the way i feel


(11)

 さすがにきっかり40分というわけには行かず、それでも1時間足らずで、ほんとうにジェロニモはハインリヒのところへやって来た。
 40分を過ぎた辺りで、もうそわそわとドアの前を行ったり来たりしていたから、最初のひとつ目のノックで、二度目がドアに触れる前に、ハインリヒは誰かを確かめもせずに、大きくそのドアを開ける。
 ドア枠よりも大きなジェロニモの、目のある辺りに、もう視線を据えて、ハインリヒは、そう期待した通りにそこに立っているジェロニモに、大きく微笑みかけた。
 ノックの途中で止まった手をそのまま、ジェロニモが、どこか照れたように、ハインリヒに微笑み返してくる。
 「迷わなかったか。」
 「この辺りへは、わりとよく来る。」
 中へと招き入れる仕草に従って、ジェロニモが、ようやく前へ足を踏み出し、軽く背を丸めて部屋の中へ踏み込んで来る。静かにドアを閉めるハインリヒを待って、まだ奥へは入らない。
 ドアを閉めた後も、そこへ立ち止まったまま、ふたりは、はにかみながら見つめ合った。
 部屋は明るくて、カーテンを閉めない窓の向こう側には、通りふたつ分隔てて、背の高いビルが見えた。
 「コーヒーでもどうだ。」
 ああ、とうなずいたジェロニモを促して、ふたりはようやく奥へ行く。
 「元気だったか。」
 ジェロニモが先に訊いた。
 「ああ。おまえさんは、忙しいんじゃないのか。」
 そう訊いたハインリヒに、ジェロニモはただ肩をすくめて見せる。ハインリヒは、自分のためにそれ以上は問わないことにして──この急な呼び出しに応えるために、どんな無理算段をしたか、今は知りたくないし考えたくない──、窓際にある椅子をジェロニモに勧めた後で、ルームサービスでコーヒーをふたつ頼んだ。
 それから、ジェロニモの向かい側に座り、こうなれば、一体何を話していいのかわからずに、けれどその戸惑いすら楽しくて、ひとり微笑んでばかりいる。ジェロニモも、そんなハインリヒを、うっすら笑って眺めているだけだ。
 意味もなく、むやみにタートルネックの薄いセーターの首元に指を差し入れ、暑いというわけでもないのに、そこへ風を送り込むような仕草をする。そうしながら、ハインリヒは、もうジェロニモに触れることばかり考えていた。
 夕べひとりで寝たクイーンサイズのベッドは、今はすっかりきれいに整えられて、ジェロニモには少しばかり大きさが足りないだろうかと、肩をすくめる振りで後ろを振り返りながら、こっそり不安になる。
 不安に感じる自分を、昼間からろくでもないと、胸の中でたしなめて、それでも、それを期待せずにはいられない。互いにそのつもりがないわけではないだろうけれど、それを自分から言い出す勇気は、ハインリヒにはなかったし、まさかジェロニモをベッドに引きずり込むような真似もできない。
 会うということが、こういう意味合いを含むのは、とても久しぶりだ。だから、きっかけを探して、あれこれ益体もないことを頭の中で考えている。
 妙な空気を救うように、またドアがノックされる。コーヒーがやって来た。受け取りのやり取りには数分もかからず、部屋のドアを閉める時にハインリヒは、ジェロニモが見ているかもしれないことには構わず、"Do Not Disturb"の札を、ドアの外に掛けておいた。
 これが精一杯の意地表示だ。もっとも、久しぶりにゆっくり話をするのに、邪魔をされたくないと、そう言い訳もできると、逃げ道を用意しておく卑怯さは忘れない。
 ジェロニモの方へ戻って来ると、テーブルに置かれたコーヒーにはまだ手を着けずに、ジェロニモが立ち上がってハインリヒの方へやって来る。
 ハインリヒが椅子に手を掛ける前に、まるでそれを妨げるように目の前に立ち塞がって、ジェロニモは、ハインリヒの頬に両手を伸ばした。
 あごと耳の後ろと頬半分に、大きな掌が添う。縦横に走る白い刺青が、触れそうに近づいて来た。
 持ち上げられたあごに従って、気づかれないように背伸びをする。ただ白いだけのジェロニモのシャツを、両手で握り締めて、重なって来る唇のために、そっと目を閉じた。
