怪獣を不幸にしたか。背徳の刺激のすさまじさに死んでしまいそうになるのよ。どれほど善行を積んでも、あの死にたくてたまらない気持ちはついになくならなかったのに」
あたし、お姉さまに出会えたことは、本当にすばらしいことだったと思うんですよ。
しょうがないじゃないですか。
お姉さまに出会えたのは奇跡みたいな出来事でしたけど、本当に奇跡みたいな出来事でしたけど、そのせいで悪徳の道に進んだなんて思いません。悪徳万歳する気なんてありません。
お姉さまもあたしも、そういう風に育てられた、ただそれだけなんです。
「お姉さまが欲しがってるのは死ではありませんわ。それは罰なんです。ムチ打ちなんです。ほらどうです心地がいいでしょう。ほら、ほら。どうして心地がいいんですか。お姉さまはね、ただ罰を欲していただけなんですよ。年端の行かない小娘に悪徳の道を案内した背徳の罰を待っていたんですよ。長い間ずうっと待ちわびていたんですよ。お姉さまのおっしゃる誠実な暮らしなどというのはそういうことなんですよ。お姉さまはなぜR団が悪事にモンスターを使うのか本当のところはきっとご存じないでしょうね。それはですね、そのほうがずっとラクチンだからなんです。人を不幸にすることが嫌で嫌でどうしようもなくっても、命令するのは簡単なんです。後悔も罪悪感もないんです。命令されて服従するのもそうなんです。どんな悪事も自分のせいじゃないって思えるんです。お姉さまが苦しんでらっしゃったのはきっとそれが心の底から逃げ出したいと思ってしまったからに違いありませんわ。ということは、お姉さまこそ本当に背徳を背負うべき本物の悪人ということになりますね。男と二人駆け落ちするのはさぞかし心地よかったでしょうねえ。きっと楽しかったでしょう、分かりますよ。だってその背後には背徳があるんですもの。それをもっと心地よくしてあげましょうか。こうして罰を受ければいいんですよ。背徳というのは快感を劇的に増大させる媚薬なんです。この懲罰によって罪悪はお姉さまの身体に染み付いて忘れられないくらい素晴らしい快感がやってきますよ」
「そうよ、本当は恐ろしくてたまらなかったのよ。だから罰が欲しかった。私が悪かったの。あなたを裏切ってしまった。ごめんない、ごめんなさい、ごめんなさい。もっと罰を、私に罰を与えてエ――ッ」
気づくとタッちゃんはゴーストとモミクチャになったままぴくりとも動きませんでした。
予感はしていましたし、おくびにも出しませんが、心の奥ではとても悲しい気持ちでいっぱいでした。
タッちゃんと、それからお姉さまと、いつまでも笑って暮らせたらいいなって、ずっと願ってたんです。
もう叶わないんですよね。
どうしてこうなってしまったか、ここまでお聞きくださったみなさんでしたらお分かりになったでしょうか。
今度こっそり、あたしにも教えてくださいね。
「さて、お分かりですね。あたしはお姉さまと違って、このようにして欲しかったものすべてを手に入れることができるのですよ。道徳とか、誠実だとかいった陳腐な理屈にうつつを抜かした人間は、あたしのような悪人の前に容易にひれ伏すのです。悪徳こそすばらしい人生を送る秘訣に違いありません……アハハ……ハハ……ア――ハーハハハ……」
××マコ。女性。享年十一歳。
一九××年、静岡県××市にて、××コージ(二十一歳、建設業)及び××メグミ(十六歳、サービス業)の住居に押し入り、使役怪獣を使い二名を暴行、殺害した容疑で逮捕。
かつては明るく優しい性格の少女であったという。
あるとき家族らとの行き違いをきっかけに家出。
その後数年に渡って指定暴力団アール団系組織に所属していたことが判明している。
この間、家族との連絡を一切絶っていた。
たまむし地裁は女性を少年自立矯正施設送致が相当と判断。
女性は公判の最中も始終挑発的な態度を崩さなかった。
判決は次の通り。
