ここからふたりではじめよう


14) 外泊 -前編-

 「オフクロがね、イワンに会いたいって。」
 夕食のテーブルで、控え目にジョーが言った。
 フランスワーズは、右腕の使えないジェットのために、野菜を小さく切っている最中だった。
 「お義母さまが?」
 「だって、最後に会いに行ったの、クリスマスの後だったろう。イワンもずいぶん大きくなったろうって。」
 ジョーの母親というのは、亡くなったフランソワーズやジェットの母親よりはずいぶん年下で、フランソワーズの、年の離れた姉と言ってもかまわないくらいだった。
 ジョーが、まだ記憶も定かでない頃にはすでに父親はなく---母親のいないふたりと、似たり寄ったり---、女手ひとつでジョーを育て、今もまだ、もちろん働いている。
 ジョーとの結婚が決まった時に、フランソワーズが冗談で、父さん、あちらのお母さまと再婚すれば、と父親をからかったことがある。フランソワーズが今はそっくりな、亡くなった妻を思い出したのか、グレートは、よせやいと、言い捨てて、ふと淋しげな目をした。
 そうねえ、とフランソワーズは考え込む顔つきになった。
 「行きたくない?」
 大きく開いたジェットの口に、小さな野菜のかけらをいくつか放り込んでやりながら、
 「そんなことないわ。でも、ジェットが・・・」
 いきなり名前を出され、口をもぐもぐと動かしていたジェットが、目を大きく見開く。
 「オレがナニ?」
 「だって、アナタ、ひとりで何にもできないじゃない。」
 フランソワーズの視線が、ジェットの、ギプスに固定された右腕に刺さる。
 肘のすぐ下から、指の第二関節まで、きっちりと覆われていて、指先なら多少は使えるけれども、なるべく動かすなと、医者からは言われている。
 今日で10日目、入浴も食事も、すべてフランソワーズが手伝っていた。
 最初の一週間は、おとなしく三角巾で吊っていたのだけれど、首が重いと文句を言って、外してしまっていた。それでも出かける時は、フランソワーズが無理矢理に、三角巾を使わせるのだけれど。
 全治1ヶ月。若いから治りも早いはずだと、医者はにっこり笑って、そう言った。
 「それともアナタも、アタシたちと一緒に行く?」
 「いいよォ、オレは。ジョー兄のかーちゃん、イワンに会いたいんだろ。オレ行ってもジャマだって。」
 「そうなのよねェ。」
 語尾を吐息に紛らわして、じゃまになる、という部分はさり気なく否定せずに、フランソワーズはジョーの方へ視線を移した。
 「ジャマかどうかはともかく、キミが行きたいなら、一緒に行こうよ。オフクロだって、キミに会えれば喜ぶよ。」
 姉に邪魔扱いされた義弟を、ジョーがさり気なくフォローする。
 フランソワーズの皿に手を伸ばして、ぱしりと叩かれる。ジェットは涙目で、赤くなった手の甲を振りながら、
 「ジョー兄、そんな気ばっかつかってると、心臓発作で死ぬぜェ。いいよ、オレは留守番で。」
 義兄の優しい心遣いを、完全にフイにしながら、ジェットはあることを考えていた。
 「じゃあ、とにかく、オフクロに行くからって、連絡するから。」
 ジョーが、ジェットに引きつった笑顔を見せ、それから、フランソワーズに優しい目を向けた。
 「で、いつ行くの?」
 ジェットは、まだフランソワーズの皿に指先を伸ばしながら、訊いた。
 「土曜の朝早くに出て、日曜の夜遅くに戻って来る、かな。大丈夫だろう?」
 穏やかな声で尋くジョーに、フランソワーズが、にっこりと微笑んだ。
 「ええ、それで大丈夫よ。」
 ジェットの指先---左手の---を、そのまま骨でも折ってしまいそうに、力いっぱい握り込んだままで。


