the way i feel
(9)
検査というのには、なぜかコズミが立ち会っていた。
イワンの姿はなく、それについて反論するつもりはなかったから、ハインリヒはさあとっとと始めようぜと、片手を腰に当てて、研究室の中央で、ギルモアとコズミを見下ろしている。
ギルモアが手にした書類をコズミの方へ見せながら、
「拒否反応は今のところないようじゃな。」
ハインリヒへと言うわけではなくつぶやく。それにコズミがうなずいて、ふたりはちょっと視線を合わせてから、何かに納得したように同時にうなずいた。
こほんと、ギルモアが小さく咳をする。そうして、ハインリヒから視線を外したまま、後ろにあるベッドの方を指差した。
「あそこに、いろいろ準備してある。ワシらは隣りの部屋で君の様子をモニタするから、終わったら、そこにあるスイッチを押してくれればいい。」
スイッチというのは、病院で言うところの、ナースコールのようなものだ。ベッドの傍に、伸ばせばすぐ手の届くところにぶら下がっている。
なぜわざわざ隣りの部屋へ行くのだろうかと、訝しがりながら、ハインリヒはギルモアが指差した方へ足を向けた。
ベッドの向こう側に、いわゆるメスだの鉗子だのの手術道具を置いておく、銀色のワゴンがある。清潔に光るそれの上には、これもまた銀色の大きなトレイが置いてあり、そこにはタオルらしい、白い布が敷かれていた。そこに並べられているのは、けれど今日は手術道具ではない。
こんなものでいちいち声を上げて驚くほど純情ではないけれど、見慣れているというわけでもなく、ぎょっとしたのを悟られないように、ハインリヒはこっそりと肩の線を固くした。
「・・・これ、ですか。」
「全部使えというわけじゃない。とりあえずその、サイズをいろいろと揃えてみただけじゃよ。」
初めてじゃしなと、ギルモアが、どうやら下を向いて付け加える。
肩から、横顔だけで振り返ってみると、やはり照れを隠せないらしいギルモアのそばで、コズミはひげを撫でながらのほほんとしている。
日本人てのは、宇宙よりも計り知れないと、ハインリヒは以前思ったことを、また深く思い知っていた。
「彼のサイズも揃えておいたよ。でも無理はせんようにな。」
とても慈愛に満ちた笑みを浮かべて、コズミが言った。彼というのがジェロニモだというのはすぐにわかったけれど、その言葉に、何だか別の意味が込められているように聞こえて、ハインリヒは今すぐこの部屋から飛び出してしまいたくなった。
そこにきちんと並べてあるのは、いわゆる大人の玩具と呼ばれる類いの代物で、オランダ辺りに行けば、ごく普通の街並みの中に、その手の店がごまんとある。ドイツにだって、こんなものはどこにだってある。けれど、それをほんとうに目にする機会があるかと言えば、ハインリヒにはまったく縁のない話だ。
ふたりは、一体どこでこんなものを手に入れて来たのか。初老の科学者がふたり、顔を突き合わせてああでもないこうでもないと、あれこれ選んでいるのを想像すると、この上もなく滑稽だ。その滑稽さで、耐えられそうにないほど膨れ上がってくる羞恥を忘れようと、ハインリヒは必死に、これは単なる検査だと、また自分に言い聞かせている。
細いのやら丸いのやら、小さいのやら大きいのやら、さすがにこちらが初心者といたわってくれたのか、どれも表面はつるつると滑らかに見える。そしてコズミがそう言った通り、記憶は少々頼りなかったけれど、ジェロニモらしい形のものもあって、自分たちに関して、こんなデータまできちんと揃っているらしいことに、ハインリヒは恐怖すら覚えた。
確かに、そのための改造だった。だから、改造後にきちんと不具合がないか、目的に適った動作をしているか、確かめるのは必要なことだ。
何か、とても間違った方向へ足を突っ込んでしまったような気がして、それがきっと気のせいではないのだろうと、ハインリヒはまた後ろのふたりへ振り返る。
イワンがこの場に呼ばれていない理由が、やっとわかった。
「キミが何をしているか、見えはせんよ。脳波と筋肉の反応を、信号にして受け取るだけじゃよ。」
