the way i feel


(18)

 薄明るくなり始めている道を、ジェロニモがそう示した通りに、ゆっくりと歩いてゆく。
 ズボンのポケットに手を入れ、気まぐれな早起きの朝、ただひまつぶしに散歩を楽しんでいるだけだという振りで、まばらな並ぶ家をひとつひとつ眺めながら、どの家にもまだ明かりが見えないのに、少しばかり気恥ずかしさを感じたけれど、それには肩をすくめただけで、ハインリヒは足取りを変えずに真っ直ぐ歩き続けた。
 別に肌寒い季節でもないのに、きっちりと長袖のシャツにジャケット、と右手にはいつもの皮手袋を着け、問われればいつもする適当な言い訳をするつもりでいるけれど、ジェロニモがそれをどう思うだろうかと、普段なら考えもしないことが頭の中をよぎる。
 かと言って、まさか剥き出しにしておくわけに行かず、せっかくの休暇と完全に割り切って、装甲を全部人工皮膚で覆ってもらえばよかったと、また考える自分に苦笑した。
 次の時は必ずと、それはきちんと頭の片隅にメモをする。次にジェロニモにこうやって会う時は、その前にきちんと体を普通にしておこうと、たとえそれが見掛けだけのことだとしても、ジェロニモが、今のこのハインリヒの体のことをどうとも思っていない──多分──ことを知っていても、少なくともふらりと外へ出るのに、いちいち気を使わなくていいならその方が気が楽だと、歩きながら考えていた。
 抱き合うのに、触れるなら皮膚の方がいいに決まっていると、そう聞こえた自分の声には、今だけ知らん振りをする。
 わざとゆっくり歩いたのは、途中でジェロニモのトラックとすれ違わないかと思ったからだ。残念ながら、舗装されていない道を通る車すらなく、30分近く歩いたかと思う頃、大きな納屋らしい建物が見え、傍には小さな家のある、敷地の中に一部ぐるりと木の柵の張られた場所を見つけた。
 近づくと、納屋の入り口らしいところにジェロニモのトラックが見え、馬がいるなら見知らぬ人間を見て驚くかもと、足音をひそめてそこへ近づいてゆく。
 納屋からは薄明かりが漏れ、まるで小さな学校の中へ入り込んだように、入り口からいちばん奥へ向かって、左右に仕切りが並び、それぞれに馬が入れられているらしいけれど、ぽつりぽつりと空の場所もあるらしかった。仕切りの中には乾いた藁が敷きつめられ、そこから馬や人が出入りする小さな入り口付近には、空だったり水でいっぱいだったりする桶が置いてある。
 馬が動き回り、しきりに歩き回ろうとし、それをなだめているらしいジェロニモの声と気配は、納屋のいちばん奥から聞こえていた。
 さらに足音を抑え先に進むと、いちばん奥の不穏な様子に、他にもぽつりぽつりいる馬たちはけれどもう慣れてしまったのか、どの馬も自分の藁の中に長い鼻先を突っ込み休んでいるように見える。
 区切りの中をひとつひとつ眺めながら、ハインリヒはジェロニモたちの方へ近づいてゆく。
 そこへの入り口へたどり着く前に、ハインリヒはまず脳内通信でジェロニモに話しかけた。
 ──勝手にすまないが、様子を見に来た。
 応えるより先に、区切りの中からジェロニモが驚いた顔を覗かせる。
 「わざわざ歩いて来たのか。」
 ジェロニモが傍を離れたのを不安がったのか、母馬が歯を剥いてうめき声を立てた。
 「俺はいい。おまえさんは馬の心配をしててくれ。」
 獣くさい、湿った汗の匂いが鼻をつく。不快ではないけれど、馴染みのない匂いだ。ハインリヒはジェロニモたちのいる区切りの前に立って、けれど少し離れて様子を伺った。
 ジェロニモは、ハインリヒにやや背中を向ける形で、馬の腰の辺りに両手を添え、やたらと左右上下に振れる長い尻尾の動きに合わせて、落ち着けと言い聞かせるように背骨の両脇をずっと撫でている。母馬は不快感を訴えるように首を振り、時々、悲しそうにジェロニモの方を見る。
