うわさになりたい
その5
「ふたり」
ピュンマに誘われたパーティーに、一緒に顔を出さないかと言ったら、グレートがこちらに背を向けているのを、ちらりと確かめてから、
「俺とか。」
胸元を指差して、小声で聞き返してくる。
ああと、薄く微笑んでうなずくと、戸惑ったように、口元が下がる。
「用があって、会いに行くだけだ。別に一緒に騒ぐつもりじゃない。」
どうせ、親しい連中を集めて騒ぐだけのパーティーだと、わかりきっている。顔を見に、見せに、ちらと寄るだけにするつもりだった。パーティーそのものよりも、ピュンマに会う用件の方が大事だった。
いつもにも増して暇そうな、グレートの店の中を、首を回して眺めてから、答えを決めかねるように、ハインリヒが目の前のグラスに視線を落とす。
ジェロニモが、決して長居をしないのは、ピュンマも承知の上だった。ハインリヒが、一緒に騒ぎたいと言うならともかく、そんなこともありそうにも思えない。
ジェロニモのグラスは、もう空になりかけていて、最近、あまり飲まなく
なった---ジェロニモの前では、少なくとも---ハインリヒのグラスのコースターの上には、丸く水の染みが輪になっている。
肩を軽く揺すってから、あくまで何気ないふうに、そうだな、とハインリヒがようやく言った。
以前なら、うるさくない程度に話しかけていたグレートも、ふたりが一緒だと気づいてからは、ふたりが肩を並べている時は、会話の聞こえない距離を保って、滅多と視線も送って来ない。
詮索されないことを、ありがたく思いながら、同時に、実はそうなんだと、口に出して言ってみたい自分もいる。ピュンマのように、何もかもを大っぴらにする気はなくても、ほんの少しだけ、世界に向かって、自己主張もしてみたいと、ふと思う。
ごく限られた空間でだけ、互いに触れ合ったり、そうとわかる視線を向け合ったりする、そういう間柄に久しぶりにとらわれて、ジェロニモは、それを、少しばかり不自由だと感じ始めていた。
隠す必要はない。けれど、隠さなければ、よけいな面倒が増える。その鬱陶しさを避けたいと思えば、ただ黙って、ただの友人として、外の世界で振る舞うのがいちばん簡単だった。
ピュンマは、それを嘘つきだと言い、ジェロニモは、相手のことだけを、大事にしたいだけだと言った。
自分だけのことではない。誰かと関わるということは、その相手の世界も、自分の一部になるということだったから、自分だけが傷つかないことを、選べばいいというものでもなく、自分にとって正しいことが、相手にとっても正しいと思い込むのは危険だと、けれど理想と現実はまた、決してうまく噛み合うわけでもない。
小さな世界に、引きこもる気はない。けれど、今は、わずかな空間でも、ふたりで一緒にいられるなら、それがいちばんいいのだろうと思う。少なくとも、今は。
グラスに添えたハインリヒの手に、自分の手を重ねて、ジェロニモは、うっすらと笑みを浮かべた。
グレートが、大きなあくびを隠しもしないのに視線を投げて、目の前の、氷ですっかり薄くなった酒を、ジェロニモは一気に干した。
ピュンマの自宅は、街の南の外れにある、新興住宅地の一角にあり、ジェットと一緒に住むことを決めてから移り住んだ場所で、ジェロニモは、そこへはほとんど足を踏み入れたことはなかった。
同じような外観の家が、二棟続きで建ち並び、道路には、住人のものらしい車が、ほとんどすき間もなく駐められている。
ピュンマの家の傍に来ると、駐まっている車の数はさらに増え、ジェロニモはヴォルヴォの大きな車体を、器用に路上のスペースに入り込ませ、ハインリヒを促して、外へ出た。
家の外は明るく、ドアの鍵はもちろん開いていて、開いた途端、がやがやと喋る人の声があふれてくる。
開いたドアの中に、ジェロニモは、軽く背を押して、ハインリヒを先に入らせた。
玄関のすぐ傍にある、きちんとしたダイニングのスペースは、ガラスのドアで仕切られていて、そこはすでに、人でいっぱいだった。