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 チャンスだ、とジェットは思った。
 宿題も、少しばかり残っているのが、いい口実にもなる。
 第一、自分ひとりが留守番というのは、滅多にないことだった。右腕のギプスが、そうなれば少々面倒なことになるかもしれないけれど、何とかなるさ、と持ち前の楽観主義で、とりあえず計画を立てることにした。
 せんせェのとこに、お泊まり。
 今まで、いつ行っても、必ず夜---まるで、シンデレラのように、午前零時前---になれば帰らなければならないという、暗黙のルールがあった。
 高校生の外泊は、基本的には認めない。教室で使う声音でそう言われれば、素直にうなずくしかなく、ジェットの方も、それで諦めていた。
 全国大会が終わっても、この骨折のせいで、フランソワーズがいつも以上に外出にやかましく、どこへ行く、何時に帰る、長くなるなら、出先の電話番号はと、いちいち報告しなければ、ろくに外へも出してくれない。
 そのせいで、やっとバスケットからは解放されたけれど、アルベルトと自由に時間を過ごすというわけには、行かなくなっていた。
 言えないもんな、せんせェんトコに行くなんて。
 言ったところで、何が起こるとも思えなかったし、勘繰られるとも思わなかったけれど、学校の教師と親しくしているという不自然さを、説明するのが面倒くさかった。
 なんでオレ、まだ高校生かなあ。
 考えても仕方のないことを、また思う。
 10歳という年齢の差を、感じないと言えば嘘になる。
 何しろ、あちらは教壇から教える側、こちらは机について、勉強する側なのだから。
 勉強嫌いのジェットが、少なくとも教科書を開こうという気になるのは、もちろんアルベルトのせいだった。
 成績が悪くて、あるいは下がって、軽蔑されるのはもちろんいやだったし、一緒にいることで、時間を取られているからと思われるのは、もっといやだった。
 勉強を楽しいとは、とても思えないけれど、それでも、教科書を開いて、勉強しようとするジェットを、見つめる時のアルベルトの眼差しが、ジェットは好きだった。
 アルベルトのことを考えるだけで、ふと切なくなる。
 いいよなあ、女の子とか、アタシの彼氏とかって、言っちゃえるんだもんなあ。
 男と女の、普通の無邪気な関係が、うらやましいと思った。
 クラスでも、バスケットのチームでも、誰と誰が付き合っているというのは、いつもみんなが話していることだった。もちろんジェットは、いつも聞くばかりで、オレだって、と口を開くことさえできない。
 もっとも、たとえジェットが女の子だったとしても、教師と教え子が、堂々と手をつないで、外を歩けるはずもない。
 大した違いはないか、とジェットは苦笑いする。
 右腕のせいで、あまり外へは出たがらないアルベルトに、ふたりで、あまり外へ出ることができないというのは、決して不都合ではない。ジェットもそれを、不満だとは、あまり思わない。
 けれど、会う時間が限られるのだけが、時々いらだちの原因になる。
 だから、家族がみんな出掛けてしまうこの週末に、心置きなくゆっくりと、アルベルトと一緒にいたかった。
 さて、と思わず口にしてから、ジェットはもうすっかり覚えてしまった電話番号を、ゆっくりと頭の中に思い浮かべた。


 3度、鳴ってから、もしもし、と声が返って来た。
 「せんせェ?」
 電話のたび、最初のジェットの一言の後、必ずアルベルトは、苦笑するような気配を伝えてくる。
 一瞬間を置いてから、アルベルトの声が、耳に流れ込む。
 「右腕は、まだ痛むのか?」
 「ううん、動かさなきゃ大丈夫だよ。大した骨折じゃないもん。」
 「ちゃんと、薬は飲んでるのか?」
 「ねーちゃんがしっかり監視してるからね。オレもう、息詰まりそう。」
 軽く、アルベルトが笑った。
 電話をかける前に、ちゃんと予行演習した通りに、ジェットはそのことを口にする。なるべく、わざとらしくならないように、気をつけながら。
 あのさ、とジェットは言った。
 「今週末さ、せんせェ、なんか予定ある?」
 ない、と予想通りの答えが、短く返って来た。
 「あのさ、オレん家、ねーちゃんとか、みんな出かけちゃうんだよね。オレ、日曜の夜までひとりでさ。」
 日曜の夜、と、ひとり、をきちんと、すらりと言えた。
 「だから、オレ、もしかして、せんせェんとこ、泊まりに行ってもいいかなって・・・」
 語尾が、震えそうになるのを、必死で抑えた。口調の軽さとは裏腹に、心臓は、喉から飛び出そうなほど、強く鳴っている。心臓の音が、部屋いっぱいに響くように思えた。
 アルベルトが、黙り込む。
 怒っているとも思えたし、戸惑っているとも取れた。それとも、考え込んでいるのか。
 どれだろうと思いながら、おそるおそるジェットは、
 「せんせェ?」
と、いつもに似ない、細い声を出してみた。
 10まで数えた頃、ようやくアルベルトが、ああ、と言った。
 「ちゃんと、準備してから来てくれよ。薬とか、着替えとか。」
 あっさりと言われ、ジェットの方が拍子抜けする。
 それはだめだと言われた時に、どう説得しようと、そればかり考えていて、かまわないと言われるとは、まるで予想もしていなかった。
 「いいの? 行っても?」
 思わず、間の抜けた答えを返す。
 アルベルトの声に、戸惑いが混じって、ジェットの耳に届いた。
 「別に、悪くはないだろう。」
 怒っているような、素っ気ない言い方。
 「オレ、ちゃんと宿題、持って行くから。」
 機嫌を取るように、わざわざ付け足すと、当然だ、とアルベルトは、また素っ気なく言った。
 「土曜日に、電話をくれれば、迎えに行くよ。」
 最期だけは、いつもの優しい穏やかな声で、アルベルトはそう言った。
 それで、電話は終わった。


 自分の幸運がまだ信じられず、切れてしまった電話をまだ抱えたまま、ジェットは、叫び出しそうになるのを、やっと耐えていた。
 せんせェん家に、お泊まり。
 呆けたように呟いて、それから、ふと思いついて、ギプスの右腕で、坐っているベッドのふちを、軽く叩いてみた。
 思わず肩まで激痛が走る。
 夢じゃない。
 立ち上がって、狭い部屋の中で、思い切り飛び上がった。
 階下まで、その音が響いたのか、フランソワーズの声が、下から飛んできた。
 「何してるの、ジェット。」
 「なんでもないよ、ねーちゃん。」
 声を飛ばし返しながら、もうすでにジェットは、土曜日までの時間を数え始めていた。