ここからふたりではじめよう
19) 卒業
いつもより丁寧に、ネクタイを結んだ。
いつもより丁寧に、髪をとかし、背広の肩の線のずれを、注意深く直した。
いつもより丁寧に、手袋の手首の部分をしっかりと添わせ、きちんと袖で隠した。
いい天気で良かったと、窓の外をちらりと見て、思う。
何とか、くびにもならず、ろくでもない不祥事もなく、ようやく教師としての最初の1年が、終わろうとしている。すでに来年の担当学年を打診され、今日は、その返事をする日でもあった。
1年かと、ひとりごちる。
不思議なことに、教師を辞めようとか、自分には合わないと、思ったことは一度もなかった。まるで流れるように過ぎてしまった11ヶ月が、信じられないほどの短さで、かたわらを通り抜けて行った。振り向いた時にはもう、次の春がそこに来ている。
こうやって、教師としての時間を重ねて、いずれは年を取り、停年ということを、静かに考えるようになるのだろうかと、アルベルトは笑いを込めて、ふと思う。
先は長いように思うのに、この調子なら、10年という時間さえ、まるで1週間のように飛び去ってしまうかもしれない。
ふと、今目の前に、ピアノがあればいいのに、と思う。今なら、自嘲を込めたあきらめではなく、清々しい、終わったのだと言う気分で、何かを弾けそうな気がした。
もう、失ったことを、悲しまなくても、やって行けそうな気がした。
そして今は、ひとりでもなかったので。
ジェット。静かに名前を呟いてみた。
左手の、暗い色の背広には不似合いな、やや明るい色調の、ミサンガ。ふと、唇を寄せる。まるで、ジェットに接吻する時のように。
もう、今日を過ぎれば、教え子ではなくなる。教師と生徒という、公けの関係は、なくなる。これからは、人と人として、ジェットと付き合えるようになる。恋人と呼ぶには、まだ幼すぎる彼だけれど。
機械の右腕を、上着の上から、そっと押さえた。ぬくもりのない、金属の感触。ずっと、人目から隠してきた、冷たい秘密。ジェットにだけは、遠慮もなく晒すことのできる、醜い体の一部。
ふと、考え込んだ表情をつくって、それから、ひとつ、小さくため息をこぼす。
微かに唇の端を上げ、薄く笑った。
「ほら、ちゃんと首のホック、止めなさい。」
フランソワーズが、いつもよりぴりぴりした口調で、ジェットの服装を、細かく点検している。
自分よりも、ずいぶん背の高くなってしまった弟の首元に腕を伸ばし、ほとんど伸び上がるようにして、開きっ放しになっている、学生服の襟を、きちんと止めてやる。
「いいよ、ねーちゃん、別に、式の前にちゃんと止めるからさ。」
うるさそうに、首をよそへ曲げながら、ジェットが少しばかり唇をとがらせる。
「卒業式なのよ。今日で最後なんだから。落第せずにすんで良かったって、ほんとにわかってるの?」
「ひでェ、オレ、ちゃんと大学も決まったし、赤点なかったじゃん。もういいよ。」
「ほんとよ、アナタが赤点取らずに、3学期の期末終わらせたの、奇跡だったわよね。」
「どうしてそういう言い方をするかな。オレも実は勉強できたんだとか、そういうふうには思えない?」
「ムリに決まってるでしょ。中学の時、アタシがどんなに苦労して、勉強教えたか、覚えてるでしょ。」
古い話を持ち出され、ジェットは上目に天井を見上げ、フランソワーズの言い分が正しいことを、肯定せざるをえなかった。
フランソワーズが、襟元につけてある校章を真っ直ぐにし、それから、肩の辺りのほこりを払う仕草をして、ようやく、ジェットから離れた。
「式には顔を出すけど、式の後、どうせ友達とどこかに行くんでしょ?」
フランソワーズにそう訊かれ、ジェットは少しばかり考え込む表情になる。
「うん、多分。」
そう言いながら思い浮かべていたのは、もちろんアルベルトの顔だった。
「今夜は、ジョーも一緒に食事に出かけるから、6時までには帰って来てね。」
「わかったよ、ねーちゃん。」
もう、出かけなくては行けない時間だった。
卒業式。きちんと止めた制服のボタンを見下ろして、ジェットは思った。
卒業式など、今さら目新しいものでもない。
1年の時も2年の時も、その時の3年生を見送って、卒業証書を片手に、去って行くいくつもの背中を眺めていた。今度はたまたま、自分が去って行く番だというだけの話だった。
