ここからふたりではじめよう


11) 終末

 久しぶりに、アルバムを取り出してみた。
 腕を失くした時に、ほとんどを処分してしまったけれど、それでも、1冊か2冊だけ、クローゼットの隅に、隠すようにまだ、残してある。
 バスケットの都大会が始まって、3日目だった。
 ジェットのチームはまだ勝ち残っており、今日勝てば、準々決勝に進むことになる。ジェットは毎日、試合の会場から電話をして来て、試合の結果報告をしていた。アルベルトがいなければ伝言を機械に残し、後でまた、掛け直してくる。
 さすがに疲れているのか、自宅から電話してくることは、まだなかった。ここへも、大会が始まって以来、顔を出していない。
 公衆電話からでは、そう長く話もできず、誰が何点入れたとか、どんなプレイをしたとか、その程度を告げて、あっさりと電話は終わる。
 物足りなさを覚えると同時に、アルベルトはほっとしてもいた。
 最後の恋の残骸が、まだあちこちに気配を残している。捨てる必要はない。それでも、今の恋に、少しばかり邪魔になるそれが、アルベルトを困惑させる。
 好きだと言われて、まだ好きだと返していない相手と、一生一緒にいるつもりだった相手と、想いについた名前は同じでも、抱く気持ちは当然違う。
 ジェットを想うたび、ヒルダを思い出してばかりいる。
 ちくりと、罪悪感がわき上がる。
 キッチンのテーブルに、アルバムを運んだ。
 表紙の厚い、重たいそれを、自分の前に置いて、少しばかり観察するように、眺める。開けるのが、少しだけ怖かった。
 写真の数は、あまりない。ほとんど処分してしまったのと、元々、写真を撮るような家族でもなかったので。
 両親には兄弟はなく、アルベルトもひとりっ子で、だから、事故で家族を失くした時、アルベルトは身寄りをすべて失った。
 20になったばかりで、大学も、3年目に入ったばかりだった。
 ピアノで身を立てたいと言っても、誰も笑わなかった。
 それもすべて、過去のことだけれど。
 食事にでも出掛けましょう。母親がそう言った。父親が、学会から帰って来た日のことだった。
 ヒルダも一緒にいた。両親は、彼女を、実の娘のように扱った。アルベルトの、結婚の意思を知っていたので。
 母親が運転をし、父親は、助手席で、あくびを噛み殺していた。
 ヒルダと並んで、振動に揺られながら、アルベルトは、そっと彼女の手を握った。確か、右手を伸ばして、彼女の左手に触れた。
 バイオリンを弾いていた彼女の指先は、弦を押さえるために、硬くなっていた。細く、華奢な指、掌。小さく、それでも美しく音楽を奏でるために、力強く。
 指板を滑る指の動きは、彼女の奏でる音楽よりも、美しかった。音と一体になりながら、音楽を、その身で具現化する。ピアノよりももっと激しく、彼女に魅かれた。
 真っ直ぐにアルベルトを見つめ、常に喜びに満ちた瞳の色で、彼を見上げる。
 ねえ、子どもには、ピアノとバイオリンと、どちらを習わせたい?
 ヒルダが訊いた。アルベルトの肩に頬を寄せて、うっすらと笑っていた。
 さあ、どっちでも、好きな方を選ばせればいい。
 両方でもいいと思わない?