 唇が触れた瞬間に、テーブルの上のコーヒーのことは、ふたり一緒に同時に忘れた。
 抱きしめられて、ジェロニモが、肩の辺りに頬をすりつける仕草をする。薄いセーター越しに、ごりごりと硬い骨が当たる。
 時々手の位置を変えながら、ハインリヒを抱きすくめる腕の強さは変わらない。まるで確かめるように、深く息を吸い込む音が、首の辺りで聞こえた。
 ほんとうに、ここまでやって来たのだと、初めて自覚しながら、ハインリヒも、ジェロニモの胸に額をすりつけた。
 これはひとまず、歓迎されているのだと、自惚れてもいいのだろう。
 しがみついて、また首を伸ばして、唇を寄せた。
 互いに、首の後ろを探りながら、3歩分向こうにあるベッドに、そろそろと近づいてゆく。上掛けをめくる余裕などあるはずもなく、ジェロニモの上に覆いかぶさる形で倒れ込む。ジェロニモの上に乗ったまま、ハインリヒはセーターの裾を自分で引き出した。
 ためらいも戸惑いもなく、その下へ、ジェロニモの大きな掌が入り込んでくる。
 今はもう、装甲が剥き出しのままの辺りへ触れられても、肩を引くことはしない。背骨を滑って、固く盛り上がった肩甲骨に、ジェロニモの手が乗った。
 ジェロニモの頭を抱え込んで、呼吸を奪うように唇を重ねる。
 そうしながら、ふたりは体の位置を入れ替えて、ふたりには大きさの足りないベッドの上で、すぐにはみ出そうとする手足を、しっかりと互いの体に絡ませようとしていた。
 足が何度も床に触れ、転がるように抱き合ううちに、指先が床に届いた。ついには膝が落ち、そのままずるずると、上掛けと一緒に、床の上に滑り落ちる羽目になる。
 体の下に、半端に敷き込んだ上掛けの上で、ふたりはもうベッドの上に今さら戻る余裕も失くして、床の上でそのまま、抱き合い続けている。
 ジェロニモのシャツの前を、引きちぎるように開けて、腕を抜くには、袖のボタンを外さなければならなくて、そんな小さなボタンに構っている暇はなかったから、ハインリヒはジェロニモの肩だけを剥き出しにして、そこに歯を立てた。
 まだ肝心なところへは触れずに、背中や胸や肩に触れて、離れてから何か変わったことはないかと、互いの指と掌で、探り合っている。
 動くたび、どちらかの爪先が、ベッドの足を蹴る音がした。
 ベッドよりも固くて、いっそう狭い、ベッドの傍の床の上で、ふたりはあちこちぶつかることも厭わず、まだ上へ下へ入れ替わりながら、今ではすっかりベッドから落ちてしまったシーツに手足を絡ませて、半裸にさえ程遠い素肌を見つけては、そこへ唇や指先を寄せるのに、夢中になっている。
 ジェロニモの首を、両腕の輪の中に取り込んで、ハインリヒは、もっと大きく唇を開いた。差し出した舌先に、ジェロニモを捕らえて、そのまま食いちぎってしまいそうに、自分の方へ引き寄せた。
 ふたりは、飢(かつ)えたように抱き合っている。互いを探る手を止めずに、すべてを奪い取ろうと、少しでも多く奪い取ろうと、まるで引き剥いだ皮膚のその下の肉が目当てのように、歯と唇が、あらわになった膚──まだ、わずかだけれど──の上を、休まずにさまよっている。
 歯を立て、舐めた。噛んで、食み、跡を残す。
 耐えるために、歯を食い縛って、上掛けを握りしめた。
 もっと先へ進みたいと、口ではなく躯が正直に促すように、ハインリヒは、急いだ仕草で、ジェロニモの膝の内側へ、右手を差し入れていた。
 硬いジーンズの生地を撫でて、まだ直ではなく、触れる。
 ベッドの端に寄り掛かっていた背を浮かせて、軽く膝立ちになると、ジェロニモの腕をつかんで自分の方へ引き寄せながら、体の位置を入れ替えた。
 床に坐った形になったジェロニモの上に、また乗りかかって行きながら、ジーンズの前ボタンを外し始める。そうしながら、邪魔させないために、唇を封じておく。
 ハインリヒは無我夢中で、剥き出しの右手のこともかまわずに、開いたそこへ両手を差し入れた。