 数度ハインリヒの方を見たけれど、今は見たことのない人間になど構っていられるわけはないらしい。明るい陽の下で走る姿を見れば、さぞ美しい馬だろうとハインリヒは思った。残念ながら延々と続く苦痛に口元を歪め、不安気に4本の足で藁を蹴っている姿は、人に馴れた従順な家畜ではなく、まさしく野にいる獣のそれだ。
 仕切りの柵に、ジェロニモのシャツが引っ掛けてあるのに気づいて、やっとハインリヒは、ジェロニモの下着のシャツ姿に目を止めた。
 この場の状況に次第に慣れてよく見れば、右肩の辺りが血らしい染みで汚れている。どうしたのかと思ったのが、脳内通信で伝わってしまったのか、ジェロニモが馬を撫でる手は止めずに横顔だけで振り向いた。
 「腕を入れて、中で子どもがどうなってるか確かめたせいだ。」
 「腕?」
 聞き返したハインリヒに向かって、ジェロニモがちょっと肩をすくめる。わざと言わない言葉を飲み込んだその唇の動きで、やっと何のことか悟って、少しばかり生々しさに当てられたハインリヒは、まるで吐き気を耐えるような仕草に口元を革手袋の掌で覆う。
 動物と暮らしたことはないし、サイボーグが赤ん坊や妊婦に縁があるわけもなく──それはむしろ、ハインリヒの性格によるものだろうけれど──、腹の膨れた野良猫さえ直には触れたことのないハインリヒは、ジェロニモがここに呼ばれて、朝に近い深夜という時間にわざわざやって来た理由を、今さらひどく重く感じた。
 母馬がまたうめいて、後ろ足を蹴り上げるような動きをする。ジェロニモが腰や腹を撫でさすり、小さく声を掛ける。
 「・・・帰った方が良さそうだな。ここにいても邪魔になるだけだ。」
 ハインリヒは心の底からそう思って、そう思った通りを口にした。
 腕を伸ばし、長い首を撫でる。その手は止めずに、ジェロニモが少し慌てたように言う。
 「いや、すまないが、このままここにいてくれた方がありがたい。獣医がまだ来ないなら、人手があった方がいい。」
 「何かの役に立つとも思えないんだが。」
 「一緒にいてくれたら、それでいい。」
 馬が苦しげに首を振った。
 「・・・馬のお産に立ち会うのは、おまえさん何度目だ?」
 「忘れた。いちいち数えてない。百頭は行かないが、多分それに近い。」
 「下手な獣医よりベテランじゃないか。」
 「おれができるのは、お産を助けるだけだ。母馬や子馬に何かあっても、おれには助けられるような知識も技術も何もない。」
 ジェロニモらしい謙遜だと思ったけれど、確かに命に関わるような事故があれば、獣医でなければ対応できないだろう。百回近い出産を見守った後でも、万が一の不安が拭えないものなのだと、どんな時も端然と構えているように見えるジェロニモが、今かすかに感じている心細さのようなものを嗅ぎ取って、ハインリヒは改めて心を引き締めた。
 馬の声の調子が不意に変わる。こちらに向いているジェロニモの大きな岩のような背中が、一瞬で表情を硬張らせた。
 水の音がして、母馬が首を振り回し暴れようとする。ジェロニモはそれをなだめすかしながら、母馬の後ろ足の方へ厳しい視線を向けた。
 馬がまた、けたたましく鳴いた。
 「どうした。」
 入り口から誰かが慌ててやって来る。
 手足をばらばらと動かしながら走って来たのは、どうやらジェロニモの雇い主である、この牧場の持ち主らしい。ハインリヒがそう想像した通りに、手足の細い体の薄い、小柄な老人だった。白いひげを鼻の下とあごにたくわえ、そこだけ細く鋭い目が、ハインリヒに向かって訝しげに細められる。
 「今蹄が出て来た。引っ張り出すしかなさそうだ。」