 答える時間はなかった。答えるために唇を開こうとした時、車が不意に、激しい力で押し潰された。
 何も覚えていない。
 次に目覚めた時には、もう両親の葬式も終わり、ヒルダの遺体は家族に引き取られ、葬られた後だった。
 右腕と大量の血液を失い、アルベルトは、長い間死線をさまよっていた。
 死ねば良かったのだと、何度も思った。
 ベッドに横たわったまま、表情も感情も失くし、それでも、涙だけは流れた。流れ続けた。
 一生、ピアノには触れまいと思った。それが、バイオリンを弾くことのもうかなわないヒルダに対する、手向けのように思えた。
 生き残ったけれど、アルベルトは死人も同様だった。
 大学から、休学を勧められたにもかかわらず、アルベルトはなげやりに退学届けを出し、左手を使えるようにする訓練にも、ほとんど熱を入れなかった。
 ピアノが弾けなくて、ヒルダを失くして、ひとりぼっちで、今さら日常生活に不便がなくなることが重要だとは、とても思えなかった。
 両親が残してくれた生命保険と、遺産が、アルベルトの無気力な生活を支えてはくれたけれど、それすら、アルベルトには疎ましかった。
 辛うじて、呼吸だけはしている1年が終わろうとしていた頃、父親の友人だという男が、突然訪ねて来た。
 両親の家はすでに引き払い、小さなマンションにひとりで暮らしていたアルベルトを、あちこち訊ね歩いて探し出したという男は、ギルモア、と名乗った。
 生体学者、という耳慣れない肩書きを名乗ってから、ギルモア博士は、訪問の理由を率直に告げた。
 右腕を、もう一度、取り戻してみる気はないかね。
 アルベルトは、異星人から、指使いの間違いを指摘されたとでもいうような表情で、彼を見た。
 義手ではない。強いて言うなら、機械の腕とでも言うか、本物の腕とほとんど遜色のない腕が、欲しくはないかね?
 ふと、心が動いた。
 まだ実験段階なので、色々と不快な検査もあると思うが、キミさえ良ければ、ワシの研究対象として、費用などは一切こちら持ちで、是非お願いしたい。協力してくれるかね?
 控えめな口調で、けれど強く、彼は言った。
 失うものはなかったし、もし実験で失敗して死んでも、悲しむ誰もいない。死ぬことも、もう恐ろしくはない。
 お好きにどうぞ。
 投げ捨てるように、そう返事をした。
 それから、長い長い時間をかけて、全身を検査された。アレルギーの有無、種類、皮膚のタイプ、血管の太さや血液の濃度、白血球の数、骨の硬度、数限りなくある検査のひとつひとつを、アルベルトは黙ってこなした。
 首の付け根に、初めて腕を装着された時---完全にではなく、仮装着だった---、そのグロテスクな見た目に、ぞっと膚を粟立てた。
 黒光りする、確かに腕の形をした、金属の塊。意外なほど滑らかに動き、そこに皮膚に見える素材でもかぶせれば、本物と言っても通用しそうだった。
 それでも、それは、本物の腕ではなかった。
 残念ながら、今の段階では、人工皮膚をかぶせるのに、色々と不都合があってな、それに、人工皮膚も、とても実用とは言えん。だから、そのまま装着するより他ない。
 申し訳なさそうに、ギルモア博士は言った。
 なまじ本物に見えるより、いかにもつくりものなこの腕の方が、自分には似合いな気がした。
 切断面の骨の伸びを止める、厄介な手術と処理の後、その機械の腕は、鉛色の外観を光らせて、アルベルトの生身の体に、装着された。
 ギルモア博士は、辛抱強く、古い友人の息子の自暴自棄に付き合った。
 リハビリがうまく進まず、アルベルトが、機械の腕で機材を叩き壊した時も、ただ淋しそうに笑って、つらいのはキミじゃからな、とそれだけ言って、責める一言もなかった。
 機械部分との拒否反応で、アルベルトが肺炎を起こした時、看護婦とともに、ベッドの傍で、アルベルトを看ていてくれた。
 ギルモア博士の元で、研究対象として過ごすうち、アルベルトは彼の仕事を覚え、まれに、小さな作業を手伝うことさえあった。
 どんなことも、アルベルトには訓練になった。
 右腕は、次第に体に馴染んで、もう、その奇怪な外見も、それほど奇異には感じなくなり始めていた。