なかなか動こうとしないハインリヒを促すように、ギルモアがまた付け足す。
見られてたまるか! 口の中で、思わずつぶやいた。
迷っていても仕方がないし、このままここにずっと突っ立っているわけにも行かない。この検査とやらが終わらない限り、改造が完全に終わったことにはならないのだ。
終わらなければ、ジェロニモのところへは行けない。
ハインリヒは意を決して、ベッドにまた1歩近づいた。
その背中の表情を読んだのか、ふたりがドアの方へ向こうとする気配があった。
「それでは、ワシらは隣りの部屋へおるよ。何かあったら、すぐ検査を中止して、呼んでくれたまえ。」
背中を向けたままそれにうなずいて、ハインリヒは、ふたりが部屋を出て行くまで、じっと自分に与えられた、道具の山を眺めていた。
ひとりになって、数を20ほど数えて──気分を落ち着けるためだ──、ようやく、ハインリヒは裸になるためにシャツに手を掛けた。ため息を、止めることができなかった。
こんな風に自分の躯を触るのは初めてだ。
改造される前にだって、しげしげとわざわざ眺めたことのない、自分の体だった。
いつだって手探りで暗闇で、そう言えば、相手の躯だってきちんと眺めたことはないなと、診察台の上に横たわりながら思う。
どうすればいいのかよく分からずに、とりあえず腿の間に手を伸ばす。自分に触れるのに遠慮はないので、きちんと右手でだ。
いきなりで大丈夫なのかどうか、ギルモアたちに確かめなかったので──一体、どうやって訊けばいい?──、ひとまず指先で探る。
そこへ触れただけで、前とは感触が違うのがわかる。筋肉があると、ちゃんとわかる感触が、金属の指の腹に伝わって来る。
驚きながら、指先だけで中へ触れた。
かすかに温かい。心臓が早くなった。粘膜の、湿った感触がある。それが、いわゆるほんものの手触りなのかどうか、比較できる経験はないけれど、あまりの生身らしさに、傷つくのではないかと心配になる。
恐らくそれも、きちんと考えて改造されているのだろうし、わざわざサイズがどうのというなら、その程度の受け入れ具合は想定内だということか。
それでも、いきなりそれらしいサイズに手を伸ばす気にはなれず、いちばん小柄な、細いのを手に取った。
銀色のトレイが、ハインリヒの指先にがしゃんと音を立てて、慌てて肩をすくめて、誰もいないのに部屋の中を見回した。
なるほど、こういうことを、ふたり──あるいはそれ以上──でやるのは、とてつもなく恥ずかしい格好をする羽目になるからかと、折った片膝を胸の方へ引き寄せながら、ハインリヒは頬が赤くなるのを止められない。
腿の裏側へ通した腕を、そこへ伸ばす。
自分の金属が剥き出しの指よりは、多少はましな感触のはずだと思ったけれど、この手の異物というのは、粘膜に触れると鳥肌が立つというのを、ハインリヒは初めて知った。
押し開かれる感触と、中が満たされる感覚と、確かに痛みはない。けれど、熱いのはわかる。また心臓が、速い。
限界がわからないから、それに添えた手指が触れるまで、なるべくゆっくりと中へ進めた。まるで、そこにある内臓がみぞおちの辺りへ押し上げられるように、息苦しさにあえいだのは、短くなった呼吸のせいだ。
そこまでは比較的簡単に進んだ後で、それから、恐る恐る動かしてみる。
出し入れに従って、粘膜がまくり上がるのがわかる。熱が、背中の方へ広がっていた。
何だか、よくわからない感覚だ。知っているそれとは違う。勝手に、膝が開いている。全身が緊張しているくせに、だらしなく緩んでもいる。溶けたキャンディのように、自分の体がたわんでいるように感じた。
曲げても伸ばしても、際限なく、躯が勝手に動く。ベッドから浮いた背中が、手の動きに合わせて揺れていた。
ベッドからいつの間にか落ちた片足が、ハインリヒの意志と関わりのないもがく動きをしている。
何も考えられなかった。溶けた躯と一緒に、頭の中も融けている。背骨を満たしてゆく熱だけを追いかけて、聞くに耐えない声を出しているのだと、気づいていなかった。
