「おい、まただ。どうしてそれをリュックに入れる。」
青いカメが言いました。
「ぼくは朝ごはんにはオレンジマーマレードを塗ったパンが食べたいんだ。」
甘いジャムのたっぷり詰まったビンを握り締めながら少年が言いました。
「だからと言って、お前の腹じゃそのビンの中身はすぐには使い切れないだろう。荷物は最低限にしろとオレはさっき言った。」
カメは呆れてしまい、頭をこうらにしまおうと首を縮めました。このカメはもうどうにでもなればいいなどと考えたのです。
「さいていげん、ってなんだい?」
「そんなことも分からんのかお前は。つまり出来るだけ少なくしろということだ。」
カメの首は皮が余ってしわしわになり、頭はもう少しでこうらに全部入ります。
「どうして少なくないといけないんだい?」
しかし少年は納得しません。
「お前はどこに行ってもふかふかのベッドで寝たいからと言って、自分のベッドをかついで旅に出ようってのかい。ジャムだのゲームボーイだのいくらもそんなこと言ってみろ、おんなじことになるのさ。しかしな。別に俺がかつぐわけじゃあないんだ。リュックが重くて足が棒になっちまっても俺は知らんよ。」
少年は仕方なく大好きなジャムのビンを棚に戻し、かわりに頭とついでに手と足もしまい終わったこうらをリュックに詰めたのでした。
『死神』より
「ロウソクの火が消えそうだよ」
少年は故郷を忘れ、旅に出たのだ。
「そしたらお前は死ぬんだ」
この聡明なるカメと共に。
「あ、そうなんだ」
少年がリュックをまさぐる。
「ハックション」
カメはくしゃみなどしない。
「・・・」
夜の闇がすべてを覆う。
「うそだよ」
甲羅が新しい明かりに照る。
『粗忽長屋』より
「おい、それに書いてあるやつ、お前じゃないか」
背負ったリュックから青いカメが顔を出して言った。
「なになに、なるほど、どうもそうらしいね」
少年は振り向き、それと思う新聞を手に取る。
「菓子パンもそろそろ飽きただろう」
カメは少年が振り向いたせいで明後日の向き。
「『家出した少年行き倒れ』だって」
歩いて5分のコンビニは、少年にとって宿屋であり防具屋であった。
「お前一体いつ死んだんだ、俺は気づかなかったぞ」
このカメの好む乾燥イトミミズは、中でもフレンドリーに置いてある。
「僕が死んだとすると、しかしこのメロンパンは誰が食べるんだろうなあ」
少年は新聞を棚に戻し、今日と明日食べる分のパンを選ぶ。
多摩川を下流から上流へと上ります。
と言うとなんだかアユかカッパのようですね。
川は海に注ぐものですが、カッパは海も泳ぐのでしょうか。
もしこの多摩川にまだカッパが棲んでいて、もしこれから出会えることがあったなら、聞いてみたいと思います。
僕はプールでも50メーターしか泳げません。
川原か堤防の上を歩き続けます。
目的地など決めていないので、昨日も一昨日もそして明日も、そうするのが一番気楽なんです。
鉄橋を幾つかくぐると、ベトンで固められていた堤防が緑に茂るようになります。
野生の生き物が増えますし、気のせいか草の生え方も違うように見えます。
いつもの僕ならそこで虫取りやら探索やらをしたくなるところでしょう。
日が傾いてくると、連れがそろそろ宿を決めろと言うので、遠くの方に見える鉄橋の下をそれに決めました。
その近くに商店街があるとは限らないので一度河川から離れます。
夕飯と明日の弁当を買い出さなければなりません。
『猫の皿』より
「こいつと交換しない?」
少年に抱えられ、よしてくれと青いカメ。
「500円ならいいよ」
少女は紫色のネズミを差し出す。
「同じカゴの方がこいつも喜ぶ」
もう笑いをこらえられないのが少年の腹。
「これはだめ、とても珍しいものなの」
紫色のボールを手に少女。
「じゃあなんでネズミなんか入れてたのさ」
紫色のネズミが驚く少年の腕をかじかじ。
「こうしてるとね、コラッタが売れるの」
少女は意地悪に笑ってみせる。
「むかし戦争があってさ」
カメは生えに生えた雑草を迷う。
「死んだの?」
少年は廃墟の中を散歩する。
「いや、誰も」
カメは鉄パイプの巣すらも懐かしむ。
「変なとこ」
少年が拾うかすれた色はかつての壁面。
「泣く人も、笑う人もいなかった」
カメの過去を知る由は無い。
「だからここが残ったんだ」
少年が見上げた看板にはPOCKE MON LANDとあった。
お父さんは知らないんだ。
こんな点数じゃどんな高校行ったってバカ見るだけだって。
聞いたんだ先生に。
ヘンサチ教育とかいうやつ。
高いヘンサチの高校に入って、有名な大学を出て、そしたら誰でもハッピーになれる。
それがお父さんの世代。
でも今は違う。
知らないでしょ、クラスの誰もやってないんだよ、勉強。
進路希望アンケート、みーんなそろってトレーナートレーナートレーナー…!
