the way i feel
(10)
悪くないホテルだった。
部屋も広くて、ベッドも快適で、シャワーの湯が熱いのが何より好みだ。コズミとは別部屋なのが有難かった。
一応は、世話になる立場ということはわきまえて、朝早くにきちんと起き出すと、電話でコズミを起こし、一緒に朝食を取った。
頭の中の翻訳装置のおかげで、ドイツ語をしゃべっているつもりのハインリヒの口から出るのは、コズミに負けない流暢な日本語だ。観光地ではない街のホテルのレストランは、ごく普通のアメリカ人であふれていて、どちらかと言えば髪も瞳も色の濃い人々の中で、ハインリヒはひどく目立つ。白いひげと髪の東洋人と一緒なら、しかも使う言葉が英語ではないなら、余計にだ。
ウェイトレスが、彼らを外国人と見て取ったのか、わざわざゆっくりと喋ってくれる。意地悪をするつもりではなく、それにこれも流暢な英語を返して、ハインリヒは彼女に間違った印象を与えてしまったらしい。肩に手を置かれたり、コーヒーのお代わりをやたらに訊きに来たり、普通の人間に体を触られることが苦手なハインリヒは、彼女に触れられるたびに、うっかり肩を引いていた。
コズミが、おかしそうに笑っている。
「ジェロニモ君には、電話をしたのかね。」
目玉焼きの黄身を、ちぎった薄いトーストですくいながら、コズミが訊く。
「アンタを見送ってからにするつもりだ。」
ころんと小さく切ったじゃがいもをフォークですくいながら、ハインリヒは平たく答えた。
「ワシが戻った時に、キミがおらんでも心配はせんよ。」
「さあ、向こうが急でつかまらないかもしれない。」
わざととぼけてそう言うと、コズミはひげを汚さないように、慎重にベーコンを口元へ運びながら、上目にハインリヒを見た。
「・・・それなら、ワシと一緒に学会へ顔を出すといい。何なら、終わった後で観光でもかまわんよ。」
「それとも、バーで一杯やりながら、チェスか碁で雪辱戦と行くか。」
コーヒーのカップを、乾杯でもするように持ち上げて見せると、コズミが目元にしわを寄せて笑う。
「何でも、キミの好きにするといい。ワシはとりあえず、関係者に捕まらんように、こっそり会場の隅に坐っておこう。」
「見つかると、まずいことでもあるのか。」
「大学での講義を頼まれると困るんでな。人前で喋るのは、苦手なんじゃよ。」
「・・・だったら、ロシア語で喋ってやればいい。」
「ポーランド語の方が得意なんじゃが。」
見る人が見れば、高名な学者とその助手くらいには見えたかもしれない。
あのウェイトレスが、愛想の悪いハインリヒに今は機嫌を損ねて、無言でふたり分の朝食の代金を記した紙を持って来て、つんと肩をそびやかして去って行った。
コズミは、彼女のために、少し多めのチップをテーブルに残し、ふたりはレストランを後にした。
コズミの部屋に一緒に行って、まるでほんとうの助手のように、ハインリヒは、もう一度身支度を整えにバスルームへ入ったコズミのために、脱いだ上着の肩や腰周りのしわを伸ばして、それから、どのネクタイにするかと、バスルームの中へ向かって声を投げた。
出て来たコズミの、ワイシャツの袖のボタンをとめてやり、ネクタイを手渡し、それから、上着を着せ掛けてやった。
コズミは、年季の入った革のブリーフケースを持つと、ネクタイの結び目をもう一度鏡で確かめて、にっこりとハインリヒを見上げる。
「ほんとうに、今日行ってしまっても、ワシはかまわんよ。」
ひどく優しく言う。まるで、孫を甘やかそうとしている祖父のようだ。
ハインリヒはうっかり頬を染めて肩をそびやかし、コズミから目をそらした。
一緒に部屋を出て、エレベーターへ向かうコズミと、そこで別れることになる。
「忘れ物はないか。」
もう一度確かめると、革のカバンを持ち上げて、
「ペンとノートしか、必要ないからな。原稿なんぞ読まんでいいのは楽でいい。」
じゃあと、コズミはハインリヒに向かって手を振り、エレベーターの方へ、背中を丸めて歩き出す。
廊下を曲がるその背を見送ってから、ハインリヒは、大きく息を吐き出して、首の後ろを撫でた。
さて、これでもう、何もすることはない。ジェロニモに電話をするだけだ。
電話をしたところで、いないかもしれないから、今日一日、無駄にしてしまうかもしれない。それならひとりで街に出て、ふらふらうろついてもいい。それともこれから走って、コズミを追い駆けて、一緒に学会の会場の隅で、居眠りでもしていようか。
