ここからふたりではじめよう


15) 外泊 -後編-

 土曜日かと、アルベルトはひとりごちた。
 店の中は、若い女性であふれていて、アルベルトは自然肩をすぼめて、棚の間と人の間をすり抜けていた。
 目当てのものがどこにあるかわからず、カモフラージュのために買うことにした、カゼ薬とバンドエイドの箱が、時折手からこぼれ落ちそうになる。
 誰に尋くわけにもいかず、アルベルトはさっきから、見当をつけた辺りを、うろうろと歩き回っていた。
 わざわざ泊まりに来ると言うのなら、どう考えても目的はそれしかなく、それでも断らなかった自分を、アルベルトは不思議に思う。
 ジェットと夜を過ごすということが、一体どういう意味なのか、わからないととぼけるほど悪趣味ではなかったので、アルベルトは今、心の準備をするために、ここにいる。
 ジェットが、あの見かけ通りの子どもで、何のたくらみもないなら、それはそれでかまわない。もちろん、それはアルベルトが秘かに望んでいることで、実際には、そんなはずのないことくらい、百も承知だった。
 それでもジェットが、まさかそんなところまで気が回るとも思えず、きちんと準備をしておくのは、教師であり、大人である人間の義務だと、アルベルトは何度も自分に言い聞かせていた。
 ようやく、探しものを見つけ、アルベルトは思わず咳払いをした。
 地味な色合いの箱が幾種類か。いちばん普通に見える種類を素早く選んで、それから、もうひとつの目的を、視線で探す。
 そちらの方は、正確な名称すらわからず、ただ、そういうものがあると、知識で知っているだけだった。
 こそこそするのは趣味ではないけれど、こういうものこそ、どこか人目のないところで、自動販売機か何かで買えればいいのにと、少しばかり忌々しく思う。
 羞恥の一片すら面には出ないように気をつけながら、すぐ隣の棚の、足元に近い辺りに、掌ほどの大きさの白いチューブを見つけ、印刷された文字で、それが探していたものであることを確認すると、アルベルトは、きちんと背を伸ばして、レジへ向かった。
 土曜日か、ともう一度思った。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
 
 
 弾んだ声でジェットが電話してきたのは、土曜日の朝の、10時を少し過ぎた頃で、少しゆっくりジェットの家へ迎えに行くと、もうジェットは、すっかり準備をして、アルベルトを待っていた。
 いつものジムバッグを抱え、早速車に乗り込んでくる。
 「忘れものはないか?」
 「ない。薬入れたし、着替え入れたし、洗面用具入ってるし、家のカギも持った。」
 「宿題は?」
 いちばん肝心なものは、と言葉の外に含ませて、アルベルトが訊いた。
 「ちゃんと持って来たよォ、だって勉強しに行くんだもん、オレ。」
 白々しい、とそのジェットの台詞に苦笑いを返す。
 姉のフランソワーズに言われたからなのか、うっとうしいと文句を言っていた三角巾を、今日はちゃんと着けている。
 大した怪我ではないとは言え、間近でこうして見れば、やはり少しばかり痛々しい。
 せっかくの夏を、バスケットボールに費やしたその挙げ句にこの怪我は、ジェットには少しばかり酷だったかも、と今さら思ってみる。
 ジェットが病院でそう言ったように、海に行こうと誘われたところで、もちろん水着で砂浜に行くつもりもなく、まさか長袖のシャツをきっちりと着込んで、泳ぐ人たちを眺めるほど酔狂でもなく、かえってこの方が良かったのかもしれないとも思う。
 ジェットとこうして時間を過ごすのは、ほんとうに久しぶりだったから。
 「どこ行くの?」
 ジェットが、窓を叩きながら訊いた。
 「本屋。」
 ふたりきりの照れくささを隠すために、アルベルトは短く、素っ気なく返事をした。
 「久しぶりだね、せんせェと一緒にいるの。」
 まるでアルベルトの心を読んだように、ジェットが言う。ひどく、優しげな声で。
 「夏休み終わったら、毎日学校で会えるのに・・・こんな夏休みがつまんないの、オレ、初めてだよ。」
 「腕も怪我したし、な。」
 からかうように言うと、そうそう、とジェットが相槌を打つ。
 しばらく、静かに窓の外を眺めた後、オレさあ、とジェットが言った。
 「大学、推薦いけそうだよ。バスケで、決まると思う。」
 大学の名を尋くと、スポーツに力を入れていることで有名な、私立の大学の名を、ジェットは口にした。
 「すごいな、だったら、もう勉強する必要もないじゃないか。」
 「勉強はするよォ。でなきゃ、せんせェん家に行く口実なくなっちゃうもん、オレ。」
 唇をとがらせたジェットに、アルベルトは少しばかり照れながら、言った。
 「別に、口実がなくても、来たってかまわない。」
 言いながら、我ながら恥ずかしいと思う。
 子ども相手に、何を言ってる?