 開いただけで、脱がすことはまだできずに、窮屈さに不自由しながら、ハインリヒはせわしい仕草でそれを扱う。ジェロニモは何もせずに、ハインリヒの好きにさせていた。
 一緒に息を弾ませて、唇が外れるのを惜しむように、舌先が融けたように絡み合ったままだ。
 片手はジェロニモに触れさせて、もう片方の腕で首を引き寄せて、ハインリヒは、知らずに胸や腹をジェロニモにこすりつけるように動いていた。焦らしたつもりのなかったジェロニモは、ハインリヒの切羽詰りように煽られたように、ようやくただ抱いていただけのハインリヒの腰の辺りに、掌を滑らせ始めた。
 セーターを引き上げながら、もう一方の手で、小さなボタンに苦労しながら、少しだけ服を脱がせにかかる。自分が触れられているように、ハインリヒに触れたくて、ジェロニモは手探りで、素肌の位置を確かめようとした。
 躯が熱い。こうやって触れ合うのは久しぶりだったから、互いに、互いの飢えた様子に、他の誰の気配もないらしいことにこっそりと安堵しながら、とにかく先に進みたくて、むやみに指や手を動かした。弾む息に合わせて、肩や胸が動く。互いの掌の中に、互いの熱を握り込んで、また脱げない服に自由な動きを封じられながら、少しでも隔てを越えようと、ふたりは知らずに無我夢中だ。
 服を脱ぐ手間が惜しくて、一刻も早く親密に触れ合いたくて、それがふたりを遠回りさせている。けれど、互いが今目の前にいて、こうして触れ合っている不思議を、けれどそれは不思議ではないのだと、まず確かめたかった。
 互いを欲しがっている。与えたくて、与えられたくて、落ち着く余裕もなく、こうして床の上で、ふたりは焦れながら、抱き合うことにだけ熱中していた。
 唇の辺りが、互いの唾液でびしょ濡れになった頃、先に我に返ったのはジェロニモの方だった。
 こういうことに適しているとは言いがたい姿勢で、これ以上は先へ進めないと悟って、そっとハインリヒから手を外し、なだめるように背中をそっと撫でた。
 ジェロニモの仕草に気がついたハインリヒが、赤らんだ頬を隠しもせずに、まだ口づけを止めずに、なんだと目顔で訊く。
 「いや、その・・・」
 ハインリヒの唇を、他意はなく避けながら、さり気なくセーターを後ろへ引っ張る。ようやく動きを止めたハインリヒが、ジェロニモの頬を撫でて、それから、首に両腕を回して、膝の上に坐り込んで来た。
 「・・・時間が、あんまりないんじゃないのか。」
 首筋や肩に、汗の浮いた額をすりつけながら、潤んだ声が言う。
 やっと、苦笑を浮かべるだけの余裕が湧いて、ジェロニモは、自分の上で体の力を抜いたハインリヒを、両腕にしっかりと抱きしめた。
 「・・・服を脱ぐくらいの時間はある。」
 平たくそう言ったジェロニモの、その淡々とした言い方がやけにおかしくて、ハインリヒは、顔を埋めたジェロニモの胸の中で、思わず吹き出していた。
 ハインリヒにつられて、ジェロニモに一緒に笑い出し、ふたりはしばらくの間、声を立てて笑った。
 見下ろせば、自分たちの、とてつもなく半端に剥かれた体もおかしくて、ふたりはさらに笑いを誘い合って、肩や胸に互いの体を打ちつけ合いながら、愉快に笑った。
 それから、ゆっくりと次第に鎮まる笑いの合間に、また口づけが始まり、今度は穏やかな動きで、ゆるゆると服を脱がせ合う。そうしやすいように、腕を伸ばし、腰を持ち上げ、しわくちゃになった床の上の上掛けの上に、脱いだ服の波が加わる。
 額を合わせて、鼻先をこすり合わせながら、ふたりはまだ小さな笑いを残して、ようやく何もかも剥き出しになった躯を、一緒にベッドの上に横たえた。
 シーツだけで体を覆って、その下で、窮屈さを楽しみながら、ふたりは互いの躯を探る。
 動くたびに、ベッドの端から手足がはみ出すのを、互いの躯に巻いて防ごうとする。
 まだ、互いに飢えたままだったけれど、さっきほどの余裕のなさはなく、やっと、見つめ合って鼻先をこすり合わせながら、微笑み合うこともできる。
