ここからふたりではじめよう
13) 決勝
トレンチコートを羽織って行けば、いやでも目立つのがわかっていたので、今日は薄手のジャケットを羽織って行くことにした。暑いのはわかっているけれど、それでも黒のスタンドカラーのシャツ---もちろん長袖で、首も袖も、きっちりボタンをとめている---を着て、忘れないうちに、手袋---革の、黒---をはめる。
さて、と呟いて時計を見ると、もう出掛ける時間だった。
全国大会の決勝。
やったよ、せんせェ。
興奮した声が、電話の向こうから聞こえた。まだ騒めきが背後にあり、会場がわきたっているのが、アルベルトにもありありと伝わった。
大会なんて、別に珍しくもないから、ねーちゃんも来ないし、せんせェは来てくれるよね?
ああ、もちろん、とアルベルトは答えた。
またあの、鳥のように飛ぶジェットを見れるのかと思うと、ふと、自分まで興奮する。
何となく、自分の頬に触れて、それから、ドアに向かってきびすを返した。
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みな、いつもよりは無口に、試合開始を待っていた。
最期の試合。3年生は、これが事実上の引退試合になる。
3位決定戦はさっき終わり、まだ、コートはその名残で、少しだけ騒がしい。
もう今さら、言うべき言葉もなく、みな、少しばかり固い笑顔を交わすだけで、いつもの軽口もない。
少しずつ、自分の中が透明になってゆく。視界が狭まり、もう、コートしか見えない。人の声が遠くなり、聞こえるのは、バスケットシューズが床をける、きゅっという、鋭い音だけだった。
視線はボールだけを追い、その先にあるのは、ゴールのネットだけだった。
始まる、とジェットは思った。
どちらも、防御よりは攻撃のチームで、点が入れば、次にはもう一方のチームに点が入る。
あちらのチームにも、ジェロニモ並みのディフェンスがいて、もっともこちらは、ジェロニモよりもいくぶん動きが鈍い。
わきをすり抜け、身をかがめて、思いきり飛ぶ。今日の、10点目。
いつもより、体が軽い。腕もよく伸びる。絶好調、と、床に着地しながら、ジェットはおどけて言った。
ピュンマがお得意の、3点ゴールを決める。
額を伝う汗をぬぐいながら、勝手に動く足に体を追いつかせ、また、ボールに手を伸ばす。
パスをカットされ、向こうにボールが渡った。
ばらばらと、ボールを持った相手を、追い始める。
追いつく前にゴールされるのはわかっているけれど、それでも、ボールを追う足は、止めない。
みな必死で、相手よりも多く、ボールをネットに入れようとする。1点でも、多く。
入れられれば、入れ返す。その、単純な繰り返し。ジェットは次第に、透明になった自分が、まるでボールになったような気分になる。
ジェロニモが、相手のシュートを、空中でカットした。
落ちたボールを、誰よりも一瞬早く、ピュンマが拾う。コートの半ばへ走り出した頃、ジェットへ、ボールが渡る。
数を数えて、歩幅いっぱいに、飛ぶ。飛び上がる。腕を伸ばす。ボールを叩き込んだ後、わざわざ調子に乗って、リングにぶら下がって見せた。
歓声の合間に、前半終了のホイッスルが鳴った。
ベンチから、観客席を、ぐるりと見渡す。
隅の方に、求める人影を見つけて、ジェットは、それに笑いかけた。
ジェットの笑顔が見えたのか、人影が、そっと手を振る。
人差し指を立ててそれに答えていると、いきなり後ろから髪を引っ張られた。
「少し、落ち着け。」
ジェロニモが、ぼそりと低い声で言った。
「いってぇなあ、なんだよ。」
ジェロニモが、いつもよりももっと恐い顔で、ジェットをにらんでいた。
「おちゃらけるのは、試合が終わってからでも遅くない。」
前半の終わりに、リングにぶら下がったことを言っているのだと悟って、ジェットは少しばかり神妙な顔になると、
「わーったよ。」
と、素直に言った。
「前半リードで後半へ。ボクらの好きなパターンだ。」
明るい声でピュンマが言って、ふたりの背中を叩いた。
また、ボールだけが存在する、透明な空間へ、12人が戻ってゆく。
後半は、さすがに、相手も防御を固めて来た。
簡単に通り抜けられた、ディフェンスのわきも、今は完全に閉じられ、ジェットはボールを抱えたまま、何度もネットの下で止められた。
肩や腕がぶつかり、ひとり、あるいはふたり一緒に、床に倒れ込む。
ネットへ向かって飛ぶボールは、必ず誰かの手が、叩き落とす。点差がじりじりと縮まり、ジェットのチームに、少しばかりの焦りが見え始めた。
ピュンマが3点ゴールをしくじり、その後、奪われたボールは、ジェロニモの手をすり抜けて、相手のゴールに入った。
ちくしょう。ジェットは、何度目かのその罵りを、また口にする。
まだ、勝ってはいる。けれど点差は、確実に縮まっていた。
いらだちに、唇が少しだけ歪む。それから、アルベルトを思った。
心配そうな表情で、観客席のあちら側から、ジェットを見ているに違いない。
ついに、点差が逆転した。
いっそう高い騒めきが、コートを満たす。
