ここからふたりではじめよう


16) 風邪

 夏休みも終わり、9月の終わりにはジェットのギプスも取れ、すでに10月も半ばになろうとしていた。
 珍しいことに、午前中、アルベルトの姿が見当たらず、昼休みに、さり気なく職員室まで偵察に行ってみれば、成果は空っぽの机だけで、居場所を誰かに訊くのもためらわれて、ジェットはうろうろと、アルベルトを探して校内をうろついた。
 姿の見えない理由がわかったのは、6時限目の国語の時間---アルベルトが現れるはずの---で、いきなり教室に入って来た学年主任の、もうひとりの国語教師が、アルベルトは病気で今日は休みだと、クラスに告げた。
 「で、おまえら、最後の授業は、どこまでやったんだ?」
 ピュンマが立ち上がって説明するのを、横目で見ながら、ジェットは上の空だった。
 昨日は、学校の外では会わなかったけれど、電話で話をした。その時は、別に気分が悪そうな気配もなく、じゃあ明日、と言って電話を切った。
 原因が何だろうと、気分が悪くなったのは、夕べ遅くか、今朝に違いなかった。
 腕がどうかしたのかな。
 最初に頭に浮かんだのは、何か右腕に不具合でも起こったのか、ということだった。
 アルベルトの声とは似ても似つかない、およそ音楽的とは言い難い、教壇からの声を、右から左に聞き流しながら、ジェットはふと、合鍵のことを思い出す。
 夏休みが始まる前に、アルベルトから受け取って、今まで使う機会のなかった、銀色の鍵。
 せんせェ、もしいなくても、ドア開けて、中入って待ってりゃいいんだもんな。
 もしかすると、どこかの病院の待合室で、自分の番を待っているかもしれないアルベルトの姿を思い浮かべて、矢も盾もたまらず、会いたくなる。
 どこかの病院へ行ったとしても、夕方遅くには帰って来るに違いない。
 気分悪くて、車の運転、できるのかなあ。
 オレ、やっぱ、早く免許取ろう。
 そしたら、なんかの時に、オレが運転できるし。
 せんせェ、運転したくない時もあるだろうし。
 せんせェに運転、教えてもらえるし。
 せんせェと、遠出して、オレが半分運転できるし。
 そしたら、すげぇ遠くまで行けるし。
 ふたりで。
 際限なく、そんなことを頭の隅で考えていると、ピュンマが、ジェットの肩をつついた。
 「ジェット、先生が呼んでる。ジェット?」
 ふと我に返って正面を見ると、見慣れない顔が、ジェットをにらんでいた。
 「68ページの3行目から。聞こえたか?」
 慌てて言われたページを探して、立ち上がって音読を始める。
 本の影で、ジェットは、言葉の切れ目に、こっそり教壇に向かって、あかんべーをした。
 ピュンマがそれを見て、笑いを噛み殺すのに苦労していた。
 アルベルトのいない教室は、いつもより空っぽのような気がした。


 全国大会優勝という、誇らしい結果を残して、3年生はすでに引退していたけれど、何人かはまだ、練習に顔を出していた。
 ほとんどが推薦で大学入学の決まっている生徒で、受験に差し障りがない限り、顧問もうるさいことは言わず、むしろ、2年生と1年生だけのチームの戦力増強のために、引退した3年生が練習に参加するのを、歓迎している節さえある。
 ジェットはもちろん、そのひとりで、ギプスをはめていた1ヶ月の間に、落ちてしまった筋肉を取り戻すために、練習そのものよりも、今は筋力トレーニングに力を入れていた。
 けれど今日は、最後の授業が終わると同時に、誰よりも早く教室を飛び出した。
 「今日はオレ、帰るって言っといてくれよ。」
 ピュンマにそれだけ言って、ジェットは後ろも振り返らなかった。
 学校から、ひとりでアルベルトの家へ行くのは、久しぶりだった。
 いつもなら、車で一緒に帰ってしまうし、ひとりで行くのは、いつも自分の家からだったので。
 すっかり日が短くなったとは言え、学校が終わったばかりの時間、空はまだ明るく、こんな時間に、制服のままで外を歩いているのも、ジェットには珍しいことだった。
 駅からの道を、まるで駆けるようにアルベルトのマンションへ足を運び、いつものように、駐車場に、車があるかどうかを先に確かめた。
 黒のヴォルクスワーゲンは、いつものようにそこにあり、持ち主が部屋にいることを示している。
 部屋で気を失っていたらどうしようと、何の脈絡もない、ろくでもない考えが頭をもたげる。
 階段を2段飛ばしで駆け上がってみると、ドアの鍵は閉まったままだった。
 運転できずに、車を呼んで病院にでも行ったのかもしれない。そう思いながら、初めて合鍵を使って、ドアを開けた。
 「せんせェ?」
 遠慮はせず、それでも足音を忍ばせて、キッチンをのぞいた。