廊下を進むとキッチンへ入り---ここも、人だらけだった---、壁も仕切りもない、右手の大きなリビングに、ピュンマび姿を見つけて、ジェロニモは、そちらへ一歩足を踏み出そうとした。
その途端に、ハインリヒが上着の袖の、手首の辺りをつかんで、ジェロニモを引き止めようとする。
「長くは、いないんだろう。」
左右に泳ぐ視線が、周囲の人間たちの顔の上を滑って、それからまた、ジェロニモに戻る。
こんな場所にも、人にも慣れていないのは---それ以前の問題でもある---ジェロニモも同じことで、袖をつかんだ指先を、手首を曲げて外させると、そっと握った。
「用が済んだら、すぐに出よう。ピュンマと、話があるだけだ。」
どう見ても、ここにいたがっているようには見えないハインリヒに、安心させるように微笑んで見せてから、もう一度指先を、強く握って、
ハインリヒをその場に残して、ジェロニモは、ピュンマの方へ首を回した。
革手袋の右手を、ズボンのポケットに入れて、リビングのすみの壁際に、隠れるように立って、ハインリヒがこちらを見ている。
それを確かめてから、ジェロニモは、人の群れをかきわけて、ピュンマの方へ近づいて行った。
数人に囲まれて、笑い声を立てていたピュンマが、ジェロニモに気づいて、けれどおしゃべりはやめずに、手にしているグラスを、軽く目線に上げて見せる。
うなずき返して、会話が途切れるのをおとなしく待った。
待ちながら、ピュンマの傍に、ジェットの長身がないのに気づいて、珍しいこともあるものだと、ジェロニモは、顔を動かさずに部屋の中に、ジェットを探す。
キッチンか、ダイニングの方にいるのかもしれない。思ったよりもずっと多い人の数に、あのジェットも、ずっとピュンマの傍ばかりにいるわけにもいかないのかもしれないと思った。
グラスを、大袈裟な仕草で空にして、ピュンマが、キッチンの方へ軽く肩を振った。
一緒にいた数人の傍をすり抜けて、ジェロニモに向かってあごをしゃくる。
また人込みをかき分けて、来たとは別の方から、ピュンマの後を追って、キッチンへ行った。
途中で、振り向いて、まだ壁際にぽつんといるハインリヒの方を見たけれど、ハインリヒは別の方を見ていて、ジェロニモには気づかない様子だった。
キッチンのカウンターの上に、ずらりと並んだ酒のボトルから、ウォッカを取り上げ、グラスに半分ほど注いでから、残りをオレンジジュースで満たす。そのピュンマの手元を、興味もなさそうに、後ろから眺めていると、
「キミも飲む?」
振り向いた呼吸が、すでに酒に匂う。
「いや、車だからいい。」
首を振ってきっぱりと断ると、ピュンマが苦笑いした。
「ゆっくりしてなんか、いかないんだろう、どうせ?」
くつろいだ口調は、酔っていない時よりも、ゆっくりとしていた。
からかうように、けれどとがめるように言われて、ジェロニモは、ピュンマのそれを写したように、苦笑をこぼす。
「鍵を受け取りに、顔を出しただけだ。」
立ち話で、人を遮らないように、キッチンの隅の方へ移動して、どれくらい酔っているのだろうかと、ピュンマの足元を見下ろす。
酒よりも何よりも、人に酔いそうだと思って、ネクタイの首元に、そっと指を差し込んだ。
「まだ、紹介してくれないの?」
ピュンマの、絡みつくような声を聞いて、ああ、酔っているのだなと思う。
「まだ、紹介するほどでもない。」
「じれったいなあ。続かなくったって、誰も何も言わないよ。」
「続かないと、困る。」
揶揄するようなピュンマの語尾を、ぴしりと遮るように、わずかに強い声で言った。
苦笑を消して、いつもの無表情に取り替えると、ピュンマもジェロニモを見上げたままで、吊り上がっていた唇の端を、ゆっくりと下げた。
「ボクの時とは、違うの?」
リビングの方で、どっと笑い声が上がる。
ひときわ大きな騒めきがおさまるのを待って、ジェロニモは、考えながら言った。
「------まだ、わからない。」
手の中のグラスを、わざと揺らしながら、ピュンマがにやっと笑った。
「うそつきだなあ、キミは、相変わらず。」
ふたりの間でだけ通じる、微妙なトーンだった。
