うわさになりたい
その6
「不機嫌」
ふたりで、揃って外へ出ることはあまり
馴染みの店と言えば、ふたりともグレートの店しかなく、あそこは、ひとりで静かに酒を飲む場所だったから、ふたりで肩を並べて、長い時間カウンターに坐っているのは、少しばかり気が引けて、だからと言って、他にふたりで一緒に出掛ける場所もほとんど思いつかず、たまに外で食事をする以外は、一緒にいる時は、たいていジェロニモのアパートメントにいた。
俺のところは、あんたを招くには狭すぎると、ハインリヒが苦笑いして、ジェロニモは、外まで送ったことはあっても、その中へ足を踏み入れたことはまだない。
夜、グレートの店で落ち合って、それから、ジェロニモのアパートメントへ行く。夜を過ごしても、平日に、ハインリヒがそのまま泊まって行くことは滅多となく、予定がなければ、夜にまた、グレートの店で会う。
ハインリヒに仕事がない限り、週末だけは、必ず泊まって行った。
朝方眠って、昼を過ぎて起きる、という自堕落を、ふたりは、その時だけは自分たちに許して、抱き合っていない時は、手を繋ぎ合っている。
1歩外に出れば、肩の触れ合う距離さえ、許されないふたりだったから、そうやって、足りない部分を補おうとするかのように、人目のない場所で、ふたりきりで、触れ合ってばかりいる。
抱き合うことと同じほど、語り合うことも重要で、好きな音楽の話や、絵画の話や、映画の話や、それからもちろん、互いの仕事にまつわる笑い話や、口数の少ないふたりだったけれど、先を急がずに、ひとりよがりではない語り口で、ゆっくりと、言葉が流れ込むように、聞いて、話す。
いつか、オペラに一緒に行こうと、冗談めかしてハインリヒが言うと、ジェロニモが、クリムトとエゴン・シーレの展覧会が秋にあるらしいと、微笑んで返す。
一緒に行こうと言うことは、つまりは、それまでは一緒にいようと、そう言うことと同じことだった。
そうなればいいなと、口にせずにふたりが思っているのも、一緒だった。
まるで、ふたりの隠れ家のようなジェロニモのアパートメントで、珍しく電話が鳴ったのは、土曜の夜だった。
夕食はとうに終わっていて、また紅茶をいれるのは面倒だと思いながら、そろそろシャワーでも浴びようかと、ふたりで、ソファの上でささやき合っている時だった。
胸に乗って、長々と体を伸ばしているハインリヒを抱きしめて、もう何度目なのか、深くはならないキスを交わしていた。
部屋のどこからか、るるると、低い小さな音が聞こえて、気のせいだと思っていたら、途切れずに聞こえ続け、ハインリヒもようやく、眉を寄せて、ジェロニモの胸から、軽く体を起こした。
「携帯だ。」
舌打ちをしそうになって、慌てて口を閉じる。
体を起こして、申し訳なさそうにハインリヒを自分の上から下ろし、ジェロニモは、ソファから起き上がると、足早にベッドルームへ向かった。
クローゼットの中に入っている、スーツの上着の胸ポケットの中だった。
一度切れ、また鳴り始める。家の電話も、滅多と鳴ることはないけれど、休みの日に、仕事用の携帯が鳴ることも珍しい。
緊急だということはわかりきっていたから、無視もできずに、今度こそ遠慮もなく大きく舌を打って、スーツのポケットに乱暴に手を突っ込んだ。
折りたたみ式のそれを、大きな手の中で握りつぶしそうになりながら---だから嫌いなんだと、ひとりごちて---開いて、あちらに声を掛けると、早口がいきなり耳に流れ込んでくる。
いかにも緊急らしい用件は、水曜日に、ジェロニモが送った図面の一部に変更があって、どうしても直しをして、月曜の朝一番---もちろん、それより早くしろと、言外に言っている---に送り返してくれ、という、もっと露骨な舌打ちを、はっきりと聞かせてやりたい内容だった。
誰のせいと、名指しができないこととは言え、木曜の朝には届いていたはずの図面を、責任者が目にしたのは恐らく金曜の、午後も遅くだったのだろうし、それから、もっと上の人間が目を通して、スポンサーに最後のお伺いを立てたら、ここを変えろ、と短く言い捨てられたに違いない。
珍しいことではない。どういうわけか、こんなことは滅多と起こらないジェロニモさえ、仕方ないと、肩をすくめてしまえる程度のことだった。
今までなら、どんな週末も、大した予定のあることはなかったから。予定があったところで、自分ひとりきりの用なら、誰に断りを入れる必要もなければ、言い訳もいらなかったから。
銀色の携帯電話をぱたんと閉じて、手の中のそれを、思わず唇をとがらせて見下ろす。忌々しげに、ほんの少しの間考えてから、それを上着のポケットに戻すのも業腹で、あてつけのつもりで、ぽんとベッドの上に投げる。
無駄とは思いつつ、今日の午後、ハインリヒとふたりでベッドメイクした、ぴんと張った上掛けの上に、しわさえ寄せずに、小さな四角いそれが着地する。
きちんと整えられたベッドの眺めが、今はひどく白々しくて、ジェロニモは思わず首の後ろに手を当てた。
頭痛でもするように、軽く首をひねってから、小さくため息をこぼして、ようやくベッドルームを出た。
ハインリヒは、ソファの背からこちらを振り返って、小さく笑っていた。
微笑みではなく、あきらめの笑顔で、唇の端が、淋しげに、上がろうか下がろうか、迷っているように見える。
それに笑い返せずに、ジェロニモは、横顔を向けてから、言い淀んだ。
