ここからふたりではじめよう


18) 約束

 1月31日、金曜日、夜。

 ジェットは自分の部屋で、電話をしていた。
 「明日だよー、せんせェ。」
 弾んだ声で言うジェットに、電話の向こうから、低い声が返って来る。
 「ちゃんとお姉さんには言ったのか?」
 「言ったよォ、友達んとこ泊まりに行くって。電話番号まで渡してさ。」
 「電話番号? 誰の?」
 「せんせェの。」
 受話器の奥で、アルベルトが眉を寄せた気配があった。
 「友達は、ちょっと無理がないか?」
 「違うよォ、せんせェは、オレの友達のおにーさん。」
 こほん、と咳払いの小さな音が響く。それから、
 「まあ、それなら、いいのか。」
と、ひどく照れくさそうなアルベルトの声が続く。
 「オレ、訊こうと思ってたんだけどさ。」
 「何を?」
 今度はジェットが、ごほんと軽く咳をした。
 「アレってさ、使用期限とか、あるの?」
 「あれ?」
 「だって、夏休みだったじゃん、あの時。」
 「何の話だ?」
 ジェットの指す、あれ、がわからなくて、アルベルトが少し声をとがらせた。
 「・・・コンドーム。」
 受話器の口元を手で覆い、声を低めて、ジェットはようやくその単語を口にする。
 案の定、あちら側で、アルベルトが顔を真っ赤にしているらしかった。
 「まだ使えるかどうか、オレ知らないからさ・・・それともせんせェ、全部使っちゃった?」
 いきなり、硬い大きな声が、鼓膜が震えるほど強く、こちらに渡ってきた。
 「一体、どうやって、あんなものを、あれ以来、いつ使う機会があったのか、教えてくれないか?」
 「冗談だよ、せんせェ、怒んないでよ。」
 慌てて、ジェットが必死に笑いながら、アルベルトをなだめにかかる。
 「あんまりオイタが過ぎると、明日の約束、キャンセルするぞ。」
 「ごめんてば、せんせェ。冗談だってば。」
 アルベルトが頭を抱え込んでいるのが、目に見えるようだった。
 「だって、オレ、新しいの、買ってった方がいいかなって、そう思ったから。」
 真面目な声で、ジェットは言った。
 言い訳ではなく、それはほんとうだった。
 思いもかけないことを、ジェットが言ったせいなのか、アルベルトが、息を止めた音が、小さく聞こえた。
 ほんの数秒、黙り込んでから、またアルベルトは、いつもの調子を無理に保とうとしているのが、明らかな声の高さで、そんなこと、と言った。
 「未成年が、あんなもの、買いに行かなくてもいい。そういうことは、大人の役目だ。」
 「オレだって、18になるんだよ。」
 「まだ17だろう。」
 それ以上は反駁もせず、ジェットは、はいはいと軽い調子で、アルベルトに合意したふりをする。
 アルベルトが、話題を、少しだけ変えた。
 「明日は、学校から直接来るのか? だったら一緒に帰ればいいだろう。」
 「ううん、一回家帰るよ。制服だと、メンドくさいし。」
 「宿題、忘れないように。」
 素早く付け加えたアルベルトに、ジェットがさらに素速く口応えする。
 「せんせェ、あのさあ、オレ、誕生日なんだよ。勉強もいいけどさ、恋人のせんせェん家に、泊まりに行くのに、宿題とかって、忘れようよ。」
 「受験生が何を言う。」
 「オレ、推薦決まってるもんね。」
 「へらず口はいい。宿題持って来なかったら、すぐに家に送り返す。」
 「せんせェ、横暴。」
 「それでもいいって言ってるのは、君だろう。」
 うっ、とジェットが思わず言葉に詰まると、アルベルトが、向こう側で、低く笑った。
 「せんせェ、ずるいよ。」
 「大人の特権だ。」
 くくっと、ジェットは喉の奥で笑った。
 「まあいいや、明日ね、せんせェ。」
 ああ、と言ってから、電話は向こうから切れた。もうすぐ、金曜日も、終わろうとしていた。


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 2月1日、土曜日。夜のいつか。

 他にはもう、することもない。
 ジェットは言われた通り、きちんと宿題をすませたし、紅茶も、さっきついに、飲み終わってしまった。
 空になったマグを、ゆっくりと洗う。
 水音を聞きながら、アルベルトは、ひどく静かな自分の中を、のぞき込んでいた。
