うわさになりたい
その7


「おもちゃのピアノ」

 見せたいものがあるんだと、仕事をする部屋の方から、ジェロニモが抱えて来たのは、小さなおもちゃのピアノだった。
 いつもの週末、土曜の午後遅く、ハインリヒはソファに手足を伸ばして、持って来た本を、紅茶を片手に読んでいるところだった。
 ジェロニモなら、片手で抱えられてしまえそうな、その小さなピアノを膝の上に置かれて、ハインリヒは慌てて体を起こして、それに両手を添えた。
 「どうしたんだ、これ。」
 ごく当たり前の質問をすると、ジェロニモは、照れたような笑いを浮かべるだけで、特には答えない。
 ハインリヒは、並んだ白い鍵盤を、そっと指先で撫でた。
 触れれば、指の跡が残りそうな、つやつやとした黒い表面は、おもちゃとは言っても、本物に近く見え、金属の指先が傷をつけないかと、内心ひやりとする。
 きちんと、グランドピアノの形をしていて、ふと思いついて上の部分に手をかけると、きちんとふたが開いて、中には支柱があって、開いたまま支えられるようにさえなっている。
 「すごいな。」
 思わず、声が少し弾んだ。
 「あんたが、わざわざ買ったのか。」
 隣りに腰を下ろしたジェロニモに振り向くと、否定も肯定もせずに、また照れくさそうに笑う。
 「たまたま、見かけただけだ。」
 それに笑みを返して、ハインリヒは、ようやく鍵盤を軽く押した。
 昔、ずっと昔、触れた記憶のあるおもちゃのピアノは、もっと高い音で、ポンというよりは、ピンという、耳に柔らかく刺さるような音だったような気がするけれど、このピアノは、音まで本物のように、深く響く。
 その精巧さに驚いて、ハインリヒは、指一本で、あちこちの鍵盤を叩いた。
 「本物じゃないのは、残念なんだが。」
 「本物のピアノを置くなら、人里離れた山奥か、完全防音のスタジオつきの家にでも住むしかないな。」
 「そうしたいのか?」
 間髪入れずに、ジェロニモが訊いた。
 質問の向かう先が一瞬わからず、ハインリヒは鍵盤の上に指を止めて、ゆっくりとジェロニモを振り返った。
 視線が合って、ジェロニモが、何か特別な答えを欲しがっているのだと、それだけはわかる。けれど、それが何なのかわからずに、ハインリヒは、上あごに舌を張りつかせて、無難な答えを探そうと、瞳だけを動かして、視線を外した。
 「いつか、そんなことが、できたら、いいな。」
 本気ではなかったけれど、ジェロニモのために、ハインリヒはそう言った。
 肩を触れ合わせて、ふたりで、小さなおもちゃのピアノをのぞき込んで、一瞬、ジェロニモの頬の線が動いたけれど、それが、望んだ答えを得たからなのか、それとも失望のせいなのか、ハインリヒにはわからなかったし、ジェロニモも、それ以上は何も言わない。
 ハインリヒが両手で鍵盤を押さえられるように、無言のまま、ジェロニモが、腕を伸ばしてピアノを支えてくれる。
 それ以上、よけいなことは言うまいと、ハインリヒも黙ったままで、鍵盤の上に両手を揃えた。
 幅の狭い鍵盤は、ハインリヒの指をようやくおさめて、他愛なく沈み込み、ふわりと浮き上がる。指先を押し返しながら沈む、本物の感触とはやはり違って、その頼りなさに、ハインリヒは思わず苦笑をもらした。
 それでも、たわむれに指先を遊ばせるなら、ちょうどいいおもちゃだと、短い曲を、なめらかに動きすぎる指が、狭い鍵盤の上で戸惑いながら動くうちに弾き終わって、思わず声を立てて笑う。
 ジェロニモも隣りで、かすかに肩を揺すって笑って、ハインリヒは、まるでそれを止めようとするかのように、触れるだけの口づけのために、横に向かって首を伸ばした。
 ピアノを支えていないジェロニモの右腕が腰に回り、ハインリヒも、右手でピアノを支えて、ジェロニモの左手を取ると、鍵盤の上に乗せた。
 色と大きさの違う手が、おもちゃのピアノの上に、並んで乗る。
 ジェロニモの指は、その小さな鍵盤には大きすぎて、どう頑張っても、和音しか弾けそうにない。
 「あんたは、楽器はやらないのか。」
 小指の先を、そっと鍵盤に引っかけるようにして、ようやく1音だけ出しながら、
 「ギターなら、昔少しだけやった。でも、音楽にはあまり興味はなかったな。」
 申し訳なさそうに、ジェロニモが少し小さな声で答える。
 「絵や、彫刻の方がいい。」
 「手の大きさは関係ないしな。」
 わざとからかうように言うと、ジェロニモは怒ったふりをして、額をぶつけてくる。
 ピアノに乗ったジェロニモの手に、ハインリヒは掌と指先を重ねて、そのまま、鍵盤を押さえた。
 本物のような、けれど本物ではない音が、いくつか音階を混ぜて、ふたつの手の下で響く。
 悪い音ではない。おもちゃだと思えば、信じられないほど上出来な音の響きだった。それでも、それが、よくつくられたまがいものなのだと言うことが、ハインリヒの神経に刺さる。
 ほんもののピアノは、もう必要ない。そう思っても、心は痛まない。けれど、こうしてにせものに手を触れると、自分が侮辱されているような、そんな気になる。
 ジェロニモの心遣いを、心の底からありがたいと思いながら、同時に、傷ついてもいる自分を見つけて、ハインリヒは自己嫌悪に、胸の中で苦笑をこぼす。
 相変わらず、嫌な奴だな、俺は。
 腕を隠さなくなったことを、我ながら大した進歩だと思って、そうさせてくれたジェロニモに感謝もして、けれどまだ、乗り越えていないものがあるのだと、そう自覚するのは痛みを伴う。
 ピアノを見下ろして、黙り込んでしまったハインリヒを、するりとピアノの鍵盤から外した手で引き寄せると、ジェロニモは、髪の生え際に口づけた。
 「そろそろ、食事にでも行かないか。」
 沈んでしまった---なぜだか、気づいているのだろうか---ハインリヒの気を引き立てるように、少し明るい声で言って、ジェロニモが立ち上がる気配を見せた。
 ああ、とうなずいて、つくった笑顔で見上げて、ハインリヒは、膝から下ろす前に、もう一度ピアノの表面を撫でた。
 「持って帰っても、うちでは弾けないな。」
 狭いアパートメントの、どこに置こうかと思いながら、思わずぼそりとつぶやく。
 先に立ち上がったジェロニモが、顔だけで振り返って声を掛けた。
 「ここに置いておけばいい。音のことが心配なら、ここの方がいいだろう。」
 コーヒーテーブルの上に、またふたを閉めて、静かに置かれたおもちゃのピアノに、立ち上がったふたりの姿が映る。
 「他に何かあれば、ここに持ってきて、一緒に置いておけばいい。」
 ジェロニモが、珍しく早口で、少し視線を泳がせたまま、そう言った。
 話の向かう方向に、ようやく思い当たって、ハインリヒは思わず両手を握りしめた。
 また黙り込んでしまったハインリヒに、反応を求めて振り向くジェロニモから、拳になったままの鉛色の右手を、そっと背中の影に隠す。
 足元に視線を落としながら、ハインリヒは、ジェロニモとこうなってしまってから初めて、今すぐ自分のアパートメントに帰りたいと、そう痛烈に思った。



