森の中で
5) 暖かな夜
何か、暖かな夢でした。
くふんと鼻を鳴らして、たれた耳をぴくぴくさせてから、ハインリヒは、ようやく目を覚ましました。
体を起こすと、穴の入り口の近くに坐ったジェロニモが、真っ暗な外を眺めているのが見えて、ハインリヒは、開いたばかりの目をこすりながら、ああ、もう夜なんだと思いました。
まだ、ハインリヒが起き出したことに気づかないのか、ジェロニモはこちらを見る様子もなく、ハインリヒは、何となく、周りを見回しました。
持ってきたブルーベリーも、きゃべつもにんじんも、まだ手も触れられず、ハインリヒが眠ってしまった時のままです。
「ジェロニモ?」
ハインリヒは、おなかがすいているような気がして、入り口に向かって、声をかけました。
ジェロニモが、ようやくこちらに振り向いて、それから、のそりと立ち上がりました。
「雨、やんだ。」
こちらに歩いて来ながら、入り口の方を指差して言います。眠っている間に、また雨が降ったようでした。
ハインリヒは、くふんとまた鼻を鳴らし、水の匂いをかぎました。
目の前に腰を下ろしたジェロニモと、自分の間に、ハインリヒは、持ってきたブルーベリーと、きゃべつとにんじんのかごを置きます。
一緒に食べようよと、まず、いつものように、ブルーベリーに手を伸ばしました。
ジェロニモは、茶色い毛におおわれた、大きな手を伸ばして、小さなにんじんをつまみ上げます。
「今日ね、村で取れたばっかりのにんじんなんだよ。」
ハインリヒは、ちょっと胸を張って、うれしそうに言いました。
ひとくち、ぽきんとにんじんをかじって、ジェロニモが、にっこり笑い返してくれます。
うれしくて、ハインリヒは、またくふんと、肩をすくめました。
ブルーベリーで、口の回りを紫色にしながら、ハインリヒは、おなかがすいていたので、夢中でもぎゅもぎゅと、そのすっぱい青紫の小さな実をかみつぶします。
きゃべつも、小さいけれど、いつもと同じに甘くて、みずみずしい葉に、ぱりぱりと前歯を立てます。
すっかり満足して、ハインリヒは、ふくれたおなかを撫でました。
「おいしかった。」
昼間、一生懸命働いた疲れは、もうすっかり取れていましたが、おなかがいっぱいになると、なんだかもう、動くのがいやになってきます。
真っ暗な、穴の外をちらりと見て、夜の森はどんななのだろうと、ちょっぴり思いました。
みんなはきっと今ごろ、村の、それぞれの自分の穴の中で眠っているに違いありません。
ブルーベリーを、掌に乗るくらい残して、ジェロニモも、食べるのをやめました。
「今日は、なにをしていたの?」
ジェロニモの、茶色の瞳を、見上げて聞きました。
ジェロニモが、ちょっと考えるような表情をして、しばらく経ってから、大きな口を薄く開きます。
「何も。」
首を振って、ほんの少し微笑んで、ハインリヒに答えました。
「なにも?」
不思議に思って繰り返すと、ジェロニモがまた、首を振ります。
「何も。」
「ふーん。」
どこか、具合が悪いのかしらと思いながら、また聞きました。
「山犬さんのジェロニモは、冬のしたくはしないの?」
「冬のしたく?」
うんとうなずくと、目の前で、たれた耳が、ゆらゆら揺れました。
「ボクらの村のうさぎは、きゃべつやにんじんを、なるべくたくさんとっておくの。冬の間に、それを食べるの。ボクは、一生懸命、ブルーベリーとクランベリーを集めるけど。」
目の前に残っていたブルーベリーに、ジェロニモがまた手を伸ばして、一粒取って、けれど食べるではなく、それをじっと見つめています。
ジェロニモはまた、首を振りました。茶色の目が、どうしてか、少し淋しそうに見えました。
「山犬、冬のしたく、しない。オレは、しない。」
「じゃあ、山犬さんたちは、冬のあいだ、なにを食べるの?」
そう聞いてから、ジェットが、山犬は鳥やうさぎを食べるのだと言っていたのを思い出しました。
ジェロニモも、同じことを考えているのか、それには答えずに、ハインリヒに向かって、小さく微笑むだけでした。
ハインリヒは、聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、口ごもると、うつむいて、それから上目に、うかがうようにジェロニモをこっそりと見上げました。
冬に、雪が降って積もっても、ここまで、きゃべつやにんじんを運べるだろうかと、思ってから、ハインリヒはいいことを思いつきました。
「ボクの村に、くればいいのに。」
ジェロニモが、びっくりしたように、笑っていた目を、大きく見開きます。
「ボクの穴には、ボクひとりだから、きっと、大丈夫だよ。」
考えれば考えるほど、いい思いつきだと思いました。
「コズミさんは、碁が大好きなの。ボクを見つけて、村に連れて帰ってくれたうさぎだから、きっと、ジェロニモも大丈夫だよ。」
