the way i feel


(12)

 ジェロニモが午後の半ばに去ってから、乱れたベッドで、ハインリヒはうとうととうたた寝をした。夕方を過ぎてコズミが電話を寄こした時には、まだ夢うつつで、一瞬誰の声でここがどこかわからず、頓珍漢な受け答えをした後で、どこかのレストランの名前を言われて初めて、ハインリヒははっきりと目を覚ました。
 まだ、シャワーも浴びていなかった。
 30分で支度をすると言って電話を切り、慌ててシャワーへ飛び込む。バスタブはもう乾いていたけれど、ジェロニモがそこを使って、それから部屋を出て行った気配が、ハインリヒにははっきりと感じられた。
 体を洗いながら、また名残り惜しい気分になるのを、唇をとがらせて押しとどめて、ハインリヒは、脱いでしわだらけになってしまった自分の服を、改めてドレッサーの上に放ると、別の服を出して着替えた。
 往生際悪く、それで、ジェロニモとの今日の痕跡を、隠したつもりでいた。
 やっとロビーで落ち合うと、コズミはホテルの前でタクシーをつかまえ、ハインリヒはごく当然のようにコズミのためにドアを開け、彼を先に中へ入らせた。わざわざ車で、どこへ行くのかと思いながら、肌の色の浅黒い運転手がこちらへ振り向くのに、コズミが何やら住所と名前を告げるのを、黙って聞いている。
 模造革の、やけに硬いシートに、もぞもぞとやっと体を収めたハインリヒに、コズミが尋ねる。
 「ジェロニモ君には会えたかね。」
 素直にああとうなずけばすむものを、一瞬の間が開いて、ためらった分だけ、もちろん会えた──そしてもちろん、ただ会ったというだけではない──のだということがあらわになる。
 「会えた。向こうが、こっちまで来てくれた。」
 察しのいいのが日本人の取り柄のはずだ。声のトーンで悟ってくれと、そう思いながら、なるべく明るく調子で答えた。
 それは良かったと、ぽつんと言って、コズミはいつもの、感情はすべてふさふさとしたひげに隠した表情で、前だけを見ている。
 窓の外はまだ明るく、車はわりと混んだ道を走り、どこへ向かっているのか、ハインリヒには見当もつかない。
 「どこへ行くんだ。」
 コズミとはそれほど親しいという間柄ではないし、ちょっとこみ入った話を始めれば、ハインリヒたちの正体がばれてしまうかもしれないから、こういう時には、当たり障りのない話を、短くぶつ切りにするだけなのが常だ。
 コズミはちらりとハインリヒへ視線を流して、
 「ちょっといいレストランがあると、聞いたんでね。」
 今日の学会では、少なくとも誰かひとりとは話をしたようだ。
 お互いに、それなりに悪い1日ではなかったようだと、ハインリヒは唇の端をほんの少し上げる。
 「その、レストランを教えてくれたヤツと行けば良かった。」
 いつもの皮肉っぽい口調が出るのは、知らずに浮かれて陽気になっているからだ。ハインリヒの、不安と緊張交じりのぴりぴりした雰囲気がすっかり消えていることを、コズミが微笑ましく気づいていることに、当のハインリヒは気づいていない。
 「彼女は恋人連れじゃよ。残念ながら。」
 小さな眼鏡の下の冴えない目元が、かすかに笑った時に、思いがけず色っぽく見えた。
 案外と、こういうことにはさばけた人柄なのかもしれない。そう思って、ハインリヒはコズミを見直す思いで、何となくジャケットの前を意味もなく合わせて、服装を整えている振りをする。
 ごちゃごちゃした小さな通りに入り、レストランというのは、外に出ている看板でかろうじてそうわかるという小さな場所で、中は薄暗く、客の気配はあるけれど、ひどく静かだった。
 ハインリヒの服装に、特にあれこれ注文をつけなかったということは、それほど格式が高いというわけではないのだろう。けれど案内のためにやって来たウェイトレスはきちんとした服装をしていて、丁寧な仕草で、このちぐはぐな組み合わせのふたりを、眉ひとつ動かさずに扱ってくれた。
 中は思ったより広くて深くて、3つほどに分かれている。いちばん大きな部屋は、おそらく家族が大勢で集まる時に使われるのだろう。その両脇にある形になる小さめの部屋には、ぽつりぽつりと先客がいた。ドアから離れた方の部屋へ案内され、壁際のその席の、テーブルの上の蝋燭に火を点けて、彼女はふたりが何を飲むかだけをまず聞いて、笑顔を残して立ち去った。