恐ろしくなって、慌てて我に返ると、それを躯から外して、止めていた息をゆっくりと吐いた。
手の中にあるそれを、間近に眺めることができず、放り出すように、銀色のトレイの上に投げた。がしゃんと、意外と大きな音を立てて、どれも比較的丸い形をしているその道具たちが、置かれたトレイの上で思い思いの方向に、わずかに転がる。
考えてみれば、自分も機械なら、これも機械なのだと、冗談にもならない奇怪な考えが湧いて、それが、心のどこかで感じている、たった今自分の躯の中にあったそれに対する、奇妙な親近感のせいなのだとは、ハインリヒは気づかない。
それ以上は触れるのが恐ろしくて、自分の躯が、一体どうなっているのかわからなくて、狭い診察台の上で、思わず膝を抱えた。
これで充分なのかどうかはともかく、自分自身にはもうたくさんだと、ハインリヒは服を着るために床に爪先を下ろす。一刻も早く自分の部屋へ戻って、シャワーを浴びたかった。
たとえ必要な実験なのだとしても、こういうやり方は、自分の性には合わない。あれを全部試すくらいなら、ジェロニモ相手に痛い思いをする羽目になる方を選ぶと、シャツを引き下げながら、小さな声でつぶやいていた。
服を着終えると同時に、いかにも腹立たしげな足音を立てて研究室を出ると、そこからひと部屋分奥にある別室──そう頻繁には使わない機材が置いてあったり、椅子や机があって、簡易の会議室にもなったりする部屋だ──へ向かう。そこに、ギルモアやコズミがいるはずだった。
ノックは形だけで、中からの返事も待たずにドアを開けた。
機械の前に坐ったギルモアと、そのギルモアのすぐ傍に立ったままのコズミが、顔を合わせて何か小声で話し合っているところだったらしい。ドアを半分だけ開けて、中へ入ろうとはしないハインリヒの方を、ギルモアはやや心配そうに見ている。コズミは、いつもと変わらない表情で、今にも外の天気の具合でも尋ねてきそうに見えた。
ふたりに声を掛けるすきを与えずに、ハインリヒは早口に、言いたいことだけを言う。
「終わりました。部屋に戻ります。」
それだけ言って、ドアを閉めて背中を向けた。
驚いたギルモアの顔と、相変わらず表情の変わらないコズミの顔が、同時にちらりと見えたけれど、言い訳をする気にはならず、そんな必要もないはずだと自分に言い聞かせて、ハインリヒは足早に階上へゆく。
ハインリヒの部屋は2階だ。
ギルモアもコズミも、すぐに後を追って部屋にやって来るようなことはしないだろう。
階段を駆け上がって、自分の部屋に飛び込むと、乱暴にドアを閉めた。
さっき着たばかりの服を、部屋についているバスルームに向かいながら脱ぎ捨てる。かかとをすり合わせるようにして靴を脱ぎ、何もかもを床に放り出して、ドアを閉めれば、ようやく小さなひとりきりの空間だ。
全裸になってから、念のために、脳内通信装置を自閉モードに切り替える。これで、うっかりひとり言を聞かれる心配はないし、誰かが話しかけて来ても、今は何も聞こえない。ドアのノックに応えない限り、ここまで誰かが入り込んで来る心配もない。
今はとにかく、ひとりになりたかった。
熱い湯を出して、頭から浴びる。石鹸をやたらと塗りつけて、ごしごしと体をこすった。
湯を流しっ放しにして、その下にしゃがみ込む。流れされてゆく泡を眺めながら、そこで膝を崩した。
誰もいないし、誰も何も聞いていない。今はひとりきりだ。
浴槽の縁に胸を乗せて、軽く膝を開く。そうして、背中の方から腕を回した。
触れるのは左手だ。この程度で傷つくとは思わないけれど、万が一ということがある。
さっきそうしたように、人差指の先で触れる。指先は、難なく中へ埋まった。先へ進めると、粘膜が狭く指を覆ってくる。思ったよりも抵抗はなく、第二関節まで、するりと中へ入った。
内側の湿った熱は、体温よりもやや高いような気がして、それはきっと、降りかかる熱い湯のせいだと思いながら、そこで恐る恐る、指の出し入れを始めた。
触れるのは、浅くだ。どこまで深いのかわからないし、知るのが怖い気もしたから、自分の指だけで、触れる。