バカみたいに同じ単語が並ぶんだから。
そりゃ試験の順位だけ見たらお父さんが嬉しくなっちゃうのは分かるよ。
クラスでトップのナンバーワン、えっへん。
でもホントの学力はさ、みんなとおんなじ、最低レベル。
少なくとも一度も授業受けてない連中より解答欄を埋められる、そんでそんだけ。
当たり前じゃん、お父さんが今時絶滅危惧種の進学塾なんてのに通わせるからだよ。
考え方が古いんだよ。
でもそんなの何の役にも立たない。
高校なんてトレーナー諦めちゃった出戻りか、トレーナーなんてのには縁の無いお坊ちゃんのどっちかしかいないんだよ。
彼らは哀れなプリズナー。
僕らってさ、お父さんたちと違うんだ。
進路希望アンケートは先生たちの皮肉なユーモア。
始めから僕たち、選択の余地なんてもらってなかったんだもの。
「お前は結局どうしたいんだ」
生意気なカメめ、ちょっと黙ってろ。
どうしたいんだか、どうしたくないんだか、分かんない。
そういう選択したこと、希望したこと、僕ら無いもん、今まで。
憧れのトレーナー修行の旅、そんなの大人の作った出来損ないの線路。
脱線しても知らないよ、なんて言いながら、そういう線路を用意してる。
バカだなぁ、僕らも大人も。
でも僕、ってやっぱり違う。
違うようにしてくれたのは、やっぱりこのカメかな。
逃げ出したい、なんて口に出さないうちから、手を引っ張って逃がしてくれた。
全自動分岐機の付いた線路が見える前、小学5年生の夏。
いわゆる家出少年、でもつもりとしては蒸発のつもり。
理不尽でどうしようもなくて最悪な現実に対処する方法、あっかんベーして逃げ出しちゃうこと。
こんなのほんとの自分じゃない、なんて思うくらいなら、逃げちゃったらいい。
自分探しの旅とかなんとか言い訳してさ。
カメはドジだしバカだけど、そういうことやらせてくれたんだから、結構頭いいかもね。
ある落ち込みやすい漫画家は、蒸発の方法として自分を役立たずとして社会から捨てられることを挙げている。
それは、いながらにしていない、ということ。
理不尽でどうしようもなくて最悪な現実があるのなら。
そう、これはバカで無謀なこと、全然意味の無いこと。
それを望んだはずのお父さんすら口を開けっ放しで固まること。
いながらにしていなくなってやればいい。
「家出するか、また」
そこまで絶望しちゃいないよ。
僕たちはその夏、帰って来たんだから。
そして明日は期末。
僕は始めて参考書のページを開く。
『夢金』より
「ひもじいってこゆこと?」
少年は軍資金が尽きた。
「俺の分けてやろうか」
青いカメにはエサの余りがある。
「あれお金が落ちてる」
お金が無ければ帰るだけ。
「おい起きろ」
カメにとってそれは戯言。
「ああ痛かった」
しかしそれはただの夢。
「男じゃなくなるぞ」
諦めにも似た。
「免許証持って無い子泊めたのばれると不味いんだって」
男はカウンターに寄り掛かりひそひそと。
「何でそういうこと言えちゃうわけ?店長のケチ」
女は何やらレジスターをいじっている。
「親だって心配してるだろうが、俺にだってガキいるし」
男はロビーでくつろぐ少年を横目に見る。
「それは違うよ店長、ああいう子はさあ、やってみたいのよ」
女も手を止めてため息一つ。
「やるって、家出を?」
男は女の肩を一つ叩くとSTAFFの戸に消える。
「何かを、それも一人でさ」
女は外線電話の受話器を手にした。
「今日も疲れた」
父親に借りた寝袋。
「そんなもんだ」
兄のお下がりのリュック。
「でもなんか楽しい」
電池の切れた携帯電話。
「そんなもんだ」
