the way i feel


(4)

 何事もない、平和で平凡な数日が過ぎた、ハインリヒが戻って来て、4日目の夜だった。
 イワンは昼から寝続けたまま、ギルモアは学者たちの集まりがあると、明日の夜までは戻らないと言い残して、朝から出掛けたきりだった。
 ようやくふたりきりになれたフランソワーズとジョーの邪魔を避けて、ジェロニモもハインリヒも、それぞれの部屋に終日引きこもり、少しばかりいつもより早い夕食の時にだけ、4人が顔を合わせて、静かに笑い合った。
 それが当然だと言うように、けれど決して押し付けがましい態度はなく、ジェロニモが黙って食事の片づけを始め、それに、普段以上に照れをあらわにしたジョーとフランソワーズが、深く感謝の意を示してから、ふたり揃って夜の散歩に出掛けるというのを、ハインリヒは、ややからかうような笑みを浮かべて見送った。
 ほんとうに、静かな夜だった。
 食器を洗う水音と、開けた窓から聞こえる、外にいる小さな生きものの気配以外、ろくに物音もない。
 ジェロニモがすすぎ終わった皿を受け取って、水気を拭き取って戸棚にしまう音すら、今夜はかすかだ。
 ハインリヒは、この夜の静けさに敬意を払って、無言のままでいる。時折、わざとでなく、皿を受け渡しする指先が触れるのに、ふたりは薄く笑みを交わして、けれど食器を洗い終わってしまうまで、ほとんど口を開くことはしなかった。
 濡れた手を拭いて、音をさせずに戸棚を閉めて、きれいに片付いたキッチンをぐるりと見渡してから、ジェロニモが、微笑んだまま薬缶を取り上げて見せた。
 紅茶をいれると言っているのだとすぐにわかって、ハインリヒは唇の片端だけを上げて、軽くうなずき返す。
 戦っているときと変わらない、何をするにも、手順は飲み込んでしまっている。言葉を交わす必要もなく、相手のすることはわかっているから、自分のすべきこともすぐに知れる。そう言えば、そういう相手だったのだと、ハインリヒは、冷蔵庫からミルクを取り出しながら思った。
 熱い紅茶を注いだカップを手渡されて、ちょうど、入れたいと思っているミルクの分だけ、カップに余裕のある注ぎ方を見て、今まで深く考えたことすらなかったジェロニモの思慮深さに、ハインリヒは改めて舌を巻く。あるいはそれは、自分だけに対する、ある種の特別な思いやりなのだろうかと、今だけは許されるかもしれない自惚れも浮かんだ。そうして、そんなことを考える自分に、ひとりこっそり照れた。
 カップを抱えて、テーブルに戻ることはないまま、ジェロニモはシンクの傍に、ハインリヒは冷蔵庫の扉に寄り掛かり、腕を伸ばしても、ちょうどわずかに届かない距離を保って、ふたりは、まだ無言のまま、音を立てずに紅茶をすする。
 まだ、ジョーとフランソワーズが戻って来る気配はなく、互いに、伝えたいことを伝えるためのチャンスを、ひっそりとうかがっている。そんな相手の胸の内が読めてしまうほど、いつの間にか、親密さを増しているふたりだったけれど、だからと言って、前に大きく踏み出せるほど確かなものはまだなく、その確かではないものを、手探りで、別々に、違う方向から、見極めようとしているふたりだった。
 いわゆる下心という目的があって、体を見たいと言ったわけではなかった。ほんとうにただ、きちんと直っているかどうかを、自分の目で確かめたかっただけだった。
 あの、無残に壊れてしまっていたハインリヒを目の当たりにしたから、あれが間違いなく元通りになるのだということを、ギルモアの腕を疑ったわけではなく、ただ、自分が安心するために、確認したかっただけだ。
 剥き出しになれば機械じみた体を、ハインリヒがあっさりと見せてくれたことに、あの時ひどく驚いて、そうして、これも、自分が護るべきもののひとつなのだと、ジェロニモはそう思った。
 前だけを見て走り出してゆく背中、何度見送ったか知れず、わかりやすい強さというものを課せられて、その強さゆえに、哀しい表情を見せる男だと、長い間、口にはせずに思っていた。自分の力──同じく、強さと呼ばれるもの──とは違う種類のその強さは、純粋に破壊のためのもので、それを誇れるような残酷さも冷酷さも持ち合わせてはいないことが、きっとこの男の不幸なのだろう。そしてその不幸は、ひととしての幸いでもある。
 哀しい男だと、ジェロニモは、改めて思った。憐れみではなく、ただアルベルト・ハインリヒという、004というナンバーと、死神というふたつ名を持つこの男を描写するには、それ以外の言葉が見つからず、けれどそれを口にしてしまえば、ジェロニモがそう思っていることの大部分は、その言葉の響きに誤解されてしまうだけだったから、無口を隠れ蓑に、思うことの3分の1も表さないまま、ジェロニモはただ、黙ってハインリヒを見つめている。今まで、ずっとそうして来たように、今もジェロニモは、ハインリヒを、ただじっと見つめていた。