大きなからだで、村のうさぎたちにまじって、畑仕事をするジェロニモを思い浮かべると、みんなも喜んで、ジェロニモを迎えてくれるような気がしてきます。
小首をかしげて、ハインリヒは、ジェロニモの返事を待ちました。
ジェロニモは、眺めていたブルーベリーを、食べないまま元に戻して、一度にっこりと微笑んでから、ゆっくりと首を振りました。
「ありがとう、でも、無理。おまえの村のうさぎ、驚く。きっと怖がる。」
「大丈夫だよ、みんなきっと、よろこんでくれるよ。」
ジェロニモは、ハインリヒが何を言っても、もう、首を振るだけでした。
ジェットと同じように、村のみんなも、山犬さんのジェロニモを、うさぎをくうと言って、こわがるのかなと思って、ハインリヒは悲しくなりました。
ジェロニモは、いきものをころさないって、そう言っても、みんな信じてくれないのかな、ジェットみたいに。
ハインリヒは、うつむいて、ひとりでそんなことを考えていました。
急に、鼻の奥がつんと痛くなって、目の中が熱くなって、ころんと、涙がこぼれました。
前足の先に、涙がぽとんと落ちて、冷たくて、もっと悲しくなって、けれど泣いたのを見られたくなくて、ハインリヒは慌てて目をごしごしとこすると、毛づくろいをするふりをしました。
たれた耳を、両手に抱えて、顔を隠して、ぺろぺろ舐めます。
今日、きゃべつやにんじんを、みんなで分ける時に、並んでいる間に、そうして体をきれいにしていたことを思い出して、また、きゃべつやにんじんがとれたら、ジェロニモにも食べさせてあげようと、そう思いました。
肩やおなかや、後ろ足を舐めていると、ジェロニモが、ハインリヒを自分の大きな膝の上に、抱き上げてくれました。耳のつけ根を、前足で撫でてから、ハインリヒが自分では届かない、頭の後ろや首筋の毛を、きれいに舐めてくれました。
ハインリヒは、目を閉じて、気持ちよくて、くふんと鼻を鳴らします。
もっとちっちゃな子どもの頃は、そう言えば、コズミさんがよく、毛づくろいを手伝ってくれたことを思い出しました。こうして、自分では届かない、頭や首の後ろや、肩の辺りを、お互いにきれいにしていました。
ひとりの穴に移ってからは、誰かに毛づくろいしてもらうのは、初めてだと気づいて、ハインリヒは懐かしくなって、うれしくなって、ジェロニモの膝の上で、すっかりのびのびしてしまいます。
ジェロニモの舌は、大きくて長くて、ハインリヒの小さな体をきれいにするのに、大した時間はかかりません。それでも、丁寧に、時間をかけて、毛づくろいがすむと、またハインリヒの頭を撫でて、そっと膝から下ろしてくれました。
「ありがとう。」
気持ちが良くて、肩をすくめて、ハインリヒはにっこり笑って見せました。
「こんどは、ボクがやってあげるね。」
坐っているジェロニモの背中に回ると、一生懸命背伸びをして、肩の近くの毛を、きれいにしようと、必死でぺろぺろ舐め始めました。
ハインリヒの舌はとても---ジェロニモに比べれば---小さく、ジェロニモの背中はとても大きいので、それはとても大変な仕事でした。
肩越しに振り返って、ジェロニモは、何となくもうしわけなさそうな顔つきでハインリヒを見下ろしていましたが、そのうち、またハインリヒを抱き上げると、自分の肩の上に乗せました。
「ここ。」
ぴんと立った、短い耳の後ろを、笑いながら指差します。
傷だらけの顔や、肩や首を間近に見ながら、ハインリヒは、指差された耳を、両手で丁寧に抱えて、ぺろぺろ舐めました。
ジェロニモの毛は、ハインリヒの毛よりも、長くて太くて固くて、毛づくろいも大変です。
それでも、耳の後ろをきれいにして、顔の傷---跡---を舐めて、肩の後ろも毛づくろいして、ハインリヒはやっと、ジェロニモの肩の上で、はあっと大きく息を吐きました。
「舌が、もぞもぞするよ。」
ハインリヒを肩から下ろして、ジェロニモがおかしそうに笑っています。
「ありがとう。」
今度は、ジェロニモがそう言いました。
ジェロニモが喜んでくれているのがうれしくて、ハインリヒの耳が、片方だけぴんと立ちます。
「もう、寝る。明日の朝、帰る。」
きゃべつやブルーベリーのかごを、動かして、ジェロニモが、寝る場所をつくってくれました。
横になって目を閉じたジェロニモの、茶色い毛のふさふさしたおなかに、ハインリヒは、鼻先を差し込んで、体を丸めます。
長い耳で、丸めた背中を覆って、ジェロニモの大きな体に埋もれるようにして、ハインリヒも目を閉じました。
ジェロニモの腕が、肩に回りました。
ふたりで、穴の奥で寄り添って、そろって眠りに落ちました。暖かな夜でした。
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