the way i feel
(17)
電話が鳴った。
ちょうど、ふたりがまた手足を絡め合わせて、夜明けの手前に眠りに落ちればいいと、言葉にはせずに同意した少し後、互いに思わず顔を見合わせて、闇でも見える目で時計を確かめる。3時をとっくに過ぎている。
無視するには尋常でない時間だったし、呼び出すその音がやけに切羽詰って聞こえたから、ハインリヒは体の動きを止めて、目顔でジェロニモを促した。
ジェロニモの太い腕が伸び、5度目を数えたところで受話器が持ち上がる。ハインリヒの上から離れながら、わざと背を向けるようにしてベッドの端へ腰を引っ掛け、
「ああ、大丈夫だ、起きてる。」
やや丸まった背中が、電話の向こうを自分から隔てているように見えて、ハインリヒは少し不安を覚えて、ベッドの上に体を起こした。
「ちょっと待ってくれ、電話を替える。」
言いながら、床に脱ぎ捨てていたシャツを爪先で引き寄せ、切らずに受話器を置いて、ジェロニモは取り上げたシャツを羽織りながら部屋を出て行った。すぐ戻ると、振り返らずに言ったのが、単なる気休めだと正しく聞き取って、何か自分に聞かせたくない内容なのだと悟ったけれど、そこにある受話器を取り上げて会話を盗み聞きする気にはなれず、さっき感じた不安が軽い不愉快に変わってゆく気持ちの悪さに、ハインリヒは知らずに唇をとがらせていた。
数分待って、まだジェロニモが戻って来る気配がないと確かめてから、ベッドから引き剥がした上掛けで体を包み、そっと部屋を出る。
狭い家の中で、部屋から出れば何もかも丸聞こえだ。今すぐとか、どんな様子だとか、やっぱり無理かとか、そんな言葉が短く聞こえ、キッチンの電話で話しているらしいジェロニモの声は、どう聞いても困っているように聞こえた。
わざわざ部屋を出たのに、盗み聞きに来たのかと腹を立てられても仕方ないと──蚊帳の外に置かれたことに、もう先に腹を立てている──開き直って、ハインリヒは足音は消さずにキッチンへ近づいて行った。
こちらに背を向けて、シンクの縁に大きな体を預けて、うつむいたジェロニモが電話に向かって何度もうなずいている。何か頼まれ事をされているのだと見当はつく。こんな時間に、こんな風にうまくあしらえない内容なら、急を要することに違いなかった。
ハインリヒがここに来て4日、1度も電話はならなかったし、誰も訪ねて来なかった。ジェロニモはほんとうに、一切をハインリヒのために断(た)って、ここにふたりきりでいようとしていたのだ。どうやら、その電話は、その時間に終わりを告げる声らしかった。
寒くはないのに、ハインリヒは巻きつけた上掛けの中にあごを埋めて、そこで大きく息を吐いた。その音に気づいて、ジェロニモが肩から横顔だけで振り返る。振り返ったその瞳に、すまなそうな色が浮かんだ。
「ああ、わかった、これからなるべくすぐに行く。朝まで何とかなれば獣医も来てくれるんだろう? それまで何とかしよう。」
そうしてジェロニモは、ようやく電話を切って、完全にハインリヒの方へ振り向いた。ため息のように、大きく息を吐いたのが、上下した胸の動きでわかる。
「・・・仕事だ。馬が産気づいて、難産らしい。獣医に連絡が取れないんだそうだ。」
ハインリヒは肩をすくめ、じゃあ仕方ないなと、仕草で見せてわざと何も言わない。我ながら幼稚なやり方だと思いながら、自分の中にうっすらと湧く不愉快さを、ジェロニモに押しつけずにはいられない。
「朝までには何とかなるはずだ。なるべく早く戻る。」
言いながら、せわしくハインリヒの両肩を抱き寄せて、髪に2度口づけ、体が離れたと思ったら、もうバスルームへ背中が消えるところだった。
何日休みを取ったのかは知らないけれど、そもそも急に押し掛けて来たのは自分の方だったから、ジェロニモの休暇が途中で切り上げられてしまっても、文句を言える筋合いではない。この急な休みのために、ジェロニモがどれだけ大変な思いをしたか、それともこれからするのか、こうして手持ち無沙汰になると、思わず思い煩う羽目になる。
ジェロニモが、自分を放って仕事へ戻ってしまうことに、腹を立てる筋合いはこれっぽっちもないとわかっていて、それでも10分と掛からずにシャワーから出て来て、服を着替えるためにベッドルーム──乱れたままだ──へ入って行く背中を見て、ハインリヒはわずかに腹立ちのこもった息を吐いた。
ドアのところへ立って、服を手早く身に着けるジェロニモの背中越しに、ふたりが抜け出した時のままのベッドを見やって、ハインリヒはほんの数時間、ここにひとりぼっちにされることに耐えられそうにないと思っていることに、驚いている自分に腹を立てかけているのだと言うことには、まだ気づかないでいる。