ソファに近づいて、前には回らず、背越しに、そこに乗ったハインリヒの腕に触れる。
「仕事が、入った。」
「だと思った。」
首をねじって、見上げて、またハインリヒが微笑む。今度は、どちらかと言うと、苦笑に近く見えた。
それから、ソファから立ち上がり、何でもないことだと言いたげに、笑顔は壊さないままで、ジェロニモに背を向けてから、コーヒーテーブルの上に置きっ放しだった、空のマグを取り上げる。
そのままキッチンへ向かう、ハインリヒの表情は見えず、かたんと、シンクにマグを置いた音が、やけに大きく響いた。
「今夜は、戻ってこれそうなのか。」
背中を向けたままで訊かれて、いちばん答えたくない質問だと思いながら、ジェロニモは、電話の向こうの相手の声の、少しばかり切羽詰まったトーンを思い出していた。
考えてから、いちばん正確だと思われる答えを、正直に伝えることにした。
「今夜は、多分徹夜だ。」
それでも、日曜の午後には、最悪の場合でも、一度くらいここに戻って来れるだろうと、まるで自分を慰めるように考える。
「じゃあ、仕方がないな。」
ぼそりと言って、ハインリヒがまた、体の向きを変える。
ソファの傍に立ったままのジェロニモの方へは向かずに、そのままベッドルームへ消え、戻ってきた時には、もう身支度を整えていた。
「帰るのか。」
わかりきったことをと、ジェロニモ自身が思った通りに、ハインリヒもちらりと視線を投げて、眉を寄せて見せる。
「朝には戻るから、それまでここにいればいい。」
小さな嘘くらい、許してもらえるだろうと、とっさに思う。
「あんたがいないのに、ひとりでここにいても仕方ないだろう。」
語尾を切り捨てるように言い返して、けれど明らかに鼻白んでいるのは、ハインリヒの方だった。
仕事だから仕方ない、こんなことはよくある、誰にも、何の他意はない、そうわかっていても、不機嫌になるのは止められずに、八つ当たりしても仕方のない、当のジェロニモに、うるおいのない言葉を投げつけている。
腹を立てられたまま、ここから去られるほど、いやなことはなかった。
ジェロニモは、ハインリヒの機嫌を直す時間を稼ぐために、もう、玄関へ肩を向けようとしているハインリヒの方へ、軽く1歩寄った。
「一緒に出よう。ついでに、家まで送る。」
「心配しなくてもいい。ひとりで帰れる。仕事が終わったら、電話をくれ。」
目の前で、ぴしゃりと扉を閉めるように、とりつくしまもなく言い捨てて、言葉と同じほど素早く、ハインリヒは玄関のドアから肩を滑り出した。
「アルベルト!」
引き止めるように、咎めるように、知らずに呼ぶ声が尖る。
肩の線が一瞬だけ、硬張ったように思えたけれど、気のせいだったのかもしれない。
小走りの、乱暴な足音が消えて行って、またろくでもないことで怒らせたと、誰のせいでもなく、誰かを責めたくなる。
宙を見上げて、肩を大きくすくめ、また携帯が鳴り出す前にここを出ようと、ジェロニモはようやく、ベッドルームに向かって肩を回した。
「欲しい」
届いていた、大量のファックスを受け取って、もう一度、先方と電話でやり合って---細かな指示を、確認するためだけれど、あちらもこちらの徹夜に付き合う羽目になったのだなと、ほんの少しだけ気の毒になった---、さて、と作業に取りかかる。
L字状の、大きな白い机に、ファックスの束を置いて、上着を脱いで椅子にかけ、白いシャツの袖をまくり上げる。ネクタイをゆるめてから、両手をズボンのポケットに差し入れて、数秒、一番上のファックスを、ジェロニモはにらむように見下ろした。
視線が厳しくなったのは、仕事に対する心構えではなくて、実は、週末を邪魔された八つ当たりなのだとは、気づかないふりをする。
すぐ傍には、あちらに送った図面と、まったく同じものが並んでいる。万が一のために手元に残しておくコピーのうちの一組みだったけれど、ジェロニモは、滅多とそれを使うことがない。
きっちりと閉まったドアに背を向けて椅子に腰を下ろし、図面に入った直しの部分を、きちんと自分で確かめるために、白黒のファックスに、赤いペンで印をつけることから始めた。
そうしながら、考えていたのは、ハインリヒのことばかりだったのだけれど。
机の端の、奥の方にある、たくさんスイッチのついた電話をちらりと、何度も眺めながら、電話をしたら、応えてくれるだろうかと、同じことばかり思う。
もう、深夜近くで、ビルの中にはほとんど誰も残っていないように思えたし、ジェロニモのいるこの階には、他に人影は見当たらなかった。第一、与えられた個室は、ドアを閉じれば、外へ向かう窓以外---今はブラインドが閉まっている---、人目を気にする必要もない。
私用電話の1本くらいは、気にする必要もないだろうと思いながら、それでも、今電話で、顔を見ずに話をしたら、もっと怒らせそうだと、そんなことも思う。
柔らかなペンの先を、きゅっと音をさせて動かしながら、臆病な自分のことを、心の中で笑う。
あのアパートメントで、ハインリヒが待っていてくれると思えば、こんな時間の、急な仕事にも身が入るのかも知れないと、そんな考えに行き着いてから、ハインリヒが怒ったままで去ってしまったことを、自分は思ったよりも気に病んでいるのだなと、思ってジェロニモは、ひとりで眉を寄せた。
それからようやく、仕事に集中しようと、単純な目と腕の動きに、少しずつ自分を没頭させた。