「被告人が使役怪獣を使い知人二名を殺害せしめた事案で、本件が衝動的な犯行であることを認めるとしても、被告人に是非を弁別する能力及び行動を抑制する能力が著しく減退し、心神耗弱の状態にあったことを疑わせる事情はなく、殺害への強い決意が認められ、また被害者へ苦痛を与えることを目的とした一連の傷害行為に被告人の残虐性を窺うことができ、殺人罪に相当するとした上で、被告人が年少時、暴力団員としておよそ二年半に渡って活動し、劣悪な生活環境の中で尋常な社会的規範や対人感情を喪失していったものと考えられる点において、充分な更生機会を与える必要性があるなどとして、被告人を矯正教育刑十年に処した事例」
凶器として使用された怪獣は××怪獣愛護センターに収容されたのち殺処分された。
××女子学院への入所から約半年後、女性は突然意味不明な奇声を発しながら作業訓練で使うカッターナイフを振り回して周囲を威嚇しはじめた。
興奮して説得に応じず、自らを傷付けかねない危険な状態であったため、職員らは止むを得ず女性を取り押さえ個室に軟禁した。
翌朝、様子をうかがいに来た職員が個室内にて意識不明の女性を発見。
××病院に搬送され死亡が確認された。
死因は静脈血栓塞栓症。長時間拘束されたためのショック死と考えられる。
「――お姉さまです。メノクラゲお姉さまです」
「R団にいました。今は違います」
「憧れていたんです」
「あたしに優しくしてくれて、いろんなことを教えてくれて……」
「助けて欲しかったんです。お姉さまならきっとあたしを助けてくれるって。それなのに……」
「――お姉さまの旦那さまです」
「そうすればお姉さまが悲しむだろうなって」
「反省ですって、そんなものするわけないじゃないですか。謝ったら誰かが助けてくれたんですか……」
「――怪獣です。あたしのたった一人の友達です。でももう……フフフ……あたしが、あたしのせいで……ウッ……ウッ……」
「大丈夫です。申し訳ございません」
「あの、どうしているか分かりますか。行方をご存知ですか」
「……そんな……そうですか……」
「もうずっと元気がなくて、無理をさせていたので……」
「とても可愛かったんですよ。いい子で、優しくて」
「お父さまからいただきました。お父さまが飼っていたんです」
「雑食用のモンスターフードと、あとはナッツや果物を食べさせます。それからソーセーズが好きです。よく分けっこして一緒に食べました」
「おでこのところをなでてあげると喜びます。気持ちがいいらしいんです」
「お風呂が嫌いで……大きくなってからはずっと苦労しました。暴れるものですから、あたしまで水びたしになって」
「いつもタッちゃんを抱っこして寝ていました。そうすれば寒くなかったから」
「でも……タッちゃんは……もう……」
「――あたしにはもう何もありません」
「帰るところもありません」
「生きていたくありません」
「……」
あたしは警察の方からお取調べを受けました。
アパートにお住まいの方の通報を受けてお巡りさんが駆けつけたとき、あたしはお姉さまのお体に何度もムチを打ちつけていたそうです。
お姉さまを病院へ運ぶ際に、お姉さまにしがみつくあたしを引きはがすのに難儀したといいます。
拘置所では父が会いに来てくださいました。数年ぶりにお会いした父はいくぶん背が縮んでしまわれたかに思われました。あたしのお父さまはこんなにも頼りなさげな方だったかしらとなんだかガッカリしました。父はあたしに、「いつか帰ってきたら一緒に暮らそう」と言いました。「あの人と一緒にですか」とあたしが尋ねると、父は言いよどみました。だからあたしは、きっと本当は帰ってきて欲しくないんだなと思いました。
あたしは今年で十一歳になる成人ですから、少年法による保護ではなく刑法の定める刑事処分を受けます。
あたしのことを決して守ってくださらなかった法があたしを裁きます。
「裁判官さま、陪審員のみなさま、検察官さま、弁護官さま、傍聴席のみなさま、この度はあたしの成した悪行を公の下に審判する場へお集まりいただき光栄に存じます。またこうして陳述する機会を設けてくださった裁判官さまに御礼申しあげます」