「おまえさんのその牧場ってのは、一体どこにあるんだ?」
ここに来て、ゆっくりと話す時間は山ほどあったと言うのに、別のことに忙しかったふたりは、そんなこともまだ話してはいなかったから、ハインリヒは良いチャンスだと思うこともせず、ただ黙ってジェロニモが身支度するのを見ているのが耐えられなくて、憮然と口を開いた。
「この前の道を左に真っ直ぐだ。車なら10分も掛からない。」
ジーンズの上着を手にして、肩へ乗せながら、ジェロニモがその方向を指先で指し示して見せた。
「なるべく早く戻る。」
ハインリヒの不穏な表情──隠す気もなかった──を読み取って、心底申し訳なさそうな顔を見せて、ジェロニモがまた言った。
そうして、ドアのところへ突っ立ったまま、身支度を終えて出て行こうとするジェロニモの道を塞ぐように、ハインリヒはじっとそこから動かない。ジェロニモは見えないように苦笑をこぼして、ハインリヒの片頬にそっと口づけた。
「まだ若い母馬なんだ。予定日は、もう少し先のはずだったんだ。」
言い訳めいて、けれどそれは単なる説明に過ぎず、ハインリヒはようやく足を斜め後ろに引いて、ジェロニモがやっと通れるだけの隙間を空けた。
足早にキッチンへゆき、トラックのキーを片手に玄関へ向かうジェロニモを追って、ハインリヒも外へ続くドアへ一緒に向かう。
外はまだ真っ暗だ。そう言えば、このドアから顔を出したのも、ここへ来て以来だ。
ハインリヒはやっと少し素直になって、ドアを閉めるためにこちらを向いたジェロニモに向かって、右腕を伸ばした。
「母馬と赤ん坊が、無事だといいな。」
自分だけが、ジェロニモを必要としているわけではないのだ。苦しんでいるのだろう腹の大きな若い馬と、その馬を目の前に、おろおろとジェロニモを待っている牧場主──白髪に白ひげの、小柄な男が浮かんだ──のことを考えて、やっと自分のわがままを引っ込める気になると、ハインリヒは馬たちへの祈りの代わりに、ジェロニモの頬の刺青の上に唇を押し当てて、うっすらと笑って見せた。
ハインリヒの微笑みに安心したようにつられてジェロニモも微笑んで、閉めようとしたドアをハインリヒが制したのに素直に促され、そのままトラックの方へ走ってゆく。
ドライブウェイを抜け、ジェロニモの青いピックアップトラックが、ざりざりと砂利を噛んで走り去る。テールランプが、ジェロニモがそう指し示した方向へ去ってゆくのを、ハインリヒは、全裸に上掛けを巻きつけただけのその姿で、闇の中、じっと見送っていた。
真っ直ぐに伸びる道を進んで、ジェロニモのトラックのライトが見えなくなるのにはしばらく掛かった。
寒いとも思わずに、ハインリヒは開いたままの玄関に立ち、トラックがすぐにきびすを返して戻って来ることを期待したわけではなかったけれど、その小さな望みを捨て切ることができずに、今夜は星の見えない空を見上げて、そこへ向かって大きく息を吐く。
それから、やっと頭を振って家の中に入り、後ろ手にドアを閉めた。
大きくも広くもない家の中が、ジェロニモがいなければひどくがらんと空っぽに見えて、気のせいか置いてある家具さえ、生気を失ってしまったように見えた。
それはきっと、ジェロニモの持ち物がどれも使い込まれて古いせいだと思いながら、自分ひとりがここにいたところで、ここの空気は一片たりとも変わらないのだと言うことに、やはり自分はただここを気まぐれに訪れただけの人間──と、ためらわずに思う──なのだと思い知る。そのことに傷ついた振りをしたのは、ひとり置き去りにされた、ジェロニモのいない淋しさをまぎらわせるための、卑怯な心の動きだった。
上掛けを引きずったまま小さなキッチンへ行き、コーヒーでもいれるか、それとも紅茶にするか、あるいはじきに戻って来るだろうジェロニモのために、サンドイッチでも作っておこうかと、あれこれと頭の中で考える。
冷蔵庫に手を掛け、静かに開けてから乱暴に閉め、どたどたとキッチンを横切ってゆく。裏庭へ続くドアへたどり着いて、そこから真っ暗な庭を、ただ視線をさまよわすだけで眺め、ジェロニモのトラックが戻って来ないかと、耳をすませた。
戻って来るはずがない。朝まで獣医に連絡が取れないというようなことを言っていたから、すっかり明るくなるまで帰っては来ないだろう。
意味もなく裏口のドアのノブをがちゃがちゃ言わせてから、ハインリヒはそこにきちんが鍵が掛かっていることを忌々しく思って──八つ当たりだ──、くるりと乱暴に方を回した。
ひるがえった上掛けの裾がドアに当たり、思ったよりも乾いた音を立てる。その音が、自分以外誰もいないキッチンに意外と大きく響いて、ハインリヒは子どもっぽい仕草で唇の端を下げる。
またキッチンの方へ戻り、しっかりと上掛けを体に巻きつけて、そのままテーブルについた。