もしかすると、まっすぐ家には帰らずに、グレートの店に行ったのかもしれないと、そう思ったのが、とりあえずは最後だった。
直せと指示された箇所の、数自体はそれほど多くはなかったのだけれど、そこだけを、言われた通りに直せば済むというわけではなく、そこを、こう変えれば、ここはこう変えなければならない、そうすれば、あそこもと、結局は、直しの箇所を確認して、また全体を見直す羽目になる。
図面を眺めて、ざっと直しの入りそうな箇所を確認してから、また先方へ電話を入れ、確認を取って、やっと実際の直しの作業が入る。
細かな作業は嫌いではないし、単純な作業は、心を真っ白にするのに役に立つ。何も考えずに、図面に視線を落として、手だけを動かす。
これが、平日の就業時間なら、まったく文句はないのにと、口の中でひとりごちるのは、思ったよりも集中していない証拠だった。
昼間も、ドアを閉めてしまえば、あまり雑音の入らない部屋だけれど、今は、ドアの外は恐ろしいほどしんとしていて、気配も足音もない。
以前なら、むしろこんな静かな時間に仕事のできることを、ありがたくさえ思ったかもしれないのに、自分のご都合主義を心の中で責めて、そう言えば、仕事を全部家に持ち帰るという手もあったなと、往生際の悪いことを思った。
ジェロニモは、奥の部屋に閉じこもって、仕事をして、ハインリヒは、リビングで、ひとりで本でも読んでいる。
想像してから、それも悪くはないと思った次の瞬間、考えを変えた。
だめだ、アルベルトをまた怒らせる。
口には決して出さないだろうけれど、あの男がひとりで放っておかれて、平気でいるとは、とても思えなかった。
不機嫌をあらわにして、唇の端を下げた、ハインリヒの表情を思い出して、そのことに付随するあれこれはともかく、怒った顔も、悪くない眺めだったと、ふと思う。
それから、とても平常心ではない自分を戒めるために、目元を大きな掌で覆って、その下で、ひとりで頬を染めた。
仕事仕事と、呪文のように、声に出して唱えてから、すきさえあればハインリヒの方へ飛んで行く心を引き寄せて、今度こそ、集中するために、手元の図面に視線を落とした。
ブラインドのすきまから細く覗く外は、まだ暗いように見えて、電話のディスプレイに目をやると、そろそろ朝に近い時間になろうとしていた。
思ったよりも作業は進んでいなかったけれど、もう一度確認の電話を入れてから、少し仮眠でも取ろうかと、椅子をくるりと回して、ドアの方を向いた。
同じ階の、階段の傍にある喫煙室には、山ほどの灰皿と、それから大きなソファがある。ジェロニモにはもちろん、少しばかり小さいけれど、数時間横になるだけなら、問題はないはずだった。
煙草の匂いは好きではなかったけれど、この際贅沢は言っていられないと、ゆっくりと立ち上がって、椅子の背から上着を取り上げようとした時に、まるで撫でるようなかすかさで、誰かがドアを叩いた。
かちりと、内側に細く開いたドアの向こうから、思いがけない横顔の一部が見えて、ジェロニモは思わず目を大きく見開いた。
アルベルトと、辺りをはばかって---誰もいないのに---、唇だけで呼ぶと、するりとダークブルーのコートの裾を揺らして、肩を滑り込ませてくる。
音も立てずに、背中の後ろでドアを閉めて、ハインリヒは笑いかけるでもなく、不機嫌をあらわにするでもなく、まるでジェロニモの、いつもの無表情を写したように、ふたりの間の床に、視線を落としていた。
「・・・電話しても、まだいなかったから。」
言い訳するように言ってから、白い頬が、薄赤く染まった。
「よく入れたな。」
「入り口で、あんたに届けるものがあるって言ったら、あっさり入れてくれた。」
そうかと言って、口元がうれしそうにゆるむのが止められず、ジェロニモは両手をズボンのポケットに差し込んで、少しだけ肩を揺する。
「仕事は・・・?」
ドアに背中を張りつかせたまま、まるで、自分が闖入者であることを知っているかのように、ハインリヒはそこから動かずに短く訊いた。
「少し、休もうかと思ってたところだ。」
うなずいただけで、声は出さず、また床に視線を落とす。
あれから、言った通り、自分のアパートメントに戻ったのか、別れた時と服装が変わっていて、それをほんの少しだけ、淋しいとジェロニモは思った。
「まだ、終わらないのか。」
声が、残念そうにひずむ。ジェロニモも、残念そうに声を返した。
「ああ、まだだ。まだしばらくかかる。」
一度怒らせた後で、今さら気休めの嘘をついても仕方がないと、机の方を振り返ってから、ジェロニモはきっぱりと言った。
ハインリヒが、弱々しく笑って、首を振った。
「じゃあ、仕方ないな。俺も、月曜の朝から仕事が入った。」
「どのくらい?」
「週末には、多分戻れる。」
何も言わないために、ジェロニモは口元を手で覆って、それから、手を下げて、そうか、とだけ言った。
会えないのは、別に珍しいことではない。それでも、互いの仕事を、少しだけ忌々しいと思って、ジェロニモは唇を結んだ。
ハインリヒの右手が、前に伸びてくる。見れば、手袋はなく、鉛色の金属が剥き出しのままだった。
指先は動かなかったけれど、手招きされているのだと素直に思って、ジェロニモは、その手を取りながら、ハインリヒの方へ寄った。
ドアと、背中の間に腕を差し入れて、抱き寄せる。体を伸ばしたハインリヒを見下ろして、そのまま唇を重ねた。