 牧場主がハインリヒのことを訊く前に、ジェロニモが声を掛ける。母馬と生まれて来る子馬が何より優先だと、そのやや切羽詰った口調が言っていて、牧場主はジェロニモのその声を聞くと、目の前の見知らぬ白人の男のことなどすっかり忘れたように、ハインリヒを突き飛ばすようにして仕切りの中へ入って行った。
 牧場主は母馬の首の辺りを抱きかかえるように押さえ、ジェロニモは背後に回って、今は手につかめるほど外に出て来た子馬の濡れた細い脚に両手を添え、母馬の体越しにふたりで目配せし合う。
 邪魔をしないためと、そして出産という生々しさに耐えられそうにないハインリヒは、ジェロニモの手元が見えない位置に移動して、主には牧場主ばかりを見ていることにした。
 母馬の苦しみ方が、今までとは明らかに変わり、四肢を踏ん張って全身に力を入れようとしている。そのタイミングを見ながら、ジェロニモが子馬を外へ引っ張り出そうとしていた。
 生まれればすぐに自力で立ち上がり走り出す子馬の脚が、細くてもどれほど丈夫かは見当がついたけれど、それを引っ張るというのがどれほど神経を使うことかと、ハインリヒは眺めていて気が気でない。
 そのぶ厚い掌で鉄球さえ軽々握りつぶすジェロニモが、子馬を母親の腹から引っ張り出そうとしている。傷つけたりしないように、けれど子馬がきちんと外に出て来れるように、力加減の難しさを想像しただけで胃の辺りがきりきり痛む気がした。
 眺めているハインリヒなど今は眼中にないように、ふたりは母馬の背中越しに声を掛け合い、牧場主はジェロニモの引っ張る手に合わせて、母馬の首を抱き、優しく声を掛ける間に励ますように声を高くしたりもする。
 血に似た匂いが辺りにただよい始め、明らかにジェロニモの腕の中に、今では子馬の後ろ脚のほとんどが収まっていた。
 母馬が、馬とも思えない声を立てて、その異様さに馬小屋の中が一瞬騒然とする。そこにいた他の馬たちも今ではすっかり目を覚まし、生まれて来る子馬のことを思いやるように、囲いの区切りの上から長い首を伸ばして、こちらの様子を伺っているのが見えた。
 そうして、もう少しだと言い続けていたジェロニモの声の調子が変わり、不意にどさりと、母馬の足元に大きな塊まりが流れ落ちる。
 藁の上にしゃがみ込んだジェロニモが、ジーンズのポケットから何か取り出して、その湯気を立てている塊まりにあてがうのが見えた。
 へその緒を切って処置しているのだと気づくのに数秒掛かり、ハインリヒがそれを眺めている間に、牧場主は子馬の体がすっかり母馬から独立したことを確認すると、抱いていた長い首をそっと離した。
 母馬は少しふらつく脚を、絡まらないように気をつけているような危うさで動かして、長い首を回して生まれたばかりの自分の子の方へ向く。ジェロニモは囲いの中の壁に背中をくっつけるようにして、なるべく子馬から離れた位置に立った。
 まだ羊水に濡れているたてがみを、母馬が鼻先で撫でる。大きな舌で舐めるうちに子馬が顔を上げ、母馬を見上げた。
 母馬は子馬の腹の下に鼻先を差し込み、立ち上がるように促す。押されれば簡単にひっくり返る小さな体を左右に揺らしながら、子馬は折りたたんでいた脚を必死に伸ばし、ふらふらとと立ち上がろうとする。危なっかしい姿に、思わず腕を差し伸べる形に体が動きかけていて、ハインリヒは慌てて脇に両手を挟むように、胸の前で腕を組んだ。
 ジェロニモも牧場主も、子馬の不安気な足元と体つきに目を細め、けれどそれを助けるような素振りはない。自分で立ち上がれなければ、生き延びることさえ許されないから、生まれたばかりの我が子を見守る母馬と一緒に、数度、まだ伸び切らない脚のせいで重くて長い首の方へ傾いてしまった体を立て直す子馬の必死な動きを、ただ黙って眺めている。
 そうして、子馬はようやく自力で立ち上がって、ふらふらと母馬の腹の下へ長い首を差し入れようとした。
