ここからふたりではじめよう


10) 休暇

 何とか期末試験も終わり、成績表を受け取って、夏休みが始まった。
 相変わらず、ジェットの成績は中の下のままで、フランソワーズは何も言わずに溜息をこぼしただけだったけれど、アルベルトは容赦をせずに、2学期のために、宿題だけでなく、予習復習をすることを、ジェットに約束させた。
 もちろんジェットが、素直に言うことをきくわけもなく、舌を出して抵抗した後、アルベルトの耳を思いきり引っ張られ、泣き言をいう羽目になった。
 「だって、せんせェが少し成績、手カゲンしてくれたら、もうちょっと平均点上がったのに、容赦ゼンゼンねぇんだもん、せんせェ。」
 「当たり前だ、それとこれは全然別の話だろう。」
 「だって、オレ、中間も期末も赤点なかったじゃん。少しはほめられてもいいと思うよ、オレ。」
 「君の基準は低すぎるんだ。赤点は、なくて当たり前だろう。」
 「ぶー、バスケに忙しくて、オレ、せんせェみたいに頭使うヒマないもん。」
 「じゃあ、ヒマをつくってやる。」
 そう言って、またジェットの耳をさらに強く引っ張りながら、週に3回、必ず練習の後に自分のところへ寄ることを、約束させた。もちろん、宿題を抱えて。
 その代わり、とアルベルトは、少しだけ声を低めて、そして少しだけ照れくさそうに、ジェットの掌に、銀色の鍵を置いた。
 アルベルトの、マンションの鍵だった。
 会えない日には、必ず電話がかかるようになり、時間さえ許せば、ジェットは他愛もないことを、いつまでも話したがった。 外にはあまり堂々と出掛けられないため、どうしても、ジェットが時間を見つけて、自分のところへやって来るのを待つことになる。何度か行き違ってしまい、マンションの駐車場で、3時間も自分を待っていたジェットを見つけて以来、アルベルトはずっと、合鍵を渡すタイミングを見計らっていた。
 これで少なくとも、外で待たせる心配はないし、ドアの郵便受けに差し込まれた、乱雑な字の並んだ小さなメモを解読するのに、苦労する必要もない。
 いわゆる普通の恋人同士---こう、自分たちのことを表現するたびに、どうしても照れが先に立つ---なら必要のない苦労がつきまとうのを、それでもアルベルトは楽しんでいた。
 ジェットの方は、素直にそれを、面倒くさがっているけれど。
 「これってさ、じゃ、せんせェんとこ、いつ行ってもいいってこと?」
 「今だって、好きな時に来てるだろう。まあ、少なくとも、これで外で待つ必要は、ない。ただし、ひとりの時に、部屋を散らかすのだけは勘弁してくれよ。」
 早速取り出したキーホルダーに、うれしそうにアルベルトの渡した鍵を通そうとするジェットの長い指先を、アルベルトは、微笑んで見ていた。


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 バタバタと、騒々しい足音がして、ドアが開く。ばたんと、大きな音を立ててドアが閉まると、ごとっと固い音---ジェットが、脱いだ靴を放り投げる音---がして、それから、赤い髪が現れる。
 「あっちー、信じらんねえ、全然気温、下がんねぇんだもん。」
 キッチンで、サラダを作っているアルベルトの手元をのぞきに、ジェットがやって来る。
 言う通り、額が汗で濡れていた。すでにボタン3つ外した、制服のシャツの襟元に、必死に風を送り込もうとしている。
 少なくとも、ここはクーラーがあるので、外ほど暑くはない。それでも、あまり冷えると体の右側---と、ないはずの右腕も---が痛むので、部屋の温度は高めにしてあった。
 「駅から電話すれば、迎えに行ったのに。」