法廷であたしは、悪人としての精一杯の誠意を持って語りかけました。
「――検察官さまのご指摘された犯罪、そしてあたしの証言、それらは誓ってすべて事実に相違ありません。しかし、蒙昧なるみなさんにあたしを裁くことは決してできないことをここに申しあげておきます。
――刑罰とは犯罪者への応報であるといいます。
それならあたしの犯罪もまた、なべてこの世の理不尽への報復でありました。大人が子供に、あるいは社会が個人に及ぼす害悪に対して、正当な報復を与えることは、将来出現する不幸を未然に防ぐための必要悪です。あたしはあらゆる理不尽に虐げられた者たちの代表に過ぎないのです。
――刑罰とは犯罪者への教育であるといいます。
ところがあたしは確立した自我でもってあたしの下しうる最高の意思決定を行いました。自らの快楽のためではなく、この世に正当な秩序を取り戻すために、あえて困難な道を選んだのです。あたしに宿ったこの強固な意志はもはやいかなる刑罰をもってしても修正されることはなく、ただあたしを未来永劫に渡って働かせ続けるのです。
――かくてみなさんはただあたしを殺すことによってのみ、あたしという害悪をこの世から取り除くことができるのです。それならどうぞみなさん、これからあたしになさるように、道徳を違う者たちを一人ひとりとくびり殺し、この地球にお一人になるまで殺しあってくださいませ。善人であろうとするみなさんが、愚かにもそのために殺しあう姿を、あたしは地獄の底からそっと見守りたく存じます。
――したがって、この場で裁きを受けているのは実はあたしではなく、みなさんご自身に他ならないのです。それもすべて、あたしをこのような犯罪者に育てた原因、あたしという悪夢を産んだ根源、被害者のお二方を真に殺害した犯人が、この世界だからです。
――それでもどうか、浅はかで蒙昧な善人たるみなさまにおかれましては、将来あたしのような悪人を生み出さないために何をなさるべきか、よくよくお考えいただきたく存じます……」
しかしあたしの言葉は、誰にも顧みられることがありませんでした。
たまむし地方裁判所はあたしに矯正教育刑を科す判決を言い渡しました。
××女子学院に入所したあたしは、上手にやっていくことが出来ませんでした。
集団寮に移ったとき、寮生の方々はことあるごとにあたしに声をかけてくださいました。でもあたしはそれらをかたくなに拒みました。誰にも、何にも期待したくなかったからです。
先生はたびたびあたしを呼び出して、協調性の無さや更生意欲の不足を指摘しました。
あたしは自らの無実を訴えましたが、それは誰にも聞き入れられません。
それでもなぜか保健医のS先生だけは、あたしの話に辛抱強く耳を傾けてくれました。
「先生、あたしの脳みそは半分溶けているんですって。だから何を言い聞かせてもしょうがありませんよ。あたしはどうせこの世に生きている価値のない人間なんです」
「人があたしに罰を与えるでしょう。みんなや、先生方が。でもそんなことに意味なんてないじゃないですか。反省することなんかないんです」
「あたしの中にはちゃんと、善いことと悪いこととを判断する心があって、自分で考えて、自分で決めたんです。誰かに見てもらうものではないんです」
「あたしを罪に問うなら、子供であった私をいじめ抜いて、悪徳を吹き込んだ大人たちは一体誰が裁いてくれるのでしょう」
「涙をこらえて、なんとかがんばって、一生懸命生きてきただけなのです。あたしじゃなくて、社会の方が狂っているんです」
「社会には戻りたくありません。誰もあたしのことを認めてくれないから」
「どうして先生はこうしてあたしの話を聞いてくださるんですか」
「あたしは生きていてもいいんでしょうか。不安なんです。どうか正直におっしゃってください」
「もっと薬を減らしてくださいませんか。あたしは病気じゃないんです」