役に立たないガラクタ。
「…ほんとはもう帰りたい」
夜露の冷たさ。
「そんなもんだ」
橋の下に一人と一匹。
皆さんは雨と言うものをご存知ですか。
甘いものと間違えては困ります。
濡れるということはとても大変なことなのです。
傘をさせばよいと思われる方もいらっしゃるでしょうが、あなたは寝ているときもずっと手に傘を持てますか。
それに雨水は地面を伝い寝袋の中にも染みてくるのです。
残念ながらこれを防ぐ方法を僕はまだ発明出来ていません。
フレンドリーでもらったダンボールを敷いても無駄でした。
拾った新聞紙もすぐボロボロに破けてしまいます。
第一に濡れた体には明日歩く分の体力が残りません。
朝起きると身体は冷たく頭ははっきりしないのです。
泥を吸ったノートやリュックはそれだけで気が滅入ります。
洋服を洗って乾かす手間も大変です。
それが何日も続くとなれば本当に困ってしまいます。
屋根があり壁があるとは何と幸せなことでしょう。
そんな時この青いカメはのん気にもこう言います。
オレは気持ちいいけどな。
このカメはいろいろなことを知っています。
それをよく僕に話して聞かせてくれました。
僕はそういった時に大概は説教臭いやつだと聞き流します。
しかしこと雨に関してはよく話して欲しかったと思います。
僕は雨がこんなに大変なものとは知らなかったためです。
免許証を持っている人はポケモンセンターで眠ります。
ですから皆さんはこう言ったことをご存知無いでしょう。
雨と言うものは甘いものではありません。
「俺たちは強大な能力を持ちうるらしい」
細長い影を見下ろす青いカメ。
「人間も空とか飛べたらよかったのにね」
夕日を横切るカラスを眺める少年。
「けどそんなものより俺は」
カメはゆっくりと顔を上げる。
「飛行機なんて乗ったこともないけどさ」
少年は足を止め周りをぐるりと見わたす。
「人ひとりくらい幸せにしたかったさ」
その白い影はカメの目に何を映したのか。
「あれ、何て言うのかな」
三匹のカラスはどこへ向かうのか。
それは遠く西の空がオレンジ色に染まり始めた頃のことです。
うすぐらい草原で、少年は毒虫の巣を見つけました。
ちゅうくらいの背の草を何本かたぐりよせ、白い糸を筒のように巻いたそれは、ぐにゃりとねじれ、枯れ草のへばりついた、いかにもみすぼらしいものでした。
「カメ君、ぼくはね
家で虫ポケモンの図鑑を見たことがあるよ
そこには野生の毒虫がこしらえる巣の写真が載っていて
とってもきれいな形をした筒が、真っ白に輝いていたものさ
だからいつか本物を見てみたいなって、ずっと思っていたんだ」
やがて少年の周りには、いつのまにか真っ黒な草原の闇が広がっていたのでした。
「お母さん」
その旅人は、少年に看取られながら、今わの際にそんな言葉をつぶやくのでした。
「よし。この人間の持ち物を検めて、役に立ちそうなものを探すのだ。ボールはいらんな。お前の言いなりにはなるまい。それ、ピストルを提げているな。これは役に立つぞ」
少年は亀の言葉にたじろぎました。そして、ピストルを持っていながら自分の身を守れなかった旅人を憐れみます。
「……」
旅人はもう何も言いません。しかし同じポケモン使いの身でありながら、死者を辱める行いは出来ないと、少年は考えます。
「そんなもの、人間の勝手さね」
亀は自分勝手に旅人の荷物を漁って食料を見つけ出します。
「……」
旅人はもう何も言いません。
少年が旅立って、二日目の夜だった。
「おかえり」
「心当たり探してきたよ」
「私も親戚とか友達のとことか電話してみたわ」
「俺明日も会社休むのか」
