ここからふたりではじめよう
3) 過去
「せんせェ。」
後ろから、ばたばたと軽い足音が追いかけてくる。振り返らなくても、ジェットだとわかっていた。
あれ以来、週末の本屋で顔を合わせて以来、校内でアルベルトを見かけると、ジェットは必ず声をかけてきた。
声変わりは終わっているのに、けれど完全には、低くなりきらない声。奇妙に甘く、語尾が細くかすれる。その声で呼ばれるたび、アルベルトは、微笑を返さずにはいられなかった。
足を止め、彼が追いつくのを待つ。振り向くと、意外な近さに、彼がいた。
「廊下を走ると、怒られるぞ。」
咎める口調でなくそう言うと、ジェットがにっこりと笑う。
「オレ、足速いから、逃げちゃう。」
つられて笑うと、ジェットが、手に下げたカバンを開けて、大きなぶ厚い本を取り出した。
「やっと買ったよ、オレ。先生が、イイっていうからさ、この辞書。」
ああ、とアルベルトは、思わずそれに手を伸ばした。
白と赤のケースに入った、持ち重りのする国語辞典だった。まさか本気とは思わず、訊かれて、使い勝手の良さそうな辞書のリストを渡したのは、先週だった。
「ほんとうに、買ったのか・・・。」
意外そうに言うと、ジェットが唇を、そうとわかるようにとがらせる。
「先生じゃんか、買えって言ったの。辞書使って勉強しろって。」
「言うことを素直に聞く生徒には、見えないな。」
「オレだって、受験生だよ、一応。」
辞書を返しながら、アルベルトは、照れくささを隠すために、ふと目を伏せる。
「これでオレの今月分の小遣い、パー。ねーちゃんに勉強するって言ったのに、信用してくんねェしさ。」
「まあ、そうだろうな。」
「どうしてみんな、オレのことをそーゆーふうにゆーかなぁ。」
すねて見せ、辞書をカバンにしまうジェットに、じゃあまた、どこかで食事でもしようかと言おうとした時、廊下の向こう側から、誰かがジェットに向かって手を振った。
「おーい、練習に遅れるぞー。」
いけね、とジェットが舌を打った。
「バスケット?」
「うん、試合が近いんだ。もう行かなきゃ、オレ。」
じゃあね、せんせェ、と笑顔を残して、ジェットが仲間の方へ駆けてゆく。大きなその背を見送って、アルベルトはまた歩き出した。
音楽室は空っぽだった。
今日は放課後何もないのを、事前に音楽の主任教師に確認してあった。
がらんとした、大きな部屋。教壇と、普通の教室のものより、かなり大きな黒板。部屋のすみに寄せて並べられた、机と椅子。そして、空間の真ん中を占める、ピアノ。
不思議なことに、その黒光りする、つやつやとした表面は、アルベルトの機械の腕に、似ていなくもない。
その連想に、くすりと笑いをもらしてから、アルベルトは、静かに、おずおずとピアノに近づいた。
生身の腕のようには、もう弾けない。けれど、まだ指は動く。
失ってしまったのは、腕ではなく、夢そのものだった。
その夢の残骸が、時々アルベルトを苦しめる。その残骸をなだめるために、時々、夢を紡ぐことが必要だった。
ふたを開けると、鮮やかな、白と黒の鍵盤が現れる。思わず、息を飲む。
軽く指を滑らせて、音を確かめてから、アルベルトはあらためて、椅子にきちんと腰を下ろした。
就職活動を始めてから、ピアノに触るのは初めてだった。
軽い短い曲を弾いて、同じ曲を繰り返して、指が動くのを確かめた。
手袋をつけたままなのがうっとうしかったけれど、学校にいる間に、外す気にはならなかった。
一旦動き出せば、何事もなかったように、指が走る。
頭の中で鳴る音を追い駆けて、軽やかに曲を紡ぐ。
以前は、それが生活の中心だった。
寝ている時さえ、頭の中にあるのは音楽のことだけで、それがあまりにも当たり前だったから、失くしてしまうまで、そんな生活を許されている自分を、特に幸運だとか、幸福だとか、考えてみたこともなかった。
好きな音楽を聴き、好きな音楽を演り、それだけで時間が過ぎていった。それだけが、生活だった。
リハビリのためにと、ギルモア博士に勧められた時に、アルベルトは即座に断った。ピアノには触れたくもないし、見たくもないと、冷たく言い放った。
ほんとうに、ピアノがこの世に存在することすら、思い出したくもなかった。
腕を失くして、ピアノを弾く望みを断ち切られた後、みっつめの腕で、ピアノは弾ける希望が出来た。弾けるだけで、それ以上にはならない。それは、また弾き始める前から、わかっていた。
生身の腕を欠いて、元通りピアノが弾けるようになるとは、とても思えなかった。
だから、ピアノには触れたくなかった。
白すぎるほどの皮膚の色には不似合いな、鉛色の腕。その、金属の指先を初めて鍵盤に当てた時、かちん、と音がした。その時初めて、もう、右腕はないのだと、実感した。
