the way i feel
(13)
荷物をまとめて部屋を引き払い、コズミに見送られてホテルを出る。片手には、大して大きくもない年季の入った傷だらけのトランクと、もう一方の手には、小さな携帯。
「何かあったら、それで連絡が取れるじゃろう。」
ハインリヒから連絡を取るのではなくて、コズミから連絡が取りやすいように、ということだと正しく悟って、ハインリヒは薄く苦笑をこぼした。
他にも行き方はあるのだろうけれど、コズミがそうしろと言うので、ハインリヒはホテルの前からタクシーに乗った。
運転手は、ハインリヒが見せた住所にただうなずいて、おんぼろの見かけにも関わらず、振動もない静かさで、そっと車を発進させる。
今回はとことん甘やかされるつもりで、コズミから渡されたクレジットカードを使うのに、一切ためらいはない。
ジェロニモの分のデータを取るなら、そのくらいの見返りは、向こうもとっくに計算済みのはずだ。
車の振動に、心地良く身を委ねて、ハインリヒはいつの間にか眠ってしまっていた。
外を流れる風景に、しばらくの間見入っていたはずなのに、話しかけて来ない運転手の首の辺りを眺めている内に、眠気に誘われてしまったらしかった。
気がつくと、周りの風景は一転し、ビルなどなにも見当たらない、果てしもなく続く草原の間を、風に紛れて駆け抜けていた。
恐ろしいほど人気がなく、ただ広い空間に、ぽつりぽつりと家が建っている。どれも平屋の、奥に長い、見るからに貧しげな家々だ。それに、かすかに眉をしかめて、世界に対する不快を表してから、ハインリヒはジェロニモのことを考え始めた。
世界から隔てられてしまったことは、ハインリヒもあった。
ハインリヒはそれに抗い、その結果、今こうしてここにいる。だからこそジェロニモに出会えたのだと、今そう思えることが不思議だと同時に、何もかもが、最初から決まっていたことなのかもしれないとも思う。
皮肉ではある。けれど、心のどこかではそれに感謝している、予定調和。
神を信じる気はないハインリヒにも、神に近い何かに、感謝の念を抱いて、敬う気持ちはある。
ここは、ジェロニモのいるところだ。ジェロニモの世界だ。
車が何度かスピードを落とし、運転手が、何軒かの家の前で住所を確かめる。
何度目かの後で、運転手は、完全に車を止めた。
目の前の家を見つめて、ハインリヒはこっそりと深呼吸した。
携えて来た、小さなトランクを片手に車を降り、その車が、元来た方へ戻って行くのを見送ってから、ハインリヒは家の方へ寄る。
車の音を聞きつけたのか、正面の玄関のドアがそっと開いて、その隙間から、様子を伺うような、陰の中に目だけが白く浮いて見えた。
ちょっと肩を揺すって、来たぞと、全身に言わせて、ハインリヒは、ドアが全部開くのを、そこで立ったまま見ている。ごく自然に、頬の辺りが熱くなる。
ジェロニモの大きな体が、小さな家の構えに不似合いに、ドアの前の小さい短い階段の上に立って、ただ微笑んでハインリヒを待っている。
外から区切られた、ジェロニモの住んでいる場所だ。そこに、ハインリヒがいる。
やっと来た、と思いながら、足を前に出した。
「迷わなかったか。」
薄く微笑むジェロニモがそう訊くのに、ハインリヒは鼻の頭にしわを寄せて応え、招き入れる長くて太い腕に従って、思いの外明るい家の中へ入った。
荷物は適当に床に置き、特に気を使う相手でもない──今では、互いに──から、ジェロニモがそっとハインリヒの肩を押して、少し奥のキッチンへ一緒に入る。
奥へ深い造りだ。家の中に入ればすぐ居間らしい空間があり、その向こうにキッチンがある。キッチンの一番奥が家の終わりで、そこには、裏庭へ出るらしいドアがある。居間には、大きな古びたソファがあって、その前には、これも古びたコーヒーテーブルがある。
何となく、穴蔵を思わせるこの家を、ハインリヒはジェロニモらしいと、直感で思った。
キッチンの小さなテーブルに、向かい合わせに腰を下ろし、ジェロニモは正面を向いたけれど、ハインリヒはどこか照れたように、椅子には斜めに腰掛けた。