「すれ違い」

 おもちゃのピアノが、ジェロニモのアパートメントのリビングの片隅に置かれるようになって、それがたまに、キッチンのカウンターへ移動したり、時にはベッドルームへ持ち込まれたりするようにもなって、1月近くが経とうとしていた。
 あまり飾りのない部屋に、つつましく置かれるそれを、ジェロニモが、時々ひどく優しい目で眺めているのに気づいて、ハインリヒは、少しばかり面映ゆい思いをしている。それと同時に、そんなジェロニモの視線に気づくたびに、ふと足を止めて、そのままきびすを返してしまいたい、そんな気分にもなる。
 お互いをいたわり合うことを、常に心に置いて、恋をする気持ちにいまだ戸惑いはあっても、もう大人なふたりは、エゴをぶつけ合って自分を主張し合うよりは、譲り合って、受け入れようとすることの方を、大事にし合っているように、ハインリヒには思える。
 ジェロニモの気持ちを知っていながら、それに気づかないふりをして、ずっとこのままでいられたらいいと、ずるく思う自分がいる。
 もう一歩踏み込みたい気持ちは同じでも、その方向が違うのだと、けれど話し合うにはきっかけが、まだない。
 その口火を切られてしまうことを、ハインリヒはずっと恐れている。
 このままでいたい自分と、もう一歩踏み込んでみたい自分と、せめぎ合って、こっそりと葛藤し合っている。
 それをジェロニモに悟らせないように、ハインリヒは、つくった笑顔を口元に浮かべる。


 「返さなくていい。」
 外に駐車した車の中にした忘れ物を取りに行くのに借りた、アパートメントの鍵を返そうとしたハインリヒに向かって、ジェロニモが手を振った。
 「そのまま、持ってればいい。」
 ジェロニモに向かって差し出したキーホルダーには、アパートメントの建物の扉を開ける鍵と、アパートメントのドアの鍵と、ふたつきりしかついていない。明らかにスペアのそれを、返さなくていいと言われて、ハインリヒは一瞬口元を硬張らせた。
 無理に返すのも気が引けて、かと言って、ありがとうとも言えず、口ごもって、何か言い返すタイミングを逃したまま、ハインリヒは鍵を握りしめてから、それを上着のポケットに入れた。
 ハインリヒが何も言わないのを、一体どう思ったのか、ジェロニモは何となく淋しそうに見える笑みを浮かべて、そのままキッチンへ行く。
 気まずい空気が流れて、紅茶をいれるつもりらしいジェロニモの後ろ姿を振り返って、ハインリヒは、聞こえないように、そっとキーホルダーを、ポケットからまた取り出した。
 深く考える必要はないのだろう。ただ、合鍵を渡されたというだけの話だ。不意に訪れたくなることがあるかどうかは別としても、うっかり、ここに何か置き忘れるということも、ないとは限らない。鍵を持っているから、ここにいつでも、好きな時に来れるということに、さして深い意味はないに違いない。
 単に、ハインリヒが勝手に出入りできれば、ジェロニモの方に便利なこともあるのかもしれない。
 それだけのことだ。自分に言い聞かせて、また手の中の鍵を見下ろす。
 仕事帰りに、ここに真っ直ぐ来ることもできるのだと、思って、思わず頭を振った。
 うっかり、ここに"帰って来る"と言いそうになって、そういう考え方はやめた方がいいと、またジェロニモの背中を見て思う。
 そのうち、置き忘れたふりでもして、戻しておけばいい。そうすれば、誰も傷つかない。
 ポケットに戻した鍵が、かちゃりと音を立てた。


 分け合った熱が、まだ部屋にこもっていて、汗の浮いた体をジェロニモから引いて、ハインリヒがベッドから起き上がった。
 喉が渇いたと、ぼそりと言って、床に足を下ろして、体を傾ける。床から拾い上げたのは、ジェロニモのシャツらしかった。
 明かりのない部屋の中でも、白い背中は淡く浮かび上がっていて、それが、もっと白い自分のシャツに覆われるのを、ジェロニモは、ベッドに横たわったままで眺めていた。
 しゅるっと、硬い右腕が、布を滑る音が聞こえて、シャツの前をかき合わせてから、襟の下に入り込んだ後ろ髪を、持ち上げた両手がかき上げる。
 上げた両腕や、脇から腰の線が、ふわふわと動くシャツの向こうに見えた気がして、思わず細めた視線を奪われる。
 立ち上がろうとしたハインリヒを、ジェロニモは、後ろから引き止めた。
 「髪が、伸びたな。」
 首筋に掌を添わせて、髪の中に指を差し入れながら、そっとうなじをあらわにする。
 動きを止めたハインリヒを、背中から抱きしめて、現れたうなじに、唇を押し当てた。
 伸びた髪の長さに、心を引き寄せられるものがあって、そこから唇を離さないまま、ジェロニモは頬をすりつけた。
 ハインリヒの右手が、肩から伸びてきて、ジェロニモの首に触れる。引き寄せるように掌を乗せて、もっとうなじをあらわにするように、首を前に傾ける。
 「そろそろ、切った方が良さそうだな。」
 笑いながら、ハインリヒがそう言った。
 両腕を、腰に回して、膝の間に引き寄せる。自分のシャツを着たハインリヒを抱いて、首筋に顔を埋めて、伸びた髪の長さほど、一緒にいる時間が過ぎているのだと、そう思って、聞こえないように息を吐く。
 吐息と一緒に、するりと舌も滑る。
 「一緒に、暮らさないか。」
 今度こそ、聞こえるように。
 首に触れていたハインリヒの鉛色の掌が、そこから浮いた。
 闇の中で、抱き合ったまま動かずに、けれど沈黙が、ふたりの間の空気を冷えさせた。
 言葉を探しているのだとわかる、短い間の無言の後で、ハインリヒが平たい声で応えた。
 「・・・まだ、早すぎないか。」
 「今すぐじゃなくても、別にいい。」
 即座に返す言葉が、ハインリヒの逃げ道を奪っているのだと、今は気づけない。
 首に回っていた腕が外れ、ジェロニモから、まるで逃げるように、ハインリヒの体が前へ傾く。
 腰を抱いていた腕を軽く叩かれて、初めて、離してくれと言われているのだと気づいて、ジェロニモは慌ててその腕を外した。
 ゆっくりと立ち上がるハインリヒは、ジェロニモの方へは振り向かないまま、ドアに向かって、足を踏み出した。
 「・・・そのことは、また今度ゆっくり考えるさ。」
 シャツの袖は、完全に指先まで覆っていて、裾は、膝裏まで届きそうだった。動くたびに、ジェロニモのシャツを着た後ろ姿が、ゆらゆらと揺れて、決して小さくはないハインリヒの体が、ひどくはかなく見えた。
 Noではないけれど、限りなくそれに近い返事だと、思って、ハインリヒが部屋を出て行った後で、ジェロニモは思わず片手で目元を覆った。
 またやったなと、両手で顔をごしごしとこすって、戻って来たハインリヒに見せるための表情を考える。
 もう、寝てしまったふりをしようかと、ベッドのあちら側を振り返った。
 まるで、そんなジェロニモの混乱ぶりを読み取ったように、その夜、それきり、ほんとうにジェロニモが先に寝入ってしまうまで、ハインリヒはベッドに戻って来なかった。