「そんなことより早く警察に届けましょう」
「だいたいお前があいつに構ってやらないからだ」
「わたしのせいだって言うの
あなたこそ毎日仕事仕事って、ほとんど家にいないじゃない」
「それはお前仕方が無いじゃないか」
「あの子はあんたの顔なんかとっくに忘れちゃってるよ」
「お前が」
「あなたが」
かすかに東の空が白みはじめる。
夫婦はそれを眺めながら、こうつぶやいた。
「おーい、今どこにいる」
重い金属の扉の隙間から聞こえる朗らかにおはようのあいさつを交わす小鳥のさえずりが残酷。
昨晩も私はほとんど眠ることが出来ず、居間と寝室との往復にその時間を費やしたのだった。
今が一体全体夜なのか、昼なのか見当のつかない私の体内時計に、それは気の遠くなるような長い今日の始まりを告げたのだった。
「いってらっしゃい」
自分で聞いて意気の失せる、つぶやきのような、ため息のような声を発する。
夫は「それじゃあ」と同じような調子の返事をすると、足早に出勤した。
私が今日という一日を、どのように過ごさねばならないか、夫は分かっているのだろうか。
私が夫をともすれば恨めしくもさえ思っていることを、果たして知っているのだろうか。
あえて何も言うまいとする夫のその態度が、私をどれだけ惨めな気持ちにさせることかを。
しかし例えばこの瞬間に開放廊下を私に背を向け歩く夫がこちらを振り返ることがあろうものならば、このような独りよがりな不満を見透かされるのではないかと空想し、急に恐ろしくなる。
そして私は急いで玄関の扉を閉めた。
今朝私が何もしなかったために夫の勝手に食い散らかしたらしいパンの袋や皿を片付ける。
それから私はようやくになって今日の曜日を思い出し、まだ収集車の周回時間に至らないことを確認するとゴミ出しを急ぐ。
同じ棟に住む住人といく度かすれ違うも、一言の挨拶を除けば他人と変わらぬ程度の付き合いしかない。
それから洗濯物をかき集め、洗濯機に入れまわす。
洗濯機の無作法な動作音を聞きながらしばし立ち尽くす。
細かな振動に棚に置かれた小物が共鳴するのに気づいて、それらの位置を少しだけ変えてみる。
それから……。
それから私は何をしたらいいのだろうか。
何かをしていた方が、気が楽になるものだが、だからと言って自分から何かをしようという気にはなれないのが不思議なものだ。
何も分からない。
頭がだんだんとごちゃごちゃしてきて、次にだんだんとむなしくなっていく。
だから私は掃除を始めた。
家の隅から隅までをピカピカに磨く、大掃除だ。
掃除機をかけ水ぶきをする。
何かをしていないとたちまち狂ってしまいそうな気がする。
体を動かしている間はそういう気持ちは紛れるはずだ。
ただそのためだけに、出来るだけ丁寧に、時間をかける。
何をするかなどにはそもそも意味がない。
廊下をトイレを風呂を台所をリビングを寝室を、
そして、ある一室を前にしたとき、私は自分の体から一切の力が抜けるのを感じた。
私には一人の息子がいた。
今年で8歳になった。
おとなしく、聞き分けのよい、いい子だった。
3歳の頃、夫の母から妖精の人形をプレゼントされた。
私はそんな女の子の欲しがるようなものをと怪訝に思ったものだが、息子は大好きな祖母からもらったものだからと、とても大切にしていた。
小学2年生の頃、作文で学校から賞状をもらった。
少し恥ずかしそうにそれを私に見せる息子を見て、誇らしく思ったものだ。
息子は同い年の他の子供達に比べれば無口なほうだし、私が普段仕事で家を空けていることもあって、いわゆる親子の会話というようなものが他より少なかったかもしれない。