それでも、3年間一緒に過ごした仲間が、それぞれが決めた先へ去り、もう、毎日顔を合わせることはないのだと思えば、少しばかり淋しい気分にもなる。
一月後には、大学へ入学し、また、代わり映えのしない毎日が始まる。ただ、今度は、見知らぬ人間と、ということだけだった。
そこに、アルベルトはいない。
ジェットがここを去っても、アルベルトは残り、また教師としての1年---あるいは、もっと長く---を、ここで繰り返す。
何時間か後に、ジェットが正門を抜けた瞬間、もう、教え子ではなくなる。教師と生徒ではなく、ただのアルベルトと、ただのジェットとして、ふたりはようやく、向き合える。
もう、毎日、廊下ですれ違うことはなくなるけれど、その代わり、教え子だから、教師だからと、そんなことは気にせずすむようになる。
ジェットは、右手首のミサンガに、そっと触れた。
ずっと一緒にいられますように。手首に巻きつけてもらいながら、そう願った。アルベルトと、ずっと一緒にいられるようにと、祈った。
毎日学校で会えなくなっても、きっと大丈夫だ。たとえ大学で新しい友人が出来ても、目移りすることはない。
アルベルトはどうだろう。新しい生徒、新任の教師、転任して来たばかりの教師、そんなことは、あるだろうか。
離れている時間を想像して、ふと、ジェットは切なくなった。
大丈夫だと思いながら、それでも、もしかしてもっとふさわしい誰かが、アルベルトの前に現れるのではないかと、ふと不安になる。
これからは、会う時間をつくらなければ、会えなくなる。互いがどこにいるのか、想像もつかない毎日になる。
卒業か、とジェットはつぶやいた。
ここに残りたいと、ふと思った。アルベルトのために、ここに残れたらどんなにいいかと、ふと思った。
ずっと、一緒にいられたらいいのにね、せんせェ。
それでも、教え子ではなくなるのだということの方が、やはり大事なのだと、思い直す。
大丈夫だよね、せんせェ。
自分の腕の中で、頬を上気させていたアルベルトを思い出して、ジェットは、赤くなった頬を、慌てて隠した。
肩の辺りに、アルベルトの、体の重みを思い出す。
講堂へ向かうための、3年生たちの流れに紛れながら、ミサンガを着けた右手の拳を、ジェットは強く握りしめた。
名前を呼ばれ、3年生のひとりひとりが、卒業証書を受け取るために、壇上へ向かう。
教師が、ずらりと並んだ列の、いちばん端の方へ坐っているアルベルトは、3年生が講堂へ入って来た瞬間から、もうジェットしか見ていなかった。
頭ひとつ高い彼を見つけるのはひどく簡単で、あの赤い髪のおかげで、椅子に坐った後も、見失うことはなかった。
今日は、制服の、首元のホックもきちんとかけ、心なしか、肩の線もいつもよりきちんと硬く見える。
さすがに卒業式では、神妙にならざるを得ないのか、いつもならきょろきょろと忙しなく視線を動かすくせに、今日は、真正面を見つめたまま、身じろぎもしない。
先に、証書を受け取る生徒の動きを、視線で追っているらしいのは伺えたけれど、それ以外は、ひどく静かに椅子に坐って、自分の番を待っているらしかった。
出逢った4月を、思い出す。
授業のたびに、あの漢字が読めない、この字が読めないとしつこく質問して、最初は、単なる授業妨害だろうと思ったのだけれど、今は自分で、辞書を引いて、わからない言葉や読めない漢字は、自分で調べてくれるようになった。
成績も、今も良い方だとはとても言えないけれど、それでも少なくとも、落第せずにすんだと、真顔で言っている。
教師である自分に失望されたくなくて、ジェットが必死に勉強していたのだと、アルベルトはちゃんと知っていた。
初めて、街で会った日。後ろから腕を伸ばし、本を取ってくれた。屈託なくアルベルトに笑いかけ、アルベルトが背中に背負っていた何もかも、まるで空気のように受け止めてくれた。
ジェットはまだ、17歳だった。子どもとしか思えなかったのに、いつの間にか、子どもゆえの真っ直ぐさで、そのままアルベルトの中に踏み込んできた。無邪気に、恐れもせず。
アルベルトの過去も、機械の腕も、傷も、傷跡も、そのまま、アルベルトとして、受け入れてくれた。
今まで出逢った、ジェットよりもはるかに大人だった誰よりも、真摯に、こだわりもなく、アルベルトを受け入れてくれた。