「先生、あたしは悪いことをしたでしたでしょうか。先生はどう思いますか。教えてください」
「次はいつ会うことが出来ますか。もっとお話しすることはできませんか」
「先生があたしとお話しすることをお嫌いでなかったらいいのですけど」
「あたし、先生のいいつけならきっと守ります。きっとです」
「もうあたしには先生だけなんです。だから見捨てないで下さいね。きっとですよ」
「本当に、ずっと一緒にいてくださいますか」
「んっ……あっ……先生……」
「先生、あたしのこと、どうお思いですか」
「誤魔化さないでください」
「だから、ねえ先生……」
「先生……」
「先生……」
「先生……」
「……」
あたしは寮生の方々に嫌がらせを受けるようになりました。
作業の邪魔をされたり、食事を台無しにされたり、下着を汚物入れに入れられたり、身に覚えのない悪さを報告されたり。
それらはまわりの人に見つからないようこっそり行われるものですから、先生方にはあたしの素行不良と受け取られたようです。
しだいには先生方も、指導や治療と称してあたしに暴力を振るうようになりました。
何時間もベッドに縛り付けられたり、何度も水をかけられたり、体に電極をつけられて電気を流されたこともありました。
しかしあたしは自分が間違っていないことを示すため、嗚咽ひとつもらさず、決して涙をこぼしませんでした。必死に歯を食いしばり、理不尽な体罰に抗い続けました。
ある日あたしは、先生方から逃げようと刃物を振り回した罰として、隔離室に入れられることになりました。
隔離室はベッドと仕切りの無いトイレがあるだけの小さな部屋です。ドアの内側にはノブがついておらず、中から開けることは出来ません。廊下の側にガラスの窓がはめられていて、外から中が見えるようになっています。
きっと先生方はあたしから一切の自由を奪って、反省するまで閉じ込めておくつもりなのです。あたしには反省することなど、何一つないというのに。
ふと、廊下の窓から誰かがこちらを覗いていることに気がつきました。
それはS先生でした。きっとS先生は助けに来てくださったのです。S先生ならきっと分かってくれるはずです。S先生に訴えて早くここから出してもらおうと思いました。
ところがS先生は、部屋の前で誰かと話していました。あたしを取り押さえた先生です。
それが一体どういう意味か……S先生はどうしてあたしの話をあんなにも聞いてくださったのか、それでいてどうして寮生たちの嫌がらせや先生方の暴力をただしてはくださらなかったのか……あたしは恐ろしい事実に気付いてしまいました。
S先生は、表向きあたしに優しくする一方で、暴力を振るう他の先生とも通じていたのです。きっとはじめから他の先生方と企んでいて、あたしを陥れようとしていたに違いありません。追い詰められていくあたしを見て、影でほくそ笑んでいたに違いありません。あたしは騙されていたのです。
途端に、頭が真っ白になって、何も考えられなくなりました。
「――アアッ……アッ……アッアアア……アアアァァアアァァ――……」
喉がはり裂けるほど叫んだり、体をガタガタと震わせたり、床を叩いたり、壁に体を叩きつけたり、食器を投げたりしました。
それに気づいた先生方が駆けつけて、よってたかってあたしをベッドに縛り付けます。
S先生がオドオドとあたしに声をかけます。
あたしはS先生を口汚く罵りました。
何本ものベルトでベッドに縛り付けられたまま、何時間か、何日か、何週間か分かりませんけども、とにかく長い長い時間が過ぎました。
縛られたままのせいか、だんだんと息が苦しくなってきました。視界がチカチカとして、体中がしびれます。このままでは死んでしまうのではないかとさえ思えました。一人孤独に死ぬことを想像すると悔しくて、あまりにも悔しくて涙がこぼれてきました。
自らの死に涙することができるのは、恵まれた人生を送ることのできた者の特権だろうと思っていました。しかしあたしの意思は、みすぼらしく生きることを希求する身体に抗うことができませんでした。