 赤くなった頬を見られまいと、ことさら、運転に集中しているふりをして、アルベルトは前方をにらんだ。
 「オレ、大学入ったら、ひとり暮らし、しようかなあ。」
 唐突な思いつきを、ジェットは口にする。
 家を出ることなど、今まで考えたこともなかったし、恐らく入学することになる大学も、自宅から通える距離だった。それでも、少しばかり自由になるために、ひとり暮らしも悪くないように思える。
 もちろん、フランソワーズが承知すればだけれど。
 ねーちゃん、うんて言うかなあ。
 「ひとり暮らしは、無理じゃないか。」
 そう言ったアルベルトの横顔に、ジェットは視線を振り向けた。
 「なんでェ?」
 少しばかり、傷ついた表情になる。
 「先に、家事をお姉さんに習った方がいい。」
 アルベルトが茶化した。
 「オレだって、ひとり暮らしくらいできるよ。」
 ジェットがむきになればなるだけ、ますます信憑性が薄くなる。口調に、ジェット自身がそれを信じていないのが、くっきりと現れていた。
 子どもっぽいその表情に、なぜか少しだけ安堵しながら、アルベルトはまた笑った。
 車は、街の外へ向かって、走り続けていた。


 少しばかり遠出をして、大きな古書店を3軒ほど回り、それぞれで思う存分長居をした後---アルベルトはいつもように、数冊ほど、気に入った本を手にして、店を後にした---、遅い昼食を取って、アルベルトのマンションに戻ったのは、もう夕方近くだった。
 昼食が遅かったので、夕食は簡単にすませると、ジェットは早速、形だけは教科書を広げ、勉強しているふりだけは見せる。
 右腕を動かすたびに、テーブルの上で、ギプスがゴトゴトと音を立てた。
 「後で、映画でも借りに行こうか。」
 アルベルトが、洗い物をしているシンクから振り返って言うと、ジェットは、ノートから顔を上げ、少しばかり考え込む顔つきになる。
 「せんせェが、もう勉強、今日はいいって言うんならね。」
 「始めたばっかりで、何を言う。」
 「じゃ、ダメじゃん。」
 そう言ってまた、ノートの上に顔を伏せてしまった。
 「あとどれくらい、夏休みの宿題、残ってるんだ?」
 んーとね、とノートから顔を上げずにジェットが答えた。
 「数学があと10ページくらいと、英語のワークブックが少し残ってるかなあ。」
 「読書感想文は?」
 「とっくに終わらしたよォ。ちゃんと枚数書いたもんね、オレ。」
 いかにも得意そうに言うジェットに、えらいえらい、と子どもにでも言うように返すと、アルベルトはまた、洗い物に視線を戻した。
 珍しく、質問もしないジェットに、ミルクと砂糖のたっぷり入った紅茶を差し出してやり、自分にはミルクだけの紅茶を注いで、アルベルトもテーブルに坐って、本を読み始めた。
 殊勝に勉強しているジェットを、ちらちらと盗み見ながら、アルベルトは、オレンジ色のタンクトップの、大きく開いたジェットの胸元の辺りに視線を滑らせる。
 しばらく会わないうちに、また、肩の辺りが大きくなったように見える。あごの線も、以前よりも少しばかり硬さが増したような気がして、アルベルトは、今さらながら、ジェットの、まだ17歳という年令を思った。
 自分の17歳の頃は、一体何を考えて、何をしようとしていただろう。
 ピアノばかり弾いていたわけではないはずなのに、学校のこともろくに覚えてはいない。人から好かれはしたけれど---驚いたことに---、自分からあまり人に馴染むということは、しなかったように思う。
 ヒルダに出逢ったのは、音楽大学に入ってからだ。初めての、真剣な恋。初めての恋人。そして、今のところ、最初で最後の女性。
 自分がヒルダに恋したように、ジェットは自分に恋しているのだろうか。
 多分違う、と思う。
 あれよりはもう少し稚なくて、もっと不器用に思える。それは、今のジェットが、あの頃のアルベルトよりも子どもで、今のアルベルトが、あの頃のヒルダよりも、もっと大人---決して、誉められた意味合いではなく---になってしまい、その上にさらに、人嫌いの皮をかぶっているせいに違いなかった。