 アルベルトが、サラダを混ぜる手を止めずに言うと、ジェットが、ボールに手を伸ばして、レタスをつまみながら、
 「黙って立ってるのもヤなくらい暑いんだぜ、せんせェ、駅前。」
 ジェットが2度目に伸ばした手を、軽く叩いてから、アルベルトは、サラダのボールにきっちりラップをかけた。
 もう5時になるというのに、確かに外の気温は、下がる様子を見せなかった。
 サラダを冷蔵庫へ入れながら、アルベルトは、バスルームの方へあごをしゃくった。
 「シャワー浴びて来いよ。そんな格好でうろつかれたら、こっちまで暑い。」
 じゃそうする、と素直に言って、ジェットは抱えて来たジムバッグを取り上げて、まだ暑い暑いと言いながらバスルームへ消えた。
 今日は、午後、ひとりで街に出た。
 いつものように、馴染みの古本屋へ顔を出し、買いはしなかったけれど、何冊かを手に取り、頭の隅にメモをした。
 それから、レコード屋---今では置いてあるのはCDばかりなのに、それでもそう呼んでしまう---に寄って、CDを眺めて時間を過ごした。
 どこにいても、そうと意識もせずに、時計を見ては、ジェットが来る時間を確かめずにはいられなかった。
 ジェットがここに来るようになってから、ビデオデッキを買った。週末の夕方に、もしジェットが顔を出せれば、ふたりでビデオを借りに出掛ける。それぞれ見たい映画は違うけれど、趣味ではない映画を見るのも、ふたり一緒なら、それなりに楽しくはあった。
 週に1度は、必ず学校へ顔を出しているけれど、新任で担任もないアルベルトが、夏休みの間にすることは、せいぜい1学期の残りの書類整理と、2学期のための準備くらいだった。
 教師になって初めての夏休みは、アルベルト自身よりも、どちらかと言えば、ジェットを中心に時間が回っている。
 バスケットの練習に余念のないジェットに比べれば、教師であるアルベルトの方が、よほど時間が自由だった。
 いつの間にか、ジェットがここに持ち込んだものが、増えている。
 スポーツ関係の雑誌と、CD、教科書とノート、この間は、ジェットのTシャツが、洗濯物の中に紛れ込んでいた。
 誰かと一緒にいるというのは、こういうことなのかと、それらを眺めながら、アルベルトは思う。
 冷蔵庫にも、ジェットの好きなものが増えた。
 元々、あまり食べることに興味はなかったけれど、ジェットと出掛けるようになってから、ひとりで食事をすることが減ったせいか、それなりに料理にも気を使うようになった。
 自分では絶対に飲まない炭酸飲料---コーラ、見ただけで寒気がする---も、ジェットのために、今も冷蔵庫に大きなボトルが入っている。
 バスルームで水音が消え、ジェットが、中で動き回る気配が伝わってくる。
 それから、叫び声がした。
 「せんせェ、オレ、着替え、忘れた。」
 バスルームのドアが少しだけ開き、頭からまだ水を滴らせているジェットが、顔をのぞかせた。
 「せんせェのシャツ、借りてもいい?」
 「シャツって、長袖しか、ない。」
 ジェットが、上目になって、一瞬考える。
 「下着のは? 半そで?」
 「サイズが合わないだろう。」
 「いいよ、別に。ハダカでいてもいいんなら、いいけどさ、オレは。」
 一瞬考えてから、アルベルトはくるりと背を向けた。素直に、シャツを取りに、自分の部屋へ向かう。ジェットに、裸でうろうろされるくらいなら、まだ自分のシャツを着せた方がましだった。
 クローゼットを開けて、まだ下ろしていない新品のシャツを見つけてから、今の自分の姿を、もし、例えば大学のクラスメートが見たら、どう思うだろうかと、ふと思う。
 10も年下の子ども、しかも教え子に、こんなふうに振り回されるアルベルトを見て、彼らはきっと笑うのだろうか。