「素直になれなくて」

 また、ハインリヒのいない週末だった。
 自分の運の悪さを信じて、電話もせずに訪れた先は、おそらくハインリヒには内緒にしておいた方がいいだろうピュンマの自宅で、やましいことはないにせよ、自分たちのことについて、少しばかりの相談---もっと正確には、愚痴---があってピュンマに会うのだとは、口が裂けても言えない。
 車の中で、まだ往生際悪く迷ってから、ジェロニモはやっと玄関へ向かった。
 ジェットと、どこかへ出掛けているかもしれない。仕事で、街を出ているかもしれない。いないなら、それでもいいと、思いながら、ドアのベルを押した。
 一体どちらをほんとうに願っていたのか、ドアは内側に開いて、そこにピュンマの姿を認めて、ジェロニモはそうと気づかずに、あごを引いて、思わず一歩後ずさりそうになる。
 「なんだ、キミか。」
 「忙しいなら帰る。」
 悪いけど、別の時にしてくれないか、そう言われることを、無駄に期待して言ってみる。
 「いや、忙しくなんかないよ。ジェットの迎えを待ってるだけだから。」
 確かに、これから出掛けるようには見えない、普段着のままだった。
 奥から、派手なジャケットを羽織りながらジェットがやって来て、怪訝そうな表情を、ジェロニモに向かって浮かべる。
 「何だよ、アンタか。オレの迎えかと思ったら。」
 ピュンマが、うるさいなあという表情でちらと後ろを振り返り、それからまたジェロニモに向き直って、軽くあごをしゃくって見せた。
 「入りなよ、とにかく。ボクに会いに来たんだろう?」
 下からにっこりと微笑まれ、気恥ずかしさに顔を背けてから、ジェロニモは、ゆっくりとドアの内側へ足を踏み入れた。
 白い壁のせいと、キッチンの天井に開いたガラス窓のせいで、照明はなくても、家の中がひどく明るい。
 白いシャツを無造作に着たピュンマが、午後早い日差しの中で、やけに眩しく見える。
 リビングの方へ一緒に行くと、床に大きなジムバッグが置いてあり、それに視線を投げてから、
 「撮影の仕事で、明日まで帰って来ないんだ。」
ピュンマが説明するように言う。
 こちら側のソファと、あちら側のソファに分かれて坐って、2階でばたばたとうるさいジェットの足音に、ふたりで揃って天井を見上げた。
 顔を見合わせて苦笑した時、外で、車のクラクションの音が聞こえた。
 「ジェットー、迎えだよー。」
 ピュンマが、二階に向かって怒鳴ると、階段を駆け降りる音がして、リビングに飛び込んで来たジェットが、ジムバッグを抱え上げてから、ジェロニモのことなど、目にも入らないように、ピュンマに長々とキスをする。
 まるで、これから1年も帰って来ないような、別れを惜しむ繰り言を、これも長々と続けて---その間に、クラクションが3回鳴った---、ピュンマに背中を押されて、ジェットはやっと外へ向かった。
 その間、ジェロニモには一言もなく---もう、そんなことにも、すっかり慣れてしまった---、にらむような一瞥だけを投げて、厚底のブーツの音もやかましく去って行く。
 撮影の仕事というのは、雑誌のグラビアか何かなのだろうかと、ここへやって来た目的から気を反らすために、ジェロニモはわざわざジェットの背中を見送った。
 ジェロニモさえ、たまに写真を見かける程度には名の知れたモデルだと言うのが、素顔を知っているだけに信じられないと、下らないことを考える。
 ふたり揃って、車の音が遠ざかるまで口は開かず、静かになってから、10数えた頃やっと、ピュンマがくすりと笑った。
 「キッチンに行こうよ。紅茶でもいれるから。」
 ふたりきりになった途端、緊張が解ける。
 きっちりと、今日も締めてきたネクタイの結び目に指先を入れて、ジェロニモは大きく息を吐いた。
 キッチンの天井の窓の真下に置いてあるテーブルの、6つ並んだ椅子のひとつに、注意深く腰を下ろして、ジェロニモは、他に見るものもなく、ストーブにやかんを乗せている、ピュンマの後ろ姿を眺めた。
 今さら比べるまでもなく、ピュンマの方が、背も低ければ、肩幅も狭い。胸や肩の厚みもだと、巻いた腕の中の感触を思い出しながら、思った。
 アルベルト。口の中でつぶやいた時、ピュンマが、マグをふたつ抱えて、こちらへやって来た。
 以前なら、テーブルの角を、ふたりで囲むようにして坐ったけれど、今は必ず、向かい側に向き合って坐る。
 友人と恋人の、わずかな距離の、だからこその大きな違いだった。
 紅茶を一口飲んで、自分がいれたのとも、ハインリヒがいれたのとも違う味と香りに、思わずマグの中身に目を凝らす。
 ピュンマとこうして向き合って、改めて、ハインリヒのことばかり考えている自分に気づいて、ジェロニモは、苦笑いをこぼしてから、ピュンマに見えるように首を振った。
 「元気がないね。」
 マグのふちに指先を滑らせて、ジェロニモの方を見ずに、ピュンマが言った。
 天井の窓を見上げるように、喉を反らせて、椅子の背に背中をもたせかけ、ジェロニモは大きく開いた胸を、深い息で上下させる。ため息のつもりはなかったけれど、そう見えるだろうと思いながら、四角い窓枠を視線でなぞる。
 まだ、こんな姿を、ハインリヒに見せたことはない。ふたりでいて、こんな姿になるほど気の滅入ったことも、まだないので。
 「鍵は、渡したの?」
 不意にそう訊かれて、ジェロニモは椅子を元の位置に戻した。
 ああ、と椅子のきしんだ合間にうなずくと、ピュンマが手元に目線を落として、ジェロニモの憂鬱がうつったように、小さくため息をこぼす。
 「で?」
 紅茶を飲まないまま、ただ、マグに手だけ添えて、そこに視線を当てたままで、答えた。
 「うれしそうには見えなかった。」
 「それで?」
 「一緒に暮らさないかと訊いた。」
 「で?」
 「いつか考える、と言われた。」
 ぶっきらぼうに返事をしていると、ピュンマがジェロニモを見ているままでマグを持ち上げて、紅茶を一口すすった。
 マグを、かたんとテーブルに戻して、呆れたように苦笑をこぼして、首を振る。
 「それでキミは、すぐにでもそうしようと言ってもらえなくて、がっかりしてるわけだ。」
 また首を振ったピュンマから、ジェロニモは視線を下げて、薄く頬を染めた。マグをいじっていた手を、みぞおちの前に組んで、少しばかりすねたように、軽く唇をとがらせる。
 「振られたわけじゃないんなら、心配することないよ。一緒に暮らす暮らさないなんて、単に勢いの問題だから。」
 ん、とうなずいて、けれどまた納得の行かない表情は消さないままで、ジェロニモは組んだ手の指を、うろうろと動かした。
 「それとも、キミがそろそろ人恋しくて、どうしても誰かと一緒に暮らしたいのかな。」
 思いもかけないことを言われて、うっかりピュンマを見つめ返して、知らずに強く眉を寄せる。ピュンマが、口元だけで、淡く微笑み返してきた。
 「ここなら広いし、部屋も空いてるよ。」
 一体、冗談なのか、本気なのか、よくわからない口調で、ピュンマが淡々と続ける。
 ジェットがいたら、決して向かない会話の方向だと、寄せた眉をまだ解かずに、ジェロニモは、微笑んだままのピュンマの口元をじっと見つめた。
 「ジェットが、絶対に反対しそうだな。」
 「しないよ。」
 精一杯の反駁を、あっさりと否定されて、拍子抜けしたように、口が開いたままになる。
 「嫉きもち焼くのも、彼にはゲームのうちだしね、あれでボクとキミのこと、けっこう楽しんでるから、案外喜ぶんじゃないかな。」
 ピュンマと別れた理由を思い出しながら、軽い頭痛に襲われて、ジェロニモは組んでいた手を外して目元をこすった。
 「もちろん、キミの趣味じゃないのはわかってるよ。」
 ピュンマと話すと、いつもこうだ。話の先を読まれて、否応なしに、そちらへ誘導される。誘導された先が、自分の思惑と外れることはほとんどなく、それほどピュンマに見透かされている自分の浅薄さに、ピュンマとの付き合いの長さと深さを思い知る。
 ようするに、からかわれているのだと---そうして、自分に、本音を吐き出すチャンスを与えてくれているのだと---、思ってジェロニモは、またうっすらと頬を染めた。
 「素直に、断られてがっかりしてるから慰めてくれって、言えばいいんだよ。」
 恐ろしいことを言われて、ピュンマとジェットなら、そうやって、かわいらしい言い争いもできるのだろうと、心の中で首を振る。
 自分たちには---まだ---無理だと、思ってから、いつかそうなりたいと、けれど思う。
 そうやって、素の自分を剥き出しにしてしまうには、もう少し時間が足りない。だから、一緒に暮らしたいと、そう思った。
 同じ家に、帰るということが、とても重要なことのように思えて、けれどそれは、今はまだ、ジェロニモのひとりよがりでしかないのかもしれない。
 背中を向けて、立ち去られてしまうのがこわくて、だから、たったひとりで気を滅入らせて、益体もないことを考えて、ピュンマに、ろくでもない姿を見せる羽目になる。
 そんな姿は、ハインリヒにこそ、見せるべきなのに。
 もう、熱くはない紅茶を、ごくりと飲んで、ジェロニモはふっとピュンマに笑いかけた。
 ハインリヒのいれた紅茶を飲みたいと、強烈に思ってから、ごきげんを取るわけではないけれど、甘くないチーズケーキでも冷蔵庫へ入れておこうかと、そんなことを思う。
 ミルクで煮出した紅茶とチーズケーキを並べて、あのおもちゃのピアノで、ドレミの歌でもまた弾いてくれるかもしれない。もしかすると、歌つきで。
 楽観的すぎると思いながら、いつの間にか、気分が軽くなっていた。
 自分の現金さを、今度こそ心の底から笑って、ジェロニモは、紅茶のお代わりのために立ち上がったピュンマに、空になったマグを差し出した。