そう言えば、時間外とは言え、仕事中だなと、頭のすみで思いながら、割った唇の間から、かすかに酒の匂いのする呼吸を奪って、そのことは忘れることにした。
「・・・飲んでるのか。」
「グレートのところに行った。でも酔ってない。」
声をもっとひそめて、言葉の間だけ、唇をほどく。
「ひとりで飲んだって・・・」
その後を、ハインリヒは言わなかった。ジェロニモも、続きを待たずに、また唇を重ねた。
唇の間からこぼれる呼吸が、湿りを帯びる。
接吻だけだと思いながら、次第に深くなるそれを止められず、互いに回した両腕に力がこもる。
ドアの外のことも、すぐ後ろに放り出したままの空間のことも、少しずつ、どうでもよくなり始めていた。
不意に、ハインリヒが、ずるりとドアに背中を滑らせ、ジェロニモの胸の中で、体の力を抜いた。それから、右手を壁づたいに伸ばして、手探りで、ドアの傍のスイッチを探り当て、部屋の明かりを消した。
暗さに目が慣れず、触れる以外の相手の存在の不確かさを補うように、また両腕が抱き寄せ合う。
ドアの前から、さり気なく足をずらして、万が一ドアが開いても、その陰に隠れて、見えない位置へ移動すると、ハインリヒは、ジェロニモの腕の中で、もがくように肩と腕を振って、コートを脱いだ。
ぱさりと、音がした後に、もう、我を忘れたように、ハインリヒの両方の掌が、ジェロニモのシャツの下に入り込もうとする。
じれったそうにボタンを外し、ネクタイを引いて、唇の間で、舌先が、もう遠慮もない音を立てていた。
酔うほどは飲んでいないというのは、ほんとうだろうけれど、今はそれを言い訳にした方が、色んな意味で互いのためだ。
大事なことを忘れて、ずるい考えを優先して、ふたりとも、もう、そこで止める気はまるでない。
薄闇の中で、酔ったように血の色の散った頬を、見られなくて良かったと、おそらく同じほど赤いハインリヒの首筋に、顔を埋めながら、ジェロニモは思った。
衣ずれの音と、呼吸の音だけが、狭い部屋の中で、ふたりが立ったまま抱き合っている、その場所でだけ、やけに大きく響く。
服を、そこだけ剥いだ、胸やみぞおちをこすり合わせて、ハインリヒの両腕が、長さの足りないまま、ジェロニモの腰を抱き寄せた。
それから、ふたりで、頬やあごをすりつけて、無言でうなずき合った。
くるりと体の向きを変え、こちらに向いたハインリヒの背を、肩にあごを乗せながら抱きしめる。そうしながら、一緒に、必要なだけ、膚を剥き出しにする。
空気に晒された膚は、けれどどこに触れても熱い。
無理な姿勢と承知で、中途半端に脱いだ服に足を取られながら、ぶつけるようにして、背中と胸を重ねる。
押しつけられた壁に肩をぶつけて、ハインリヒの背中が反った。
声を殺すために噛んだ唇が、伸びた喉と同じほど白い。
背の高さが違えば、脚の長さも腰の位置も変わる。ジェロニモに合わせるために、ハインリヒの両脚は伸び切っていて、不安定に揺さぶられながら、片足は床から浮いていた。
体を支えるために、壁に腕を伸ばし、そこに顔を埋めて、ハインリヒは必死で声を殺していた。
何もかも、そのためにしつらえた状況ではなさすぎて、けれどどうしても触れ合いたくて、無理矢理に躯を重ねて、無茶をしているのは、ふたりとも承知の上だった。
長くは続かなかった。
躯を引いても、まだハインリヒを抱きしめたまま、ジェロニモは、呆れるほど乱れた服を手早く整えてから、ハインリヒの服も、そっと引き上げてやった。
くたりと、胸元にあごを落として、されるままになりながら、ジェロニモの胸の前で体をくるりと回したハインリヒは、うっすらと笑っていた。
額に吹き出した汗は、もう乾き始めていて、そのせいなのか、また重ねた唇の奥の、酒の匂いは消えている。
「・・・大丈夫か。」
まだ、壁際で、抱き合ったままで、たった今起こったばかりのことを反芻しながら、ふたりは、呼吸が落ち着くのを待った。
ハインリヒは、ジェロニモの肩に額をすりつけて、まだ名残り惜しげに、大きな背中を撫でている。
乱れた前髪をかき上げて、額に唇を押しつけてから、ジェロニモは、柔らかなハインリヒの髪を、そっとすいた。
「邪魔して、悪かった。」
視線をそらし、横顔を見せて---頬は、まだ赤い---、ハインリヒがぼそりと言った。
髪に指先を差し入れたままで、苦笑をこぼして見せて、ジェロニモは、いいやと、小さく返した。
ブラインドから細く入り込む、朝の気配に、ふたりは一緒に肩をすくめて、何となくばつの悪い顔を見合わせて、それきり何も言わなかった。
ドアの前に脱ぎ捨てられたコートを、拾い上げて、ハインリヒに着せかけて、ジェロニモは、ドアのノブを、音を立てずに回す。
足元に視線を落としたままで、肩先を外に出してから、ハインリヒが振り返った。
相変わらず無言のままで、これ以上、不謹慎な気分にならないように、ハインリヒの、高い頬骨の上に、まだ湿ったままのような気がする唇を滑らせるだけにした。
もう、薄明るい階段の方へ去って行く背中を見送って、それが、一度も振り返らなかったことに、ほんの少し安堵して、同時に、淋しさを覚えながら、ジェロニモは、部屋のドアをかちりと閉めた。
まだ、部屋の明かりを戻す気にも、後ろに振り返る気になれず、ドアを数秒見つめてからようやく、起こったことを思い出して、目元を掌で覆う。
信じられないとつぶやいて、火を吹くかと思うほど、頬が熱かった。
「反芻」