 ゆるい口づけを何度も交わして、胸と腹を合わせた。背中や腰、そうできれば腿の裏側へも手を伸ばして、たまに触れる装甲の感触に、もうためらうこともうろたえることもなく、呼吸の深さに皮膚の下のぬくもりを測って、両腕の輪の中に、互いをしっかりと取り込んでいた。
 「来る前に、電話をくれればよかった。」
 ハインリヒの髪を撫でながら、ジェロニモが不意に言う。
 冗談交じりにそれを封じるように、ハインリヒは短く重なるだけの接吻を、何度か繰り返した後で、ジェロニモを見下ろす形で苦笑を刷いて見せた。
 「・・・急な話だったんだ。急すぎて、おまえさんに会えないって言われても、腹を立てない覚悟で来たんだ。」
 半分は嘘で、半分は本当だ。改造した体のことを、何となく報告するのにまだ気が進まず、ぐずぐずしている間に、出発の日が来てしまったのだ。
 まだ、そのことを言い出せずにいる。言うよりも、そうしてしまった方が手っ取り早い気もするけれど、それはそれでまた、何だか気が進まない。
 ひとりですることではない、というのは、相手の思惑を忖度する必要があって、あれこれと面倒くさい。けれどその面倒くささが、今は正直愉しくて仕方がない。
 ふふっとひとりで笑って、ハインリヒは、下にいるジェロニモの頬を両手ではさんで、また口づけた。
 自分の体の見た目を、何も気にする必要がないという気楽さが、ハインリヒをひどく開放的な気分にさせる。こんな明るい部屋で昼間から、こんなことはひと月前なら、ちらとも頭に浮かばなかった。
 ひと月前にはまだ、ハインリヒはギルモア邸の地下の研究室で、手足が揃わずにただベッドに横になっているだけだった。来る日も来る日も白い天井を見上げて、殺風景ではないけれど、興味をそそるものは特に何もない部屋で、ひとりきりだった。
 ギルモアとイワンは、毎日やって来た。他の仲間たちには、そんな姿を見られたくなかったから、来ないでくれと、ギルモア経由で伝えてあった。ジェロニモだけが、1度だけ、ひっそりと様子を見にやって来た。
 いたのは、せいぜい30分ほどだったろうか。そばにいれば、いつだって土と空気と風の匂いのする男だ。施術室に閉じこもる羽目になって、たかが2週間目だったというのに、ひどく懐かしい感じがして、ハインリヒは目を細めてジェロニモを見上げた。ベッドの傍に立って、驚きや困惑など決して見当たらない、いつもの茶の深い瞳で、調子はどうだと、ジェロニモは静かに訊く。退屈だが元気だ。そうか、それは良かった。それ以外に、何か話したろうか。口づけを次第に深くしながら、ハインリヒは思い出している。
 あの時、何かが起こったのだ。これと、明確には形のない、何かがふたりの間に起こったのだ。
 それとも、ずっと以前から在ったそれに、ふたり──あるいは、ハインリヒ──が、気づいていなかっただけだったのか。
 こんな触れ方をしても大丈夫な相手だと、突然思い至って、けれどそれだけが理由のわけはない。ずっと昔から、見ていたのかもしれない。守り守られることが、対等にできる唯一の相手だと、そう思っていたのかもしれない。こんなに長い間、背中を預け続けて来て、その信頼を、けれど一度も話し合ったこともなく、それでも、失望したことなど一度もなく、何かが確実にずっと通じ合っていたのだと、今やっと気づいている。
 恋と名乗ってしまうには、まだ少し未熟で、長い時間の間に、互いの間に流れ通じていた、情のようなものなのだろうか、いとおしいと、ハインリヒは思う。
 ジェロニモの、刺青の走る頬を撫でながら、それは、例えば、必要なら自分の体の中の部品をやってもいいとか、皮膚のない装甲だらけの体を見られても困らないとか、壊れて動けなくなったジェロニモを抱えて運ぶのは自分だろうとか、そんな風に表される感情だと、自分の胸の内を覗き込んで考える。
 現実的なばかりのそんな思考に、けれどハインリヒたちの現実は、他の誰にも受け入れてはもらえない、サイボーグとしてのそれだったから、その現実を受け入れ合えることが、実は何より大事なのだと、考えながらハインリヒは気づいている。