さてと、と声に出してつぶやいて、ハインリヒは、自分の部屋へ向かって肩を回し、けれど一歩前へ踏み出すのに、もう十数秒掛かった。
ジェロニモが日本を離れた時にくれた、住所と電話番号を書いた紙と、もらった葉書のうちの1枚と、その両方を手にして、ハインリヒはベッドに腰掛け、電話を見つめている。
別に、深く考えることはない。もし電話に出たら、元気かとまず訊けばいいのだ。
声の調子で、どんな気分がすぐにわかる。その自信があった。
またひとつ深呼吸をして、ハインリヒはみぞおちの辺りを右の掌で撫でて、そのまま、電話に手を伸ばした。
番号を押す指先が、情けなく震える。何とか間違えずに終わると、恐る恐る受話器に耳を寄せた。
間延びした呼び出し音が鳴っている。1回、2回、ため息、3回、がっかりしたような、安堵のような、不思議な気分になる、4回目が鳴ったところで、ジェロニモの声が聞こえた。
一瞬、きちんと反応できずに、間が空いた。息を飲んだ音が、きっと向こうに伝わったろう。ハインリヒは、空いた手を喉に当てて、やっと声を出した。
「ジェロニモか。俺だ。」
ハインリヒ、と驚いたような声は、意外ということなのか、それとも喜んでいるからなのか。
──どこからだ? 日本か?
弾んだ声が、続けて訊いた。
その声にうれしくなって、ハインリヒは少し焦らすように、まずは笑い声を小さく立てる。いたずらをしているような気分だ。
「いや、実は、アメリカにいる。おまえさんのいるところに、すぐ近くだ。」
街とホテルの名前を言うと、ジェロニモがまた驚いた声を上げた。
何かあったのかと、やや心配そうに、自分たちが馴染みのない土地へ出向く時は、何か厄介事のある時が主だったから、ジェロニモも、きっとそれを考えているのだろう。ハインリヒは、受話器に耳を押しつけて、また笑った。
「いや、コズミ博士の、学会の付き添いだ。もっとも、別にそれに付き合う必要はないんだ。」
いつの間にかベッドから立ち上がり、そわそわと小さく円を描くように歩き回って、ハインリヒは壁と向かい合っている。向こう側で、じゃあどうしたんだと、ジェロニモが怪訝そうに黙る。
唇を合わせて、湿して、必要もないのに、声をひそめた。受話器にもっと近く顔を寄せて、まるで秘密を打ち明けるように、ようやく意を決した。
「おまえさんに、会うために来た。」
どういう意味なのか、きちんと伝わったのかどうか、自信がなかった。
もしかしたら、すでに終わってしまったこと──あるいは、始まってすらいないこと──を、蒸し返しているだけなのかもしれない。
すぐには何も言わないジェロニモに、日本からまず連絡を入れておくべきだったかもと、すでに後悔し始めている。
やはりひとり相撲だったのかと、思い始めた頃に、ジェロニモがようやく言葉を継いだ。
──・・・いつ会える?
思ってもみない反応だった。
弾むようにくるりと背中を回して、ハインリヒはズボンのポケットに手を入れながら、うっかりうれしさに飛び上がる肩を、すくめるような動作でごまかした。
「いつでもいい。何の予定も入れてない。言ったろう? 俺は、おまえさんに会いに来たんだ。それ以外にすることなんか、何もない。」
最初に比べれば、ずいぶんとなめらかになった口先が、ずいぶんと素直に物を言う。声までやわらいでいるのに、ハインリヒは気づいていない。
ホテルの名前と部屋の番号を、ジェロニモが訊いた。向こうで、がさがさと音がしているのは、紙か何かにそれを書き留めているのだろう。
──これからすぐに行く。40分くらいだ。
早口にそう言って、ハインリヒの返事を待たずに電話が切れた。
そのままドアから駆け出して行くジェロニモの姿が、見えたような気がした。
おいちょっと待て、ほんとうか。ほんとうに、今日会えるのか。
受話器を下ろさずに、まるでそこにジェロニモが見えるとでも言うように、ハインリヒはやや混乱気味に、電話の本体をじっと見つめている。
40分、とつぶやいてから、電話のそばにあるデジタル表示の時計を見た。
とても長くて短い40分だと、そう思いながら、ようやく受話器を元に戻した。
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