ここからふたりではじめよう
9) 碧海
懐かしい映画のタイトルを、雑誌の片隅に見つけたのは、もう、夏休みになろうという頃だった。
映画に行こうと言い出したくせに、バスケット部が忙しくなり、滅多と週末の空かないジェットが、情報誌を抱えてアルベルトのところへやって来たのは、もう7月も半ばの、木曜日の夕方だった。
「今週の日曜は、練習、昼で終わるからさぁ、行こうよ、映画。」
ねだるように、ジェットが言うのにつられて、アルベルトは、久しぶりに浮き立った気分で、雑誌を開いた。
細かい文字がびっしりと並んだ紙面の上で、ふと、視線が止まる。
グラン・ブルー。
そんなはずはないと思って、また見直すと、間違いなかった。あの、映画だった。
「なんか見つけた、せんせェ?」
冷蔵庫から、勝手に冷たい牛乳を取り出しながら、ジェットが声を投げてくる。
比較的大きなその広告は、最初の公開から20年記念で、特別上映をする旨を告げていた。
強烈な青のイメージが、閉じたまぶたの裏いっぱいに広がる。水音さえ、聞こえて来そうだった。
アルベルトの傍に、腰を下ろしながら、横から、ジェットがアルベルトの手元をのぞき込む。
「どれ?」
ジェットに生返事を返しながら、アルベルトは、昔見たその映画の、さまざまな場面を思い出していた。
「いや、昔観た映画なんだ。」
「古いの?」
「さあ、14、5年前かな・・・。」
ふーんと言って、アルベルトが指差した広告を、横目に読み始める。
「それにする?」
「いいのか?」
あっさりとジェットが言ったのに驚いて、アルベルトは思わずジェットの顔をまじまじと見つめた。
ジェットは、ちょうど、喉を反らして、カートンから直接牛乳を飲もうとしていたところだった。
「こら、ちゃんとグラス使えって、何度言ったらわかるんだ。」
カートンを取り上げながら、少しばかり声を上げる。ジェットが首をすくめ、唇を突き出して見せた。
「だって、グラスどこにあるか、わかんないんだもん、オレ。」
「この間、教えたろう、左の上の棚だって。今度やったら、期末試験、点数差っ引いて返すぞ。」
「あ、教師の職権乱用。そういうのってズルいよ、せんせェ。」
他愛もない会話を、ゲームのように楽しみながら、また青が、目の前に広がっていた。
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練習の終わったジェットを、学校から直接拾って、日曜の午後、ふたりは車で映画館へ向かった。
思った通り、目当ての映画館はもう人でいっぱいで、そのほとんどが、アルベルトより少しばかり年上に見える女性ばかりだった。
「ガキなんて、オレだけじゃん。」
高い背を丸めて、居心地悪そうに、ジェットは言った。
「仕方ないさ。言ったろう、昔観た映画だって。」
「そうだけどさー、でもこんな女の人ばっかりなんて、せんせェ言わなかったじゃん。」
人の間をすり抜けながら、少しばかり後ろの、それでも真ん中に近い席をようやく確保して、アルベルトはほっと息をついた。
ジェットは、長い足を前に投げ出して、もの珍しそうに、きょろきょろと周りを見回している。
「映画館なんて、ねーちゃんくらいとしか来ないもんな。」
確かに校則では、生徒だけで映画館の類いへ出入りすることは、一応禁止されていた。
こういう場所に慣れていないのは一目瞭然で、映画好きでもないくせに、アルベルトを映画に誘ったのはどういうわけだろうと、少しばかり不思議に思う。
それでも、初めて見て以来、同じ強さでアルベルトを魅きつけるこの映画を、大きなスクリーンでまた観れることに、アルベルトは興奮していた。
ゆっくりと照明が落ちる。
それから、青と白が、あふれた。
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見覚えのある場面があり、はっきりと憶えている場面があり、ひとりひとり、まるで友人のように憶えている俳優と女優が登場し、微かに記憶にある台詞が語られる。
物語は、今はもう、あまり重要ではなかった。
この青を、もう一度観たかったのだと、強烈に思う。
タイトルの通り、青があふれ、青だけに彩られた映像。ほとんど、熱に浮かされたような気分になる。
字幕を追いながら、文字の語らないその隙間を、一生懸命に、自分なりに埋めてみようとする。
まだ子どもだった自分の、心の奥底に、まるでナイフで切りつけるように、深く印象を刻んだ、青。
その青に包まれて、人が動き、喋り、笑い、泣く。恋にも、落ちる。
他の何も、もう、目には入らなかった。
青。蒼。碧。あお。
自分自身が、その色に染まってゆくような、気がする。
自分の中が、青い水---海の水かもしれない---に満たされ、次第に、外との境を失くし、水そのものと同化してゆくような、感覚。
そこでは、腕の有る無しも、つらい過去も、関係なかった。
ふと、手に、何か触れた。
視線を、スクリーンから少しだけ反らすと、手の甲に、ジェットの指先が触れていた。
おずおずと、伸びた指先が、ゆっくりと重なる。ひやりと、掌が手の甲に冷たい。
スクリーンに視線を当てたまま、するりと手を滑らせ、掌を重ねた。指が、しっかりと絡まる。
ひとりではないのだと、ふと思う。
ジェットに手を預けたまま、また映画へ心を戻す。
海はまた、そのまま、境を失くして空へ繋がる。
そこからふと、ネットに向かって、高く腕を伸ばして飛ぶジェットを連想した。