 誰にも打ち解けることをせず、友達もつくらない4年間だった。人嫌いという一言で、自分を描写されても、痛いとも思わなかった。
 ともかく、とグローゼットの扉を閉じながら、呟く。
 いい変化なのだろう、多分。
 薄く開いたドアの隙間に、包装されたままのシャツを差し入れると、また中から声が返って来る。
 「新品だよ、これ、せんせェ。」
 「その方がいいだろう?」
 「オレ、別に、せんせェが今着てるのでもかまわないよ。オレとせんせェの仲だし。」
 「・・・そういう表現を知ってて、どうしてあんなに国語の成績が悪いんだ? グダグダ言ってないで、早く出て来い。」
 羞恥で頬に血が上がるのを、少しばかり声を上げてごまかすと、アルベルトはわざと音を立てて、キッチンへ戻った。
 しばらくして、ようやくジェットがバスルームから出て来る。
 アルベルトのシャツは、腕回りも肩も、明らかにジェットには小さすぎた。すそも、長さがまるで足りない。ぴったりと張りついて、露わになっている形のいい胸の筋肉を、視線でなぞっていることに気がついて、アルベルトは慌てて目を反らした。
 首の線と、腰回りが、肩の広さや胸の厚さに比べてまだ華奢に見えるのが、唯一ジェットの、子どもらしさの残りのようだった。
 「あー、やっとさっぱりしたぁ。あんだけ走り回らせといて、シャワーも何にもナシって、拷問だよな。」
 濡れた髪を拭きながら、冷蔵庫を開ける。冷えたコーラを取り出して、それから、腕を伸ばして上の棚からグラスを取り出す。
 自分の家のように振る舞うジェットを横目に見ながら、自分がそれをまるで不快に思わないのを、アルベルトは特に今日は不思議に感じる。
 また、なぜか赤らんでくる頬をジェットから隠しながら、アルベルトはジェットのために、食器をテーブルに並べ始めた。


 食事が終わると、すぐにテーブルを片付けて、ジェットは勉強を始める。
 なるべく早く家に帰らせようと思えば、あまり無駄にする時間はなかった。
 言ってみれば、一種の補習授業なのだけれど、アルベルトが傍にいるせいなのか、ジェットもあまり文句も言わずに勉強する。
 それでも、夏休みの宿題は、遅々として、なかなか進まなかった。
 今手をつけているのは、英語のワークブックで、不思議なことに、他の教科に比べると、若干成績のましな教科だった。
 肩越しに、ちらりとジェットの手元をのぞいては、間違いがあれば、指差して教える。
 学生の頃、勉強をしなくても成績の良かったアルベルトにしてみれば、頭をひねる間違いが多いのだけれども、それでも、教師になった今、これも教えるということの練習だと思えば、実のところ、ありがたくもあった。
 「三単元のs。throwの過去形は、throwedじゃなくて、threw。」
 傍にあった英語の辞書を指差すと、ジェットが頭をかきながら、Tの項を探しにページを繰り始める。
 「せんせェといると、オレ時間の半分は辞書引いてるよね。」
 「いいことだ。辞書読んで、勉強したっていいくらいだ。」
 「うへっ、まだ読書感想文用の本の方がマシだよ。」
 「へらず口の前に、次の問題、ほら。」
 紅茶をいれるために湯を沸かしながら、読書感想文のための本を、選んでやった方がいいだろうかと考え始める。大して選択の余地はないけれど、難しい漢字がなるべく少ないのを選んでやれば、少なくとも、読むのはそう苦痛でもないかもしれない。
 今では、ほとんど活字中毒に近いアルベルトにしてみれば、本を読むのが苦痛というのは、信じ難いことだった。それでも、ジェットなりに努力はしているらしく、近頃では、アルベルトが本を読んでいれば、本棚に手を伸ばして、薄い本を手に取ることさえするようになっている。