「Sweet & Sour」

 何となく、理由もなく、気まずい空気が流れている時には、キッチンに立つと、その場をごまかせるような気がする。
 紅茶をいれるでも、何か簡単に作るでも、あるいは、単に洗い物を始めるでも、冷蔵庫の中をきれいにし始めるでも、リビングに背を向けて、何かをしているから、顔を付き合わせていなくても構わない、という大義名分ができる。
 別に、けんかをしているわけでもないし、何か怒らせるようなことを、したわけではないけれど---少なくとも、ジェロニモには、あまり心当たりはない---、例の、一緒に暮らさないか発言の後、何となくハインリヒは、以前よりも---出逢ったばかりの頃より、さえ---よそよそしく見える。
 もちろん、無口なのは以前からだったし、話しかければ、答えてくれるし、おもちゃのピアノを膝に乗せれば、微笑んで、小さな鍵盤を叩き始める。
 特に、何か変わったところがあると、ジェロニモにもきちんと指摘できるわけではなかった。
 ただ、ハインリヒの周りに、薄い空気の膜があって、それが、自分と彼の間を隔てているような、そんな気がしていた。
 おそらく、そう感じているのは自分だけなのだろうし、気の回しすぎだと、そう自分に言い聞かせて、ジェロニモは、チーズケーキを焼くことにした。
 別に、甘いもので、ハインリヒの機嫌を取ろうと思ったわけではない---と言うのは、もちろんうそだ--けれど、紅茶のお代わりのついでに、ケーキの一切れくらいあってもいいだろうと、そう思って、用意しておいた材料を冷蔵庫から取り出して、早速カタコトやり始める。
 ハインリヒは、物音のし始めたキッチンの方を向くでもなく、ソファで本を読んでいた。
 ケーキとは言っても、材料を混ぜて焼くだけだから、大して手間がかかるわけでもない。やわらかくしたクリームチーズと、砂糖を、なめらかになるまで混ぜるのに、少しばかり時間がかかるだけだった。
 ボールを抱えて、ジェロニモが握ると、ぐにゃりと曲がってしまいそうな泡立て器---どうして、キッチンで使う道具というのは、こう華奢にできているのだろう---で、額に汗を浮かべながら、辛抱強く、四角い塊のままのクリームチーズを、クリーム状にする。
 ひとりでいた間も、まめに料理をしていたけれど、一緒に食べてくれる誰か、あるいは、出来たものを、喜んで食べてくれるかもしれない誰かがいるというのは、気持ちに張りができるものだなと、当たり前のことに、突然気づく。
 生クリームをどれくらい入れようかと、小さなカートンを片手に数秒迷っていると、後ろからいきなり声がした。
 「あんた、マメだな。」
 いつの間にキッチンに入って来たのか、ハインリヒが、体を斜めに傾けて、ジェロニモの手元をのぞき込もうとしている。
 「俺は、そんな手間掛けるくらいなら、外へ出る。」
 「外へ出る方が億劫だな。」
 「意見の相違だ。」
 ジェロニモの横へ来て、ボールの中を見て、それからジェロニモの顔を見上げる。
 「チーズケーキだ。」
 質問を先読みして答えてやると、ハインリヒの、唇の端がくいっと下がった。
 「面倒くさそうだな。」
 少しばかり揶揄するようにそう言ったハインリヒに向かって、クリームチーズの、空になった箱を取り上げて、側面を指差して見せた。
 そこに、小さな字で書いてある、ほんの5行ばかりのチーズケーキのレシピに、ハインリヒが顔を近づけて、20秒もかからずに読み終えたのを見計らって、
 「大した手間じゃない。」
 ジェロニモは、箱をカウンターに戻しながら、薄く笑って言った。
 誰かが、喜んでくれると思えば、かかる手間なんか気にならない。言葉にしない部分を、言葉の間に、込めたつもりだった。
 ハインリヒは、また興味もなさそうに、それでもキッチンを出て行こうとはせず、そこにに立ったまま、バニラエッセンスを数滴落として、またゆっくりと、薄黄色いボールの中身を混ぜ始めるジェロニモの手元を、じっと眺めていた。
 泡立て器を取り上げて、垂れるしずくを人差し指に受け止めて、型に流し込む前に味見をする。少し甘いと感じるくらいで、焼き上がればちょうど良くなる。
 ジェロニモがひとりでうなずいて、型の方に首を振り向けると、ハインリヒが、横から、あ、と声を上げて、手を伸ばしてくる。
 何だと振り向くと、ボールの中を指差して、何を言いたいのか、けれどむっと口をつぐむ。
 俺にも味見をさせろ、どうせ俺も食うんだろう、意地っ張りな口調が、聞こえずに伝わって来る。素直にそう言えばいいのにと、思って苦笑をもらしてから、泡立て器を、ハインリヒの方へ差し出してやった。
 しずくを受け止めた左手の人差し指をなめて、ついでに唇もなめてから、何となく物足りなさそうにジェロニモを見た。
 「もっと甘い方がいいのか。」
 「いや・・・」
 歯切れ悪く、首を振って、
 「見てると、腹が減るな。」
 声が、少しだけ切羽詰まって聞こえて、思わず、声を立てて笑った。
 「焼けるまで待ってくれ。」
 ゴムのへらで、ボールの中をきれいにしながら、用意しておいた型に流し込んで、温めておいたオーブンに放り込む。
 ボールの中には、へらで取り切れなかった分が、ほんの少しだけ残っていて、ジェロニモは、何となくすねたような表情で、オーブンの方をちらちらと見ているハインリヒに、その残りを、人差し指ですくい取って、差し出した。
 ハインリヒは、面食らったように、少しだけあごを引いて、それから、まるで誘惑に勝てなかったのは、ジェロニモのせいだとでも言うように、上目使いに、にらむような視線を送って来て、その大きな指に、ゆるく噛みつく。
 濡れた舌が、しっかりと指先をなめて、音を立てて唇が離れる。
 味わうように動くその唇に、焼けるまでの時間をつぶすために、ジェロニモは、自分の唇をかぶせて行った。