それから、一度小さく声を立てて笑ったジェロニモが、少し慌てたように立ち上がって、キッチンのカウンターの方へゆく。
何がいいかとも訊かずに、湯が沸き、紅茶の葉を、白いポットに入れているのが見える。
言葉は特にない。言葉ではなく、全身が語り合っていたから、そのことに、互いにやや照れて、どんな風に、今ここに一緒にいられる幸せを表せば良いかと、背中を向け合って考えている。
ここは、ほんとうにふたりのためだけの空間だ。
湯の沸く音と、それを注ぐ音と、どちらもひどく暖かな音だ。
ハインリヒはそれに耳を傾けて、ジェロニモがポットとカップをふたつ、小さなテーブルに運んで来るのを、斜めに見上げて視線で追った。
「ここだと、すぐにわかったか。」
「ああ、別にどっちへ行くとか、特には訊かれなかった。」
確か、街並みが消えてしまってからは、1本道だったような気がする。
ここからがそうだと、明らかな目印があったとも思えないけれど、その道の途中から、雰囲気が変わったと、窓の外へ目を凝らしたことを、思い出していた。
湯気の立つ紅茶をすする。飾り気のない、普段使いのマグに、カートンのままの牛乳。洒落っ気など、はなから問題にもしないふたりには、これこそがお似合いだった。
何しろ、紅茶は熱くて美味かったし、それをジェロニモと向き合って飲めるなら、ハインリヒに文句のあろうはずもない。
少々厄介な頼み事は引き受けざるを得なかったけれど、ひとまずここには邪魔はいないのだ。
ハインリヒは、自分を穏やかに微笑んで見つめているジェロニモに向かって、テーブルの上で手を伸ばした。
それに気がついたジェロニモが、ハインリヒの指先を、自分の指先ですくい取って、テーブルの表面とハインリヒの掌の間に、ぶ厚い手を滑り込ませて来る。
曲がった指先と伸びた指先が、様々に軽く触れ合い、指の横腹を滑ったジェロニモの指先のその感触に、ハインリヒは思わず頬を赤らめる。
こうしたくて、ここへわざわざやって来たのだと、改めて思った。
会うということが、もう文字通りのそれだけを表しているのではないふたりは、掌を重ねて、それをふたりでじっと見つめている。時折指先が動き、掌や親指のつけ根の辺りを探る。
外はまだもちろん明るいし、薄暗くなるまでには、まだ大分時間がある。そのためだけにここまで来たわけではない──そう思いたがっているだけだ、ということには気づかない振りをして──けれど、やっと誰の目も届かないところでふたりきりになれたのだと、ハインリヒはそんなことばかり考えている。
紅茶にはまだ手を伸ばさないまま、ハインリヒはジェロニモに触れて、そこから手を離したくなかった。
手だけではなく、テーブルの上に体も伸ばして、唇にも触れたいと思った。
そう言えば、会った時にする挨拶は、今もまだ握手だけだ。時には、久しぶりだなと、そう目配せするだけで終わる。
親しさを、ことさら表現する必要のない間柄だった──親しくない、というわけでは決してない──からだけれど、それを、少し変えてもいいと、突然そう思う。
だから、紅茶に触れもせずに、ジェロニモから手を離さずに、ハインリヒは椅子からそっと立ち上がった。
ハインリヒのその動きを予想していたように、ジェロニモは空いた方の手をハインリヒに伸ばして、むしろ自分から、手元へ引き寄せるような仕草をする。
それに励まされて、ハインリヒは、自分の膝がジェロニモの膝に当たる近さに体を寄せた。
軽く開いた足の間に、自分の片膝を差し入れ、そうやって体を近づけて、肩の近くにジェロニモを抱き寄せる。首の後ろや耳の後ろを探り、それが鉛色の右手であることに今は頓着せず、ハインリヒは、こめかみの辺りに唇を押し当てた。
会いたかったと、音には出さずに、唇だけで言う。聞こえないはずのジェロニモが、喉を伸ばして、ハインリヒのあごに、頬の辺りをすりつけて来る。
同じだ。会いたかったのも、こうしたかったのも。そして、同じように、会えるならすぐに触れ合いたいと、そう思っていたのも同じだ。
よかったと、表情にも吐く息にも出さずに安堵して、ハインリヒは、ジェロニモのシャツの首のすき間に、そっと右手の指先を差し入れた。
