the way i feel
(15)
ひとまずシャワーを浴び、服を着替え、すっかり冷めてしまった紅茶を、ジェロニモがいれ直してくれた。
今度はキッチンではなくて、一応ソファの置いてある居間に移動し、そこに腰を下ろして、ハインリヒの両足を、ジェロニモが自分の膝の上に抱え上げる。
思い出したように紅茶に口をつけながら、ジェロニモは、ずっとハインリヒのふくらはぎの辺りを、まるであやすように優しく撫で続けていた。
音楽もない、本もない、見るためではなくただつけているだけのテレビもなく、ふたりはそうして、ソファの上でくつろいでいる。
少し乱れた髪と、すっかりなごんでいる体全体と、頬の線が締まらないのは、ハインリヒは自分で自覚していた。
どうしても上がったままになる口元を、もうどうする努力もせずに、時々自分の足に触れるジェロニモの手に自分の手を重ねて、並んだ太い指の間を、そっと指先で撫でたりする。大きくて丸い爪の先が、癇症らしく切り取ってあるのが意外で、その手指の皮膚の硬さに、ジェロニモが体を使って仕事をしているのだと思い出す。
爪が短いのは、仕事のためかと思って、それから、もしかして自分のためだろうかと思う。触れて、うっかり傷つけてしまわないようにと、そのために短く切った爪だろうかと思って、そうに違いないと思った。
とんでもないうぬぼれの勘違いかもしれなかったけれど、それならわざわざ訊かなければいい。黙って、そうだと決め込んでおけばいい。ジェロニモが、自分のために、そうとあからさまではない気遣いをしているというのは、そう考えるだけで胸の底があたたかくなる。それに水をかけることもないと、ぬるま湯につかったままのような頭の中で考えた。
爪の先の触れない指先の丸さを、指の腹に触れさせて、ずっと自分に触れている──触れていた──その指の動きを、ひそかに目で追っている。
素足になるのは、普段はシャワーと寝る時だけだ。服を脱ぐのも、その時だけだ。けれど今は、ベッドから抜け出たばかりの自堕落な格好になって、ずっとこのままソファに寝そべっていてもいいと思う。
とりあえずは、思っていた通りにうまく行ったのだ。改造の結果に問題はなさそうだったし、データもきっとうまく取れたろう。煩わしいことは、多分これで終わりだ。後はもう、ごく普通に、滅多と訪れることなどないこの場所を、好きに楽しめばいい。
好きに、と思ってから、何を、と改めて考える。コズミの付き添いという口実を除けば、ここへやって来たのは、ただひたすらジェロニモに会いたいというだけだった。
最初からそのつもりだったとは言え、改めてそう気づくと、気恥ずかしさが先に立ち、今さらのように首筋の辺りに血が上る。
もちろん、それだけじゃない。ハインリヒは思った。
抱えて来た本を読んで、できれば一緒に散歩でもすればいい。裏庭で、ただひなたぼっこでもいい。ジェロニモが働いているという牧場へ、連れて行ってくれと頼むこともできる。
あるいはただこうして、他愛もない時間を一緒に過ごしてもかまわない。特に何をするでもない、ただ一緒にいるという、ごく普通のことを、ごく普通に楽しんでもいい。何も考えずに、こうして同じソファに坐って、ジェロニモが身にまとうその空気の中に、一緒にいればいい。
ジェロニモの世界に、自分がきちんと含まれているのだということを、今までのどんな時よりも強く感じて、ハインリヒは、思わず意味もなく室内履きの中の爪先を軽く動かした。それが照れ隠しだと気づいてから、その動きを自分で眺めて、ああ浮かれているのだと感じていた。
「夕食の準備をしよう。」
相変わらずハインリヒの足を撫でる手を止めずに、ジェロニモが言う。
立ち上がりたくないと思っているのだと、その手の動きとジェロニモの瞳が、はっきりと告げている。たかが数歩先のキッチンへ、まだ行って欲しくはないとハインリヒも思って、その手に自分の右手を重ねた。
掌を見習って、黙って見つめ合っている間に、どちらからともなく顔が近づいた。それもまた、握り合うことはしないそれぞれの手を見習って、唇も触れ合うだけにとどめた。
「紅茶をもう1杯どうだ。」
「いいな、もらおう。」
そうして、ハインリヒの足を床に下ろし、ジェロニモが立ち上がる。大きな体が空気を揺らすその動きを、ハインリヒはしっかりと目で追った。
キッチンへゆく背中を見送ってから、まだ玄関の近く──居間の端だ──に置いたままだったトランクを、ソファの傍へ持って来る。開けば、携えて来た数冊の本がすぐに目に入る。そのうちの1冊を手に取って、ハインリヒはソファにひとり寝そべった。
水を使う音、食器の触れ合う音、思ったよりもずっと静かな足音、肩や腕が空気を揺らす気配、ページに視線を当てて、けれどハインリヒの神経は、キッチンのジェロニモに集中していた。
抱きしめられた腕のあたたかさを思い出しながら、久しぶりに煙草を吸いたいと、突然思う。
口さみしいせいなのだとは気づかずに、煙草を吸う仕草で、揃えた指先で自分の唇に触れ、ページの最後に来ても、まだ次へは進まずにそのまま、自分がひどく人間くさくなっている身内の感覚に、ハインリヒはひとりそこで戸惑っている。
その戸惑いはけれど、困惑ではなかった。
明日、どこか煙草の買えるところに連れて行ってくれないかと頼んでみようかと思って、ハインリヒはやっと本のページをめくった。
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