 ほんとうなら、焼き上がった後、オーブンから出して、冷めるまで置いておくのだけれど、入れた時の倍もふくらんで、薄茶色に、少しだけ焦げた表面から、かすかに湯気の立った、焼き立てのチーズケーキは、ハインリヒの食欲をひどくそそるらしく、ジェロニモは、まだ型に入ったままで柔らかいケーキに、用心しながら、ナイフを入れた。
 切ると、そこから空気が抜けて、ふうっと悲しそうなため息でももらすように、ケーキがゆっくりと、ぺしゃんとつぶれる。
 ハインリヒは、それに、ほんの少しがっかりした顔を見せて、けれど、何とか崩れずに皿に乗った、まだ熱いケーキに、遠慮もなくフォークを突き立てる。
 「うまいな。」
 自分の分は、ちゃんと冷めてからにしようと、ジェロニモはそれ以上はナイフの切れ目を入れずに、今度はふたり分の紅茶のために、冷蔵庫からミルクを取り出そうとした。
 小さな、最初の一切れをまたたく間に食べ終わったハインリヒは、まだほとんど丸いケーキを見下ろして、次の一切れをねだろうかどうか、迷っている風に見えた。
 「欲しければ、好きなだけ取ればいい。なくなったら、明日また焼く。」
 熱くなった鍋にミルクを注ぎながらそう言うと、ハインリヒが曖昧にうなずいて、やっと自分の行儀の悪さに思い当たったように、ばつが悪そうに黙って、空になった皿を、シンクへ運んでくる。
 「ふたりだと、余る心配はなさそうだな。」
 からかうつもりでそう言っただけだったのに、シンクの縁をつかんだハインリヒの右手が、かつんと音を立てて、ジェロニモは驚いて、そちらを見やった。
 うつむいて、むっと黙り込んだ唇が、たれた前髪の奥に見える。今度は、何を怒らせたのだろうかと、ジェロニモは、ミルクの泡立ち始めた鍋を、そっと火から下ろした。
 じっと眺めていると、ハインリヒの一文字の唇が、やっとほどけた。
 「・・・頼むから、俺を中心に、あんたの生活が回ってるような言い方は、やめてくれ。」
 押し殺した声から聞き取れるのは、どうしてか、怒りよりも、憤りのような気がした。
 「そういうつもりで、言ったんじゃない。」
 そんなに、気に障るような言い方をしたつもりはなかった。何が一体、ハインリヒの腹立ちの原因なのか、正直ジェロニモにはわかりかねて、もっと何か続けて言うかと、かすかに震えている唇を見つめている。
 まるで八つ当たりのように、ハインリヒが、シンクに置いたフォークを持ち上げて、わざと音を立てて皿に落とす。フォークに、ハインリヒの右手が映っているのを見て、ジェロニモは、いやな成り行きだなと、頭の中で思った。
 「誰かと一緒に暮らしたいなら、あんたと同じくらい、まともに気の使えるやつを探した方がいい。」
 知らずに、手に力が入っていて、うっかり握ってしまった拳と、同じほど固く閉じていた唇を、ジェロニモは、声が震えないようにと祈りながら、ゆっくりと開いた。
 「どういう意味だ。」
 「聞こえた通りだ。」
 こんな声を使ったことはなかったなと、互いの、低くなった声を聞いて、なぜ、こんな話を今しているのだろうかと、ジェロニモは、キッチンのあちら側で、ゆっくりと冷えつつある、焼いたばかりのチーズケーキをちらりと眺める。
 ふたりとも、それ以上は何も言わないまま、ジェロニモが、鍋を、このまま火に戻そうかどうか迷った一瞬のすきに、その脇を、ハインリヒがすり抜けて行った。
 「おい、どこに行くんだ。」
 思わず、声を上げて背中へ手を伸ばしたけれど、届かないまま宙で空回り、ハインリヒの背中は、そのまま玄関へ向かう壁の向こうへ、消えてしまいそうになった。
 一度消えて、それから、思い直したように、ハインリヒの横顔がのぞいて、ジェロニモが、少しだけほっとして、前に出しかけた足を止めた時、
 「俺は、24時間、機嫌を取られて、顔色をうかがわれてるなんて、まっぴらだ。」
 まるで、横面を張られたように、その場で動きを止めて、らしくもなく派手な音を立ててドアを閉めたハインリヒの気配が、足早に遠ざかってゆくのを耳で追いながら、ジェロニモは、ほんの数瞬ではあったけれど、呼吸を止めていたのに気づいて、しぼんでゆく風船のように、足元に向かって大きく息を吐き出した。
 痛いところを突かれたなと、ハインリヒの言ったことを反芻しながら、けれどその痛みをごまかすために、ひとりでは決して食べ切れないだろう、チーズケーキの行く末の方を、今は心配---しているふりを---する。
 なあ、どうしたらいいと思う、と、思わずチーズケーキに向かって話しかけそうになって、ジェロニモは、慌てて口をつぐんだ。
 一切れ分欠けて、完全な丸ではない、今はふくらみもないチーズケーキが、今の自分そっくりに見えた。



「舌打ち」

 言いたかったことを言ってしまえて、あれで良かったのだと、自分に言い聞かせる。
 ひどいことを言ってしまったのだと思いながら、それでも、口をつぐんで、作り笑いでこれから先をずっと過ごすくらいなら、傷ついてしまっても、傷つけてしまっても、胸の底にたまった澱を、吐き出してしまった方がいい。
 ジェロニモのアパートメントを出て、もしかすると、追って来るかもしれないと、そう未練がましく思って、息を継ぐふりをして、外から建物を振り返った。
 足音も、人の気配もなく、自分から飛び出して来たくせに、ひとり置き去りにされたような気がして、ハインリヒは、ちくしょうと口に出してから、足元の地面を蹴った。
 言った先が、自分なのかジェロニモなのかわからず、数瞬そこで、まだ立ち止まったまま、ハインリヒは目の奥の痛みをこらえていた。
 仕方がないだろう。
 口をついて出たのは、そんな言葉で、それが一体何を指し示すのか、きちんとは自分自身にすら説明できない。
 素直な気持ちを正直に、ねじ曲がった形で吐き出してしまったのだと、そう自覚するのが怖かった。
 自分に対する憤りは、ジェロニモに対する理不尽な怒りにすり替えられ、あんたが悪いんだと、またアパートメントを振り返ってつぶやく。
 それをうそだとわかっていて、けれどハインリヒは中へは戻らず、そのまま真っ直ぐに歩き出した。