 もっとぎこちなく、もっと稚拙で、戸惑いと困惑を必死に克服しながら、ジェットは一生懸命アルベルトを追いかけてくる。アルベルトは、その必死さに引きずられるように、ジェットに向かって両腕を伸ばしている。
 17歳の頃に、もうすぐ28になろうとする自分のことなど、想像すらできなかったように、ジェットも恐らく、20代を半ばも過ぎた自分の姿など、考えもしないだろう。
 それでも、ジェットが、今の自分の年に近づいた時に、その隣りにいるのが自分なら、とふと思った。
 まだ、10年も先の話だけれど。
 ジェットが鉛筆を置いて、大きくあくびをした。
 「せんせェ、オレさ、風呂入った方がいい?」
 アルベルトが怪訝な表情をする。
 「昼間、汗かいて、気持ち悪いだろう。」
 「でもオレ、自分で全部洗えないよ。」
 右腕のギプスを示して、唇を軽く突き出して見せた。
 「・・・どこが洗えない?」
 「左腕と背中。ずーっとオレ、ねーちゃんに洗ってもらってたからさ。」
 頬骨の辺りを、少しだけ赤らめて、不機嫌な声音で、
 「じゃあ、仕方ないだろう。手伝うから。」
と、アルベルトは言った。
 「じゃオレ、宿題終わったし、風呂入る。」
 「ほんとに終わったのか?」
 点検するように、ジェットのノートを見ると、確かに最後まできちんと終わっていた。
 「そ、残りは数学だけ。」
 何となく、ジェットのペースにはめられているのをいまいましく思いながら、それでもアルベルトは、風呂の準備をするために、バスルームへ向かった。


 用意が出来ると、ジェットは、アルベルトに、濡らさないようにギプスにサランラップを巻かせ、それから着替え
を抱えた。
 「背中の番になったら呼ぶからさ。」
 おどけたように言って、ドアの向こうへ消える。
 水音が聞こえ始めたのを確かめて、アルベルトはまた、読みかけの本に戻った。
 そう言えばと、病院にいた頃のことを思い出す。
 腕を失くして長い間、入浴はいつも誰かの手でさせてもらうものだった。
 腕---正確には、肩、あるいは首の付け根---の切断面の大きさのせいで、感染症を危ぶんだ医者に、普通の入浴は一切禁じられ、もちろんひとりで動けるはずもなかった。
 まともに湯を浴びたのは、事故から一体、どれほど経った頃だったのか。
 看護士ふたりがかりで抱えられ、湯船に入れられ、体を洗われた。裸を見られる---しかも、右腕のない---羞恥で、目も上げられなかったのを覚えている。
 退院してからは、すっかり閉じこもって自堕落な生活になり、利き腕のない不自由さのために、自分の身の回りが清潔だとか、整頓されているとか、そんなことには、一切かまわなくなってしまった。
 ギルモア博士に出会ってからは、あそこにも看護士が出入りして、アルベルトの身の回りの世話を焼いてくれたのだけれど。
 背中を洗ってくれる誰かが身近にいるジェットは、やはり幸せなのだろうと思う。
 もしまた、この機械の右腕を失くすようなことがあれば、今度はジェットに背中を洗ってもらえばいい。自分のそんな想像がおかしくて、アルベルトは、我知らず唇の端を、少しだけ持ち上げていた。
 30分も経たないうちに、ジェットがアルベルトを呼んだ。
 本を置き、両方のシャツの袖を肘までまくり上げながら、アルベルトは小さく深呼吸をして、ようやくバスルームの中へ入った。
 小さな脱衣所には、ジェットの脱いだ服が散らかっていて、バスルームに続くガラスのドアは、湯気で真っ白に曇っている。
 「ちゃんと洗ったのか?」
 疑い深い声で、ドアを開けながら訊くと、白く煙った空間に、ジェットの赤い髪だけがぼんやりと見えた。
 熱気を顔の前で払いながら目を細めると、肩越しに振り返ったジェットが、泡だらけのスポンジを、アルベルトに向かって差し出していた。
 タイルに足を組んで坐り込み、濡れないようにするためか、右腕を宙に持ち上げている。
 ズボンの膝が濡れるのにはもう頓着せず、アルベルトはジェットの後ろにしゃがみ込んだ。
 間近で見ると、思ったよりももっと広い背中だった。
 機械の指が、ジェットの膚に直接触れないように気をつけながら、スポンジを滑らし始める。