しかしそれでも、私は私なりに愛情を注いで育ててきたつもりだった。
その息子が、今はこの家にいない。
その夜私が帰ると、家はしんと静まり返り、真っ暗だった。
玄関に息子の靴は無く、息子は家にいなかった。
外はとっぷりと暮れ、門限は過ぎていた。
初め私は、私の帰りが遅いと踏んだ息子がまだどこかで遊び惚けているのだろうと、考えていた。
息子が帰ってきたら叱るつもりで夕飯の仕度をしていると、いくつかのものが見当たらないことに気が付いた。
買い置きしておいたパンがほとんど全て、それに水筒、夫が息子に買い与えたペットの亀の餌も無い。
居間のテレビをつけてみる。
大げさな調子でしゃべるアナウンサーやらタレントやらが、何か遠い異国の言葉で話しているような錯覚を覚える。
掃除などというものはとうに頭の外に出て行ってしまった。
警察から息子に似た遺体が発見されたという思慮を欠く連絡をもらったこともあった。
その後の検視の結果、息子が旅立つ以前に亡くなっていたそうだから、当たり前のことながら私の息子ではなかった。
しかし息子がいつそうなるまいかと心配せずにはいられないのもまた本当のことだった。
あの夜以来、私は仕事を辞め、こうして無為な一日を過ごしている。
ただ願う、我が子の安否を。
閑散とした郊外を貫く自動車の往来も少ない一本の国道の脇に、一軒の中華料理屋を見つける。
やや表面のすすけたベトンの建物の二階にはいまだ洗濯物がぶらさがり、ガラス戸からこぼれる蛍光灯の明かりは、夜の帳に覆われた道路の舗装を照らしている。
遠慮がちに掲げられた赤い暖簾をくぐると、店主の気の抜けた挨拶に迎えられた。
壁一面無造作に貼られた品書きの札をさっと見渡す振りをする。
せきをしながら、チャーハンを添え物のスープで喉に流し込む老人。
ひそひそ声で何やらまくし立てている中年の女と、それに時折相槌をうちながらニラレバ炒めをつつく男の二人組み。
夕食時だというのに、客はたったこれだけだった。
ジョッキを持った女性の笑うポスター、野球中継を映す小さなテレビ。
招き猫が三つも並ぶ神棚、ミネラル水と張り紙された給水機。
自動車のエンジン音が通り過ぎ、風圧がガラス戸をなでる。
「ラーメン定食、ネギ抜いてください」
少年が言った。
「俺にも俺の時代があったことを、お前は知らないだろうな」
チャーハンを食べていた老人が言った。
「目の前にある小さなことが、とても素晴らしく思えるのよ」
中年の女が言った。
「どうしようもないことが沢山やってきて、すべてを忘れさせてくれるんだ」
ニラレバをつつく男が言った。
「僕はポケモントレーナーになりたいなんて思っていないのに」
荷物を背から降ろしながら少年が言った。
「誰もそんなこと考えないけど」
厨房からラーメン定職のお盆を出しながら店主が言った。
少年は自分のことを、一人でいることに慣れた人間だと思っている。
寂しいという感情は贅沢なものだと考えているから、この場末の中華料理屋のように少し居心地の悪いくらいのほうが自分には相応しいとさえ感じる。
すなわち、ちょうど無料のご飯のお代わりをしようとしたときに、やたらと大きな声で店員に馴れ馴れしくしゃべりかける中年の男が店に入ってきても、初めのうち少年にはそれがいつものことのように思えた。
老人が煙草に火をつけ新聞を広げる。
話題も無くなったのかいつのまにか黙りこくっていた女は、あなたこれ残り食べてと連れの男に餃子を勧める。
常連らしい大きな声の男は気の乗らなそうな店主になおもしゃべりかけている。
「シゲさん、調子はどうだい」