 グレートの店には、しばらく顔を出さないことに決めた途端、仕事が入って、数日留守にした。
 戻ってみると、案の定ジェロニモからの伝言が電話に残っていて、元気なら電話をくれと、静かな声で繰り返されていた。
 それを全部消して、電話を掛け直すことは、わざとしなかった。
 それでも、仕事でいないとわかっている時間に電話をして、伝言は残さずに切るということを、数回して、そのたび深くなる自己嫌悪を、どうしていいのかわからないままでいた。
 久しぶりにひとりきりになって、一体どうやって時間をつぶせばいいのか、わからなくなってしまっている自分を見つけて、ハインリヒは愕然とする。
 何をしていても、ごく自然にジェロニモのことを考えている自分に気がついて、思わず手が止まる。
 一緒にいられれば、もっと楽しいだろうとか、ジェロニモは、こんなことが好きだろうか嫌いだろうかとか、今度会った時に話して聞かせようとか、ありとあらゆることが、ごく当たり前のように、ジェロニモに結びついてゆく。
 ひとりでいる部屋の空気が、薄いような気さえした。
 もしかすると、自分はもう、ジェロニモなしでは、まともに呼吸すらできないのかもしれないと、有り得ないことさえ考える。
 いつまでもぐずぐずとベッドにいて、起きても、食事をする気にもならなけれが、外へ出る気にもならない。ソファに横になって本を読むのがせいぜいで、そうしていても、字面を追っている目は、けれど内容を読み取ってなどいない。
 自分が、こんなに退屈な人間だったのかと、驚いて、それからハインリヒは、何度もせつなくなった。
 開いたページを指先でもてあそびながら、それでも、これでいいのだと、言い聞かせている自分がいる。
 あんなふうに、誰かに依存してしまうことが、とても健康的なことだとは思えなくて、呼吸する方法さえ思い出せないほど、ひとりで何もできなくなってしまっていることが、良いことのはずはなかった。
 ごく当たり前のように、いつも誰かと並べて、自分のことを考えることが、怖かった。自分は、どこまで行っても自分でしか有り得ないはずなのに、誰かと一緒にいるという、その事実だけで、自分が失われてしまうのが、心底恐ろしかった。
 ひとりとひとりはふたりになれても、ふたりは、ひとりとひとりにはなれないのだと、そう思い知る前に、ひとりに戻る必要があった。
 ひとりきりでいることは、決して苦痛ではなかったし、自分はそうあるべきなのだと、知っている。誰もいらない。誰にも必要とされる必要はない。
 どうして、よりによって、こんな自分と一緒に暮らしたいと、あの男は言うのだろうかと、ひとりで首を振る。
 悪趣味もいいところだと、思って、それでも、ただいまと帰る場所に、必ずあの男がいてくれるという生活を、こっそりと想像する。
 そんな想像が、自分の胸を暖めてくれるのに、ハインリヒは、拒むように激しく首を振った。
 現実に、そんなことは、有り得ない。
 あまりにも長くひとりでいすぎていて、四六時中、隣りに誰かがいる生活など、考えるだけでぞっとする。
 俺は、ひとりでいたいんだ。
 ソファに坐ったままで、部屋の中を見回した。
 自分以外の誰も触れることのない、本やレコードや、小さな家具と、何よりも、すっかり馴染んでしまった、ひとりだけの空気。
 それを誰かと共有することが可能だとは、どうしても思えなかった。
 何を求めているのか、わからなくなってしまっている。一緒にいたいと言うことが、ハインリヒにとっては、一緒に暮らすということではなく、けれどそれを、どうやって伝えればいいのかがわからない。
 そして、うまく伝えられたとしても、結局求めるものが違うなら、一緒にいる意味はないように思えて、だから、もう会わない方がいいのだと、そう思う自分がいる。
 そう思う端から、会わないつらさに耐えられそうにない自分を見つけて、勝手にくじけそうになる。
 一体、どうしたいのだろうかと、自分に問いかけて、答えが返って来ないことに、またひとりで焦れる。
 それでも、じきに慣れてしまうに違いないと、大きく息を吐き出した。
 自分でいれた紅茶の味気なさに舌を打って、ハインリヒは、無理矢理に本に視線を戻して、ジェロニモのことを、頭から追い払おうとした。
 あのチーズケーキは、結局どうなったのだろうかと、思ってから頭を振る。
 小さなキッチンを見やって、あれなら俺にだって作れるさと、声に出してつぶやいていた。



「雨上がり」

 夜からずっと降り続いていた雨が、やっと午後になってやみ、特に何と言うあてもなく、まだ湿ったままの、けれど濡れる恐れはない空気に引き寄せられるように、ハインリヒは自分のアパートメントを後にした。
 夕方近く、金曜のせいか、いつもより密度の濃い人並みに、肩を丸めるようにしてまぎれ込み、何となく下を向いて、歩く。
 ここ2、3日、雲行きの怪しい天気ばかりで、外に出るのが億劫だったのは誰もが同じことなのか、行き交う人たちの表情が、奇妙に明るいのが、ハインリヒにはまぶしく見える。
 雨が降ると、腕が痛むことがある。肩に接いだ金属の部分から、ぎしぎしと、いやな音が聞こえるような気がして、気づかない間に、何度も右肩を撫でている。
 右腕の痛みが、義手からなのか、それともとうに失くなってしまった生身の腕からなのか、どちらからにせよ、そんな痛みは存在するはずがないのに、しっかりと首の後ろから、痛いと感じろと、信号が送られてくる。
 今もまだ、その痛みが、かすかに右腕の肘の辺りをうずかせていた。
 歩きながら、何度か右肘を押さえて、そうして、その手を、今度は胸の辺りに滑らせる。もっと強い、はっきりとした痛みは、ずっとそこにある。もしかすると、その痛みをごまかすために、右腕が痛んでいるのかもしれないと、馬鹿げたことを考えた。
 ジェロニモに会わなくなって、数週間が過ぎていた。
 グレートの店には一歩も近寄らず、電話は必ず留守電を通し、週に2度ほど、ジェロニモが律義に残すメッセージは、聞きはしても、返事を返すことはしない。
 何か、確かなことを、約束したわけでもない間柄では、関わりを解消するのに、特別な手続きがいるとも思えず、このまま自然に終わってしまうことを、ハインリヒは祈っていた。
 もちろんそう思うのが、自分ひとりの勝手な思い込みだと言うことは百も承知で、そして、そう思い込んでいるふりをしているのを、ジェロニモはもちろん知っているだろうと思いながら、別れ話をきちんと切り出す鬱陶しさを避けるために、ハインリヒはあえて卑怯者に成り下がっている。
 第一、と、店のショーウインドウを眺めるふりをして、足を止める。そうして、少しばかり肩の下がった自分の姿を、横目に見た。
 いつだって、別れる話を持ち込まれるのは自分の方で、だから、一体どんなふうに自分から終わらせればいいのか、皆目見当もつかない。
 自分のずるさをひどく嫌悪して、そうやって、自分の技量と経験のなさを嘆くふりをして、実のところ、ほんとうの問題から目をそらしているのだと、必死で気づかないふりをする。
 何もかも、すべて言い訳だ。
 ショーウインドウに、革手袋に包まれた掌を当てた。
 そうやって、熱心に中を覗いているふりをして、目に映っているのは、ひとりきりの自分の姿だった。
 隣りにも後ろにもジェロニモのいない、ひとりきりの。
 悪いのは自分だと、きちんとわかっている。
 ふたりでいることに慣れ切ってしまうのが怖くて、またひとり取り残されることに、今度は耐え切れないような気がして、そして何より、ふたりでいることが、つまりは自分自身であることを明け渡してしまうことだと、思い込んでいる自分がいて、俺は俺だと、そう言い切れなくなってしまいそうなことが、何よりも恐ろしかった。
 ジェロニモの、あの包み込むような優しさに甘えてしまえば、今度はひとりで立てなくなる。人は所詮独りだとうそぶきながら、そのことに傷ついてしまう、そんな想像にすら傷つく自分が情けなくて、だから、ハインリヒに出来ることは、そうなってしまう前に、ジェロニモを切り捨てることだった。
 あくまで、あんたが悪いんだと、甘やかしてくれるジェロニモの優しさだけを責めて、自分の本心は隠したまま、その上、正面切っての衝突は避け、ジェロニモを置き去りにして、ひとりで去ってしまおうとしている。
 ガラスに映る自分の、情けない顔を眺めて、ハインリヒはまた、これでいいのだろうかと思った。
 ほんとうに、そうしたいのだろうか。傷つくのが怖いから、傷つく前に逃げ出そうとしている。自分を失うのが怖くて、必死に守ろうとしている。けれど、それほど大事に思う自分は、ほんとうに、それほど大事なものなのだろうか。そもそも、ほんとうに、それほど大事な自分というものが、存在するのだろうか。
 あの、ひとりきりのアパートメントに置いてある、自分の持ち物が浮かんだ。本の山と、レコードやCDの群れと、大袈裟にはしなくても、大事にしている、小さなものたち。それらは、たとえジェロニモと一緒に暮らして、ジェロニモの持ち物と混ざってしまったとしても、すぐにハインリヒのものとわかる。どこへどう置こうと、ハインリヒのものは、ハインリヒのものだ。
 自分のもの、と思った時に、ふと、あのおもちゃのピアノもその中に入っていたのに気がついて、ハインリヒは、情けない顔のまま、苦笑を浮かべた。
 その苦笑を消してから、ようやくまた歩き出す。