ガソリン・スタンドで、新聞と煙草を買った。
普段は滅多と吸わないけれど、仕事で運転中には、手っ取り早い眠気覚ましに、吸うことがある。
トラックの中に、煙草の匂いが染みつくのがいやで、吸う時は必ず、どんな寒い時でも外に出る。
煙草を持つ手がかじかまなくなったり、逆に、手をこすり合わせて暖を取りたくなったり、そうやって季節の変わり目を知るのも、それはそれで、風情がないと、言えなくもない。
すぐには吸わずに、止まったガソリン・スタンドから、さらに数十キロ走ってから、やっと路肩にトラックを停めた。
大きな街の近くでもなければ、高速にもほとんど明かりはない。まっすぐに続く道路は、塗り込めたように暗い。周囲も、木に囲まれて、死体のひとつやふたつ転がっていても、誰も気づきそうにはなかった。
ここから、まだまだ先へ行かなければ、それなりに大きなレストランも、ガソリン・スタンドも、ホテルもない。まだしばらく、暗い道路を走り続けるのかと、前の方を見て思う。
助手席に置いていた、厚手のジャケットを取り上げ、外へ出る前に、振って、かたかたと音がするのを確かめる。煙草の箱と、ライターがぶつかる音だ。
路肩側の、助手席から外へ降り、トレーラーのいちばん後ろまで行って、それから煙草に火をつけた。
深夜を過ぎていて、通る車もなく、今来た方角を眺めて、向こうの車線を見て、それから、高速の傍の、鬱蒼と立ち並ぶ樹の群れに目をやる。
眺めは違うけれど、ジェロニモのアパートメントのバルコニーから眺める森と、少し似ていると思う。
ここにもおそらく、様々な動物たちがいるのだろう。目を凝らしても、まったく明かりのないこの場所では、どこまでが枝で、どこまでが葉の重なりなのか、見定めることさえできない。
風もない今夜は、葉ずれの音もない。
左の人差し指と親指で、唇の近くで煙草をつまんで、白い煙を吐き出して、意味もなく足元のアスファルトを蹴る。
がつがつと音を立てれば、驚いた小さな生き物が、逃げようとして動くかもしれないと思ったけれど、行き支う車の音に慣れっこになっているのか、木々の間に、相変わらず気配はない。
木のてっぺんよりも、一刷け色の淡い夜空に、薄い雲がかかっていて、月はどこにも見えなかった。
あの男は、もう眠っているのだろうなと、不意に思う。
おそらく、ひとりきりで。あの、大きなベッドで。
眠る時には、体を伸ばして。ひとりの時も、横を向いて、多分。
ひとりきりでなかったら、俺が困ると、そう思ってから、ひとりで頬を染めた。
爪先に視線を落として、じじっと、煙草の燃える音を聞いて、ああ、ひとりだなと、声に出してつぶやいた。
口元から漂う煙を目で追って、ゆるゆると息を吐きながら、耳の奥に、自分のものではない吐息の音を、ゆっくりと思い出す。
普段も口数が少ない分、抱き合っている時も、いつもほとんど無言のままだ。
そそのかすのも、言葉ではなく、膚にじかに語らせる。つい、ろくでもないことを口走って、そのことにさえ気づかないほど、あの腕の中で、いつだって溶けてしまっている。
任せていればいいのだと、自分から仕掛けることは滅多とないけれど、いつだって、思うことを読み取って、先へ先へ、あの、大きなぶ厚い掌が伸びてくる。
ごつごつとした、骨の太い指と手首。皮膚は、見た目よりもずっとなめらかで、いつも暖かい。
乾いた掌に包まれて、あるいは、その指先を包んで、少しずつ、全身を重ねてゆく。
重なる時に、人並み外れて大きな体の重さを気にしているのを、知っている。
胸も腰も肩も、全部重ねてしまいたいのに、重いだろうと、いつも体を半分引いている。
引き寄せて、首に、しっかりと両腕を巻きつけて、逃がさないように、抱きしめる。
全身を、こすり合わせたくて、一緒に溶けてしまいたくて、どこまでが誰で、どこからが何なのか、わからなくなるまで、繋ぎ合わせてしまいたくて、押し潰されて、呼吸を止めるなら、それでもいいと、うわ言のように叫んだこともある。
躯の、ありとあらゆる部分を触れ合わせて、重ね合わせて、投げ出したすべての内側を、相手に注ぎかける。秘密すらないように、親密さを確かめ合うために、もっと剥き出しにして、血の流れさえ、共有する。
いろんな形で。様々なやり方で。
短くなった煙草を、指の間に挟んだままで、思わず口元を手で覆った。
一瞬で熱の上がった首筋に、こんな暗闇に、こんな時間に、こんな場所で、ひとりきりで良かったと、心から思う。
あの時、それが可能だったかどうかはともかくとして、顔の見えない姿勢で良かったと、そう思う。
後ろから。立ったまま。しかも、あんなところで。
よくそんな度胸があったなと、自分で驚きながら、無表情を保つのに、あれからひどく苦労したことを思い出していた。
熱さしか、覚えていない。まるで、溶岩に飲み込まれたようだったと、それしか覚えていない。
左手の指を焦がしかけている、煙草の火の熱さに、一瞬、心が、違う場所と時間へ飛んだ。
赤い火を眺めて、足元に投げ捨ててから、思考を引き戻して、次の煙草に火をつけた。
唇から外して、煙を吐いて、まるでため息のように、肩を落とす。
それから、また煙草を口元に運んで、フィルターが触れる一瞬前に、不埒な連想にとらわれて、ぴたりと手を止める。
唇に差し入れるそれは、今はまだ乾いているけれど、吸ううちに唾液で湿るのだと思って、舌が勝手に、口の中に入り込んだ架空の輪郭をなぞるように、動いた。