 紅茶の入ったマグを持って振り返ると、ジェットが、ノートの上に突っ伏していた。
 「ジェット、どうした、ジェット?」
 肩を揺すると、のろのろと首を起こして、赤らんだ頬で、熱でもあるように、目を潤ませている。
 「せんせェ・・・オレ、ダメだ、今日。頼む、寝かせて・・・30分でいいからさぁ。」
 夏休みが始まって以来、朝は8時からバスケットの練習が始まり、終わるのは早くて4時、遅ければ6時近くなることもある。そして練習が終われば、ほとんど毎日ここへやって来て、家に帰るのが12時近いこともある。疲れているのは当然だった。
 なるべく、遅くとも9時には家に送り帰すようにしているけれど、勉強が進まなければ、終わるまで帰らせないこともある。
 少し無理をさせ過ぎたかなと、アルベルトは思った。
 ジェットは、アルベルトの返事を待たずに椅子を立つと、ふらふらとリビングの方へ行き、ソファに倒れ込んだ。
 見ている間に、寝息を立て始める。
 「今日は、もう終わりだな。」
 ひとりごちて、テーブルの上のノートやワークブックを、片づけ始める。持って帰る必要もないものだから、ジェットがここに置いて帰っても構わなかった。
 テーブルについて、ひとりで紅茶を飲む。
 ソファは、ジェットにはもちろん長さが足らず、それでも足を胸に引きつけるようにして、まるで胎児のような格好で、窮屈そうに眠っている。
 寝顔になると、いっそう子どもっぽさが増した。
 そうだ、と思い出して、アルベルトはバスルームへ行った。
 案の定、ジェットが脱ぎ散らかした、汗に濡れたままの制服のシャツが、床に投げ出されている。溜息を小さくこぼして、それを拾い上げると、ふと、いたずら心を起こして、それを羽織ってみた。
 腕の太さはともかく、肩がかなり広い。胸の前も、ボタンをはめるとかなり余りそうだった。
 あまり厚く見えない胸も、思ったより厚みがあるらしい。ジェットのシャツの、意外な大きさに、アルベルトは、またひとりで頬を赤らめる。
 子どものくせに。
 心の中で呟いてから、慌ててシャツを脱いだ。
 バスルームから出て、シャツをキッチンテーブルの椅子にかけると、手持ち無沙汰になって、アルベルトは何となく部屋の中を、用もなく見回した。
 ジェットがここにいるだけで、何となく、自分の部屋ではないような気になる。居心地が悪いというわけではなく、何となく、部屋が満たされているような、空っぽではないような、そんな感じがする。
 いつも部屋の隅に必ずあった、ある種の空気の冷たさが、今はない。
 その変化の元に、アルベルトはそっと近づいた。
 足音を忍ばせて、ソファの傍へ行き、ゆっくりと床に坐り込む。
 微かに聞こえる寝息、落ちかかる赤い髪、閉じた睫毛は意外なほど長く、淡い影を落としている。柔らかく少しだけ開いた唇は、鮮やかに血の色を滲ませていた。
 子どもの表情と大人の貌が同時に存在する、頬の辺り。思わず、手を伸ばす。
 右手を伸ばしかけたのに気がついて、慌てて左手に変える。そのまま、頬に、そっと触れた。
 あごの線はもう大人のそれで、まだ剃る必要もなさそうな、けれど産毛にしては少し硬い手触りがある。
 柔らかな髪、長く通った鼻筋、唇は横に大きく、真ん中でふっくりと盛り上がっている。皮膚との境があまりはっきりしない、唇の輪郭を、アルベルトは指先でそっとなぞった。
 車の中でうたた寝をしたことはあったけれど、ジェットの寝顔を、こんなふうに見るのは、初めてだった。
 ジェットだけではなく、考えてみれば、ヒルダ以外の誰かの寝顔を見るのは、これが初めてだった。
 つくづく、自分がひとりだったのだと、思う。