 ふたりはサイボーグだった。生身の人間には耐えることのできない、過酷な戦争を戦うことができる、効率の良い破壊と殲滅を目的に改造された、武器であるサイボーグだった。そのサイボーグが2体、人工皮膚をこすり合わせて、抱き合っている。互いをいとおしむために、強化された手足を使って、互いを抱きしめ合っている。
 そしてハインリヒは、ほんの少しだけ、生身の人間に近づいた。ジェロニモのために、ひとらしさをわずかに取り戻した心を写して、ひとらしく何かを為すために、ハインリヒは、改造された武器だらけの体に、ほんのわずか、ひとらしさを取り戻していた。
 そのことを、ジェロニモはまだ知らない。
 何かが、ジェロニモと繋がっているのだ。運命だとか、ひとならそう名づけるだろう何かを、確かめたかった、だから、ここへやって来たのだと、ジェロニモに触れながら、ハインリヒは物思いに沈み込んでゆく。
 酔ったように頬を染めて、ハインリヒは、ジェロニモの中に溺れ込んでいた。穏やかに呼吸のできるそこで、ハインリヒは、体の内も外も、何もかもをさらけ出し始めていた。
 我慢できなくなって、ついに掌を、下腹に滑らせた。
 ジェロニモに触れて、自分にもそうやって同じように触れて欲しいと、指先に言わせて、促されてハインリヒに触れ始めたジェロニモが、空いた方の腕でハインリヒを抱くと、体は合わせたままで上体を起こす。
 互いに開いた両脚の間に、互いを抱き込む形に、しわだらけのシーツの上に一緒に坐った。
 半分は装甲が剥き出しのままのハインリヒの背と肩に、ジェロニモの、浅黒い肌の腕がしっかりと回る。ハインリヒの背は明るい窓に向いていて、通りをふたつみっつ挟んだ向こうに、背の高いビルが見える。そこから、誰かがふたりを見ることは、不可能ではなかったけれど、目を凝らしたところで、ふたりが誰か、見極められるわけもない。
 ハインリヒは、抱き寄せられながら、ジェロニモに、胸と腹をこすりつけた。下腹をもっと近づけて、ぬるりと滑る熱を探り当てると、もっと近く躯を寄せた。
 あごを伸ばして、ジェロニモの肩に乗せる。やっと両腕の回るジェロニモの背に、ぴたりと両腕を寄せて、そうして、ゆっくりと熱同士をこすり合わせる動きを始めた。
 ベッドがきしむ。続ければ、そのうち壊れてしまうかもしれない。そんなことも何もかも、どうでもいいと、ハインリヒはジェロニモを貪り続けた。
 ふたり一緒に、わずかにずれて躯を揺らして、抱きしめた腕の位置を時々変えながら、髪や頬や耳朶を探ったり、口づけを交わしたり、弾む息は、互いの膚に吸い取られてゆく。時々、そこへ手を伸ばして、触れ合っていることを確かめる。
 下腹の柔らかな皮膚や、腿の内側の張りつめた皮膚が、熱の質量に触れて、その感触を覚えておこうと、ハインリヒは何度かゆっくりと瞬きをした。
 動き続けて、たまには速さを変えて、時々、口づけの合間に見つめ合いながら、ふたりはずっと抱き合っている。首や肩を噛み、喉や胸を重ねて、何もかもが、融けてしまいそうだった。ふたりこのまま燃えてしまえば、後に残るのは、焼けて溶け合うふたりの人工心臓だ。おそらく焼け焦げた鉛色をして、元の形など留めるはずもない、ふたりの、ひとつになってしまった人工心臓だ。
 そんなふうに、ひとつになってしまう方法もあるのだと、ハインリヒは動きながら考えている。
 体の部品を、分け合うことが可能なふたりだ。人工皮膚を剥いで、装甲を外して、歯車やコードの詰め込まれた体の中を開いて、それを自分たちで行うことができないのは残念だけれど、互いを互いの一部にすることが、物理的に可能だということが、うれしくもあれば悲しくもある。
 サイボーグはひとではないけれど、ひとである部分も残っているのだ。その、ひとである部分でジェロニモと抱き合いながら、ハインリヒは、マシンガンの右手を、ジェロニモの背中に這わせた。
 弾んだ息が一瞬止まり、そうして、躯が慄えた。互いに、いっそう強くしがみついて、ずっと張りつめていた皮膚がゆっくりと緊張を解くのに、両腕は逆にしっかりと、互いを抱きしめ合う。紐がほどけるように、ふたりはようやく息を継いで、両腕の力を同時に抜いた。