 背骨の形がくっきりと浮いた、皮膚の薄い背中。肩甲骨の意外な大きさに、少しばかり驚いて、それから、腰の辺りの細さに、苦笑をもらす。
 大人ではなく、けれど子どもでもないからだ。骨の伸びに、ようやく筋肉が追いつき始め、けれどまだ、戸惑いがちに自分の体を見下ろす、そんな頃。
 それでも掌に、厚い筋肉の形が、しっかりと伝わってくる。
 背中の皮膚の薄さの代わりのように、肩と二の腕の筋肉が厚く、そこだけはもう、すっかり大人の様子だった。
 いつもの軽口もなく、ジェットは静かに、アルベルトに背中と右腕を委ねていた。
 こちらと同じほどには照れているのだろうかと、ふと思う。
 アルベルトもただ黙々と、ジェットの背中を流してやった。
 「髪も、洗う?」
 スポンジを、肩越しにジェットに返し、泡だらけの両手を、バスタブから汲んだ湯ですすぎながら、アルベルトは訊いてみた。
 「いいよ、昨日、ねーちゃんが洗ってくれたから。」
 振り向かずにそう言った、ジェットの頬の辺りが赤らんで見えたのは、こもった熱と湯気のせいだったのだろうか。
 アルベルトはそのまま、何も言わずにバスルームから出て行った。





 覚悟はしていたつもりだったけれど、ジェットに手を引かれた時は、さすがに体が震えた。
 ジェットのすぐ後に入浴をすませ、まだ濡れたままの髪に、ジェットが唇を寄せてきた。それから、ジェットが、上ずった声で、一緒に寝てもいいか、と尋いた。
 ひどく滑稽な質問だったけれど、ジェットの真剣な表情には笑いのかけらもなく、アルベルトも思わず、硬い声でああ、とうなずいた。
 アルベルトの、パジャマのボタンに手を掛けてから、そこで動きを止めて、ジェットは目を伏せたまま、言った。
 「オレさ、初めてなんだ・・・。」
 そう告白しておくのは、礼儀だとでも思っているような、口調だった。
 自分も、事故以来、こんなことは初めてだと言ってやるべきかと思って、やめた。その代わりに、ジェットの首に両腕を回し、髪の生え際に、軽く唇を当てた。
 同じ石鹸の匂いがする。
 こんなに近く、一緒にいるのだと、初めて思う。
 ジェットの両腕が背中に回り、それからふたりは、唇を重ねた。
 ジェットの右腕をかばって、アルベルトは自分でパジャマのボタンを外した。
 ためらった後、ようやく、ジェットのタンクトップの下に、右手を滑り込ませる。
 この腕を、今さら隠す必要もなかったし、この手でジェットに触れるのが、ジェットへの想いの証しのような気がした。
 裸の胸同士が、直接触れた。
 ジェットの膚が、機械の部分の冷たさに、ぴくりと震える。
 それからまた、キスをする。
 暖かな、他人(ひと)のからだ。
 懐かしいものでもあるかのように、アルベルトは、ジェットのあちこちに腕を伸ばした。
 久しぶりに触れる、他人の体だった。
 よけいな遮蔽物を、ぎこちなく互いの体から剥ぎ取った頃には、ジェットはもうとっくに昂ぶっていて、切なそうに湿った息が、アルベルトの頬に触れた。
 ギプスの右腕が、いっそうジェットの動きをぎこちなくするのか、思うようにならないのに焦れて、ジェットが軽く舌を打つ。
 アルベルトは、それをなだめるように、優しくジェットの髪をすいた。
 ただこうして、体を重ねているだけで良かった。
 それだけで、不思議なほど暖かな、穏やかな気持ちになれる。
 「せんせェ・・・」
 首筋に、息がかかる。
 それから、ジェットの指が、腿の内側に触れた。
 ふ、と息を吐いて、思わず体を硬張らせる。
 ジェットの、潤んだ瞳が見えた。
 両手を、こめかみの辺りから髪に差し入れ、引き寄せて、瞼に口づけた。
 ジェットの頬が、熱い。
 アルベルトの左の掌に、熱い息を吹きかけながら、ジェットが訊いた。
 「・・・オレ、入れてもいい・・・?」
 ずいぶん直接的な尋き方だと、喉の奥で苦笑をもらす。
 ジェットの下から体を抜き出すと、アルベルトは、ベッドサイドの小さな引き出しから、それを取り出した。
 ジェットの前に差し出すと、指でつまみながら、ジェットが怪訝な顔をする。
 「何だかわからないって言ったら、今すぐベッドから追い出してやる。」