 リビングにも人の気配はなく、バスルームからも、何の物音もしない。
 玄関から2番目のドアが、アルベルトの寝室だった。そこに入っていいものかどうか、一瞬考えた後、オレとせんせェの仲だし、と言い訳を自分にして、さらに足音を消して、ドアの近くへ寄った。
 「せんせェ?」
 ドアに向かって、もう少し大きな声を掛けると、ドアの向こうから、アルベルトの声がようやく聞こえる。
 「せんせェ、寝てるの?」
 ドアを、うっすらと開け、中をうかがう。
 カーテンを引かない窓からの光で、部屋の中は明るかった。
 「ジェット?」
 ベッドから肩先を起こして、アルベルトがこちらを見ていた。
 ドアを開けたことを叱られなかったのに気を良くして、ジェットは部屋の中に滑り込んだ。
 「せんせェ、病気だって言われたからさ。」
 「ただの風邪だよ、大したことない。」
 そう言いながら、いかにもだるそうに、またベッドに体を倒す。寝乱れた髪が、頬や額に散っていた。目の周りが赤く、そのくせ、頬の辺りに血の色が薄い。
 ジェットは、ベッドの傍に坐り込むと、アルベルトの額に、掌を乗せた。
 「熱いよ、せんせェ。薬、飲んだ?」
 ああ、とかすれた声で、アルベルトが返事をする。
 こんな時は、誰でもいつもより、小さく稚く見える。アルベルトも、例外ではない。
 「病院は?」
 「それほど大袈裟じゃない。」
 「オレ、一緒に行ってもいいよ。」
 アルベルトが、目を開いて、ジェットを上目に見た。ふと、口元が、微笑んだように見えた。
 「心配しなくていい。さっき飲んだ薬が、じきに効いてくるから。そしたら、熱も下がる。」
 ジェットは、下唇を、少しだけ噛んだ。
 ジェットの心配そうな表情を見て、アルベルトがまた、今度ははっきりと微笑んで見せる。
 「おとなしく寝てれば治る。大丈夫だから。」
 安心させるように、そう言った。
 ジェットは、額の置いたままの掌を、少しだけ髪の生え際へ滑らせた。
 汗で湿って、いつもより柔らかい感触の、銀色の髪。いつもは隠れている額を出して、ジェットはその広い、今は熱い額に、すいと唇を落とした。
 熱のこもった皮膚に、ひんやりと乾いた、唇の感触。
 驚くよりも、その冷たさが気持ち良くて、アルベルトは思わず目を閉じて、ジェットの唇がそこにしばらくとどまってくれることを、こっそりと願う。
 「病気の時に、ひとりじゃないなんて、珍しい。」
 ひどく近い距離で自分を見下ろしているジェットに、ふと、そんなことを言ってみた。
 え、とジェットは、少しだけ眉を寄せる。
 「病気の時によくわかる、自分が、ひとりか、ひとりじゃないか。」
 笑いにまぎらわせても、冗談でないのは明らかだった。
 いつもより、気弱になっている時に、周囲に誰もいないのは、淋しいに決まっている。こんなふうに、弱った体で、ただ静かに、回復のために、ひとりで横たわっている。
 たった20で---今のジェットより、ほんの3年年上なだけ---、家族と恋人と、そして右腕を失って、どんなに心細かったのだろうと、ジェットは思う。
 ジェットはまた、アルベルトの額に掌を乗せた。
 「せんせェ、ひとりじゃないよ。」
 優しい、柔らかい声で言ってみた。アルベルトが、それを信じてくれることを、心のどこかで祈りながら。
 しばらくの間の後、ああ、そうだな、と小さな声でアルベルトが言った。
 薬が効いてきたのか、目を開けている時間が短くなる。
 微睡み始めたアルベルトに、ジェットは不意に思いついて、言った。
 「せんせェ、ちょっとあっち寄って。」
 立ち上がりながら、学生服の上着を脱ぎ、毛布の端を持ち上げる。
 なんだ、とアルベルトが、薄目のままジェットを見上げた。
 「オレも一緒に寝る。」
 短く言って、薬のせいか熱のせいか、状況把握のうまく行かないアルベルトの傍に、するりと滑り込む。
 「なんにもしないよ。病気のせんせェ襲うほど、オレ飢えてないもん。」
 薬のせいの眠気で、ぼんやりとしたまま、アルベルトは言われた通りにジェットのために場所を空け、それから、くるりとジェットに背を向けた。
 ジェットの目の前で、見る間に眠りに落ち込んでゆく。
 無防備な、寝顔。
 肩越しに腕を伸ばし、ジェットは、アルベルトの機械の手に触れた。
 そのまま、アルベルトの熱い背中に胸を重ね、自分も目を閉じる。
 眠れるとは思わなかったけれど、アルベルトを守っているような、そんな気分にひたってみたかった。
 ひとつの枕の端と端に、ふたつの頭が並ぶ。銀色の髪と、赤い髪。
 寝息を聞きながら、アルベルトの腰に腕を回し、ジェットは、アルベルトを起こさないようにしながら、その髪に顔を埋めた。