そんなことは、まだ、したことすら---ジェロニモには---ないのに。
丸い、小さな煙草のフィルターに、まるで窺うような視線を当て、それが煙草であることを、心の中で何度も確かめてから、ようやく唇の間に差し込んだ。
自分を、まるで見知らぬ化け物のように感じて、また頬を染める。
早く仕事を終えて、帰って、会いたい。
邪魔されずに、ひとつの場所に、ふたりで閉じこもっていたい。
こほんと、煙にむせて、まだ半分も吸っていない2本目を、ハインリヒは遠くへ投げ捨てた。
頭を振って、ジェロニモのことを忘れて---できはしないけれど---、闇に目を凝らして、今は現実に戻るために、体の向きを変える。
「ひとりごと」
グレートの店で、ようやく落ち合えたのは金曜の夜だった。
夕方遅くに街に着いて、トラックを会社に戻し、慌てて家に帰ったら、もうシャワーを浴びる時間しかなかったと言うハインリヒは、確かに横顔に、疲れをにじませていた。
疲れていて、寝不足で、酒の回りが早いのか、いつもよりも赤く首筋を染めて、ジェロニモは、それを心配そうに眺めていた。
無理をさせていると思いながら、それでも、すれ違いばかりだった先週を思って、やっと会えたと、どうしてもうれしさが先に立つ。
いつものジンを、ワンショットにさせて、それも3杯目で切り上げさせて、ジェロニモは、ハインリヒを引きずるようにして、グレートの店を出た。
アパートメントへ向かう車の中では、まだしっかりと受け答えをしていたけれど、駐車場に着いて、ドアを開けると、よろけて外へ出てくる。
「大丈夫か。」
「あれっぽっちで、酔ったかな。」
そう言う声は、陽気に聞こえた。
ジェロニモは、ハインリヒの体を支えて、とりあえずエレベーターに乗り込むと、その中ではもう、遠慮もなしに、その腰を抱き寄せて、自分の方へ寄りかからせる。
くたりとなった体を、それでも伸ばして、ハインリヒが、ジェロニモの胸に、額をこすりつけてくる。そのまま、これも遠慮もなく、ジェロニモの首に両腕を伸ばしてきて、抱きついてきたのを、ジェロニモはしっかりと抱き止めた。
酔っぱらいは好きではないけれど、アルベルトは別だと、冷静なら赤面しそうなことを、胸の中でひとりごちて、ジェロニモは、さらさらとしたハインリヒの髪を撫でる。
エレベーターの扉が開いて、1歩外へ出てから、自分のアパートメントのドアまでの短い距離を、ジェロニモは一瞬考えた後で、自分に抱きついたままのハインリヒを、脇と膝下に腕を差し入れて胸の前に抱き上げ、ゆっくりと歩き出した。
夜はいつもひっそりとしているし、誰かに見られても、酔っ払いにしか見えないだろうと、そんな開き直ったことを考える。
「ほら、着いたぞ。」
しっかりと、自分の首に両腕を巻きつけている---そうしていないと、そのままジェロニモの腕から、滑り落ちてはしまいそうだった---ハインリヒを一度床に下ろして、アパートメントのドアを開け、中に引きずり込んでから、肩を揺さぶってみる。
「水か紅茶か、どっちがいい。」
抱いて、支えたままで訊くと、何か口の中でぶつぶつ言って、考えているような気配を見せてから、ハインリヒは、ジェロニモの胸に顔を伏せたままで、
「どっちもいらん。」
言いながら、右手の革手袋を外して、床に落とした。
その時だけ外した両腕を、またジェロニモの首に巻きつけて、体の重みを預けながら、ネクタイの結び目に額を乗せて、ぼそりと言った。
「あんたが欲しい。」
酔うと、素直になるたちなのか、それとも、翌日には何も覚えていないタイプなのか、どちらにせよ、これからはひとりで飲ませない方が良さそうだと、ジェロニモは、跳ね上がった自分の心臓に気づかないふりをするために、そんなことをわざわざ考える。
赤くなる頬を隠すために、ハインリヒが顔を上げないのをありがたいと思いながら、ジェロニモはまた、ハインリヒをさっきと同じように、胸の前に抱き上げた。
ハインリヒの重い体を支えて、今は自分の体の大きさに感謝しながら、ベッドルームまで歩く途中で、ハインリヒが首筋に唇を這わせて来たり、ネクタイを外したりするのに、この間、会社で起こったことを思い出して、ジェロニモは何度か、何もないところでつまづきそうになった。
ふたりきりの時なら、もう少し酔っ払わせてもおもしろいかもしれないと、似合わない、不謹慎なことを、ベッドルームのドアを軽く蹴って開けながら思う。
ベッドに下ろして、腕を解かせ、けれどハインリヒが、間髪入れずに抱きついてくるのに応えてやりながら、互いに、まだしっかりと着たままのスーツやコートを脱がせる。
その間、何度も唇が重なって、酒の匂いのする息を交わす。
やっと、ハインリヒと同じほど切羽詰まった気分になって、ジェロニモは、ハインリヒを自分の下に敷き込んだ。
「やっぱり、この方がいい。」
正面からハインリヒを見下ろして、前髪を、かき上げるように撫でながら、不意に言った。
「何が?」
笑いを含んだ声で、ハインリヒが訊いた。
裸の胸を重ねて、相手の顔の見える姿勢で。いつも、そうでなくてもいい。けれど、この方が安心する。隔ては、ない方がいい。中途半端に服を剥いで、忙しなく抱き合うのも、いやではないけれど、こうやって、何もかも、隠すものもなく抱き合える方が、ずっといい。
あの時のことを思い出していたのだとは、どうしても照れて言えず、ジェロニモは問われたことに答えないですむように、またハインリヒの唇に触れた。
