ここからふたりではじめよう
12) 電話
明日から全国大会という夜、珍しく家族がそろって、テーブルを囲んだ。
フランソワーズは、ジェットに劣らず上機嫌で、得意のミートローフを皿に分けながら、少し早い夕食を、始めようとしていた。
イワンも、子ども用の椅子に腰かけ、ミートローフのご相伴にあずかる。
「で、今年は優勝できそうなのかい?」
ジョーが、いただきますと言うと同時に、ミートローフを口に詰め込み始めたジェットに訊いた。
「なに?」
口をもぐもぐさせながら、皿から顔を上げると、フランソワーズが眉を寄せて、
「きちんと飲み込んでから。食べるか喋るか、どっちかにしてね。」
と、ジェットをたしなめた。
ぺろりと、唇の端についたソースをなめ取ってから、ジェットはおもむろに口を開いた。
「ったりまえじゃん、今年こそ優勝だぜ、オレたち。1年ン時は一回戦敗退、2年目は、準決勝止まり、今年が最後のチャンスだもん。そのために死に物狂いの練習してんだもん、オレたち。」
「そうよね、去年は、惜しかったものね。」
「そうだよ、今年こそ優勝してさ、大学の推薦入学、本決まりにしたいしさ、オレ。」
都大会が始まって以来、試合と練習の連続のせいで、夕食を一緒にすることもままならず、家に帰って来ては、とにかく食事をしてベッドへ直行という、そればかりの毎日だった。
「大学が決まれば後は楽よね。アナタ、勉強好きじゃないし・・・。」
語尾は、思わずため息まじりになる。
ジェットは首をすくめて、けれど何も言い返さなかった。
「でも、1学期は赤点もなかったし、けっこう頑張ってたじゃないか。」
助け船を出すように、ジョーが言う。
「そうね、いつもよりはずいぶんましだったわよね。一体どういう心境の変化?」
視線を、少しだけ、居心地悪げにさまよわせてから、ジェットは小さな声で、別に、と言った。
「オレだって、一応受験生だしさあ、勉強しなきゃって、思っただけだよ。」
「アタシが、いくら今まで言ったって、聞かなかったくせに・・・。」
まさか、教師のひとりに気に入られたくて、とは口が裂けても言えない。
空腹のふりをして、ジェットは忙しなく口を動かしながら、まずいことは一切言わないようにと、自分に言い聞かせた。
ふたりのことは、とにかくジェットが卒業するまでは、絶対大っぴらにはしないことと、アルベルトからきつく言い渡されている。
ばれて困るのは、ジェットではなく、アルベルトの方だった。
別に教師をクビになって、困ることはないけど、また別の環境に溶け込むのは、骨が折れるんだ。苦笑を口元に刷いて、そう言った。どこか淋しそうだと思ったのを、覚えている。
そんなことを考えていると、いきなりフランソワーズが言った。
「あ、そうそう、そう言えば、どこから持って帰って来たの、あのシャツ?」
思わず大声で叫びそうになって、ジェットは慌てて口元を押さえた。
「あの・・・シャツって?」
嘘をつくのは苦手だった。
「サイズが小さい、半袖の・・・新品みたいだったけど、あれ、どこから来たの?」
アルベルトから借りたシャツだった。あの夜、そのまま着て帰ってしまい、深く考えもせず、洗濯カゴに放り込んで、そのまま忘れてしまっていた。
この家の男どもの下着の世話を、一手に引き受けているフランソワーズが、買った覚えもないシャツを見て、不思議に思うのは当然だった。
自分のドジさ加減を恨みながら、ジェットは素早く、何人かの友人の顔と、シャツのサイズを思い浮かべた。
「あれ、ピュンマのだよ。オレ、着替え忘れちゃってさ、あいつ、たまたま新品のヤツ持ってて、貸してくれたんだ。」
「じゃあ、代わりの買って返さなきゃ。」
「じゃ、ねーちゃん買って来てくれたら、オレから返しとくからさ。」
早く話を終わらせたくて、ジェットは語尾をひったくるようにそう言うと、急いで皿をきれいにして、椅子から立ち上がった。
「でもジェット、あれ、アナタには小さすぎるじゃない?」
「いいよ、別に。着れないわけじゃないしさ、オレの部屋に、ほかのと一緒に置いとけばいいだろ。」
アルベルトのものが、手元にあるのも、悪い話じゃないなと、ふと考えた。