言い合わせたように、全員が、互いに視線を交わした。一瞬の失望と、それに続く、まだ消えない闘志。
まだ終わってない。全員が、そう、唇だけで言った。
5分、とジェットは思った。
5分後には、すべてが終わる。どんな結果にせよ。
あと、5分。
どちらも点を入れられず、時間だけが、ネットの下で過ぎてゆく。
どちらも必死で、ゴールを守ろうとする。
時間が流れ、もう、どちらでも、ゴールを決めた方が勝つと、誰もが知っていた。
相手が投げたボールが、ジェロニモの指先に触れ、ネットに入らずに落ちてゆく。ピュンマがするりと走り込み、誰よりも早く、腕を伸ばした。
ジェット。
ピュンマが叫んだ。
振り返りながら、走り出す。ボールが、追いかけてくる。うまく受け取った先には、ディフェンスがふたり。ひとりは、ジェロニモと、大差ない。
考えるより先に、体が動く。
フェイントをかけ、背の高い方のディフェンスの、足の間に、ドリブルを通した。驚くふたりの間をすり抜けて、ボールをつかむ。
飛ぶ。思いきり。これが最期だと、そう思った。
伸ばした腕に、4本の、太い腕が絡みつこうとする。それよりも、ほんの2、3cm高く、ジェットは飛んだ。
ネットに、ボールが落ちる。
やった、と思った時に、肩と首に、ディフェンスふたり分の体重が、波のように襲いかかってくる。3つの体は絡み合って、床に落下した。
誰かの体の下敷きになった、手首の近くで、ジェットは、骨の砕ける音を聞いた。
それが、最期だった。
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いてえ、とぼやきながら、体が動かないのを奇妙に思った。
体が重く、まるで錘か何かをぶら下げているように、身動きを封じている。
それに逆らうように、腕を振るうちに、いきなり、糸でも切られたように、体が軽くなる。落下する感覚に襲われて、叫んだと思った時に、目が開いた。
「目が、覚めたのか?」
苦笑いの見える、アルベルトの顔。
ここはどこだと、周りを見渡して、病院らしいと気づく。
それから、突然大事なことを思い出して、ジェットはベッドに起き上がった。
「試合はっ?」
また、アルベルトは苦笑いする。
「勝ったよ。優勝した。残念ながら、君が気を失ってる間に、閉会式は終わったけど。」
両腕を、宙に振り上げてガッツポーズを決めようとして、ようやく右腕の痛みに気づく。
厚い板にはさまれ、動かせないように処置されていた。
「君のお姉さんがいらしたら、説明があるよ。複雑骨折ではないらしい。だから、きれいに治るだろうとは、言われた。」
「骨折?」
叫んでから、ジェットは大げさな身振りで、またベッドに身を沈めた。
「信じらんねえ、骨折?」
「仕方ないだろう。落下の時に、相手のディフェンスの下敷きになったんだ。そのくらいですんで良かったと思った方がいい。」
慰めるような口調で、アルベルトが言った。
ジェットは唇をとがらせて、自分の右腕をにらんだ。
「・・・せっかく、優勝のごほうびに、せんせェに、海行こって言うつもりだったのに、これじゃあ泳げない。」
「肩や首でなくて良かったと思えば、少しはましな気分になれないか?」
「・・・そりゃマシだけどさ・・・オレの夏休み、これでパー。」
子どもっぽく駄々をこねるジェットの額に、アルベルトが左手を伸ばした。
「海になら、いつでも行ける。別に海じゃなくても、いいんだろう?」
ジェットが、ふと目を細めた。
アルベルトの手を取り、自分の頬に添える。
「せんせェと一緒なら、オレはどこでもいいけどさ。」
アルベルトが、また笑った。
まだ、汗に湿った髪に指先を差し入れ、すいてやると、まるで猫のように、ジェットが喉を鳴らす。
「お姉さんが、じきにいらっしゃるから、その前に帰るよ。」
ベッドの、ジェットの足元に置いてあったジャケットを取り上げようとすると、ジェットが、アルベルトの手を引っ張った。
せんせェ、と甘えた声で呼ぶのに振り返ると、
「右手、手袋外して。」
とジェットが言った。
周囲をうかがって、ドアがきちんと閉まっていることを、背中越しに確かめると、逡巡の気配の後、アルベルトはゆっくりと手袋を外した。
その手に、ジェットが手を伸ばし、自分の方へ引き寄せる。
唇が、指先に触れた。
「せんせェ、キスして。」
穏やかに、ジェットが微笑んでいた。
ジェットの頬に、機械の指先を添えたまま、アルベルトは、上体をゆっくりと倒した。
汗の匂い。塩からい接吻。鼻筋が、軽くぶつかって、くすぐったかった。
「優勝、おめでとう。」
吐息のかかる距離で、そう言うと、ジェットがとびきりうれしそうに笑う。
もう、教師の貌に戻ると、手袋をはめ直し、アルベルトは立ち去るために上着を取り上げた。
それを見つめながらジェットが、
「せんせェ、ありがと。」
ふっと微笑んでから、
「You're
welcome。」
いつかジェットが言ったのと、同じ言い方を返して、アルベルトはもう一度、笑って見せた。
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