それから、腰の方へ腕を伸ばして、顔の位置をずらすために、少しずつ、体を下へ下げて行く。
肩にかかっていたハインリヒの手が、不意に、ぽとりとシーツの上に落ちた。
今はもう、抱き合う時には、一切隠す気配のないハインリヒの右腕が、ぴくりとも動かずに、そこに投げ出されているのが見えた。
触れていたみぞおちから顔を上げて、それから、寝息が聞こえ始めたのに、ジェロニモは目を見開く。
「・・・アルベルト?」
顔を横に向けたまま、閉じた目が開く様子はなく、胸は、しっかりと規則正しく上下していた。
「アルべルト?」
往生際悪く、もう一度名前を呼んだ。
意地悪な飼い主を持った犬は、たまにこんな気分になるのかもしれないと、首の後ろに手を当てて、思う。
体を起こして、もう一度だけ、起きないだろうかと、頬に掌を乗せてみた。
首筋や頬は熱いのに、触れて確かめると、手足も下腹も、そこだけ体温が低い。疲れているのだと思って、会いたかった気持ちは、お互い一緒だったなと、ひとりで苦笑をもらした。
触れているうちに、目を覚ますかもしれないと、まだ未練がましく思った後で、そんなにがっつくな、みっともないと、自分を戒めることにする。
寝顔を見下ろして、毛布でしっかり肩まで覆ってから、もう一度、そっと---今度は、決して起こさないように---頬を撫でた。
こうして寝顔を眺めるのは、そう言えば初めてだと、眠りを妨げないように、そっと体を起こして、ベッドの上に坐る。
目を閉じて、無防備に眠りに落ちると、誰でも稚なく見えるのだろうか。自分では、決して見ることのかなわないその時を、知っているのは、親(ちか)しい他人だけなのだというおかしさに思い当たって、ジェロニモはひとりで小さく笑った。
それから、ふと、自分でも驚くほど真剣な表情に戻って、言葉には決してせずに、ふわふわと頼りないままにしておいた、ちっぽけな秘密を、ハインリヒの寝顔の上に、滑り落とした。
「・・・一緒に、暮らさないか。」
聞こえたはずはなかった。
聞こえない方がいいと思って、口に出来ない自分の勇気のなさを、情けないと思うべきなのか、ありがたいと思うべきなのか、今はわからず、すっかり寝入ってしまっているハインリヒとは逆に、すっかり目の冴えてしまった自分の頬を撫でてから、ジェロニモはそっとベッドを下りた。
もう一度、ベッドのハインリヒを振り返ってから、紅茶をいれて、バルコニーに出て、夜の森を、今夜はひとりで眺めようと思った。
「名残り」
月曜の朝、ひとりで目を覚まして、いつものように、仕事へ出かける用意をしていた。
シャワーを浴びて、そのついでに、側頭部をきれいに剃り上げて---もう、手馴れたものだ---、バスルームの鏡は、湯気で曇ってしまうから、そちらは覗かずに、そのままベッドルームへ行って、クローゼットの扉の裏側についた縦に長い---それでも、ジェロニモの全身は、やっぱり映りきらない---鏡の前で、ワイシャツに袖を通し、きっちりと喉元までボタンをとめてから---小さいので、大きな指先で、毎朝苦労する---、その朝選んだネクタイを締める。
シャツはたいてい、白か、ほとんどそれに近い薄い色ばかりで、ネクタイは、柄の目立たない地味な色ばかりだ。スーツも、しげしげと眺めない限り、どれも大した違いはない。
深くも考えずに、ワイシャツの袖のボタンをとめていて、クローゼットの中に吊るされた、どのスーツにしようかと、そちらに視線を投げるついでに、鏡の自分をちらりと見て、ジェロニモはぎょっとなった。
右の鎖骨に、よく見なければわからないけれど、うっすらと歯型が残っている。
きれいな歯並みは、笑った時に見える通り、ジェロニモの浅黒い膚に整った線を残していて、そこに指先を触れて、直に見えないかと視線を落とす。
少し黒ずんでいて、肌が白ければ、濃い紫色に見えるのだろうと、思ってから、ハインリヒの肌を思い出す。
ジェロニモの皮膚と違って、すぐに跡の残るハインリヒの肌は、強く指先を押しつけることさえ、ためらわれる。
土曜の午後から、ハインリヒが帰った日曜の夕方遅くまで、ふたりはほとんどベッドから出なかった。少し夢中になりすぎて、声を殺そうとしたハインリヒが、そうできずに肩に噛みついた時の傷だろうと、ようやく思い出して、見えない辺りにも、何か跡が残っているかもしれないと思った。
それは不快ではなく、むしろ、見ることができれば、思い出す手がかりになると、ジェロニモはひとりで薄く頬を染めた。
ワイシャツのボタンを下からとめて、数秒手を止めた後で、いつものようにきっちりと喉元まで覆う。隠れてしまったハインリヒの跡を、シャツの上からそっと撫ぜた。
見上げて、首筋に頬をすりつけて、剥き出しの右手を伸ばして、ジェロニモの、白い刺青に触れる。
線をたどって、頬を降りると、ジェロニモが首を振って、ハインリヒの鉛色の指先を噛んだ。
背中や肩を抱きしめて、撫でる。腰や膝下まで腕を伸ばして、爪先を絡め合って、親密さよりも先に、互いが、そこにいるのだということを確認する。
右腕を、ジェロニモの首に巻きつけて、固いあごの先に、額をすりつける。前髪が乱れて、くすぐったそうに、ジェロニモが首を振り、わずかに、笑い声を立てる。
その声を、止めようとするかのように、唇を重ねて、わざと笑い続けるジェロニモの唇に、短い口づけを何度も降らせる。