 アルベルトが起き出してきたのは、もう、9時近くなった頃だった。
 まだ体はふらついていたけれど、目元の赤みは消え、頬にも血の気が戻って見えた。
 「せんせェ、起きたの?」
 「まだいたのか?」
 ジェットは、外が暗くなる頃に、短い眠りから覚め、アルベルトを待つ間に、ひとりで勉強をしていた。
 「どうせ、宿題あったし。」
 アルベルトは、キッチンの、ジェットの目の前に椅子に腰を下ろした。
 「何か、食べたのか?」
 シンクの方を振り返りながら訊く。
 「うん、勝手にサンドイッチ作ったから。せんせェ、腹へってない?」
 まだ少しだるそうに、ジェットの質問に、首を振って答える。
 ジェットは、テーブルの上の教科書やノートを片付けながら、
 「じゃあさ、オレ、紅茶いれようか?」
 ジェットが、大きな笑顔で言う。 
 食欲はない。けれど、ミルクのたっぷり入った暖かい紅茶なら、喉を通りそうだった。
 ああ、とそれに、アルベルトが薄い笑顔で答えると、ジェットは、張り切った動作で紅茶を入れる準備を始めた。
 いつもアルベルトがやっている通りに、薬缶に湯を沸かし、その間に、ポットに紅茶の葉を入れる。
 後ろで、アルベルトが笑ったのが聞こえた。
 「なに、せんせェ?」
 振り向くと、テーブルにひじをついて、掌にあごを乗せているアルベルトが、おかしそうにジェットを見ていた。
 「いや、いつもと逆だと思って。」
 「言ったじゃん、せんせェ、ひとり暮らしするなら、まず家事習えって。」
 ひょろりとした長身は、こんなマンションの小さなキッチンでは、いかにもそぐわなく、あちこちに頭をぶつけるジェットを想像して、アルベルトはひとりでおかしがった。
 「オレだって、せんせェがやれって言ったら、なんでもするよォ。」
 子どもっぽい口調で、ジェットが唇を突き出して見せる。
 沸いた湯を、ボットにゆっくりと注いで、ふわりと葉が開くのを、下目に見る。紅茶の強い香りが、鼻先に立った。
 「じゃあ、とにかく無事に卒業して、大学に入ってくれ。落第なんかせずに。」
 からかうように、アルベルトが言った。
 ミルクをたっぷりと注いで、マグをアルベルトに差し出しながら、ジェットは、今日は2度目のあかんべーをする。
 それをまた笑って、アルベルトは、熱い紅茶に唇を寄せた。
 「明日は、学校来れそう?」
 「そう願いたいな。」
 「明日もせんせェ休みだったら、また、オレ来るからさ。」
 「・・・一緒に寝るのは勘弁してくれよ。」
 「オレ、なんにもしなかったよォ。」
 誉めてくれてもいいはずだと言わんばかりにジェットが言う。 
 アルベルトは、赤くなる頬を、うつむいて隠しながら、
 「・・・風邪がうつるだろう。」
と、間を置いてから、それだけ言った。
 ジェットはそれ以上は反駁もせず、アルベルトと向き合って、自分のいれた紅茶を飲んだ。
 時計をちらりと見ると、もう10時になるのだと気づいて、重い腰を上げなければならないのに、億劫な気分になる。遅くなる言い訳はいくらでもあるけれど、外泊の言い訳は、もちろん思いつけなかった。アルベルトを説得できる自信は、さらにない。
 聞こえないように舌を鳴らして、それから、そろそろ帰るから、とジェットは言った。
 「ああ、そうだな、もう遅いから。」
 今日は、引き止める様子もなく、アルベルトがあっさりと相槌を打つ。
 「送っていけなくて・・・」
 悪い、とアルベルトが言う前に、
 「大丈夫だよ、11時前には家に着くし。」
と、ジェットは語尾を引き取った。 
 空になったマグカップを、シンクまで運び、ジェットは、椅子に坐っているアルベルトの方へ、軽く上体を傾けた。
 「熱は?」
 「気分は、悪くない。」
 いつも、フランソワーズが、病気の時にそうするように、ジェットはアルベルトの頬に手を添えると、その額に、自分の額を触れ合わせた。
 こつんと、小さな音が、互いの骨に響く。
 アルベルトが、ジェットの手に、機械の掌を重ねた。
 言っていいものかどうか、珍しく迷った後、ジェットは、鼻先の触れ合いそうな距離で、アルベルトに言った。
 「せんせェ、ひとりじゃないよ。」
 アルベルトが、まるで、花びらが散り落ちるように、まぶたを落とした。
 睫毛が震えるのが、はっきりと見えた。
 ゆっくりとまぶたがまた持ち上がり、ほとんど距離のない間隔でジェットと見つめ合ったまま、しっかりとした声で、アルベルトが言った。
 「ああ、そうだな。」
 額の骨を通して、声が耳に届く。
 ゆっくりと、また距離を生み出しながら、ジェットは笑った。
 「せんせェ、またあした。」
 節をつけて、歌うようにジェットはそう言った。