一瞬だけ、周囲の喧騒が消えた。とろんとした目で見上げ、ピュンマは、酔っているふりをしているだけなのかもしれないと思いながら、静かな視線を返して、昔のことを思い返しているのは、きっと自分だけではないのだと、ふたりとも知っている。
そしてそれは、もう、昔のことなのだと、思ったのも、一緒だった。
「あまり、飲み過ぎるな。」
ふっと笑って、優しい声でそう言うと、意外だとでも言いたそうに、ピュンマが眉を寄せて、口元を軽く歪めた。
さっきから、新しい酒には、一口も口をつけていない。
余計な説明のいらない程度に、親しいふたりではあったけれど、それ以上になることはもう決してないし、そうなる必要もないのだと、胸のどこかに、すとんと石でも落とすように、素直に納得できる自分を見つけて、ジェロニモはようやく、そこに、ハインリヒの面影を滑り込ませた。
「今度は、ちゃんと紹介してほしいな。」
ピュンマが、上着の胸ポケットに手を差し入れながら、声の調子を改めた。
取り出した指先に、鍵がふたつ、シンプルなキーホルダーにぶら下がっている。
それを、一瞬、まるで観察するように眺めて、少しだけ顔を傾けて、ジェロニモはゆっくりと腕を伸ばして、受け取った。
「また、いつでも、喜んで預かるよ。」
掌の中に、懐かしさを込めて、その鍵を握りしめて、笑みを含んでそう言ったピュンマに、ジェロニモは、今はもう、すがすがしさしかない笑顔を向ける。
「ありがとう。」
そう言ったのが、何に対してだったのか、説明はせずに、ジェロニモはもう一度だけ微笑んでから、ピュンマに背を向けた。
グラスを持ったままで、ピュンマが手を振ったのが、視界の端をかすめた。
受け取ったのは、別れた後も、ずっとピュンマが持っていた、ジェロニモのアパートメントの鍵だった。
ひとりで暮らせば、留守番の必要なこともあるだろうからと、ふたりは、それぞれの住まいの鍵を預かり合っていた。ジェットが現れて、ピュンマと暮らし始めた時に、ピュンマの鍵はすでに返してあったけれど、ずっとひとりで暮らしていたジェロニモの鍵は、ピュンマの手元にあるままだった。
それを返してくれというのが、一体どういう意味なのか、もう説明する必要もなかったし、ピュンマも詳しいことは一切尋ねもせず、ただ、どこか安心したような、どこか淋しそうな声で、じゃあ、受け取りに来てよと、言っただけだった。
鍵を包んだ手を、コートのポケットに入れて、人の波をかき分けて、部屋の隅に、ハインリヒの姿を探す。
その隣りに、長身の赤毛を見つけて、ジェロニモは一瞬足を止めた。
親しげという雰囲気でもなく、ジェットがうつむいて、一方的に話しかけているのに、こっそりと視線をさまよわせて、生返事を返しているらしいのが、唇の動きで見て取れた。
安心している自分に、苦笑をもらしてから、ジェロニモは大きな歩幅で、ふたりの方へ近づいてゆく。
こちらを向いたハインリヒと、視線が合った瞬間、どこか不安げに落ち着きのなかった瞳が、いきなり明るく見開かれた。その変化に、驚いて、こっそりと気圧されて、自分も同じような目で、ハインリヒを見ているのだろうと思った。
ハインリヒの視線を追ったジェットが、のそりと現れたジェロニモを見つけて、ちぇっと舌を打って唇を突き出す。
それに、自分でも驚くほど大きな---寛大な---笑顔を返して、ジェロニモは、するりとハインリヒの掌に、自分の掌を重ねた。
「またな。」
短く言い残して、ジェットの視界から、ハインリヒを隠すようにして、ジェットの前をすり抜け、自分の背中越しに、ハインリヒが慌てたように、ジェットに立ち去る挨拶を短く送るのに、振り返りもしない。
ハインリヒの手を握り、もう一方の手には、こっそりと鍵を隠し、ジェロニモは、玄関へ向かいながら、にっこりとハインリヒを見下ろした。
「アルベルトのトラック」
就いている仕事の種類が違うから、週末必ず会えるとも限らない。ジェロニモよりは、はるかに時間の自由が利くけれど、一度仕事が入れば、何日も会えなくなるのはハインリヒの方で、近頃は、仕事で街の外へ出ている時も、電話をよこすようになっていた。