 「わかるけど・・・でもこれ、オレ、着け方、よくわかんないよ。」
 情けない声でそう言ったついでに、右腕のギプスを目線で示す。
 世話の焼ける、と思いながら、仕方なく、アルベルトは自分で包装を破って、薄いブルーのコンドームを取り出した。
 ジェットに体を寄せ、それから、手探りで手を伸ばす。
 こんなことは、リハビリにはなかったなと、首筋が染まるほど恥ずかしいのに知らんふりするために、そんなことを考えた。
 指先に触れる、ジェットの形に、少しばかり躯がすくむ。
 今度ゆっくり、機会とそれだけの度胸があったら、きちんと性教育をしてやろうと、頭の隅で思う。
 ジェットの心臓の音が、聞こえそうだった。
 「これでいいの?」
 アルベルトが手を離すと、下を見て、ジェットが言った。
 ちょっと待って、とアルベルトはまた、引き出しに手を伸ばした。
 ジェットの準備はできたけれど、アルベルトの方に、まだ支度が残っている。
 女じゃないから。
 小さく、ジェットには聞こえない声でつぶやいて、アルベルトは、取り出した白いチューブの中身を、掌に出した。
 勉強は教えることができても、こんなことは、教えようにもアルベルトにも経験がない。これからふたりで学ぶことがいろいろありそうだと、何だか、コメディめいて思う。
 ジェットの目の前で、誰にも触れさせたこともなければ、自分でも触れたことのない場所へ、そっと、ぬるぬるする潤滑剤を塗りつけた。何とも言えない感触に、肩が震えた。
 「頼むから、あんまり無理しないでくれよ。」
 うなずくジェットを促して、アルベルトは目を閉じた。
 開いた両脚の間に、ジェットが滑り込んでくる。
 触れて、けれどうまく方向が定まらないのか、ジェットが動くたびに、躯が遠くなる。
 もう少し脚を開いて、それから、アルベルトはジェットに手を伸ばした。
 腰を持ち上げて、指先に触れるジェットを、そっと導いた。
 ジェットが、躯を押し込んでくる。
 思わず、唇を噛んだ。
 その唇の間から、それでも殺しきれずに、声がもれる。
 もっと躯を進めようとするジェットの肩を叩いて、アルベルトはそれを止めさせた。
 「う、ごく、な。」
 呼吸をするだけで、背骨に響く。細く息を吐きながら、アルベルトは眉を寄せた。
 そんなところで止められて、つらいのか、ジェットも唇を噛んでいた。
 痛みに耐えようとすれば、自然にジェットの膚に指が食い込む。右手を外し、アルベルトは自分の唇を覆った。
 「せんせェ、痛い?」
 当たり前だろうと、できるなら怒鳴ってやりたかった。もちろん、そんなことをすれば、もっと痛みがひどくなる。代わりに機械の指を噛んで、八つ当たりをした。
 不意に、ジェットが躯を引いた。
 いきなり痛みの元が消えて、
 「ジェット?」
 間の抜けた声で呼んだ。
 うつむいたままのジェットが、
 「やめよ、せんせェ。」
 アルベルトの両脚の間で、肩をすぼめていた。
 「今日はやめよ。せんせェのそんな顔見てたら、オレ、なんか、ムリっぽい。」
 体を起こして、実のところ、助かった、と思いながら、
 「いいのか、やめても?」
 アルベルトは訊いた。
 「今度さ、また、ゆっくり・・・せんせェに痛い思いさせるの、ヤダもん、オレ。」
 次がいつになろうと、痛みについてはどうしようもないだろうと思いながら、それでも、今痛い思いをせずにすむのは、心の底からありがたかった。
 無理をすれば、明日、歩くこともままならないかもしれなかったので。
 男と寝ると言うことを、甘く考えていたことを、今アルベルトは思い知っていた。
 目の前で背中を丸めているジェットに、ふと愛しさがわく。
 こちらに対する気遣いは、つまりは想いの深さだとわかるから、それに感謝を示すために、アルベルトはジェットを抱きしめた。
 赤い髪を、胸に抱え込んで、撫でた。
 「その代わり、ここで、せんせェと一緒に寝てもいい?」
 アルベルトの鎖骨の辺りに、額をこすりつけながら、ジェットが尋いた。 
 返事の代わりに、ジェットの額にキスをして、自分は恋をしていると、アルベルトは胸の奥で呟いた。