 どこか行くあてがあったわけでも、用があったわけでもない。
 そろそろ夕暮れる街の中で、人ごみからつとめて目をそらしながら、これからどうしようかと、ひとり思案する。
 映画でも見て、どこかで食事でもして帰れば、すぐに寝る時間になるかなと、左手首の時計を見下ろした。
 明日から仕事が入っている。ひとりで飲む気はないし、あまり遅くなるつもりは、最初からなかった。
 人の波に乗って、とりあえず歩きながら、何の意味もなく交差点を渡る。渡りながら、映画館はどっちだったかと、ゆっくりと首を回した。
 そうして、1軒の店の前に、大きなクマのぬいぐるみが飾ってあるのに、目だけではなく、足を止めた。
 一抱えはありそうなそのクマは、首に真っ赤な、大きなリボンを巻いて、重さのせいでしょぼくれたように肩を落とし、鼻先が、胸にくっつきそうになっていた。
 不意にまた、右腕が痛み、肘に手を添えて、ハインリヒはまるで引き寄せられるように、そのクマの前へ歩いてゆく。
 ぬいぐるみのクマは、目の前で見るといっそう大きく、茶色の毛は、撫でれば掌にふさふさと気持ち良く、けれど朝からの雨のせいか、ほんの少し湿っているように思えた。
 店先で、客寄せのためか、小さな椅子に坐らされているクマは、場違いに肩をすぼめているようにも見え、頭を撫でたりそこだけ薄茶色の手を持ち上げたり黒い革でできた鼻をつまんだりしながら、ハインリヒはどうしてかそこから立ち去れずにいる。
 若い女の子たちが喜びそうな店構えは、気まぐれで足を止めるにしても、ハインリヒにはまったく縁のない類いの店で、中をちらちらと眺めても、ハインリヒの気を引きそうなものなど、どこにも見当たらない。
 長い間、クマの手を握って、きちんとまぶたも作ってある目元を、ぼんやりと、けれど右腕の痛みを気にしながら見下ろしていた。
 ぬいぐるみのクマが、今にも泣き出しそうに思えて、淋しそうに見えて、気がつくと、ハインリヒは、右腕の痛みを忘れたように、椅子からクマを抱き上げていた。
 まるで、子どもを正面から抱きかかえるようにして、ハインリヒは財布の中身を思い出しながら、店の中へ入って行った。



「地、固まる」

 レジの若い女の、少しばかりぎょっとした顔を思い出して、ハインリヒはまた、ばかなことをしたと、唇の端を下げた。
 大きすぎるぬいぐるみのクマを、何とか包もうとした店員たちの手を止めさせて、むき出しのままで抱えて店を出たのは、別に彼女らの苦労を慮ってのことではなく、単に、そうやって金曜の夕暮れ時の繁華街を、似合わない格好で歩いて、笑われたかったからかもしれなかった。
 自分の愚かさを、そうやって自覚して、自分を嘲笑ってしまいたかった。
 ぬいぐるみを小脇に抱えて、恥ずかしくて顔も上げられないくせに、わざと遠回りをして歩く。こんな格好で、映画を見る気にもなれず、いっそどこかのレストランにでも入って、ふたり分の席を用意させて、向いの椅子にこのぬいぐるみを坐らせようかと、そんなことまで思った。
 さすがに、そこまで自虐的な冗談を実行する気にはなれず、幸いに、周囲の人間たちは自分たちのことで頭が一杯なのか、ハインリヒとぬいぐるみの奇妙な取り合わせを、ハインリヒ自身がそう期待したほどはじろじろと眺めては来ない。
 もっとも、それも単に、ハインリヒがあまりに哀れに見えて、視線をそらしているだけかもしれなかったけれど。
 素晴らしくみじめだ、と、抱えたクマをちらりと見て思う。
 ほんとうに、ほんとうに、素晴らしくみじめだ。
 知らずに、口に出してつぶやいていた。声がうっかり大きくなっていたのか、傍を通ったふたり連れの女たちが、ハインリヒの方をちらりと見て、胡散臭そうに眉をひそめる。
 雨の後の人ごみの中で、まるで、ハインリヒだけがひとり、頭上に雨雲を抱えているようだった。
 自分の姿の恥ずかしさに、ついに耐えられなくなって、ハインリヒはひとり歩きを切り上げることにした。
 心の中に雨が降り出してしまう前に、クマを抱えて家に帰ろうと、足を速めた。