「ヨシくん、シゲさんはしみじみしていたいのよ、こっちいらっしゃいな」
「あれ大将、オカミさんどうしたの、今日いないの」
「具合悪いっつって上で寝てるんですよ」
「ああ、そうだったの、じゃあ大変だね」
「チャーシューメンにね、半チャーハン」
「いいのよ、一日くらい休みたいもの」
蛍光灯がこころなしかまぶしい。
少年は自分の空想の店内がかき消されるのを感じていた。
逃げ出したい気持ちを必死に堪え、ご飯をスープで胃に流し込む。
「だいじょうぶ、だってここにはもう来ないもの」
少年が出来る限りジム巡りのルートを避けて歩くと、おのずと古い街道を歩くことになる。
「私のお話を聞いてください」
日はとうに暮れていて、街頭のたよりない薄明かりの中、少女たちは道行く旅人を自らの勤める宿へと誘うのだった。
「どんな話があるのだろう」
同世代のものに声をかけられることが久方ぶりの少年は興味を持った。ところがそこで貧血が急にやってきたので気を失う。
「あなたは行き倒れていたのよ」
少女が少年の世話を焼いている。
「こんなもの、なんでもないんだ」
少年が気が付くと、どうやら民宿の一室に寝かされているらしい。実際はこのところしきりに起こす貧血にほとほと困っていた。
「滋養を摂りなさい。特に新鮮な野菜や果実を食すことが肝心です」
少女は少年よりもいくつか年上だった。少女は過去に少年と同じく家出をした経験があって、そのときの反省がこのようなことを言わせるのだった。
「食べているさ。旅の疲れというものはたびたびこういうことを起こすのさ。君はトレーナーの旅というものを知らないのだろう」
少年は弱みを見られているので少しでも強がろうとこんなことをいう。
「私はここでたくさんのトレーナーの人と出会って、その人たちの体験をたくさん聞いたわ。
あなたの話もそれと同じよ。私にとっては聞き飽きた、退屈な話なのよ」
少女にとって少年は自分の客というわけではないから、駆け引きなく話せるということが嬉しくて、かえってそっけない言葉をかけてしまう。
「そんなことは知らない……でも僕は君の忠告を聞き入れる気になったよ」
見ると少年は寝巻きに着替えさせられていて、もと着ていたボロボロの服は誰かが繕ってくれたらしく、きちんと畳まれ枕元に置かれているのだ。
「あなたがよければ、私の弟ということにして、もう少しここにいてくれてもいいのよ」
少女は……少女もかつてはトレーナーを目指していた。ところが免許証を盗まれてから、そうもいかなくなった。家に帰ることもできないので、こうして宿に勤めて暮らしている。
「だって……あなたは免許証を持っていないじゃない」
「君は僕の荷物を検めたんだね」
少年はこの少女を少し脅かしてやろうと思いつく。
「こんな話をしてやろう。あるとき僕が山道を歩いていると遠くに山男風の男を見かけた。
男はトレーナーには見えないのに、モンスターボールをいくつも持っていて、それを毛虫に向かってぽいぽいと投げつけ捕まえる。
その様子がいかにも簡単そうで面白い。
それから男は捕らえた毛虫を絞め殺し、ナイフで綺麗に捌き、焼いて食べた」
少年はそれを見てとても気分が悪くなったものだが少女には黙っていた。
「あなたもそういうことをするのかしら」
少女は急にそら恐ろしく思って少年に問う。
「君はなんてことを言うのだろう、僕は絶対にそんなことはしないのに」
少年には例え誰が認めずとも旅を続ける意志がある。
「あなたの粗暴さには尊敬すべき部分があるわね」
少女にはそれが腹立たしく思えるのだった。
少年は次の日、街を旅立った。