小さな丸いテーブルは、ハインリヒひとりでいっぱいの大きさに見えたけれど、向かいにジェロニモのいない今、目の前の天板はやけに平べったく大きく向こう側に広がり、目に映る何もかも、ハインリヒには忌々しいことこの上ない。
ごく自然に、不機嫌なため息がこぼれた。
頬杖をつき、余った右手はテーブルの表面を撫で、じきに手持ち無沙汰のそれが、かつかつと爪の先──マシンガンの銃口──でそこを叩き始める。ハインリヒの内心の苛立ちそのままの、神経に障る音だった。
掌に乗ったあごの位置を変え、その掌で首の後ろを撫で、自分で髪をくしゃくしゃにし、そうしながら頭の隅で、コーヒーでも飲むかと考える。けれど体は一向に動かない。ただ苛立たしげに、指先がテーブルをこつこつと叩き続けている。
止める誰もいないその神経症的な仕草に、ついにハインリヒ自身が苛立ちの限界に達し、コーヒーのことも星の見えない真っ暗な夜空のことも忘れて、ひどい音を立てて椅子を蹴飛ばすように立ち上がると、キッチンの明かりを、壁を壊す勢いで消してから、ひとりきりベッドルームへ戻った。
外はまだ暗い。朝はもう少し先だ。ジェロニモが戻って来るのも、まだ先だ。
ふたりで乱したままのベッドへひとり横たわり、体に巻きつけていた上掛けの中で、何度も何度も寝返りを打つ。暗闇の中で、とりあえずは寝ようと心を落ち着けてから、やっと難産だという母馬は大丈夫だろうかと、ジェロニモ以外のことが気に掛かり始める。
馬の難産というのが、どれほど厄介なものかハインリヒに知識はなかったし、ジェロニモもこれが初めてというわけでもないのだろうから、こんなところで自分が心配しても仕方がないと、そんな結論にしか行き着けず、あの大きな手で苦しんで汗ばんだ馬の体を撫で、必死に落ち着かせようとしているジェロニモの、少しばかり必死になった表情を思い浮かべてから、その表情が別のことへ繋がるのを止められずに、ハインリヒはひとりしわだらけのシーツの上で苦笑した。
いつの間にか、苦しげに小さくうめいている馬が、声を殺し切れない自分の姿にすり替わり、けれど体を撫でるジェロニモの必死の所作は変わりもせず止まりもせず、馬でないハインリヒは思う存分ジェロニモに向かって両腕を伸ばし、そうすると、ジェロニモの表情がするりと変わる。
なぜかトラックのキーを片手に持ったそのままハインリヒの腹の辺りを撫でようとするから、冷たくてがちゃがちゃとうるさくて、ハインリヒはキーをどこかにやるつもりでジェロニモのその手を払った。
キーがどこかへ飛び、それをゆっくりと取り上げたコズミが、自分の上着のポケットに鍵の束を収めながら近づいて来る。
調子はどうかね。
目の前でふたりが裸で抱き合っているというのに、表情も声の調子も変えずに訊く。
何の問題もない。どうぜデータを取ってるんだろう。
ジェロニモは向こうを向いている。ハインリヒは体の動きを止めてコズミを下から見上げて、素っ気なく答えた。
データだけではわからんこともあるのでね。トラックの鍵はもらってゆくよ。
胸ポケットを上から叩きながらコズミが言う。
ちょっと待ってくれ、それがないとジェロニモが困る。
腕を伸ばす。けれどコズミは構わずに肩を回してそこから立ち去ろうとする。
ジェロニモは何も言わない。顔をあちらに向けたまま、ハインリヒの上から動こうともしない。
待ってくれ! キーは置いて行ってくれ!
ジェロニモの下で体をねじり、そこから抜け出そうとした。ドアらしきところから出て行こうとするコズミの背中を追おうとして、突然ジェロニモに抱きすくめられる。
無言のままのジェロニモの体は、どんどん重みを増して、肩や背中に回る腕が全身を締めつける。叫ぼうとして喉が震え、もがく動きで体が跳ねた。そこで目が覚めた。
寝返りを繰り返すうちに、体に上掛けがきつく巻きつき、左肩と左腕が一緒に、しっかりと胸から腰に掛けて巻き込まれていた。
ひどく苦労してやっと体を自由にしてから、見ていた夢の不可解さに、また深くため息を吐く。
闇の中で光る時計の文字盤は思ったよりも進んだ時間を示していて、もう少し待てば外も明るくなる頃だった。
とりあえず、シャワーを浴びて、ひとり分の紅茶をいれようと心に決める。それから着替えて、ジェロニモの行った牧場へ行く。目的はない。何か手伝えることがあるとも思えなかった。けれど、ここにひとりでいるよりはいいと、思うと急に体が軽くなる。
まだ腰や足に巻きついていた上掛けを勢いよくはぎ取り、ハインリヒは、はしゃぐ子どものような仕草でベッドから飛び降りた。
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