あたしは世話をしにやってきてくださった先生に、「どうしたらこれを外してくれますか。あたしが謝ったら外してくれますか」と尋ねました。
「それはS先生が決めるからね」と先生はおっしゃいました。
「あたしの何が悪かったのですか。S先生に何を謝ったらいいですか。どうか教えてください」とあたしは尋ねました。
先生は答えてくれませんでした。
きっと先生方にはあたしを自由にする気なんかこれっぽちもなくて、あたしはこのまま殺されてしまうんだと思いました。
死ぬのは怖いです。でも苦しい思いをするのはもっと怖いです。
あたしは縛られたまま叫びました。
「S先生、ごめんなさい。もうしません」
監視カメラを通じてきっと先生方が気づいてくれると信じて、しかし何を謝ればいいかさえ分からないまま、
「S先生、ごめんなさい。許してください。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……
息をするだけで体が痛むんです。苦しいんです。お願いですから、これを解いてください……
誰か、ネエ、先生エェ、誰かアアアァァ……聞こえているのに、どうして答えてくれないんですか、聞こえているのに……どうして……どうして……どうして誰も助けてくれないんですか……どうして誰も優しくしてくれないんですか……そんなにあたしが嫌いですか……あたしが一体何をしたんですか……みんなあたしを見捨てて、あたしを一人ぼちにして……謝りますから、助けてください、謝りますからアァ……誰かあたしを助けてください……お願いですから……誰か……誰か……」
でも、誰か、なんてもういません。あたしが自分の手ですべて断ち切ってしまったからです。あたしがこの世で一人ぼちなのは、他でもないあたしが招いた結果です。
あたしはこれまで、あたしをのけ者にしようとする世界すべてを呪って生きてきました。しかし、あたしを不幸へと導いたのは、そうした運命に抗う力のないあたし自身の弱さ、愚かさでありました……
みなさんはどう思われますか。あたしのような人間は罰されて当然なのでしょうか。自業自得とお笑いになりますか。
もしそうなら、どうぞお聞きください。もがき苦しむ悪人の悲鳴を。さんざん自分勝手にふるまって今さら必死に許しを乞うみじめな女の断末魔を。
「アアッ……アアアァァ――……アァアアァァアアァ――……
もう嫌アァ――……お父さまアァァ――……お姉さまァァ――……お父さま、おうちに帰らなくてごめんなさい……あたしはお父さまと一緒にいたかったんです……お姉さま、幸せを壊してしまってごめんなさい……あたしはお姉さまに優しくしていただきたかったんです……あたしが悪かったです……あたしのせいで、みなさんを不幸にして、あたしのせいなんです……お願いですから、もう許してェ……助けて……助けてェ――ッ……アアァ――……ア……アァ……」
よい行い、悪い行い、自ら価値を生み出すものは、自らの行いの責任を自ら生み出します。
よい行い、悪い行い、社会の定めた価値に従うものは、自らの行いへの報復を社会から与えられます。
きっと、どんな行いをしようとも、幸福を得るだけの資格を持たない人間は、すべからく不幸を得る定めなのです。
あたしは一人では生きていくことのできない、甘えん坊なただの子供でした。
そんなあたしに居場所なんて、はじめからどこにもありはしなかったのです。
あの継母がやってきた日から、公園のふれあい広場に逃げ込んだ日から、R団に雇われた日から、お姉さまに出会った日から……
それなら、あたしの過ごした日々は無意味でした……あたしの信じたものは無意味でした……あたしの人生は無意味でした……
「もう疲れたよ……辛いよ……苦しいよ……誰かあたしを殺してよ……死なせてよ……こんなのもう嫌だよう……嫌だよう……うあぁぁ――……うわああぁぁ――……」
……