 足音がふたつ、乱れながら玄関に飛び込んできた気配があった。
 「急に降り出したんだ。」
 フランソワーズの髪についた、わずかな水滴を振り落としながら、ジョーがいつも通りの笑みを浮かべてキッチンへ入って来る。濡れたことを不満に思う素振りはちらともなく、フランソワーズは、ただいまとふたりに言いながら、ジョーへ向ける視線にこもる熱っぽさをふたりの前で消すつもりはないようだった。
 そう言われて窓の方を見れば、音もなく雨が降り始めている。
 長引くことはないだろう。すぐにやむだろうと、思わず笑みの浮かんでしまうような、静かな夜の、静かな雨だ。
 ジェロニモが、はしゃぐように、濡れた──ほんのわずかだ──互いをいたわり合っているふたりのために、何も言わずにコーヒーをいれようとし始める。
 ハインリヒは、まだ少し紅茶の残っているカップを片手に、ふたりの邪魔のなるという野暮を避けるためにはどうすべきかと、やや真剣な顔で考え始めていたところだった。
 「着替えた方がいいかしら。」
 「風邪を引くかもしれないから、きっとその方がいい。」
 周囲の気遣いに気づいているのかいないのか、ふたりは相変わらず、互い以外など見えないように、そうやってささやき──のつもりらしい──を交わしながら、指や腕は互いに触れたままだ。
 ジョーの同意に、そうするわと素直にうなずいて、フランソワーズがキッチンから姿を消した。それを見送ってから、ボクも着替えてくるよと、ジェロニモとハインリヒの、どちらともになく言ってジョーも続けて姿を消した。
 拍子抜けしたように、ハインリヒは、ジョーの背中を見送ってから、ジェロニモに向かって肩をすくめて見せる。ジェロニモが、それに苦笑で応え、それから、何がどうという順序もなく、ふたり一緒に声を立てて笑った。
 いつの間にか、腕を伸ばせば触れ合える距離まで近づいていた。
 もう少し踏み出せば、爪先が触れる。それに気がついて、ハインリヒは、床に視線を落としたまま、まだ笑い続けている振りをして、言葉を滑り出すタイミングを待った。
 まだ、ジョーとフランソワーズの着替えは終わらないようだ。ジェロニモがスイッチを入れたコーヒーメーカーは、もう香ばしい匂いを、キッチンに満たし始めている。
 ぬるくなった紅茶と、自分の爪先とジェロニモの爪先を、何度か眺めた後で、ようやく、素直に言葉を紡いだ。
 「俺は、自分の部屋へ戻る。ふたりの邪魔をする気はないからな。」
 そして、付け足すように、一度切った言葉の後に、逡巡を、そうとはわからないように差し込んだ後で、声をひそめた。
 「・・・後で、おまえさんの部屋に行っても、いいか?」
 ジョーとフランソワーズのように、一緒にいることを誰も不思議には思わない、そんな関係ではないのだから、一緒にいられるなら、それに感謝をすべきだと、自分の内側で声がした。
 とても切羽詰っていると、自分のことを冷静に観察していると、ジェロニモの爪先が、音も立てずに床を滑って、10センチほど、ハインリヒにもっと近くなった。
 ああ、という言葉と一緒に、耳の近くに、ジェロニモのあたたかな唇が触れた。盗むような、ついばむような、一瞬のぬくもりだった。
 コーヒーメーカーが、こぽこぽと柔らかな音を立てている。雨はまだ降っているようだった。
 ジョーとフランソワーズが戻って来たら、赤い顔をしているのを見られてしまうと、そう思って顔を伏せたまま、ハインリヒは肩を回した。
 「後で。」
 飲み終わらない紅茶のカップをそのまま、ジェロニモに背を向ける。
 雨の音よりももっとひそやかに、足音を消して、キッチンを後にした。


 読みかけの本を手に取ったけれど、目に入ってくる文字をきちんと理解しているわけではなく、ただ、家の中の気配が消えてしまうのを待つための時間つぶしだった。
 紅茶のカップは、とっくに空になっている。お代わりをと、キッチンへ行くのは気が引けて、ベッドに足を投げ出して、天井を見上げている時間の方が長いことには、知らん振りをすることに決めた。
 選んだのは自分だ。拒む気などさらさらなく、先に受け入れた後で、今度は、受け入れてもらえるかと、少しばかりの戸惑いを感じている。
 恋と簡単に名付けてしまえるようなものではないのだと、それだけははっきりと自覚していた。
 仲間だと認め合った長い時間の後で、信頼と敬意が、親愛と、そしてもっと深い別のものに変化したというところか。