 言い合わせたように、3人の口から大きな息がもれた。
 「いれ立てのコーヒーで乾杯だな。」
 牧場主が言った。さっきまでの心配そうな険しさは消え、まだ名乗ってさえいないハインリヒに向かって、親指を立てて見せる。
 「おれはもう少しここにいよう。獣医が来るまで目を離さない方がいい。」
 藁の中へ坐り込みながらジェロニモが言う。さすがに肩の辺りに疲れが見えて、
 「コーヒーを持って来る。」
 肩をすくめてハインリヒは言い、先へ進む牧場主の小さな背中を追った。
 図らずも、初対面の、まだ互いに名乗り合う様子もない牧場主と肩を並べて納屋を出ることになり、もうすっかり太陽の昇っている朝の明るさにふたり一緒に目を細めて、すぐ右にある牧場主の住居らしいそこへ足を向ける。
 「あんたが、ジェロニモの友達ってヤツかい。」
 ジェロニモよりさらにきつい南部の訛りに、ハインリヒは思わず腰をかがめて、男の口元へ耳を近づけた。
 「ああ、そうだ。」
 男は、とても愛想がいいとも人なつっこいとも言えない表情で、ハインリヒを検分するように上から下へ眺め、重い木の扉を押して開けて、勝手に着いて来いというように、それでもハインリヒのために扉を押さえていてくれた。
 「ワシのひいじいさんがここの人間だ。見た目はあんたみたいな白い人間たちと変わらんが、ジェロニモとは長い付き合いだ。この家も、ジェロニモが建てるのを手伝ってくれた。」
 繋がりのよくわからない文章を適当に並べたようなしゃべり方は、この男の年齢のせいなのか、それともジェロニモ同様、この男も口数が少なく、人と話をするのが苦手なのか。
 男の背中を追って、男と同じほどくたびれた古臭いしつらえの台所へ入り、それだけは不似合いにぴかぴかのコーヒーメーカーが、コーヒーの良い香りをただよわせている。
 馴れない獣の匂いの後だけに、コーヒーの香りが鮮烈に鼻腔を刺し、ハインリヒは思わず微笑んでいた。
 「あんたのことは特に詳しく聞いたことはなかったが・・・こんなところまでわざわざ来て馬のお産に付き合おうって物好きなら、あんたが白い人間でもワシは気にせんよ。」
 そこまで言ってから、食器棚へ爪先と腕を伸ばし、カップを3つ取り出してコーヒーを注ぎ始める。
 自分へ向いた薄い小さな背中──けれど、あらゆるものを背負って力強い──を見つめて、互いに名乗ることもまだしていないこの牧場主は、外の人間であるハインリヒから、この世界を守っているのだとそう思った。
 男のこんな言い方に、腹を立てる人間──肌の白い──もいるのだろう。隔てはあるけれど、少なくともこの男はジェロニモと同じ側にいる人間で、そしてそれに近い側に、ハインリヒもいるのだ。そのことを説明することはもちろんせず、
 「砂糖とミルクは?」
 牧場主が振り向いて訊くのに、ハインリヒは微笑んでただ首を振った。
 つられたように男も微笑み、何も入れないコーヒーをふたつ、ハインリヒの方へ差し出して、そっと受け取るハインリヒの手元を眺めている。右手の革手袋に、たいていの人間がそうするように視線を止め、一瞬にも満たない間に怪訝そうな表情がそこによぎり、けれど牧場主はまるで何もかも訊くまでもなくわかっているのだと言う風に、ハインリヒを下から見上げていっそう笑みを深くした。
 「あんた、馬には乗れるかい。」
 ジェロニモのところへ戻ろうと、かかとを後ろへ引き掛けたハインリヒに、牧場主が訊く。
 「・・・乗れないことはないが、最後に乗ったのはずいぶん昔の話だ。」
 「今度乗りに来るといい。」
 反論も遠慮も許さない断固とした口調で、男がさらに微笑んで言う。
 「・・・ぜひそうさせてもらおう。」
 牧場主に対する敬意を込めて、ハインリヒはそう答えた。