暖かな、気持ち。好きだという、シンプルな言葉でしか表現できない、気持ち。
アルベルトはそっと、ミサンガのある左手首に、袖の上から触れた。
教師としての立場よりも、この恋の方が大事になったのは、一体いつだったのだろう。
好きだと言われ、拒み、それでもジェットは、真っ直ぐにアルベルトを見つめていた。アルベルトだけを、見つめていてくれた。
拒んだのは、ジェットのせいではない。自分の弱さだった。腕のない体を知られ、嫌われるのが恐かった。自分を好きだと言う誰かが、それでもそんな醜い体はいやだと、心の片隅で思うのを、感じるのが、恐かった。
裸の自分を抱きしめる、ジェットの、長い両腕を思い出す。
生身ではない、右腕に触れ、右肩に口づける。その冷たさにも硬さにも、一向に気づかないとでも言うように、ジェットは愛しげに、アルベルトの右手に、自分の掌を重ねる。
重ねた膚の熱さと、躯の重さを思い出して、アルベルトはふと、肩先を震わせた。
ジェット、とちらとも動かない、あちらにある横顔に、アルベルトは心の中で呼びかけた。
ついに壇上から名前を呼ばれ、ジェットが大きく返事をして、静かに立ち上がる。
赤い髪が、揺れながら、黒い制服の間を歩いてゆく。
あごの線が、以前よりも硬い。肩幅も、少し広くなった。胸の厚みも、もう、すっかり大人のそれになっている。また少し背が伸びたろうかと、その背中を見て、アルベルトは思った。
壇上へ上がり、神妙な顔つきで証書を受け取って、ジェットがまた、こちらへ戻って来る。その視線が何気なく流れ、講堂の端にいるアルベルトを、捕らえた。
瞳だけで、ジェットは微笑んだ。
はっきりと、アルベルトに向かって。
それに向かって、少しだけあごを引いて反応を返しながら、アルベルトは、ふと頬を赤らめた。
卒業生が、また長い列をつくって講堂を去り、いきなりがらんとしたその後に、空っぽの椅子だけが残る。
教師に促されて、在校生もゆっくりと去り、卒業式は無事に終わった。
卒業生は、それぞれの担任と、最後の言葉を教室で交わして、三々五々、好き勝手な方向へ、卒業したばかりの仲間とともに、立ち去ってゆく。
自分の子どもの晴れ姿を見ようと、校庭に散った保護者たちの間を抜けて、アルベルトはジェットの姿を探した。
恐らくバスケット部の仲間たちと一緒だろうと見当をつけ、体育館の方へ戻ってみると、案の定、バスケット部の顧問の教師を囲んで、20人あまりが、輪を作っているのを見つけた。
卒業したばかりの生徒の周囲には、まばらに、保護者らしい輪があった。
3年生との別れを惜しむ在校生の姿も、多々見える。
バスケット部のその輪の周りにも、下級生男女の姿があった。
ジェットよりも、さらに背の高いジェロニモが、背中を折るようにして、何か、女生徒に手渡しているのが見える。女生徒は、一生懸命背を伸ばしてジェロニモを見上げ、何か、最後の言葉らしいものを伝えているらしかった。
それを、からかうような視線で、ジェットが眺めている。
3人ほど、どう見ても1年生の女生徒たちが、ジェットに近づき、真ん中の、ひときわおとなしそうな女生徒が、必死に何か、ジェットに話しかけ始めた。
ジェットは困った顔を見せ、優しげに微笑むと、ゆっくりと、彼女に向かって首を振った。
何だろうと思いながら、アルベルトは、少しだけ、胸が痛むのを止められなかった。
あの輪の中には入れない。ここでおとなしく、ジェットがひとりになるのを、待つしかなかった。アルベルトは、卒業生でもなければ、下級生でもなかったので。
ようやく、輪がゆっくりと広がり、それぞれが、違う方向へ向かって歩き出す。
みな、誰かと一緒に、どこかうれしそうな表情の背中で、校庭を去ってゆく。卒業証書を、片手に。
とうに、アルベルトがそこにいることに気づいていたのか、ジェットは、崩れた輪を離れ、真っ直ぐにアルベルトの方へやって来た。
こんなジェットを見るのも最後なのだと、唐突に思う。
この制服も、バスケット部のユニフォームも、もう見ることはないのだと、突然気づく。
「卒業したよ、オレ。」
卒業証書の入った筒で、頭を軽く叩きながら、ジェットが笑った。
「・・・おめでとう。」
「もうこれで、オレ、生徒じゃないから、堂々とせんせェと恋愛できるね。」
周囲に聞かれはしなかったかと、アルベルトは慌てて、肩越しに後ろを振り返った。