 そんなふうに分析したところで、ごく自然に頬が赤くなる気恥ずかしさを消せるわけもなく、誘ったのは自分の方だということが、いまだ信じがたいまま、ただ、時間が過ぎるのを、ひどくそわそわと落ち着かずに、心待ちにしている自分がいた。
 ジェロニモと、口に出して呼んだ。聞こえるはずはなく、ただ、音の並びを舌の上に転がして、自分が一体何をつかもうとしているのか、見極めたかっただけだ。
 1度なら、気の迷いですむ。2度でも、間違いと言い張れる。けれど、きっと、3度目を待ってしまうのだろうと、今から考えている。
 何かにつかまってしまった。捕らえられて、そして、逃げ出す気がないのは、不思議なことなのだろうか。それとも、こんなふうに捕われる---囚われる---ことを、心のどこかで願っていたのだろうか。
 一体いつから、ジェロニモのことを、こんな風に見つめていたのかと、ハインリヒは、本の文字を追いながら、ずっと考え続けている。
 静かな男だった。体の大きさを感じさせずに、いつも空気のように、誰よりも素早く、ひとの心を読み取ってしまう。それを畏怖するよりも、そのために安堵させてくれる、そんな男だった。
 あの穏やかさに、魅かれたのだろうか。
 武器庫そのままの体を抱えて、いつだって殺伐とした気分を隠せないから、だから、そんな気持ちをなだめてくれる、あの大きな掌と背中に、魅かれたのだろうか。
 素直に自分の心の中を覗き込めば、思ったよりもずっと以前から、あの背中と横顔を目で追っていたのだと、今さら気づく。そこに在ると確かめて、安心していたのだと、気づく。走り出す自分の背中を、見守っていてくれたのだと、振り向かずに知っていた。いつだってそうだった。あの、深い茶色の瞳が、そこに在った。
 ああそうかと、ハインリヒは、大きく息を吐き出した。
 ゆっくりと上下した胸の上に、開いたままの本を伏せて、背表紙に右手を置く。自分のその手を下目に見てから、ハインリヒは静かに微笑んだ。
 眠る仕草のように瞬きをして、まぶたの裏の暗闇の中に、ジェロニモの横顔を引き寄せる。それに向かってもう一度微笑んでから、もう一度、唇の形だけで、ジェロニモと呼んだ。 


 通信装置を使って、部屋にいるかどうかを確かめる手もあったけれど、あえてそうはせずに、ハインリヒは自分の部屋を出た。
 もうすぐ真夜中だ。宵っ張りではないあの男は、きっととっくに部屋に戻っているだろうと思ったし、こんな夜には、きっと早くふたりきりになりたがるジョーとフランソワーズも、とっくに姿を消しているだろうと思えた。
 足音を忍ばせて、誰も起こさないように、誰にも気づかれないように、そっと廊下を歩く。ジェロニモの部屋は1階だ。静かに階段を降りて、部屋の前まで行くと、そこまでたどり着く前に、音もさせずに開いたドアから、ジェロニモが顔を覗かせる。
 ハインリヒは、思わずそれに向かって微笑みかけていた。
 滑るように爪先を進めて、そんな必要もなさそうに思えたのに、肩越しに後ろを一度振り返って、それから、ジェロニモが開いてくれたドアの中へ、左肩から滑り込んでゆく。
 部屋に入ればすぐ目の前の、ベッドのそばの小さな明り以外は、もう消してあった。
 また音もさせずにドアを閉めるジェロニモの、その動きをその場で目で追っていると、照れ隠しに何か言おうと思っていたハインリヒの思惑は、引き寄せられて抱きしめられたジェロニモの腕の中で、驚くほど深い口づけの間に、あっさりと封じ込められてしまう。
 自分だけではなかったのだと、そう思った。思いながら、迷いも羞恥も、どこかへ消えてしまうのを感じていた。
 ドアの傍から、唇は重ねたまま、ふたりは互いの体に手や腕を這わせて、服を脱がせるのが目的かどうかは怪しく、素肌を探り合っている。
 そのまま倒れ込めば、ベッドが壊れてしまうかもしれないふたりの体重だったから──音だって、気になる──、ハインリヒはその時だけ理性を取り戻して、もう半ば裸になりかけている自分の胸の前に、こちらも半裸同然のジェロニモを、引き寄せながら静かにベッドに腰を降ろす。
 ドアからベッドまで、点々とふたりの脱いだ──脱がされた──あれこれが、間隔を置いて落ちているのを、ハインリヒはジェロニモの肩越しに見て、ひとり照れた笑いをこぼした。
 初めて外れた唇の間で、ふたり一緒に、小さく声を立てて笑う。笑いながら、互いを抱きしめて、折れる腕も背骨もないことに、同時に感謝した。
 ジェロニモの長い腕が、ベッドのそばへ延びる。かすかな音を立てて、小さな明りが消えた。闇の中でも見える目だったけれど、訪れた暗闇の中で、ふたりはもう、互いだけを見つめていたいと思った。思いながら、裸の胸を重ねて、シーツの海の中へ、手足を絡めて飛びこんでゆく。