指の動きがなめらかになるのと同時に、粘膜が、抗うように指にまといつき始める。指の動きにつれ、引きずり出されるような感覚があった。触れれば触れるほど、もっと強く触れたくなる。
もう少し、もう少しと、次第に腰の位置が上がる。
声を殺すのが難しくなって、思わず、浴槽の縁に歯を立てた。
熱いのは、もう湯のせいではない。
改造が上手く行ったらしいことは、認めざるを得ない。それを、素直に喜ぶ気持ちは湧かずに、ちくしょうと、噛み締めた歯の奥でつぶやいていた。
もっと触れていたい卑猥な未練を振り払って、代わりに、ハインリヒは外した手を、今度は下腹へ伸ばした。
さして時間も掛からずに、握り込んだだけで勃ち上がってくる。
ぎこちなくこすり上げながら、ジェロニモのことを考えていた。
ジェロニモの手と指と、肩や背中や、爪先と耳の形、ひとつびとつ思い出しながら、今自分に触れているのが、ジェロニモだったらどんなにいいかと、そればかりを思う。
会いに行こう。すぐに。断られることは、絶対にない。会って何がどうなるか、そんなことは知ったことではない。改造後の確認に必要なのだと言えば、義理固いあの男は、いやだとは言わないはずだ。
まるで、脅迫みたいじゃないか。
そんなことが必要な相手でもあるまいし。自嘲に、知らずに唇が曲がる。
悪い方へばかり、頭がゆく。たまたま手近な相手が、お互いだっただけだと、そう思う方が楽だから、それでも、それだけではなかったはずだと、思いたい自分がいる。そんな自分に歯噛みして、ハインリヒは、ジェロニモと、唇だけでつぶやいている。
会いたかった。力いっぱい抱き合っても、壊す心配も壊れる心配もないあの男と、触れ合っていたかった。
自分の手の中に果てて、まだ火照る躯を、熱い湯の下に伸ばしたまま、血の色の上がった頬を、ハインリヒは両手でごしごしとこすり続けた。
さすがに、実験の翌日にすぐに顔を合わせる気にはなれず、2日ほどギルモアをなるべく避けた後で、皆のいないところで、そろそろここを出るつもりだと、ギルモアにそう告げた。
こういうことは、恥ずかしがった方がさらに恥ずかしくなるだけだから、ハインリヒは必死で平静を装い、ギルモアはなかなか目を合わせないものの、声はいたって平坦に、実験の結果を手短に伝えてくれた。
「問題はなさそうじゃ。もうちょっと確かめたいこともあるんじゃが、君には君の都合があるじゃろうし。」
ずいぶんと物分かりがいいじゃないかと、思ったのが甘かったのだと、一瞬後に思い知る。
「そこでちょっと提案なんじゃが。」
すくい上げるように、ギルモアがこちらを見る。こういう時には、どうせろくでもない話なのだ。ハインリヒは、半ば不貞腐れながら身構えた。
「コズミくんが、学会でアメリカへゆくことになっておる。君も、一緒に行ってはどうかね。そうすれば、君も、向こうで会えるじゃろう。」
誰に、ということを言わない。言うまでもないことだからだ。そして、まさかあの実験の日に考えていたことを、イワンにでも読まれていたのかと、心底寒気がした。
ほんとうに偶然なのか、それとも他に何か意図があるのか、このふたりの科学者、特にコズミの腹の内は、いまだハインリヒには読めない。日本人というのは、信用はできる人種なのだろうけれど、その信用の元が、今ひとつはっきりしないところが困る。
アメリカのどこかと聞けば、なんと都合の良いことに、ジェロニモの住んでいる辺りから、車で1時間程度の街だと言う。
きっと偶然ではない。このことのお膳立てに、慌てて近日開催される学会を探したのだろう。
なるほど、ようするにこれも実験の続きと言うわけだ。
コズミと一緒に行く義理はないのだ。ドイツへ戻ると言って、そのままアメリカへ寄ってしまえばいい。誰にもわかりはしない。けれどハインリヒは、こういうウソが下手だった。
そしてギルモアが、ダメ押しをした。
「君をモルモット扱いするようで心苦しいんじゃが、これが他のサイボーグたちのためにもなることは間違いない。時期を見て、皆に改造を希望するかどうか、訊いてみるつもりじゃ。」