ボロを出さないうちにと、急いで部屋へ上がり、少しは勉強でもしようかと、殊勝に一応ワークブックを開いてみた。
明日から全国大会が始まる。
都大会で優勝した日、着替えもそこそこにアルベルトに電話をして、優勝の報告をした。
全国大会で優勝をねらうジェットにとっては、都大会は単なる経過に過ぎないけれど、それでも、勝ち抜かなければ全国大会へは行けないのだから、優勝は素直にうれしかった。
じゃあ、全国大会の前に、お祝いした方がいいのかな。
アルベルトは、ひどく優しい声でそう言った。
残念ながら、都大会が終わった後は、また猛練習で、一日に一度、15分ばかり電話をするのが精一杯で、会うことすらできなかった。
せっかくもらった合鍵も、まだ使うチャンスすらない。
ちぇっ、と、思い出して舌を打つ。
決勝戦まで行けば---もちろん、そのつもりだった---大会が終わるまでの10日間、まったく行動の自由はなくなる。
また会えないのかぁ・・・。
勉強する気は、すっかり失せていた。
椅子に坐ったままで背を反らし、そうして、何の気もなしに、時計を見た。
まだ、8時に少し間がある。
明日の朝は、8時に学校へ集合。それから全員揃って、大会の会場へ向かう。
がたんと、音を立てて、ジェットは突然椅子から立ち上がった。
ばたばたと騒々しく階段を駆け降り、フランソワーズを呼んだ。
「ねーちゃん、ねーちゃん、ジョー兄、どこ?」
キッチンで洗い物をしていたフランソワーズは、ジェットの騒々しさに眉を寄せて、振り返った。
「何なの、一体。ジョーなら、イワンをお風呂に入れてるけど。」
そのままきびすを返して、バスルームへ行くと、声も掛けずにドアを開ける。
「ジョー兄、頼みがあるんだけど。」
ベビーバスに入ったイワンに、石鹸をぬりつけていたジョーが、驚いた顔で振り向く。
「頼み?」
特に親しくしているとも言えない義理の弟が、一体自分に何の頼み事かと、頬の辺りが、思わず硬張る。
「ジョー兄の携帯さ、借りてもいい?」
「携帯?」
言葉の意味がうまくつかめず、間の抜けた反応を示す義理の兄に、ジェットはじれったそうに、同じ質問を繰り返した。
「電話、ジョー兄の、携帯電話。あれ、オレがちょっとの間、借りていい?」
「ちょっとの間って・・・」
「ちょっとオレ、外走ってくるからさ、多分2時間くらい。」
「ああ、そのくらいなら・・・居間の上着のポケットに入ってるよ。」
「サンクス、ジョー兄。」
現れた時と同じ騒々しさで姿を消し、ジェットは急いで居間へ行くと、ジョーの上着から携帯を取り出した。
「一体、何ごと? そんなに慌てて、どうしたの?」
濡れた手を拭きながら、フランソワーズが顔をしかめてキッチンから出て来る。
長々と説明する気も時間もなく、ジェットは、振り返りもせずに、
「ちょっと、オレ、外走ってくるからさ。心配なら、オレ、ジョー兄の携帯持ってくからさ。」
怪訝そうなフランソワーズの方へはまったく視線を向けず、ジェットはまた騒々しく、外へ飛び出していった。
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キッチンで、食事の後の始末を終えて、紅茶を飲みながら本を読んでいた。
近頃、ジェットがここに来ないので、部屋は妙に静かだった。読書にも邪魔が入らず、夏中に読んでしまうつもりでいる井上靖の全集も、予定通りに読み進んでいる。
それでも、あのひょろりとした存在が傍にいないと、なんとなく、もの足りないような気がする。
都大会へ顔を出すつもりでいて、けれど、誰かに不審がられるのがいやで、結局一戦も見ずに終わってしまった。
ジェットに会いに行っていると思われるのは少々困ると言うと、ジェットは案外素直に納得した。
そーだよね、ピュンマが、後でなんでせんせェが来てたんだって、言ってたもんな。
ちぇっと、舌を打つのは忘れなかったけれど。
せめて全国大会は、一戦---決勝戦---だけでも見に行こうと思っているけれど、まだ予定の調整はしていなかった。
電話が、鳴った。
受話器を取る前から、誰からかはわかっている。
ここにわざわざ電話をかけてくる相手と言えば、ほんの2、3人しか、心当たりはなかった。
---せんせェ?