…………
………………
……がりがり……がりがり……
意識が薄ぼんやりとしていたころ……どこからか物音がするのが聞こえました。
それは次第に大きくなって、この部屋に近づいてくるようです。
途端に大きな音を立てて部屋の壁が崩れました。
「ヒィッ……アアァッ……」
部屋へ冷たい空気が入ってきます。壁のあったところに夜空が見えます。
そこから毛むくじゃらの大きな塊が現れます。
「エッ……エッ……
アレッ……
そんなッ……
うそ……
あなたは……
……
タッちゃん……」
あたしの大きな可愛らしいねずみ怪獣のタッちゃんです。
あたしが名前を呼ぶとタッちゃんはひげをピクンと動かして、あたしの匂いを嗅いできました。
そしてあたしが動けないことが分かると、丈夫な前歯を使って、あたしをベッドに縛り付けていたベルトを千切ってくれました。
「タッちゃん、タッちゃんだ、うわあ――ッ……アアァ――ッ」
気が動転して理解が追いつきません。
それなのに胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、涙となってこぼれました。
あたしはようやく起き上がって、タッちゃんに抱きつきました。
「タッちゃん、タッちゃん。
どうして、タッちゃん、どうして……
もしかして、あたしを探しに来てくれたの、助けに来てくれたの……
どうしてこんなあたしのために……
どうしてそんなに優しいの……
あたし……あたしはあなたにたくさんひどいことしたのに……
それなのにタッちゃんはこうして来てくれた……
ウアアァ――……」
タッちゃんは毛がフサフサしていて暖かでした。動物の脂の匂いがしました。丸い瞳であたしを見つめました。あたしに顔をこすりつけてきました。うれしそうにしっぽを振り回していました
あたしはタッちゃんをたくさんなでてあげました。手がブルブルと震えました。愛しい気持ちがあふれてきました。胸がじんと熱くなりました。涙があふれて止まりませんでした。何度も名前を呼びました。
「ああ、タッちゃん、タッちゃん……
あたしも会いたかったんだよ……
元気でよかった……
うれしい、うれしいよォ……
うわあッ、ウワアアァァ――――ッ……
来てくれて、来てくれてありがとう……
いつだってタッちゃんは一緒にいてくれたね……
タッちゃんが一緒にいてくれたから、あたし寂しくなかったんだよ……
それなのに、いっぱいひどいことしてごめんね……
勝手な飼い主でごめんね……
嫌いにならないで……
大好きだよ……
お願いだから、ずっとそばにいて……
あなたがそばにいてくれたらあたし、何があっても平気だから……
みんながあたしを見捨てても……
石を投げられて殺されても……
タッちゃんがそばにいてくれたなら……
だからお願い、離れないで……
タッちゃん……タッちゃん……」
あたしはそうしてタッちゃんをずっと抱きしめていたかったのに、タッちゃんはおもむろに背を向けて、崩れた壁の方を見ました。
「……どこにいくの、タッちゃん……」
タッちゃんがあたしに振り向きます。
「タッちゃん、またお別れなんて、そんなの嫌だよ……
ネエ、あたしも連れてって……お願い、タッちゃんと一緒にあたしも連れてって……」
あたしはタッちゃんの大きな背中にしがみついて顔をうずめました。
するとタッちゃんは、あたしを背に乗せて駆け出しました。
崩れた壁を飛び出して、あたしを広い世界へと連れ去ります。
「タッちゃん。
大きくなったねえ。
フカフカだねえ。
暖かいねえ。
大好きだよ。
タッちゃん。
あたし、あなたと一緒ならどこへでも行けるよ……
あなたに出会えて、幸せだったよ……」
あたしはタッちゃんの背に乗って駆けていきました。
夜の街を、
山の向こうを、
雲の上を、
月の裏側を、
星の輝く空を、
どこまでも、
どこまでも、
どこまでも……
……
初出:2014年発行同人誌『386のさよなら異文、調教譚』より(web向けに改稿)