ここからふたりではじめよう


4) 右腕

 ぱらぱらと降っていた雨が、職員室を出ようとする頃には、土砂降りに近い降り方になっていた。
 こんな日には、できればまっすぐ家に帰って、おとなしくしていたいのだけれど、もうすでに入っている予定を変更する方が、もっと面倒な気がする。
 小さく溜息をついて、アルベルトは、机の上を片付け始めた。
 職員用の下駄箱で、靴を履き替えた頃には、1m先も見えないほど、激しい降りになっていた。
 「参ったな・・・。」
 頭の後ろに手をやって、ふとそう呟いた時、後ろで、聞き慣れた声がした。
 「せんせェ、いま帰り?」
 振り向くと、いつもの長身が、カバンを小脇に抱え、にっこり微笑んでいた。
 「どうした、こんな時間に?」
 部活はもう、1時間も前に終わっている。
 アルベルトの横に立ち、雨の降ってくる方向を見上げながら、ジェットは小さく唇をとがらせる。
 「試合前だからさ、ちょっと自主練しとこうかなって・・・そしたらこれだもんな。」
 だからこんな土砂降りになったのか、と冗談を言おうとして、けれど少しばかり微笑んで見せるだけにした。
 同じように、まいったなあ、と唇だけで呟くその横顔を見ていて、ふとアルベルトは、思いついたことを口にする。
 「真っ直ぐ、家に帰るのか?」
 ジェットがアルベルトを見下ろして、なんで、と訊いた。
 「別に、ねーちゃん、今日はオレが練習で遅くなるの知ってるし、宿題も別にないし、家帰って、メシ食って、フロ入って寝るだけ。」
 「じゃあ、家まで送るから、少し手伝ってくれないか?」
 アルベルトの意外な申し出に、ジェットが、少しばかりきょとんとした表情をする。
 「本屋に、注文してた本が届いたって言うから、取りに行くことになってるんだ・・・この雨の中、ひとりはちょっと、な。」
 困ったように笑ってみせるアルベルトに、ジェットもまた、にっこりと笑った。
 「いいよ、ドシャ降りん中、歩いて帰んなくていいなら、オレは何でも。」
 「終わったら、ちゃんと送るよ。」
 確かめるように言うと、オッケー、とジェットが言って、アルベルトの背中を押した。


 本屋は、学校の最寄り駅から、私鉄で2駅先で、もう閉まってしまっている店の、後ろの駐車場に車を止めると、やや小降りになった雨の中を、ふたりは車から飛び出した。
 目の前の、裏口にたどり着くのに、10秒とかからないのに、それでも肩先が濡れて冷たいほどの降りだった。
 古ぼけた木のドアをノックすると、待つ間もなく、中から60歳くらいの男が顔を覗かせた。
 「おや、来たね。今日は無理じゃないかと思ってたが。」
 こんにちは、と言いながら頭を軽く下げたアルベルトを、男は柔和な顔つきで中に招き入れた。
 その後ろからジェットが、ドアの上に頭をぶつけないように気をつけながら、恐る恐る、という風情でついて来る。
 薄暗い、倉庫に本棚を並べただけのようなその大きな部屋は、どう見ても在庫置き場らしく、本棚の間を縫って行くと、部屋の隅に、小さな事務所らしい部屋があった。
 その中にふたりを招き入れ、初老の男は、よっこいしょ、と言いながら、床から箱をふたつ、事務机の上に並べた。
 「状態は悪くないがね、一級品とは言いかねるよ。まあ書き込みもないし、中はきれいなもんだがね。」
 箱を軽く叩きながら、顔つきよりももっと穏やかな声で、男が言った。
 「大丈夫です。読めれば、それで充分ですから。」
 ジェットは、物珍しいげに辺りをきょろきょろと見回し、図書館以外で、こんな量の本に囲まれたことがあったかなと、そんなことを考えていた。
 ふと、目の前の、ふたりの男のやり取りを耳にしながら、視界をよぎったものに、ぎょっとなる。確かめようと目を凝らした時には、もうそれは、机の中にしまいこまれていた。
 笑顔と、言葉の応酬が20秒ほどあって、まだ驚いたままのジェットを、アルベルトが振り返った。
 じゃあ、と促されて、ようやく我に返ると、アルベルトが、並んだ箱に手を伸ばそうとしていた。
 「あ、いいよ、先生、オレが運ぶから。」
 どちらも大きな箱ではなく、両方一緒に、脇に抱えて運べそうに見えた。
 机とアルベルトの間に、慌てて割って入ると、ジェットは大きい方の箱をまず抱え、目顔で促すと、男が慎重な手つきで、もうひとつを上に乗せてくれた。
 「重くないか?」
 「大丈夫だよ、このくらい。どうせ車まで運ぶだけだし。」
 「じゃあ、車を、ドアまで動かすから。」
 踵を返して、小走りに部屋を出て行くアルベルトの背に、ジェットが怒鳴った。