そうしながら、唇を、さり気なく、ゆっくりと下へ降ろした。
ジェロニモの上に乗って、足を絡めながら、ぶ厚い胸を滑る。硬いみぞおちを通って、乗せた両手に後を追わせながら、顔を埋めた。
そうする前に、先に何か言った方がよかったのかもしれないと思って、振り払われたりしないことを確かめながら、そっと唇で触れる。
驚いたらしいジェロニモが、上半身を少し持ち上げた気配があったけれど、ハインリヒは目を閉じていて、それに気づかないふりをした。
また、背中が元通りベッドに落ちて、ハインリヒが両手---剥き出しの右手も---を添えたと同時に、大きな手が伸びてきて、指先が頬を撫ぜた。
まるで、それが、そうすることへの許可のようにハインリヒには感じられて、舌を伸ばして、精一杯唇を大きく開いた。
自分から何かを仕掛けることを滅多としないのは、つまりは、そうするほどの知識も経験もないことの現れだったし、下手なことをして、失望されるのも、正直怖かった。
他人がどんなことを、どういうふうにしているのか、話に聞かないではなかったけれど、ジェロニモとの時は、穏やかに抱き合うことがほとんどで、必ず躯を繋げるというわけでもない。
そうしなければならないという形はない---女と男とは、違うのだから---のだと、理屈ではわかっていても、相手が満足しているのかどうかは、常に不安がある。
そんな不安を、あっさり口にできるほど、こんなことに大っぴらな性格でもなく、気の置けない会話のできる友人のひとりもいない自分の身を、ひとりきりで恨むしかなかった。
ジェロニモと、親(ちか)しくなればなるほど、少しずつ開き直りも出て、こちらにこれほど気を使う男なら、まさか下手だと、あからさまに態度に出すことはしないだろうと、そんなことも考えた。
舌でなぞれば、それなりの反応を返してくる。唇と喉だけではおさまりきらなくて、傷つけないかと用心しながら、両手を使う。頭の中で、あまり上品ではない動詞が浮かび、ほんとうに、その通りにやっているのだろうかと、思いながら舌を動かす。
なるべく深く飲み込んで、けれど喉の奥をうまく開けなくて、ハインリヒはひとりで焦れた。
誰かのすべてをいとしいと思うのは、こういうことも含まれるのだと、触覚で、形や感触は憶えていても、まだ視覚ではぼんやりとしたままのそれを、そのうちすみずみまで覚えてしまうのだろうと思う。
夢中になれるほど、まだ没頭もできないまま、けれどできる精一杯の後で、ハインリヒはようやく顔を上げた。
両手を添えたままの向こうに、ジェロニモの顔が見えて、そこに見えるのが、不快感でも失望でもなさそうなのを読み取って、ハインリヒはまた唇を開いた。
そう言えば、ジェロニモはうまかったなと、よけいなことを思った時、頭上から、ジェロニモの、殺しきれなかったらしい声が、かすかに聞こえた。
励まされたように、ハインリヒは、少し大きく顔を振った。
ジェロニモのところで、ちゃんとシャワーを浴びて帰っても、まだ、何となく自分のものではない体臭が残っているような気がして、もう一度シャワーを浴びる。
その匂いが嫌いなわけではなくて、ただ消さなければ気になって、他のことが手につかないからだった。
夕方まで、一眠りしようかと思いながら、タオルで体を拭う自分の姿を、バスルームの、曇った鏡の中に見た。
湯気を左手で拭って、ぼんやりと乱れた線の自分の姿を、深くは考えずに眺めていて、それから、ふと上げた左の二の腕の内側に、鮮やかに散った、濃い朱色を見つける。
皮膚の薄いその辺りは、右手で少し強く押さえただけであざの残ることがあったけれど、それは明らかにそんなものではなくて、ジェロニモが唇で残した痕だと知れた。
気がついてから、腕を持ち上げたままで、ひとりで頬を染めて、ハインリヒは隠せる場所でよかったと、最初にそんなことを思う。
あまり詳細は覚えていない。ベッドの外へは、あまり出なかったことだけは、憶えている。他にも、切れ切れに---くっきりと---思い出せることもあったけれど、そこからは、わざと意識をそらせることにした。
終わった後に、名残りを見つけることなどないのに、夢中で、我を忘れていたのは自分だけではなかったのかもしれないと、照れて、ひとりで笑った。
ふたりで一緒に、少しずつ、壁を取り払ってゆく。服を脱いで抱き合うように、心も、いつか裸になれるのかもしれない。
重ねていた呼吸の音を思い出して、ふと、躯の奥が熱くなる。
もしかすると、鏡に映せば、もっとジェロニモの痕が残っているかもしれないと、タオルを落として、その場で体をひねった。
腰や腿の裏側や、肩の後ろや首筋や、見つからなくて、焦れながら鏡を覗き込んで、そして、自分では見ることのできない背中や、腰の後ろや、あるいは、もっともっと隠された場所を、あの男は知っているのだと思って、そのことに、ほんの少し驚く。
自分の知らない自分を、決して知ることのない自分を、知っている誰かがいる。そして、ジェロニモも、それは同じことなのだと、初めて気づく。
誰も知らないあの男を知っているのだと思って、腕の中に甦った背中の硬さと大きさに、ハインリヒは、思わず左腕の内側の紅い痕に、唇を寄せた。
夢に見そうだと、思いながら、その上に、口づけていた。
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