まるで、そうすればシャツを脱いでしまえるとでも言うように、ジェロニモが肩を軽く揺する。
せっかくの紅茶にはふたりとも手を着けないまま、なるほど、それは別に気にする風もない。ジェロニモは自分を抱き寄せるハインリヒを離さず、また喉の辺りに額をすりつけて、タートルネックのシャツのせいで直には触れられないそこに、唇をかすめさせる。
「実は、体を、少し変えてもらった。」
考える前に、言葉が口をついて出た。
からだ、と口移しにして、ジェロニモが顔を上げる。下目に視線が合ったけれど、ハインリヒは体を伸ばす振りをして、そこからさり気なく目をそらした。
「その、おまえさんとその、無理だったろう。」
ジェロニモが、はっきりと怪訝な顔をする。
「別に、大した改造じゃない。ただ、もうちょっとまともに、普通の人間らしくしてもらったって、それだけの話なんだが。」
具体的なことはよく理解できず、けれどとりあえず、これからふたりがしようとしていることへの障害が、サイボーグだからという障害が、ひとつ減ったのだと、そういうことだと、ジェロニモはシンプルに理解した。
「それを試すのに付き合ってくれたら、ありがたい。」
それが、そう言った通りのことかどうか、ハインリヒの人となりを、こんな形でも思い知ってしまうことになったジェロニモは、それがもちろんただその言葉通りのことではないと知っていて、いろいろなことが様々、結局はふたりきりで会いたいと、ただそのことに繋がるのだと、ハインリヒのことも、自分のことも、もちろんきちんとわかっている。
会いたかった。昨日、ホテルでもそう言った。会って、無事な姿を確かめること、言葉を交し合うこと、互いの、会わなかった間の時間を語って、なるべくすべて伝え合うこと、そして、言葉ではなく、互いを確認すること、今では、その言葉が、いろんな意味を含み始めている。会うというのは、ただ会うことではない。会わない間に起こった、ほんの小さなことすらも、それがどんな風に互いを変えているのか、それがどんな風に血肉になって、互いが、わずかに見知らぬところを含む、知っているけれど知らない互いになっているのか、確認するための作業が、そこに確実に含まれる。そしてそれは、今のふたりには、とても重要なことだ。
ハインリヒがたった今告げた改造ということを、ジェロニモは、何もそこまでと思うと同時に、もっと大きく、ハインリヒをそこまで突き動かした何かの激しさに、いとおしさすら感じていた。
その理由の大半が、自分だろうことがわかるから、そして、ハインリヒの、決して面には表さないひどく情熱的な部分──とても、珍しい──に、感嘆すら覚えて、ジェロニモはいっそう強くハインリヒを腕の中に抱きしめる。
それから、急な仕草で椅子から立ち上がった。
驚いて腕を引こうとしたハインリヒを、逃がさずに腕の中に抱えて、口づけてしまえば、腕はまた自分に向かって伸びて来る。
まだ脱いでいなかった上着を、肩から滑り落とさせる。床に落ちたそれを、踏まないように気をつけながら、抱き合ったまま、ジェロニモはハインリヒを後ろへ向かって押し始めていた。
唇は、わずかの間外れることはあっても、その間ほとんど、重なったままでいた。
キッチンと居間を分ける壁の、柱のところへ、ハインリヒの背中がたどり着く。ジェロニモとその柱に挟まれて、足元がおぼつかないのを、背中を叩いて伝えた途端、ジェロニモの腕が、ハインリヒの脚をすくい上げた。
前に抱え上げられるような形で、床から浮いた足はジェロニモのぶ厚い腰に回り、そこで、ごく自然に足首が交差する。まるで、樹の幹を駆け上がる猫か何かのように、ジェロニモにしがみついて、自分を何の苦もなくそうして抱き上げたジェロニモに、ハインリヒは、もう驚く間もなく、赤くなった頬を、その頬にすりつけた。
また唇が重なる。まだ服は着たままだったけれど、腹や腰の辺りを、互いにこすりつけるような形になって、そのまま、ジェロニモはキッチンから足を踏み出した。
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