アルベルトが海と同化するなら、ジェットは空そのものかもしれない。
自由の象徴のような、青く、大きな空。
重なった手を、ジェットが少しだけ強く握った。
深く深く、海の底へ。
呼吸を忘れて、人であることさえ忘れて。
"海に潜ると、地上へ戻る理由を、必死で探さなきゃならない。"
生きる理由も、死ぬ理由も、見つけられなかった頃を、思い出す。あの時にも、この青を、憶えていただろうか。
人の住む場所ではないところへ、まるで死を求めるように、魅かれてゆく。
死のためではなく、自分らしい生のために。
生命の始まりへ、命を賭けて還ってゆく。
海の底で、人でなくなってしまえば、もう、地上へ還らなくてもすむ。戻る理由を探す必要もない。
たとえそれが、永遠のひとりを意味するとしても。
この青は、孤独に直結する。
わがままな、孤独。呼吸と言葉を捨てた孤独。失くしたものの存在にさえ気づかない、海の底の孤独。
孤独とさえ認識されない、孤独。
青が満ちてゆく。神経のすみずみにまで。呼吸すら、この青に染まる。
血管の中すら、青く染まったと思った頃、緩やかに、現実に引き戻される。
突然放り出された、ぶしつけな光の中で、ジェットの手が、白く暖かかった。
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車を運転しながら、まだ視界が青く染まっているような感覚が拭えず、アルベルトは何度も目元をこすって、頭を振った。
ジェットは珍しく静かで、物思いに沈み込んでいるような表情で、たまに、軽くため息をついていた。
車の外を流れる風景が、今日は特に、殺風景に見えた。
「すげー青だったなー。」
ため息混じりに、ひとり言ともつかずに、ジェットが言った。
「ああいう映画を見ると、仕事をするとか、そういうことがいやになる。」
正直な感想を漏らして、アルベルトは苦笑した。
ジェットもつられて笑いながら、そうだね、と言った。
「話は、よくわかんなかったけどさー、でも、海に潜りたくなる映画だったなぁ。」
国語の点数の、あまり良くない、ジェットらしい言い方だった。
「なんかさ、オレ、どっちの気持ちもわかるなって・・・」
朝早くから練習があったせいなのか、眠そうに体をシートに馴染ませながら、ジェットは言葉を継いだ。
「彼女がさ、あのイルカやろーが海に潜るのに夢中になってるのがヤダってのもわかるし、あのイルカやろーが上に戻りたくないって彼女に言っちゃう気持ちもさ、わかるなーって・・・オレだって、せんせェが、オレより本が大事って言ったら、多分怒るだろうなぁ・・・」
「まだ、あのこと、根に持ってるのか?」
以前、本が濡れるのがいやだと言ったのが、よほど気に触ったらしい。呆れたように苦笑して、アルベルトはジェットの頭をこずいた。
その手を、ジェットが、軽くつかんだ。
そのまま、膝の上で、指を絡めた。映画を見ながら、そうしていたように。
抗いもせず、片手で運転しながら、アルベルトは、少しだけ、微笑んだ。
「せんせェとさ、手なんかつないで歩けないからさ、映画館なら、暗いから誰にも見られないからって・・・」
「それであんなに、映画に行こうって言ったのか?」
返事の代わりに、ジェットがにぃっと笑う。
まったく、と今日何度目かの苦笑を、また漏らして、アルベルトは軽く首を振った。
ジェットが、軽く手を握ってくるのに、リズムをつけて握り返す。
「映画の最後に、彼女が言ったろう、"Go and see my love"って。」
頭の後ろに腕を差し入れながら、ジェットが眠そうな声で、そうだっけ、と言った。
「フランス語がわからないから、まだきちんと調べてない。でも、あれは"Go
and see, my love(行って、見てらっしゃい、愛しいあなた)"なのか、"Go and see my love(行って、わたしの愛を見てきて)"なのか、どっちなんだろうって、ずいぶん前に誰かが言ってたんだ。」
「そんなに違う?」
「全然違う。最初の方なら、彼女は、完全に彼の世界からは切り離された存在だし、後の方なら、少なくとも彼女は、自分を海と同一化してるってことになる。」
「せんせェ、語っちゃうねぇ。」
口調がまるで、授業中と同じなのを、ジェットがからかうように言う。
「仕方ないさ、これでも国語教師だ。国語教師が言葉にこだわらなくなったら、世の中終わりだ。」
「・・・・・それって、オレの国語の成績が悪いって、皮肉?」
「成績が悪いわりには、そういうことにはずいぶん敏感だな。」
アルベルトが混ぜっ返すと、ジェットがへへへと笑った。
それから、あごを胸元に埋めて、ジェットは軽く目を閉じた。そのまま寝入ってしまうように、見えた。
アルベルトの手は、握ったままだったけれど。
微睡むジェットに向かって、アルベルトが、声を低くして、言った。
「一緒に、あの映画を見てくれて、ありがとう。」
ジェットが、目を大きく開け、顔をアルベルトの方へ向ける。意外なことを聞いた、という表情で。
「You're welcome(どういたしまして)。」
おどけたように英語で返して、またジェットは目を閉じた。
ジェットの手を、アルベルトはそっと自分の膝の上に引き寄せた。
重なった両手が、ふと、青く見える。
夏休みが、そこまで来ていた。
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