 ジェットが、足音を忍ばせて、いつの間にか後ろに立っていた。
 不意に両腕を腰に回され、アルベルトは、飛び上がるほど驚いた。
 「せんせェ・・・。」
 そんなアルベルトをなだめるように、ジェットが耳元に唇を寄せる。
 それに誘われたように、アルベルトは、ジェットの肩に頭を預けた。
 広い、見た目よりもずっと厚い、肩。少年のきゃしゃさはもう消え、そこにあるのは、自分と変わらない、確実に硬い、大人の体。アルベルトは、目を閉じて、額をこすりつけた。
 その拍子に、意図せずに開いた首筋に、ジェットが唇を滑らせる。
 ふと、体が震えた。
 腰に回ったジェットの両腕に、自分の手を添える。
 長い腕。服を着ているとそうは見えないけれど、厚く筋肉に覆われた、腕。その硬さを、シャツ越しに感じながら、アルベルトはゆるゆると唇を開いた。
 首をねじり、ジェットの唇を探す。
 頬に指を添えると、促すまでもなく、ジェットの唇が重なってくる。
 乾いた唇の間に、呼吸が通う。おずおずと舌先が動き、伸びる。少しずつ湿りを帯びる、赤い皮膚の境で、ふたりは濡れた音を聴いた。
 首を不自然に伸ばしたままでいるのに疲れ、アルベルトは、ジェットの腕の中で、体を反転させた。
 正面から抱きしめられて、また、背が伸びたのだと気づく。肩越しにはもう、何も見えなくなっている。以前はこうして向き合っても、向こうの風景が見えたのに。
 また首を伸ばし、唇に触れた。
 ごく自然に、両腕を、ジェットの首に巻きつける。伸び上がり、胸を合わせ、まるでジェットを自分の方へ引き寄せるようにしながら、アルベルトは、外の世界のこと、今、この瞬間、この、今ふたりが抱き合っている場所以外のすべてを、忘れてしまおうとした。
 過去も、現在も、未来も、何も捕らわれる必要はないのだと、自分に言い聞かせる。
 失った腕も、時間も、夢も、家族も、恋人も、希望も、今この時とは関係ないのだと、何故かそう思える。
 自分が教師であることも、ジェットが生徒であることも、人に知れれば、それなりに後ろ指を差されるだろうふたりの関係も、今はどうでもよかった。ただ確かなのは、ふたりがここにいて、もう少し深く結びつくために、長い時間の後、ようやく互いを受け入れようとしている、ということだけだった。
 ジェットの頬が、上気している。濡れた唇を拭って、切なそうにアルベルトを見つめた。
 「せんせェ、ベッド、行こ。」
 あんまり切望した声に、アルベルトは思わずうっすらと苦笑をもらす。
 出逢ってから、もうすぐ10ヶ月になろうとしているのだと、アルベルトは突然気づいて、また少しだけ笑った。


 「オレ、もうすぐ17じゃなくなっちゃうよ。」
 アルベルトのシャツを脱がしながら、ジェットが、ひどく切羽詰まった声で言った。
 「それがどうした? うれしくないのか、18になるのが。」
 未成年、とジェットの年齢のことを、アルベルトが口にするたびに、ジェットはいつも悔しそうな表情を見せた。だから、18になれるのは、そう言われることがなくなるということのはずなのに、ジェットの顔には、うれしそうな色など、今はどこにもなかった。
 「オレ、だって、17でせんせェと出逢ったから、できたら、17のままで、せんせェとこういうことしたいんだもん。」
 ふと眉を寄せてから、それでも、そういうこだわりもあるのかと、アルベルトはまたおかしくなった。子どもっぽい考え方だと呆れるべきなのか、それとも、直情径行な、詩心のまったくないジェットにしては、センスのいいこだわりだと、誉めてやるべきなのか。
 ジェットが、口をつぐんだ。
 アルベルトも、黙って下着から、脚を抜いた。
 手首の、ミサンガだけを残した全裸で向き合って、先に目をそらしたのは、やはりアルベルトの方だった。
 明かりはもちろんないけれど、それでも、この腕を見られるのには抵抗がある。
 夏の時に、ジェットは一言も右腕のことには触れなかったけれど、その後も、一体自分のこの体のことをどう思っているのか、恐くて問い質せなかった。
 ジェットが、するりと、両手を、アルベルトの両手に合わせてきた。
 それから、いちばん最初に、アルベルトの右肩の、金属と膚の接ぎ目に、そっと唇を当てる。