 人気のない道を選んで、アパートメントへ向かいながら、今さらぬいぐるみの大きさが気になり始める。
 こんなものを、部屋のどこに置くんだと、自分のしでかしたことに、改めて呆れ返りながら、それでも店に返しに行けばいいとは思わず、クマを抱えた腕に力を込めて、大きすぎるぬいぐるみにではなく、自分だけにきちんと腹を立てようと、また下らない努力をしてみる。
 クマを見下ろして、突然、もっと広いアパートメントへ引っ越すという、何の脈絡もない考えが、頭に浮かんだ。
 もっと広い部屋なら、ぬいぐるみを置く場所も、あのおもちゃのピアノを置いておく場所もつくれる。ジェロニモを招いて、どこに坐らせようかと、悩む必要もなくなる。
 問題はそこではないのだと、わかっていながら、一瞬、それがすべてを解決してくれるような気がした。
 思わず、立ち止まって考え込んだ。
 自分の、自分だけの、居場所が欲しい。たとえ何があっても、ひとりきりで、すべてを忘れてしまえる場所が欲しい。
 だから、誰かと暮らすために、自分の場所を捨てるなんて、まっぴらだ。
 自分勝手な言い草ではあったけれど、簡潔でわかりやすい言い分だと、自分で思った。飾りと気遣いをどけてしまえば、つまりはそういうことだ。
 それから、ジェロニモのことを思った。
 どちらが、自分にとって大切なのだろうかと、大きなぬいぐるみのクマを小脇に抱えた、ひどく珍妙な格好のまま、もう少しだけ深く、考え込んでみた。
 口元を右の掌で覆って、勝手に動いて、名前を呼んでしまいそうになる唇を隠して、あっさりと出た答えに、驚きながら、クマをまた見下ろした。
 あちこちに飛んで、いっそう脈絡を失う思考をそのままにして、それでもひとつだけ確かな答えを拾い出して、止まったままの爪先を眺める。
 あんたと、一緒にいたい。
 アパートメントに戻ったら、クマの坐る場所を決めて、紅茶をふたり分いれて、ぬいぐるみ相手に、話し合いの練習をしようと思った。ぬいぐるみと同じほど無口なジェロニモ相手だから、きっと悪い考えではないだろう。
 何なら、仕事に一緒に連れて行って、助手席に坐らせて、運転中、ずっと話しかけていればいい。そうすればきっと、ジェロニモときちんと話をする時に、戸惑わなくてすむ。
 似合わない冗談を、本気で決行するつもりでいるほど、ハインリヒは、追い詰められていることに、やっと気づいていた。
 大切なものを、失いかけている。腕を伸ばして引き止めたいなら、早い方がいい。そうでないなら、空っぽの掌を見下ろして、またひとり、みじめさを味わう羽目になる。
 自分が考えたことを、きちんと伝えようと、考えをまとめるためにぶつぶつとつぶやきながら、ハインリヒはまた、アパートメントへ向かって歩き出した。
 すっかり暗くなり始めている路上を、ぼそぼそ何か言いながら、大きなぬいぐるみを抱えて歩く姿は、幸いに誰にも見咎められずに、怪しまれて警察を呼ばれることもなく、無事にアパートメントの階段にたどり着いて、ハインリヒはまだぶつぶつ唇を動かしながら、ゆっくりと階段を上がって行く。
 そうして、階段を上がり切って、つぶやき終わってやっと動かなくなった唇が、またぽっかりと開いた。
 ハインリヒのアパートメントのドアに寄りかかって、コンクリートの床を蹴る爪先を眺め下ろしているジェロニモの姿が、そこにあった。
 肩を落とした姿は、いつもよりも小さく見えて、皿に乗せて、ラップをかぶせたチーズケーキを片手に乗せているのにハインリヒが目を止めたのは、一瞬後のことだった。
 階段を上がって来た足音が進まないのを訝んだのか、ジェロニモが足元から顔を上げて、目の前のハインリヒに、ようやく気づく。
 あ、の形に唇が開いて、けれど声は出ず、ハインリヒも、開きっ放しになっていた唇を閉じて、それから、抱えていたクマを、慌てて背後に隠した。
 ぬいぐるみを見咎めたのか、ジェロニモの視線が動いて、目元が、微笑むようにかすかになごむ。その表情に、ハインリヒは、一瞬見惚れた。
 頬が赤く染まるのを止められず、無駄と思いながら、視線をそらして、まるで何かに腹を立てたように滑った爪先が、じゃりっと音を立てた。
 まだ、腕を伸ばしても届かない位置で、けれどジェロニモの傍へ行かなければ、アパートメントのドアを開けられず、どうしようかと思案して、うろうろと視線をさまよわせながら、唇を噛む。
 「邪魔なら、悪かった。」
 ハインリヒの表情を、どう読んだのか、ジェロニモが低い声で、歯切れ悪く言った。
 ようやく真正面を向く気になって、顔の位置を元に戻し、上目遣いにジェロニモを見てから、チーズケーキの方をちらりと見た。
 「・・・あんたは、どうしたんだ、一体。」
 話すべきことはもっと別にあるのに、口をついて出たのは、そんな台詞だった。言ってしまってから、胸の中で自分を大声で罵って、ハインリヒは生まれて初めて、自分のことを、今すぐ生き埋めにしてやりたいほど、嫌な、どうしようもない奴だと思う。
 訊かれて、今度はジェロニモが居心地悪そうに肩をすくめ、うっすらと染まった頬をこちらに向ける。
 「・・・いや・・・久しぶりにうまく焼けて・・・ひとりだと余ると・・・」
 この男でも、こんなふうに喋る時があるのかと、低くかすれそうになる声を聞きながら、背中に抱えたクマの腹の辺りを、ハインリヒはぎゅっと握った。
 間を置いてから、ばつが悪そうに、ジェロニモが続けた。
 「出てから、鍵を、中に置き忘れたことに気づいた。」
 「鍵?」
 「・・・合鍵を、渡したろう。」
 ああ、あれかと、少しだけ拍子抜けして、素直にうなずいて見せる。
 「鍵がないと、帰れないんだ、どこにも。」
 言葉の最後でようやく、声がいつもの調子を取り戻す。
 ジェロニモが持って来たチーズケーキは、確かに表面に目立った焦げ目もなく、きれいに焼けていた。
 あの時のチーズケーキは、結局ジェロニモがひとりで食べてしまって、後で胸焼けでも起こしたのだろうかと、そんなことを思いながら、ハインリヒはいつの間にか、背中に隠していたぬいぐるみを、体の前で抱きかかえていた。
 練習する前に本番かと、ぬいぐるみがもっと大きければ、顔も隠せるのにと、往生際の悪いことを思いながら、聞こえないように、大きく息を吸い込む。
 それから、クマを左手に持ち替えて、大きな歩幅でドアに近寄ると、ジェロニモの方は見ずに、ドアに、ポケットから取り出した鍵を差し込んだ。
 がちゃがちゃと、わざと乱暴な音を立てながら、
 「あんたも、意外とおっちょこちょいだな。」
 「・・・すまん。」
 上から、ほんとうに、申し訳なさそうな声が降ってくる。
 鍵を回す手を止め、ノブから鍵を抜き取る前に、ハインリヒは、やっと顔を上げて、ジェロニモを真っ直ぐに見つめた。
 「あんたも、俺の合鍵を、預かってくれるんだろう?」
 思ったよりもずっと、優しい声が出た。
 言った途端に、ジェロニモがあごを引いて、ひどく驚いた顔でハインリヒを見下ろした。
 鍵をポケットに戻してから、ドアのノブを、右手で、ゆっくりと握って、回した。
 「・・・明日、一緒に、スペアを作りに行こう。」
 視線は手元に落としたまま、けれどはっきりとそう言って、ドアを開きながら、ドアの影に半分隠れてゆくジェロニモの顔を、ちらりと横目で追う。
 まだノブを握ったままのハインリヒの右手に、ジェロニモが、かぶせるように、自分の手を乗せて来る。
 「言っとくが、ここは狭いぞ。」
 部屋の中へ入りながら、振り向かずに、念を押すように、後ろに声を掛ける。ノブから一緒に離れた手は、握り合ったままだった。
 明日の仕事は、休むことに、とっくに決めてしまっている。こんな決断だけは早い自分の現金さを、胸の中で笑う。
 「狭い方が、いいこともある。」
 かすかに笑いを含んだジェロニモの声に振り返って、ぬいぐるみは片手に持ったまま、ハインリヒは、右腕をジェロニモの首に巻きつけた。
 自分に向かって伸びた腰を、ジェロニモも、チーズケーキの皿を気にしながら、片腕で抱き寄せる。
 「お茶は、後にしよう。」
 ふたりで、重なった唇のわずかなすき間で、同じことを同時に言った。
 言い訳のたくさん必要なふたりの後ろで、閉じたドアの鍵が、かちんと音を立てて締まった。


        後書き&オマケ