携帯電話が嫌いだというハインリヒ---偶然だけれど、ジェロニモもそうだった---は、仕事でだけなら、トラックの中に電話を持ち込んでいるけれど、その番号をジェロニモに教えることは、決してしなかった。
ジェロニモも、仕事の都合上、仕事でだけ使う携帯電話を持っているけれど、その番号は、ピュンマにさえ教えていない。
仕事の最中に電話をしてくるのは、もっぱら公衆電話からで、後ろに混ざるさまざまな雑音を聞きながら、一体ハインリヒが、今どんなところへいるのかと、想像するのが、いつの間にか楽しみになっている。
何を運んでいるとか、どこまで行くとか、今はどこら辺だとか、壊れていない公衆電話を探すのが大変だとか、立ち寄ったガソリンスタンドに、お気に入りのチョコレートバーがなかったとか、他愛もないことを伝えるために、数回、電話をしてくる。
15分も続くことはない電話だけれど、ハインリヒが仕事で街にいない間は、ジェロニモは、それを心待ちにしている。
直に会えて、傍にいられる時と、距離を隔てて、声だけで繋がる時と、そのどちらも、同じほどいとしいと思う。
言葉を紡いでいる時の、声の高さと、押し殺したような語尾と、そこに隠された、人恋しさの気配を読み取って、ジェロニモは、そうできないからこそ、ハインリヒを、力いっぱい抱きしめたいと思う。
受話器を持つ手に、力を込めて、天井を振り仰いで、会いたいと、言葉にはしないハインリヒに、決してあからさまには伝わらないように、いつもとなるべく変わらない声で、応える。
会いたいと、言うのは簡単だったけれど、その言葉だけでは、伝わりきらない何かがあって、その何かを、陳腐なものにしないために、ふたりは一緒に、会いたいとは、口にしない。
奇妙なところで通じ合っていることの不思議を、こっそりと笑いながら、ジェロニモは、会えないのは、ほんの数日、せいぜいが10日のことなのに、と思う。
それさえ、互いに耐え難いほどなのかと思って、いつの間にか育ってしまった想いの大きさに、自分で戸惑う。
いつかそれを、きちんと口にしようと思いながら、まだ、うまくタイミングがつかめないままでいる。
グレートの店で落ち合って、いつもの量だけ酒を飲んで、それから、ジェロニモのアパートメントへ戻った。
暖かな夜で、いつものように、まずは酔い覚ましに紅茶をいれて、それを、ふたりで、バルコニーへ出て、楽しんでいた。
ハインリヒは、高速との間にある森を眺めるのが好きで、時折現れる動物の気配を待って、暗い森へ、ひたと視線を当てて、滅多と動かさない。
部屋の外にも関わらず、ここなら、同じアパートメントの住民以外には、あまり見咎められる恐れがないので、ジェロニモも遠慮もなく、ハインリヒの傍に立って、肩に腕を回す。
夜にごそごそと動き出すのは、アライグマが多かった。たまに、ウサギが飛び跳ねるのを目にすることもある。リスは、いつでも、どこにでもいた。
アライグマは意外と凶暴で、狂犬病の恐れもあるので、見かけても決して近づくなと、近頃、うるさいほど新聞に載っている。
見かけたところで、人を見れば逃げ出すのはあちらの方だろうと、ふたりで、そんな話をしていた。
森の方から、時々がさがさと音がする。何が動き回っているのかは、ここからは見えない。それでも、あきらめずに目を凝らすハインリヒの横顔を、ジェロニモはずっと見つめていた。
紅茶が、ぬるくなる前に、終わらせてしまう。
空のマグを、ちょっと淋しそうに見下ろした時に、あちら側の高速を、大きな音を立てて、大きなトラックが走り抜けて行った。
ハインリヒが、初めて森から視線を動かして、そのトラックを目で追った。
「空だな。家に帰るところかもな。」
「わかるのか、そんなことが。」
驚いて訊くと、にっと笑って顔を上げる。
「音が、もっとうるさくなる。中身の重みで、車体ももっと下がる。」
なるほどなと思って、こちらへ顔を上げたハインリヒに向かって、ついでのように、唇を下ろしてゆく。
腕の中で、軽く肩をねじって、体を添わせてくるハインリヒを、もう少し近く抱き寄せて、触れ合わせるだけの口づけをした。