他のみんなのためと言われて、ハインリヒにいやと言えるはずもない。
少しでも普通の人間らしくありたいと、そう思っているのは皆同じだ。さまざまなことをひとらしく享受できるなら、それに越したことはないのだ。
結局のところ、少々の煩わしさはともかくも、ジェロニモに会いたいという気持ちが、何にも勝(まさ)った。それが役に立つというのは、ただの言い訳だ。けれど、言い訳があった方が、後で気楽だ。
それに、他の誰かが実験台になるよりも、自分がされた方が、結局は気が咎めないという、それがいちばんの理由だ。
「コズミくんと一緒なら、万が一何が起こっても安心じゃしな。君もその、少しはのんびりするといい。」
万が一というのが、一体どういうことなのか、説明して欲しいと思ったけれど、やめた。詳しく説明されて困るのは、きっとハインリヒの方だ。
研究室で、頭の中を覗かれながら、妙な道具相手にひとりあれこれするよりは、確かにずいぶんとましだろう。
少なくとも、ひとりでではないのだと、ずるいことを思った。
コズミと細かい打ち合わせをすることを約束して、やっと報告が終わる。
もうすぐジェロニモに会えるという明るい部分にだけ、無理に心を振り向けることにして、ハインリヒは、ギルモアの部屋を出た。
ジェロニモには電話をせずに、突然行って驚かせようと、荷造りの準備のために、ひとり自分の部屋へ向かう。
結局、あれこれとコズミを交えた話し合いを重ねた後で、ひとまずもう一度日本へ、コズミと一緒に戻って来るという約束をさせられ、アメリカ滞在は2週間程度ということに決まった。
程度というのは、万が一ハインリヒが、しばらくジェロニモのところへ滞在するというのなら、それは好きにして構わないということだ。
むしろハインリヒの滞在が長くなれば、それだけ詳細なデータが手に入るということはもちろん口にはせずに、コズミは始終にこにこと、何でもキミの好きにすればいいと、そう言うばかりだ。
目的はともかくも、利害だけは一致した関係というのは、何だか忌々しいものがあるけれど、この件については、弱みのようなものを感じているハインリヒには、ギルモアとコズミ──とイワン──の言い分を拒む権利は、最初からないように思えた。
何だっていい。ジェロニモに会ってさえしまえば、邪魔は入らない。データのことなど、忘れてしまえばいい。目の前に監視がいるというわけでもなく、頭の中から勝手にデータでも何でも、好きに取って行けばいい。半ば自暴自棄に、ハインリヒは思った。
「とりあえず、一緒にいる時は、通訳くらいはしてくれんかね。」
コズミが、りっぱなヒゲを撫でながら笑う。この笑顔だけを見れば、温厚そうな、ただの老人だ。
ドイツ語やロシア語の文献を、原語で読んでいる人間に、アメリカで通訳が必要なわけもない。コズミなりの冗談だろうけれど、だまされるもんかと、ハインリヒはいっそう身構えるだけだ。
「飛行機の中で、囲碁でもやるかね。」
碁石をつまむような仕草をする。うっかり、ハインリヒもつられて指を動かした。
「いや、チェスの方がいい。」
「・・・どっちもカバンの中へ入れておくよ。」
ギルモアよりも冴えない容貌は、学者というよりも、仙人のようだ。それでうっかり、ハインリヒはいつもコズミに対して、敬語を使うのを忘れてしまう。
それはつまり、コズミのペースに乗せられているということなのだと、わかっているから、よけいに忌々しい。
ギルモアは、ふたりが親しげに話をしていると勘違いをして、微笑ましくふたりを見ている。
違う。ハインリヒは、むしろコズミを警戒している。けれどそれを、なぜかコズミは、易々と打ち破ってしまうのだ。
今まで出会ったどんな敵よりも、油断のならない相手なのだ。ことに、碁やチェスをやっている時は。
まるで、ただ観光旅行へ出掛けるのだとでも言うように、実験の話は一言も出ずに、案の定、アメリカの地を踏むまでに、ハインリヒはコズミに、チェスで4回しか勝てなかった。
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