 それでも、ピアノに触れることだけは、ずっと拒んでいたけれど。
 大学に、戻ろうと思います。
 ある日、アルベルトは、そう告げた。
 ギルモア博士は、一瞬、受け取った言葉を反芻してから、そして、心からうれしそうな笑みを浮かべた。
 腕を失くして以来、音楽には触れず、代わりに、アルベルトは文学に傾倒し始めていた。ひまさえあれば本を読み、気に入った作家の作品を、ほとんど狂信的に買い漁った。
 本を読むのに、腕の有る無しは、関係ない。
 音楽を失ったことを直視しないための、現実逃避の手段だったけれど、次第に、アルベルトは本の世界に魅かれていった。ピアノに没頭したのと、同じ類いの情熱を、傾け始めていた。
 どこかの文学部を、受験しようと、思っています。
 文学部、と聞いて、ギルモア博士の表情が、少しだけ曇った。音楽大学へ戻るものだと思っていたとは、決して口にはせず、それでも、アルベルトが、ほんとうにピアノ---音楽---をあきらめてしまったのを、ギルモア博士は、微かな失望とともに、認めざるを得なかった。
 大学受験の準備は、長い間、勉強することから離れていたアルベルトには、少しばかり苦痛だったけれど、何よりも大変だったのは、外の世界へ、またひとりで出てゆくことだった。
 予備校へ通い、自分より年下の高校生たち---あるいは浪人生たち---と肩を並べ、もうすっかり忘れている数式や英語の単語に頭をひねる。
 年が違えば、人種も違うとでも言うように、誰も、あえてアルベルトと友達になろうとはしなかった。アルベルトも、まだそんな心の準備は、できていなかった。
 必死に勉強し、目指していた大学へ受かり、けれど大学も、勉強する内容以外は、予備校とさしたる違いはなかった。
 近づくなと、無意識に身構えているのか、話しかける誰もいなかった。アルベルトから、誰かに親しむことは、もちろんなく、教授以外の誰かと、立ち話をすることさえ、なかった。
 アルベルトの右腕の不自然さを、みんな不思議に思いながら、好奇の視線を投げてよこしながら、けれど誰も、それをアルベルトに直接口にはしない。そうさせない威圧感を、そうとは知らずに、アルベルトは身につけてしまっていた。
 あの人、何だか怖いのよね。
 肩越しに、そんな声を聞いたこともあった。
 ほんの数人、アルベルトの腕を見た人間もいた。
 例外なく、まるでそれが礼儀だとでも言うように、アルベルトに同情を示し、そして、哀しそうな表情の下で、隠しきれない好奇心に、醜く唇を歪めていた。
 アルベルトは、ますます本の世界に没頭し、人嫌いと称されるのを幸いに、自分からは、一切誰にも近づかなかった。
 3年の終わりに、就職の希望を訊かれ、考える間もなく、教師、と答えていた。
 学校は、決して人がとどまるところではないから、人の流れを見てゆくだけなら、腕のことも気にしなくてすむような気がした。
 ギルモア博士は、教師になるくらいなら、自分の元にいつまでいてくれてもいいと、何度も言ってくれたけれど、研究材料という自分の立場に、少しばかり鬱陶しさを感じ始めていたアルベルトは、できればそこから、少しだけ距離を置いてみたかった。
 ギルモア博士は、アルベルトを、まるで自分の息子か孫のように扱う。それがありがたくもあれば、疎ましいこともある。優しくされればされるほど、家族を失った自分の立場を思い知る。
 他人の優しさしか、期待できない。ひとりぼっちで、頼る家族もなく、他人の中で一生生きてゆく選択肢しか、残されていない。それを悲しいと、思う。
 ヒルダ以外の誰も、目に入らなかった。ジェットに、出逢うまで。
 自分がまた恋ができると、考えたことすらなかった。
 もし、あの事故がなければ、そう思っていた通り、彼女と結婚したのだろうか。子どもが生まれて、ピアノを習わせるかバイオリンを習わせるかで、彼女と小さな言い争いをする羽目になったのだろうか。それとも、つまらないすれ違いで、別れてしまう結末だったのだろうか。
 もし彼女が生き延びていたら、右腕を失ったアルベルトを、変わらず愛してくれたのだろうか。
 忘れる必要は、ないことなのだろうか。恋の記憶として、抱いていてもいいのだろうか。