 不意に、熱い塊が、喉元に、突き上げてくるような気がした。大声で、泣き出してしまいたいと、そう思った。
 この腕を含めて、ジェットはアルベルトを好きだと言ってくれているのだと、初めて実感する。今まで、事故の後に出逢った誰よりも、何故なのか、このもうすぐ18になる少年は、アルベルトを何の障害もなく、受け入れてくれようとする。若さゆえなのか、恐いもの知らずなだけなのか、それともほんとうに、それだけの力があるからなのか。
 まだ、何もわからない。
 ただ今は、自分が受け入れられただけ、彼を受け止めようと、思う。何も考えずに、受け止められるだけを、受け止めようと、思う。
 シーツが、背中に冷たい。
 ひんやりとしたその感触とは裏腹に、皮膚の内側は、ふたりとも、もう熱い。
 ジェットに、右腕ではなるべく触れまいとする気遣いを、アルベルトはいつの間にか忘れていた。
 思っていたよりもゆっくりと、ジェットがアルベルトに触れる。
 人のからだ。自分と似ている、けれど違うからだ。皮膚の色も、骨の太さも、筋肉の厚さも硬さも、肩の広さも、腕の長さも、ひとつびとつがそれぞれ違う。別々のからだを重ねて、まるでひとつに混じり合わせようとするように、ふたりは膚をこすり合わせる。
 ジェットの体を、暖かいと、アルベルトは思った。
 首筋に触れると、血の流れる音が、指先に伝わる。
 アルベルトは、また、ジェットの唇に触れた。
 ジェットが、咬みつくように唇を重ねてくる。舌先を軽く噛まれて、思わず背中が浮いた。
 そのすき間に、ジェットが素早く腕を差し入れた。
 促されて、ジェットの首に両腕を巻くと、ジェットの腕が、背中と腰を支えて、ベッドからアルベルトを抱き上げにかかる。
 何をする気かと思いながら、けれど逆らいもせずにジェットの動きに従うと、坐った形で、ジェットと向かい合う羽目になった。
 「せんせェ、あれ、ある? あの、チューブのヤツ。」
 ああ、と言って、体をねじって、ベッドサイドの引き出しに手を伸ばした。夏以来、触れたことさえないそれは、まだほとんど手つかずのまま、そこにあった。
 ジェットは、手渡された白いチューブの中身を、掌に出すと、軽くアルベルトの腕を引っ張った。
 「せんせェ、上になって。」
 「上?」
 戸惑う間もなく、ジェットに引かれて、ジェットの上に覆いかぶさる姿勢になると、体を持ち上げようとする前に、するりとジェットが、後ろに手を伸ばした。
 腿の内側に、ジェットの右手首の、ミサンガが滑る。それから、何か濡れたような感触が、もっと敏感な、膚の奥に触れる。
 あ、と声をもらして、アルベルトは思わず喉を反らした。
 「なるべく、痛くないようにするから・・・。」 
 どういう意味かと、問い返す前に、ぬるりと、ジェットの指先がもぐり込んできた。
 両手を添えて、ジェットがゆっくりと、アルベルトの躯を開きにかかる。
 潤滑剤のせいで、痛みはまだない。それでも異物感に、肩が跳ねた。
 ジェットの両肩の辺りに突っ張らせた両腕が、背中を駆け上がってくる感覚に、がくがくと震える。声を出さないだけで、精一杯だった。
 次第に、指が深くなる。入り込んでは、ゆっくりと引いてゆく。内側の粘膜に、ジェットの指を感じるたびに、アルベルトは膚を粟立てた。
 「力、抜いて、せんせェ。」
 指を動かしながら、ジェットが言う。声をもらさないのに必死で、無茶を言うなと、悪態をつく余力もなかった。
 ジェットの頭を抱え込んで、ベッドに額を落とすと、アルベルトはシーツを噛んだ。
 ジェットの上で、足を開いて、もっと高く腰を持ち上げる形になったけれど、そんなことにもかまっていられなかった。
 ジェットが、撫でるように触れてから、別の指を、一緒に入り込ませた。
 声を、上げた。恐らく、自分で思ったよりも、高く。
 痛いかとは、もうジェットも訊かない。痛いと答えられても、今夜はここで止める気はなかった。
 頭を少しだけ持ち上げて、ジェットは、目の前にある、アルベルトの首筋に口づけた。耳を、軽く唇ではさむと、驚くほど甘く、アルベルトが吐息をもらした。
 躯の内側に触れられて、全身が敏感になっているのだと、ジェットにわかるほずもない。アルベルト自身も、そんなことに気づいている様子もなかった。