 「どうじゃったね。」
 彼女の背が、壁の向こうに消えたことを確かめてから、コズミが訊く。
 「どうって。」
 質問の意味はもちろんわかっていたけれど、時間を稼ぐために、よくわからないという素振りで、真っ白いナプキンの上に行儀良く並んだフォークやナイフに触る。当然ながら今は黒の革手袋に包まれている自分の右手を、揺れる蝋燭の炎のそばに見て、またジェロニモを思い出した。
 「会ったんじゃろう、ジェロニモ君と。」
 ようするに、寝たのかと訊かれているのだ。しかも、改造したあれこれのことも、同時に質問されているのだ。
 すでにレストランの雰囲気が気に入っていたから、そのことは、できれば今は触れられたくなかったのだけれど、そもそもここに来た理由がそれなのだから、答えないわけには行かない。それに、ここの食事は、間違いなくコズミ持ちだ。
 両手をテーブルの下で、膝の間にだらりと垂らして、ハインリヒはちょっと背中を椅子にもたせかけた。精一杯の、反抗の所作だ。
 「ああ、会って、寝た。だが、それだけだ。」
 ハインリヒとは逆に、コズミはテーブルの上に両肘を乗せ、軽く身を乗り出してくる。続きを、という表情が、なごやかに目元に浮かぶ。
 まるで、精神科医にでも会っているような気分だった。ハインリヒはひとつ小さくため息をこぼし、横を向いてから、覚悟を決めた。
 「まだ、例の改造のことは、話してない。明日、ジェロニモのところへ行く。その時に話すつもりだ。」
 「あした?」
 咎めるという口調ではなく、単に確認したいだけだという風に、コズミが口移しにする。
 「しばらく、いてもいいそうだ。」
 頬が赤いのは、薄暗くて見えないだろう。そのことに感謝しながら、ハインリヒは子どもっぽい仕草で椅子をきしらせた。
 ウェイトレスが、ふたりが頼んだワインを手にテーブルに戻って来る。コズミが味見を断って、すぐにグラスに注がせ、ハインリヒはそれをまず、半分ほど一気に喉に流し込んだ。香りの良いワインだったけれど、今は味にはあまり興味はない。一刻も早く、酔いで、あれこれの屈託を、消してしまいたかった。
 「部屋は引き払ってもいい。ジェロニモのところから、連絡は入れる。車で1時間もかからないところだ。何かあっても、そう慌てなくてもすむ。」
 ハインリヒは、早口に、事務的に言った。反論はして欲しくないと、声音に言わせて、赤らんだ頬をやや伏せて、叱られるのを待つ子どものように、自分よりもはるかに体の小さなコズミを、ハインリヒは上目に見ている。
 ワインをひと口飲み、香りにちょっと目を細め、濡れたひげをナプキンでゆったりと拭いて、そうして、ほんとうに、孫を甘やかす祖父のような表情で、コズミは小首を傾げさえした。
 「何でも、キミの好きなようにすればいい。」
 それで大事な話は終わったというように、コズミは、さっきウェイトレスが置いて行ったメニューを手に取り、中をあらため始める。
 ハインリヒはまだワインのグラスを手にしたまま、メニューの検分は、もう少しだけ後にすることにする。
 何なら、コズミと同じものにしようかと、デリケートな話し合いが終わったのだと、油断したところに、もうひとつ爆弾が来た。
 「ジェロニモ君にも、データを取らせてくれと、言っておいてくれんかね。」
 口に含んだワインを、喉へ送る前に、吹き出してしまっていた。
 ちょっと待て! ハインリヒが吹き出したワインは、幸いにメニューを濡らしただけですんだのか、やはりそれも日本人らしさで、コズミは自分のナプキンで汚れを拭っている。慌てている様子など、微塵もない。
 ハインリヒが断れないのを、知っているのだ。コズミの、慈愛に満ちているように見える笑顔が、その時ハインリヒには、悪魔の微笑みに見えた。
 賄賂を受け取ってしまって、進退窮まった下っ端役人のように、ハインリヒは、恐怖と開き直りの両方に首筋まで真っ赤にして、この店でいちばん高いものを注文するために、ようやくメニューに手を伸ばした。