柔らかく、滑らかに動く、生身の右腕は、もうどこにもない。鍵盤に触れても、音を立てない生身の指先は、もうどこにもない。
暗く、アルベルトは笑った。声を立てて。
笑いながら、鍵盤を叩いた。曲ではなく、音を立てるために、機械の指先で、鍵盤を叩き続けた。
ふと、指を止める。
楽しくないことは、今は考えたくなかったので、いたずら心を起こして、「ねこふんじゃった」のジャズ調の変奏曲を弾く。間奏に、アドリブまで入れてみた。
弾き終わった途端、教室の端の方から、拍手が聞こえた。
「すっげー、かっこいい。」
ぎょっとなって、そちらに振り向くと、ジェットが、バスケットボールを脇に抱えて、ドアのところへ立っていた。
「こんな時間に誰かと思ったら、先生なんだもんな。」
心の底から感嘆したように、ジェットが言う。
アルベルトは、思わず顔を赤くした。
ジェットはまだ、ユニフォームのままだった。ピアノの近くへ寄って、そこに肘をつくと、汗が微かに匂った。
赤い髪に、負けじと赤いユニフォーム。鮮やかな青の、2のナンバーが、よく似合っていた。
「サプラーイズ、先生にこんな特技があるなんてさ。」
目を伏せ、照れくささを隠すために、鍵盤をひとつふたつ叩く。
「昔、ピアニストになるつもりだったんだ。」
なぜそんなことを、ジェットに言ってしまったのか、わからない。口が滑ったと言うよりも、自分のために、彼に聞いてほしかったという方が、正しいような気がした。
ジェットが、ピアノの上に組んだ両腕に、あごを乗せて、ふーんと言った。
「その、ピアニストになるつもりだったって、その手袋と、なんか関係あんの?」
いつか訊こうと思っていて、タイミングを見計らっていたというのが、明らかな尋き方だった。
アルベルトが、右手を持ち上げて、苦笑をもらしたので、ジェットは怒られなかったと、安心した表情を見せる。
それを見て、アルベルトは、また笑った。
「その様子だと、みんなが知りたくてうずうずしてるって感じだな。」
「そりゃ、オレら、好奇心いっぱいの年頃だもん。でもさ、先生、聞くんじゃねえって顔してるし、オレらに。」
「そうか? そんな風に見えてたのか?」
うん、とジェットが素直にうなずく。
また、鍵盤に、指を滑らせる。そうして、アルベルトは、ジェットの方を見ずに、また口を開いた。
「ひどい事故だったんだ。治るのに、3年かかった。」
いつも笑っているジェットの表情が、途端に曇る。口をへの字に曲げ、居心地悪さげに、肩を揺すったのが、視界の端に見えた。
「傷痕でも、あんの?」
目を伏せたまま、ジェットは重ねて尋いた。
「まあ、そんなところだ。」
それ以上は、今はまだ、言いたくなかった。
ジェットはそれを、声のトーンで読み取ったのか、わかった、とだけ言った。まだ、目は伏せたまま。
「いつか、話すよ。」
決まり悪げに肩をすぼめるやんちゃ坊主の機嫌を治すために、アルベルトは、そう付け加えてやる。
顔を上げ、いつもの笑顔を見せてから、ジェットは、ボールを宙に軽く投げてから、指先でくるくると回した。
「オレ、練習に戻るよ。」
ああ、と、ボール越しに見えるジェットの横顔に、ふわりと笑みを送ってから、アルベルトは、また鍵盤に視線を落とした。
足音が、ゆっくりと、名残惜しげに遠去かるのが、音の合間に聞こえた。
赤いユニフォームの背中を、視界のすみにひっかけて、それでもアルベルトは、そちらを見ようとはしなかった。
ふと、ジェットが出て行こうとして、ドアのところで、振り向いた。
「せんせェ。」
ピアノに負けないように、大きな声で、呼びかける。
アルベルトは、何だ、というように、ピアノを弾く指を止め、大きな身振りで、ジェットの方へ体を向けた。
「あのさ、さ来週の日曜、ヒマ?」
「再来週の日曜?」
いたずらっぽく、ジェットが笑う。
「オレら、試合なんだ。ヒマなら、見に来てよ。」
ジェットの意図が、よくつかめなかった。
右手のことを尋いて、アルベルトの機嫌を損ねてしまったと、思っているからなのか、それとも単純に、自分のチームを応援する人間が、試合の場にほしいだけなのか、どちらなのか、どちらでもないのか、アルベルトにはよくわからなかった。
それでも、にいっと笑ったジェットに、いやだと言うつもりはなかった。
「ああ、ひまならな。」
またジェットが、にいっと笑う。
そして今度こそ、ぱたぱたと廊下を走って行った。
小さな、苦笑のため息を滑り落としてから、ふと思いついて、アルベルトは、「喜びの歌」を弾き始めた。去ってゆく、あの赤い背中のために。
指が、いつもより、軽やかに動くような、そんな気がした。
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