切羽詰まった気分はどこにもなく、放っておけば、このまま、一晩でもここで、こうして抱き合っていられそうだった。
むしろ今は、その方がいいような気がして、もう1杯、紅茶をどうだと、言うつもりで唇を外す。
吸い込まれそうなほど近づいた瞳のままで、先に口を開いたのは、けれどハインリヒの方だった。
「俺のトラックでも、見に来るか。」
意外な申し出に、そのまま身動きもせず、まだ近々と顔を寄せたままで、ジェロニモは目を見開いた。
「いつ?」
いたずらっぽく、目尻が吊り上がった。
「今。これから。」
冗談でも何でもなく、実はグレートの店から、あまり遠くない辺りに、その運送会社はあった。
事務所は小さく見えても、その横や後ろに広がる駐車場は広大で、その会社も、ぐるりと金網のフェンスで囲まれ、駐車場にくっつくようにして、平たい倉庫が、のっぺりと広がる。
そんな会社ばかりが集まった場所で、今も、深夜だと言うのに、いくつかの事務所からは明かりがもれている。
フェンスの外へ出て行く、あるいは戻ってきたばかりらしい、ゆっくりと動くトラックも見えた。
正面ではなく、倉庫のある、裏の方を指し示され、そちらへ車を止めた。
錠のないらしい、金網の門を開けて、慣れた様子で中へ入るハインリヒの後ろから、ジェロニモは、少しだけ肩をすぼめてついて行った。
入って、右手に、ずらりと並んだ、トレーラーのない、前部だけのトラックの方へ歩いて行くと、真ん中辺りにとまっている1台を、ハインリヒが指差して、ジェロニモを振り返った。
「あれだ。」
車を運転していて、横を通り過ぎるのは何度も見ていても、こうして、直に外からトラックを眺める機会は、そう言えばあまりない。
腰の辺りまで来そうな、一抱えもありそうなタイヤに目を奪われて、それから、トラックの上の方を見上げた。
それでも、後ろのトレーラー部分のないトラックは、少しばかり淋しげに見えて、今にも泣き出しそうな子どもを思わせる。
服を脱いでしまった人間が、恥ずかしそうに身をよじって、思ったよりも情けない自分の裸身を隠そうとしているようにも見える。
暗くて、細かい部分はよく見えなかったけれど、トレーラーを取り去って、夜の駐車場に佇む大きなトラックは、ひどく人間くさく、ジェロニモの目には映った。
とは言え、普通の車や、ピックアップトラックさえ比較にはならない大きさはさすがで、見上げて、ジェロニモは思わず口を開ける。
「正確には、俺のじゃなくて、会社のだ。」
肩をすくめて、ハインリヒが笑う。
「中も見るか。」
「いいのか?」
関係者でもない人間が、トラックの中に入れるのかと、驚いてハインリヒを見ると、にやっと笑って、もう大きなドアの下部に、不釣り合いに小さいキーを差し込み始めている。
タイヤが大きく、車体の位置が高いので、ドアの下にようやく、ハインリヒの肩が届く高さだった。
ドアを開けて、ほら、とハインリヒがあごをしゃくる。
薄暗い駐車場で、足元を見ながら、ジェロニモは、座席へ上がるためのステップに足を掛け、ドアの傍にある手すりにつかまって、体を思い切り引き上げた。
横に広いよりも、縦に高く、女性なら、立ったままでいられそうだった。
運転席に腰を下ろす前に、座席の後ろにある、以前ハインリヒが言っていた、小さなアパートメントのようなスペースに足を踏み入れる。
座席部分とは、厚いカーテンで仕切られるようになっていて、天井近くに小さな棚がぐるりとついて、寝台が、ぶっきらぼうに横たわっている。
思っていたよりもゆったりとしたスペースで、確かに数日なら、耐えられそうに思えた。
すぐ後ろから上がって来たハインリヒが、助手席の方へ坐って、ドアを閉める。
それに振り返ってから、運転席へ、体を滑り込ませた。
ハインリヒが、ハンドルの方へ腕を伸ばして、キーを差し込むと、ぱっと中に明かりがついた。
不意に明るくなったトラックの中で、会社のものだと言った通り、周囲にハインリヒの私物らしいものは見当たらず、もう一度振り返れば、仮眠用のベッドも、よそよそしいほどきっちりと整えられていた。