 ジェットに対して、罪悪感を抱く必要は、ないのだろうか。
 アルバムの最後のページを左手の指で撫でて、静かに閉じた。
 「まあ、仕方ないな。」
 そんな言葉が、口をついて出た。


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 電話が鳴ったのは、夕方も遅くで、もちろんジェットからだった。
 「せんせェ、勝ったよ。オレら、準々決勝進出。」
 いつもよりさらにはしゃいだ声が、受話器からもれるほど大きい。
 「あさって、準々決勝と準決勝があって、次の日、決勝と3位決定戦。それ終わったら、やっと全国大会だよ。」
 「明日はじゃあ、休みなのか?」
 「練習は10時からだけどね、でもいつも通り。だからさ、まだ自由の身になれなくてさ。」
 唇をとがらせたのが、見えるようだった。
 試合の流れを事細かに、アルベルトに説明しながら、相変わらず、うれしそうな声のトーンは変わらない。
 30分経っても、まだ電話を切る様子を見せないジェットに、アルベルトは心配そうに訊いた。
 「時間、大丈夫なのか? 今一体どこからかけてるんだ?」
 「家だよ、家。ねーちゃん、今、晩メシ作ってるからさ。」
 恐らく自分の部屋からなのだろう、背後の雑音が、まるでない。
 「お姉さん、手伝わなくていいのか?」
 からかうように言うと、ジェットが、
 「オレ、デカすぎて、キッチンにいると危ないんだってさ。」
 ジェットが、背中を丸めて、汚れた皿を洗っているところを想像して、アルベルトは思わず吹き出した。
 「あのさ、せんせェ。」
 初めてジェットが、声を少し低めた。
 アルベルトが、何だ、と身構えると、ほんの一瞬だけ、黙り込む。
 「ねーちゃんがさ、映画借りてきてさ、一緒に見たんだけど。」
 また一拍置いて、言葉を続けた。
 「"タイタニック"って、あの、長いヤツ。」
 ああ、あれかと、テレビや広告で、散々見慣れたポスターを思い出す。
 「映画自体はどうでも良かったんだけどさ、オレ、でも、見てる間中、オレ、せんせェのこと、考えててさ・・・。」
 語尾が、優しく消えそうになる。
 照れているのか、言葉を選んでいるのか、ジェットはまた、少しの間、黙り込んだ。
 「あんなふうに、世界の終わりとか、オレ、せんせェと一緒に逃げたいなぁって・・・せんせェと手つないで逃げたいなあって、ずうっとそう思っててさ・・・。」
 思ったことはすぐ口にするジェットには珍しく、口ごもりながら、照れを露わにして、ようやくそれだけ言った。
 ここにひとりでいて良かったと、アルベルトは思った。
 こんなに赤くなった顔を、誰かに見られたら、死にたくなるに違いなかった。
 思わずシャツの胸元を握りしめて、アルベルトは返す言葉を必死に探した。
 世界の終わりに、一緒にいたいのは、一体誰だろう。一緒に逃げるなら、誰だろう。明日死ぬなら、最後の時間を一緒に過ごしたいのは、誰だろう。
 誰だろう。
 アルベルトのそれは、まだぼやけていた。赤い髪が、見えたような気がするけれど、そうだと言い切るのは、まだ少しだけ怖かった。
 「ジェット?」
 静かになってしまったジェットに、けれど、この場にふさわしい言葉を返せず、アルベルトは思わず名前を呼んでいた。
 「なに、せんせェ?」
 唇が、動くだけで言葉が出ない。
 好きだと、言えればいいのにと、痛烈に思う。けれど言えば、それは嘘のような気がして、口にすることができない。
 もう少し時間がかかるのだと、自分に言い聞かせた。
 「今度また、映画に行こう、一緒に。」
 うん、と返事が返ってきてから、ジェットがまた、声を低めて囁くように言った。
 「せんせェに会いたいよ・・・。」
 指先に、不意に、触れたジェットの唇の感触が甦る。
 言葉のたびに動くその唇に触れたいと、なぜか突然思った。
 また、頬に血が上る。
 「ああ、そうだな。」
 冷静なふりをして、それだけ言うのが、精一杯だった。
 電話をようやく切った後、まだ静まらない心臓の上に、アルベルトは冷たい機械の掌を当てた。
 その掌すらも、今は熱いような気がした。