 「いいよ、せんせェ、別に、オレ平気だからさ。」
 「本を濡らしたくないんだ。」
 振り返りもせず、アルベルトが言い返す。
 自分を気遣ってではないことに、心のどこかで失望した自分がいた。
 あ、そ、と口の中で呟いて、突き出しかけた唇を、精一杯の気力で引っ込め、ジェットは、ふん、と肩を揺する。
 それから、男に軽く頭を下げ、じゃ、どうもと短くあいさつをした。
 「はい、ご苦労さん。」
 また男が、にっこりと笑う。
 本棚の間を縫って、またドアに向かうと、もうアルベルトが開いたドアを押さえ、ジェットを待っていた。
 何となく不機嫌な表情を隠せず、アルベルトを横目でちらりと見て、ジェットはことさら丁寧な手つきで、箱を車の後部座席に積み込んだ。
 また雨を避けながら、ふたりで同時に車に乗り込むと、ようやくほっとしたように、アルベルトは小さく微笑んだ。
 男がドアのところへ立ち、手を振っている。それに手を振り返し、アルベルトは、車を駐車場からゆっくりと出した。
 街中を抜け、少し広い道路に出た頃、アルベルトが、ありがとう、とジェットに言った。
 「助かったよ。今日行かないと、来週まで取りに行けないところだった。」
 ふーん、と、窓にひじをついて、平たい声でジェットが言う。
 雨が、車を叩く音で、少し大きな声を出さないと、今日は話す声も聞こえにくい。
 ふん、とジェットは、わざと聞こえないように、鼻を鳴らした。
 「せんせェ、オレより本のほうが大事なんだ。オレは濡れてもいいけど、本はダメって・・・」
 「そういうつもりで言ったんじゃないんだ。」
 アルベルトが、ジェットの方を向いて苦笑する。
 本を濡らしたくないと言ったので、へそを曲げているのだと気づいて、さて、どう言い訳しようかと、また苦笑が漏れる。
 「本は、濡れると傷むし、乾かすのが大変だろう。人間なら、タオルで拭けばそれですむ。」
 「じゃあ、せんせェんとこで、タオル貸してよ。」
 いつもの、いたずらっぽい笑顔で、ジェットが言った。
 なぜ、彼といると、いつも笑ってばかりいるのだろうと、アルベルトは不思議に思う。
 ジェットはよく笑う。笑う顔しか思い出せないほど、彼はいつも笑っている。
 それにつられてか、ジェットといると、いつも笑ってばかりなような気がする。
 長い間、人に笑顔を見せることなど滅多になくて、それをいやがって、人が寄りつかないのをいいことに、ひとりで固い殻をかぶっていた頃が、最近は懐かしくさえある。
 屈託もなく笑い、馴れ馴れしいほどの近さで自分に話しかけ、それでいて、アルベルトの気に障ることもない。
 一日会わないと、どうかしたのかと思うそんな自分に、気づいていた。
 「このまま送って行ってもいいし、うちまで来て、家の中まで運んでくれるなら、もっとありがたいな。」
 信号待ちで、前を見たまま、冗談めかしてそう言うと、即座にいいよ、とジェットが言った。
 「ここまで来たらついでだし、いいよ、別に、先生がいやじゃないんだったら、家の中まで運ぶよ。」
 日常生活に、もうほとんど不自由はない。多少不自然なところはあっても、義手だと言わなければ、少し腕が不自由なのだという程度にしか見えない。それでも、重いものを抱えて運ぶのには、いまだに不安があった。
 これから改良しなければならない点だと、ギルモア博士が何度か言ったことだった。指先の触感や、力を入れずに物をつまみ上げることなどばかりが重要視され、いわゆる力のいる作業に向くようには、この腕は作られていないのだと、博士は言った。
 不思議だと、思う。字を書くことや、ピアノを弾くこと、そんなことには一切不自由はない---完璧では、決してないけれど---のに、大の男が、箱ひとつ抱え上げるのに、不安になるというのは、いい笑い種だと思う。
 残念ながら、ギルモア博士がその欠点に気づいたのは、アルベルトがすっかりこの腕に馴染んでしまった後---リハビリは主に、力をいれずに物をつかんで、或いはつまんで持ち上げることが大半だった---で、今さら取り替えるという選択は、すでに有り得なかった。
 もし改良された、もっといい腕が出来れば、いずれは取り替えることになるのだろうけれど、また大きな手術と、それ以上に長くて面倒なリハビリがある。それを考えると、今のまま、少しばかりの不自由---と恥をかく機会---を我慢する方が、ましに思える。
 不意に、ジェットが言った。
 「先生さあ、これって、いくらだったの?」
 「値段の話か?」
 車の後ろに視線を流したジェットをちらりと見て、アルベルトは、6万、と短く答えた。