 吹き出した汗を、そうして拭うように、肩や首筋や背中に掌を滑らせ、それから、もう一度ゆっくりと接吻をする。またすぐに昂ぶってしまうことを恐れるように、そっと触れるだけの、ついばむだけの口づけだ。
 飢えを少しだけ満たして、汗に濡れた額を合わせた。ふたりはそうして、しばらくの間、静かに抱き合っていた。


 さすがに、その後でカーテンを閉めて──ジェロニモが、そうした──、すっかり冷めてしまったコーヒーを、文句を言わずにベッドの中で飲んで、シャワーを浴びる前に、もう一度ゆるく抱き合った。
 全身を、会わない間にどこか変わったことはないかと確かめるように、手指と唇で触れて、どこが終わりとも決めずにじゃれ合っているうちに、午後は矢のように過ぎてゆく。
 名残り惜しげに互いから手を離し、ジェロニモの方が先にベッドを下りた。
 床に脱ぎ散らかしたまま、ハインリヒのそれと重なり合って交ざり合っている──まるで、彼らそのもののように──自分の服を見つけては取り上げて、ひとつびとつを身に着けながら、ジェロニモはハインリヒに背を向けている。
 カーテン越しに見える陽射しが、明らかにここに来た時よりもやわらかくなっていて、時計など持ち歩かないジェロニモは、時間の流れをそんなところで計って、ハインリヒには見せずに苦笑した。
 「明日は、ここへは来れない。」
 まだベッドの中から動こうとはしないハインリヒを振り返って、なるべく平らな声を出す。申し訳なさそうにすれば、ハインリヒが気を使うと、知っているからだ。
 残念そうだという表情を隠さない、けれどその上にひと刷け、何か別のことを考えているという表情が見える。ジェロニモは、それをもっとよく見ようと、ベッドの端でさらに体をひねった。
 ジェロニモに、そうして見つめられて、ハインリヒは少しどぎまぎした後で、シーツの上に組んだ指を無意味に動かし、できるだけなめらかに舌が動くようにと願いながら、小さな声を出す。
 「その・・・明日は、俺がおまえさんのところへ行ってもいいか。」
 案の定、そう思っていた通り、ジェロニモがちょっとだけ眉を上げて、困ったような顔──ハインリヒにはそう見えた──をする。
 「無理ならいい、よけいなことを言って悪かった。」
 この場を取り繕おうと、早口に言った。
 ジェロニモはもっと困った顔をして、
 「無理ではない。ただ、おれのところは居留地だ、膚の白い人間は、いやな思いをするかもしれない。」
 言いにくそうに、言葉の最後がもっと低くなる。
 こんなに長い間一緒に戦って来て、そう言えば、互いの住んでいるところを行き来する──ふたりに限ったことではなく──ということは一度もなかったし、互いがどんなところに、どんな風に住んでいるのか、訊いたこともない。だからこそ、ハインリヒはこうして無理をしてジェロニモを訪ねて来たのだけれど、ジェロニモの住んでいるところがそんなところだとは、思ってもみなかった。
 「俺が行くと、おまえさんに都合が悪いなら、別に行かなくてもいい。」
 「おれの都合は関係ない。来てくれるなら、うれしい。」
 自分の感情を表すのが、滅法下手なドイツ人と、ほとんど外には出さないネイティブ・アメリカンと、不器用に言葉をやり取りしながら、なかなかうまくは伝わらないことに、一緒に苦笑ばかり浮かべている。
 シーツの上に、ジェロニモが手を滑らせて来る。それに、ハインリヒは自分の右手をそっと重ねた。
 「荷物ごと行っても、かまわないのか。」
 ジェロニモのところに滞在したい、ということを、そんなふうに言ってみると、今度はためらわずに、ジェロニモが微笑む。
 「好きなだけいればいい。」
 ハインリヒは、シーツにだけ覆われた体を、その下でジェロニモの方へ滑らせて、今はすっかり身支度を整えてしまった肩へ、額を乗せる。
 腕に手を掛けて、もう少しだけここにいてくれと、言葉ではなく体に言わせた。
 今だけの別れを惜しんで、さようならの口づけをする。明日の約束の確認のように、ひそやかに、互いに、名前を呼んだ。