当たった。くすりと笑いを漏らす。
---よかったぁ、いなかったらどうしようかと思っちゃったよ、オレ。
「出掛ける先なんかないって、知ってるだろう。」
微かな雑音が後ろに入る。声も、何故だが、遠くなったり近くなったり、電話自体が揺れているような音だった。
「電話がおかしいのか?」
---ううん、別に。
何がおかしいのか、ジェットが電話の向こうで笑った。
「全国大会、明日からだろう?」
---うん、だからさ、その前に、声だけでも聞いとこうと思ってさ。
その時、玄関のドアが、ノックされた。
「ちょっと俟ってくれ、誰か来た。」
言い置いて、慌てて玄関へ行く。
一体誰だ、こんな時間に。
ここへ越して来てから、こんな時間に誰かが訪れてくることなどなかった。第一、少しばかり非常識な時間ではある。
軽く舌を打ってから、ドアのスコープから、外をのぞいた。
ジェットが、手を振っていた。
驚いてドアを開けると、ジェットがおどけた仕草で、もしもし、と言った。
手の中の、小さな携帯電話の接続を切ると、にいっと歯を見せて笑う。
「来ちゃった、オレ。」
からかわれたのを、怒る気にもならず、アルベルトは苦笑しながら、ジェットを中に招き入れた。
受話器を元に戻して、まるで自分の家に帰って来たように、まず冷蔵庫を開けて、冷たいコーラを取り出すジェットの背中を、なんとなく懐かしい気持ちで眺める。
わざわざ来てくれてありがとうと、素直に言えればいいのに、と少しばかり残念に思った。
「こんな時間に、大丈夫なのか?」
「すぐ帰んなきゃいけないんだけどさ。でも明日朝8時学校集合だから、まあ、今夜は12時までに寝ればいいかなって。」
向かい合ってキッチンのテーブルに坐ると、ジェットが、手を伸ばしてきた。
アルベルトの機械の方の手を握ると、また、にっこりと笑う。
「こんなに、学校早く始まればいいのになんて思うの、初めてだよ、オレ。」
会いたかった、と唇が動く。
アルベルトは、思わず照れて、顔を伏せた。
「大会終わったら、またここに来るからさ・・・勉強しに。」
それまで、あと10日もあるけれど。
ジェットの指が、掌を滑り、袖の下を探って、手首を撫でる。脈のある辺りを通ってから、そこで止まった。
血の通わない腕は、決して熱くはならない。アルベルトの心臓は、さっきから、ずいぶん鼓動を速めているというのに。
言葉も交わさずに、ただふたりは手を握り合っていた。
アルベルトの、鉛色の指先を強く握ってから、ジェットはふと顔を背け、それから、ゆっくりと手を離した。
「オレ、もう、行かなきゃ・・・」
「もう・・・?」
思わず、失望が声にまじる。
ジェットは、少しばかり赤くなった頬をごしごしとこすると、椅子から立ち上がって、もう笑顔も見せずに玄関へ向かう。
それを追って、アルベルトは、必死に何か言おうとしていた。
言うべき言葉があるような気がして、それを、探していた。
玄関で靴をつっかけるジェットの背中に、アルベルトは、思わず手を伸ばした。
どうするつもりだったのか、よくわからない。
裸足のまま、冷たい玄関へ降りて、ジェットの肩をつかんで、自分の方へ、振り向かせていた。
視線が、ぶつかり合った。
ジェットの目は、何故なのか、涙がこぼれそうに潤んで見えて、結んだ唇が、少しだけ震えていた。
距離が、消えた。
どちらが先に首を伸ばしたのか、定かではなかった。
どちらも同時に、目を閉じたのかもしれなかった。
触れた唇は、乾いていて、震えていた。
ジェットの腕が、肩に回る。思わず、両腕をジェットの背中に回した。
狭い玄関で、ふたりは抱き合っていた。
「・・・大会なんか放っぽり出して、せんせェとどっかに行っちゃいたいよ、オレ。」
肩に、ジェットの息がかかった。
首筋に額をすりつけながら、アルベルトは薄く笑った。
「本気じゃないだろ?」
ジェットは答えなかった。答えの代わりに、もう一度、唇が触れ合った。
もう少し、長く、深く。
ジェットの腕が、強くアルベルトを抱いて、それから、ゆっくりと離れていった。
「決勝は、必ず見に行くよ。」
決勝まで勝ち残れと、言葉の外に伝えて、アルベルトは、たった今、ようやく初めての接吻を交わしたばかりの、年若い恋人を見上げた。
おやすみ、と言い残して、名残惜しげな視線を投げてから、アルベルトの言葉を受け取って、ジェットはするりとドアから出て行く。
小さくなってゆく、走り去る足音を追いかけながら、アルベルトはいつまでもそこに立ち尽くしていた。
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