「あんたには、少しばかり狭そうだな。」
一緒に後ろを振り返って、ハインリヒが笑う。
「おれには、たいていのベッドは小さすぎる。」
ぼそりと言い返すと、またハインリヒが笑う。
ガソリンの匂いと、かすかな、泥と埃の匂い。仕事の匂いだと思って、それから、ここが、ハインリヒの場所なのだと思う。
おそらく、どこよりも、このトラックの中で過ごす時間がいちばん長いに違いなく、この小さな空間で、何を思いながらハンドルを握っているのだろうかと、ジェロニモは、前を見据えて思った。
大きな、これも一抱えはありそうなハンドルに手を乗せて、普段なら決していることのない位置から、窓の外を眺めて、ここが、外の世界とは、また違う世界なのだと思い知る。
助手席で、頭の後ろに手を組み、ハインリヒが、いかにもくつろいだ様子で体を伸ばす。
そうしてから、ハンドルに乗ったジェロニモの右手に、自分の左手を重ねてきた。
「いつか、自分のトラックが持てたらと、思ってる。」
どこか照れくさそうな表情で、けれど、低い、強い声でそう言った。
ずっと、そう思っていて、けれどそれを、今初めて口にしたのだと、少しばかり厳しい口元が言っている。
「ずっと、先の話になるのか。」
ふっと、また口元がほころんで、子どもっぽい表情に変わった。
「新車なら1千万から、中古でも最低5百万、それにトレーラーがさらに2百万、家でも買う話の方が、よっぽど現実的だな。」
「なるほど、すごい値段だな。」
「家と違って、買った後で値段が上がることも、絶対にない。でっかいおもちゃみたいなもんだ。」
車なら、どんなものでもそうであるように、仕事で使うこんなトラックも、例外ではないらしい。
高い買い物だなと思って、けれど、自分のビルを建てたいと、そう思う気持ちと、違いはないのだろうと思い当たって、そうかと納得もする。
ビルよりも、トラックの方が、少なくとも、現実味のある買い物だった。
トラックの中も外も、ひどく静かで、人気もない駐車場には、動くものも見えない。
呼吸を整えて、声がかすれないようにと、思いながら、ジェロニモは、ハインリヒの方を見て、口を開いた。
「いつか、トラックを買ったら、乗せてくれるか。」
重なっていた手の、指先に力が入る。
細められた目の、けれど色の淡い瞳が、少しばかり広がったのが見えた。
指の間に、指が入り、ごく自然に、ハンドルの上で、手を握り合った。
「・・・あんたを乗せるなら、もう少し大きい方が良さそうだな。」
瞳が動いて、かすかに振ったあごが、座席の後ろを示す。
その意味を悟って、ジェロニモは、思わずふっと声を立てて笑った。
握った手を外し、左手に持ち替えると、空いた右手を、ハインリヒの頬に伸ばす。
座席の間の、普通よりも広い空間を、体を伸ばして、引き寄せて埋めると、中の明かりのせいで、人がいれば、外からは丸見えだと、一瞬忘れて、ジェロニモは、そのまま唇を寄せた。
口づけは、長くはならず、けれど、頬を寄せ合ったままで、耳に近いその位置で、名前を呼んだ。
「アルベルト。」
頬を撫でて、その手を下ろして、革の下の、冷たいはずの硬い右手に触れる。
その手を握りしめて、瞳を合わせた。
瞬きすれば、まつ毛が触れ合って、音を立てそうに思えた。
「・・・好きだ。」
低く言った声が、ひどく真剣に響いて、我ながら、引き返したくなる。相手を追いつめるような言い方だけはするな言ったのにと、今さら自分に言っても遅い。
戸惑って、体を引くかと思ったハインリヒは、そのまま動かず、うっすらと頬を染めてから、合わせていた目を伏せた。
右手を滑らせて、握られていたジェロニモの手を、自分から握ってくる。
そうしてから、一度だけ、瞬きをした。
「・・・俺も、あんたが、好きだ。」
一言一言、区切って、語尾を確かめるように、ハインリヒが言った。
後ろにある、寝台の狭さを、ジェロニモは、こっそりと残念に思う。
唇が、もう一度、それきり無言のまま、触れた。
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