「せんせェ、ちょっと持ってて。」
証書の筒をアルベルトに手渡して、ジェットは、制服の前を開けた。
襟元から校章を外し、それから、上着の2番目のボタンを取った。
ふたつをまとめて握ると、ジェットはその手を、真っ直ぐにアルベルトの方へ差し出した。
「オレ、もう、せんせェにあげるって、決めてたからさ。」
開いた掌を差し出して、受け取りながら、さっきの女生徒がジェットに話しかけていたのはこれだったのかと、ようやく合点が行く。
「泣かれちゃったよ、ダメだよ、あげらんないよって言ったら。」
ジェットが、少しだけ申し訳なさそうな声音で言った。
「もてるのも、考えものだな。」
「いくらモテてもさ、好きな人にモテなきゃ、しょうがないよ。」
掌に乗った、校章とボタンを顔の前に上げて、アルベルトはありがとうと言って、それを丁寧な仕草で、上着のポケットに入れた。
もう、ほとんど空になった校庭のすみで、ふと、ふたりで向かい合ったまま、黙り込む。
足元の土をけって、ジェットは肩を揺すりながら、口を開くタイミングを見計らっているように見えた。
オレさ、とジェットが言った。
「大学入ったら、バスケ頑張って、早くレギュラーになるから、試合、見に来てよね。」
ああ、と笑ってアルベルトはうなずいた。
「毎日、もう会えないけど、でもオレ、せんせェん家、行くし。これからは、別にこそこそ会わなくてもすむしさ。」
伝えたい言葉を、どう言えばいいだろうかと思いながら、アルベルトは、まぶしげに、ジェットを見上げていた。
また、黙り込んだ後、アルベルトはようやく、決心したように、自分の右手を見つめてから、ゆっくりと手袋を外し始めた。
驚いてそれを見ているジェットに、外したばかりの白い手袋---校内で外したことは、一度もない---を、そっと差し出す。
「もう、これを着けるのはやめようと、思ってる。腕のことを訊かれたら、事故で腕を失くしたことを、きちんと言おうと思う。隠す必要のないことだし、もう、隠さなくても、大丈夫だと、思う。」
ジェットは、まるで、壊れやすいガラス細工でも受け取るように、その手袋に触れた。
「そのうち、半袖のシャツも、着れるように、努力する。そうしたら、君と海にも行ける。」
一言一言、押し出すように、アルベルトは、力を込めて言った。
ジェットが、手袋とアルベルトを交互に見て、まるで、花がほころぶように、うれしそうに微笑んだ。
「君がいてくれれば、何でもできるような、そんな気がする。」
精一杯の、告白だった。
言葉を切ってから、うつむいてしまったアルベルトに、弾んだ声で、ジェットが答えた。
「オレもそう思ってるよ。せんせェがいれば、オレ、何でもできるって。」
また顔を上げ、ジェットを見上げる。
顔いっぱいに微笑んだジェットを見上げて、つられて、アルベルトも、思わず微笑み返した。
「せんせェ、オレのこと、好き?」
視線を反らさずに、アルベルトは答えた。
「ああ、好きだよ。」
長い時間が必要だった、言葉だった。言いたくて、言えなくて、自分が確かでなくて、言えなかった言葉だった。
胸のどこかが、不意に軽くなる。ようやく吐き出してしまった言葉を思って、アルベルトは、今度こそほんとうに、心の底から微笑んだ。
ジェットが、体の向きを変えながら、アルベルトに、手を伸ばした。
「帰ろ、せんせェ。」
そう言って、アルベルトの返事も待たず、ジェットは、たった今、手袋を外したばかりの右手を取った。
手をつないで、アルベルトを連れて、正門の方へ向かう。
「ジェット、誰かに見られたら------」
慌てて、外そうとした手を、さらに強く引き寄せられる。
「堂々としてれば、誰も変になんか、思わないよ。」
ジェットが、思い切り無邪気に笑う。
「堂々としてればいいんだよ、腕がないとか、勉強できないとか、そんなの、気にせずにさ。」
ふと、腕の力が脱けた。
こうやって、ひとりでは飛び越えられないハードルを、ふたりで乗り越えてゆくのだろうと、ジェットの背中を見つめながら、アルベルトは思った。
手をつないだまま校庭を横切り、ふたりはゆっくりと、正門を通り抜ける。
吹く風には、確実に春の匂いがした。
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