 「ダメだ、オレ、もう。」
 投げ出すように、ジェットが呟いた。
 指が外され、やっと少し楽になった体が、仰向けにベッドに放り出される。
 ジェットがごそごそと、ベッドサイドに手を伸ばしているのが見えた。
 開いた脚の間に、改めてジェットが覆いかぶさってくる。
 いつの間に、そんなに手際が良くなったのか、また新しい潤滑剤が、触れるのを感じた。
 入り込んでくる前に、ジェットの掌が、アルベルトの下腹に伸びる。
 感じていたのが痛みだけではない証拠が、ジェットの掌の中に、脈打っていた。
 生身の掌。自分の熱を包み込む、ほんものの皮膚の感触に、アルベルトは思わず腰を浮かせた。
 それを狙ったように、ジェットが、入り込んでくる。
 押し開かれる感覚と、侵入される感覚。痛みもあったけれど、以前ほどでは、確かになかった。
 それでも、そう簡単に進めるわけもなく、ジェットは何度か躯を引いて、そのたびにもっと深く繋がろうと、必死に肩を揺らしていた。
 顔を横に向けて、アルベルトは指を噛んだ。
 ジェットに触れれば、指先を食い込ませて、痕を残してしまいそうだったので。
 「すげ・・・入った。」
 感嘆したジェットの声が、かすれている。もう少しましな言い方はないのかと、心の中で毒づいて、アルベルトはいっそう強く目を閉じる。
 ジェットの息遣いに、さらに熱がこもった。
 体を倒し、ぎこちなく動き始める。
 こすり合わせる部分が、次第に熱を帯びて、痛みだけではない、別の何かを運んでこようとしていた。
 「ジェ・・・・・・・ト。」
 息苦しく、アルベルトは思わず、ジェットの名を口にしていた。
 数回、ジェットがさらに強く躯を押しつけてきて、それから、まるで全身の骨を抜かれでもしたように、一気に体の重みを、アルベルトの上に落としてきた。
 全力疾走の直後のように、不規則に速い呼吸を、無理に整えようとしながら、それでもアルベルトの上から、動けずにいる。
 ようやく体を少しだけ浮かせて、ジェットは、アルベルトから躯を外した。
 ジェットが、自分の中から去る感触に、少しだけ肩先を震わせて、アルベルトはようやく、大きく息を吐き出した。
 ジェットの髪に、指先をもぐり込ませる。自分の上で、すっかり弛緩してしまった大きな体を、アルベルトはひどく愛しいと感じた。
 躯を繋げた感触が、まだ奥深くに残っている。
 痛みだけだと思っていたのに、それでも、ジェットの助けも借りずに、アルベルトはひとりで昇りつめてしまっていた。こんなふうに他人に触れたのも、触れられたのも、事故以来なせいだろうと、自分の反応に、思わず苦笑がもれる。
 アルベルトの下腹に残ったそれは、ジェットの体も汚しているに違いなかった。
 シャワーを浴びた方がいいかなと思いながら、明日の朝、無事に動けるだろうかと、現実的な心配が、軽く心をよぎる。けれど、明日の心配は明日にしようと、アルベルトはそれを頭の隅に押しやった。
 「せんせェ・・・」
 いつもより、ひときわ甘えた声で、ジェットが上目にアルベルトを見た。
 アルベルトの首筋に、鼻先をこすりつけながら、ジェットは腕を伸ばして、アルベルトの右手に、自分の掌を重ねた。
 「17のオレ、バイバイ。18のオレ、大人の世界へようこそ。」
 アルベルトが最初に笑い出し、ジェットが、それに声を揃えた。
 ふたりで、ベッドに体を投げ出したまま、笑い続けた。
 「大人って言うんなら、頼むから、誕生日って漢字くらい、書けるようになってくれよ。」
 「ちゃんと辞書で調べて、練習したもんね、オレ。」
 いばった口調で、ジェットが言う。
 わかったわかった、とあしらうように言って、アルベルトはまたジェットの髪を撫でた。
 あまり馴染みのない疲れが、ゆるゆると、ふたりの体の中を満たし始めていた。
 眠ってしまうのは、なぜだか惜しいような気がするのに、それでも他人の体温を、こんなふうに身近に感じて、心地良い疲労とぬくもりが、柔らかくふたりを包み込む。
 誕生日おめでとうと、アルベルトは、もうすっかり閉じてしまったジェットのまぶたに向かって、小さく囁いた。それから、ジェットの髪に触れたまま、ゆっくりと目を閉じた。
 2月2日に、日付が変わろうとしていた。