 視線をふとずらすと、すその足りないシャツが、胸の辺りまでめくれているのが見えた。
 シャツを元に戻そうとしてから、指先に不意に触れた、他人の皮膚の感触に、アルベルトの心臓が、跳ねた。
 滑らかな、硬い筋肉を包む、肌。
 遠去かっていた記憶が、一気に甦りそうになって、思わず恐怖が突き上げてくる。
 ヒルダ、と思わず呟いていた。
 手が、震えた。
 そこにいる勇気がなくて、アルベルトは、逃げるように自分の部屋へ行き、ドアを閉めた。


 ジェットが目を覚ましたのは、もう11時になる頃で、短い時間でも眠り足りたのか、とりあえずすっきりした顔で起き上がって、
 「家に帰るの、メンドくさい・・・。」
と、駄々をこねるように言った。
 「未成年者を、保護者の許可なく外泊させるのは、教師の良心に反する。」
 なるべく重々しい、真面目くさった口調でアルベルトが言うと、ジェットはそれ以上はわがままも言わずに、素直に、アルベルトが手渡したシャツを着て、帰る準備をした。
 車の中で、まだジェットは眠そうに、時折あくびをしながら、夏の大会のことをぽつりぽつりと話した。
 「今年こそは優勝するつもりでいるからさ、もう、練習すごいのなんの。文句ないけどさ、別に、でも、オレ、休みたい、時々。」
 「そうだろうな。」
 運転しながら、短く相づちを打ってやると、そうそう、とうれしそうに言う。
 「地区大会、来週だからさ、それに3位入賞したら全国大会に出場できるからさ・・・オレたち必死だもん。全国大会始まったら、オレ、しばらくせんせェに会えないなぁ・・・。」
 声が淋しそうに聞こえたのは、もう眠りかけているせいなのか、それともほんとうに、会えなくて淋しいと思っているせいなのか。
 ジェットが、アルベルトの手を握った。
 「せんせェ、全国大会さ、見に来てくれる?」
 「決勝は、行った方がいいだろう?」
 ジェットがうれしそうに、うん、と言うのと同時に、アルベルトは車を止めた。
 ジェットの家より、30mほど手前の、明かりの少ない道だった。
 後部座席からジムバッグを取り上げると、ジェットはドアに手をかけて、それから、また振り返った。
 せんせェ、と舌足らずな声が、いつもより小さな音量で、唇から漏れる。
 アルベルトが、ジェットに向かって体をひねると、ジェットが首を伸ばして来た。
 「キスしていい?」
 思わず、肩を引いた。
 窓の外に、ちらと視線を走らせる。通りがかる誰もいない。車の通りもない。
 ジェットが、答えを促すように、視線を動かした。
 ゆっくりと瞬きをする間に、アルベルトは答えを決めた。
 「今度、な。」
 今度はジェットが、ゆっくりと瞬きする。
 「今度?」
 ほんの少しだけ、薄く失望を込めて、アルベルトの答えを、質問のトーンで繰り返す。
 「今度。」
 小さくうなずきながら、口調を強めて、アルベルトはまた言った。
 ジェットは、わざと唇を突き出して見せ、オッケ、と語尾を投げ捨てるように言うと、おやすみ、せんせェ、と言いながら、車から滑り降りて行った。
 丸まった背中が、少しずつ小さくなって、家の塀の中に消えてしまうまで、アルベルトは、車の中で身じろぎもぜず、それを見送った。
薄暗い車の中で、思い出していたのは、ヒルダのことだった。
 ジェットが、近くなればなるほど、ヒルダの思い出が鮮やかになる。決して、いい意味ではなく。
 恋しいと思うのは、一体ジェットなのかヒルダなのか、アルベルトにもわからなかった。
 指先に、まざまざと、ジェットの膚の感触が甦る。ヒルダのそれは、もう、記憶すら怪しいのに。
 ハンドルに顔を伏せ、まるで泣くのを耐えるように、アルベルトはひとりで、いつまでも肩を震わせていた。