 「ろ、ろくまん?」
 座席から飛び上がりそうな勢いで、車の外にまで聞こえそうな音量で、ジェットがアルベルトの答えを繰り返した。
 「ああ、6万。」
 眉ひとつ動かさずに、その数字をまた口にすると、ジェットは、ぽかんと口を開けたまま、信じられないことを聞いた、というような顔を見せる。
 「古本だろ、これって。6万? 一体何買ったんだよ、先生。」
 事務所で、アルベルトが差し出したのが、数枚の1万円札に見えたのは、目の錯覚ではなかったのだとわかって、ジェットは息を飲んだ。
 「井上靖の全集、全32巻。それから、ギリシア悲劇全集、全14巻。」
 「外国語聞いてるみたいだ。」
 ふてくされたような、途方に暮れたような、そのジェットの口調がおかしくて、思わずアルベルトは、声を立てて笑った。ジェットの方は、何がそんなにおかしいのかと、またさらに途方に暮れたように、アルベルトを見ている。
 雨が、少しだけ弱くなり、天気のせいばかりではなく、外は薄暗くなり始めていた。


 何の変哲もない、どこにでもありそうな白い建物は、けれど静かな住宅地の片隅に建っていた。
 窓から外を覗くと、4階建てのこの建物より高い建物はあまりなく、周囲はほとんどが普通の家ばかりだった。
 雨は、今はもう、止み始めていた。
 駐車場から建物の中に入るまでにまた少し濡れ、それでも本の入った箱はなるべく濡らさないように、体を前にかがめ、中に入って、水滴を頭から振り落とそうとしているジェットに、アルベルトが乾いたタオルを投げた。
 髪や制服の肩を拭きながら、部屋の中をぐるりと見渡す。
 入っていちばん奥にリビング、その外にはバルコニーが見えた。背後にキッチンがあって、小さなテーブルが置いてある。左側には、ドアひとつと、玄関に近い方に襖が見える。
 「せんせェ、ひとり?」
 いつもの遠慮のなさで、ジェットが訊く。
 アルベルトは、キッチンで、ふたり分の紅茶を淹れている最中だった。
 ああ、そうだ、と背中を向けたまま短く答えると、ふーん、とジェットが言った。
 ひとり暮らしには、少しばかり広いような気がした。そのせいか、空気が澄んで、冷たいような気がする。
 自分の家とはまるで違う、とジェットは思う。
 いつもフランソワーズやジョー、そして赤ん坊のイワンのいる自分の家にある、暖かな騒々しさが、ここにはない。いつも誰かの足音が聞こえ、話し声があり、まるで家全体が息づいているような、そんな気配が、ここでは一向に感じられなかった。
 背中が寒いような気がして、ジェットは肩を震わせた。
 ひとりになったことは、まだない。
 母親が死んだ時も、フランソワーズがいた。だから、淋しかったけれど、おいてけぼりにされたと感じたけれど、こんなふうに、背中が寒い思いはせずにすんだ。
 だからあんな風に、本を集めるのだろうかと、ジェットはふと思う。自分がそれを、周囲の人間の中に求めるのに、アルベルトは、本という、無機質な、けれど楽しみ---ジェットには、よくわからない楽しみではあるけれど---を与えてくれるものに、求めるのだろうか。
 自分には似合わない、そんな考えに少し照れ、ジェットは頭を振ると、大きな歩幅でキッチンへ入った。
 テーブルにつくと、ちょうどいいタイミングで、アルベルトが、大きなマグカップをジェットの前へ置いた。
 マグから遠のくアルベルトの手を見て、ジェットの頬が硬張る。見間違いかと目を細めてから、思わず、それを指差した。
 「せんせェ、それ・・・」
 向かいに坐ったアルベルトが、指差された方を見て、それから、声の調子も変えずに、ああ、これか、と苦笑をもらす。
 「驚ろかせたか?」
 家に帰ると、最初にするのは、いつも手袋を外すことだった。
 ここに越して来てからも、その前も、家に誰かを招くということは皆無だったから、ここでだけは、何も隠す必要はないのに安心していて、今も、何も考えずに手袋を外してしまったらしかった。
 明らかに驚いているジェットの視線から隠すように、アルベルトはさり気なく右手を、テーブルの下の、自分の膝の上に置いた。
 「悪かったな。先に話してから見せれば良かった。」
 珍しくジェットが、神妙な顔つきで、
 「別に悪かないよ。驚いたけどさ。」
 「そうだな、たいていは、みんな必死で話をそらそうとする。顔中、好奇心いっぱいにして。」
 冗談めかしてそう言うと、ジェットが、薄く笑った。
 「オレも好奇心いっぱいだよ。どうしたのかな、とか、どうなってるのかな、とか。」
 いつもの表情が、もう戻っている。子どもっぽい、無邪気な、生き生きとした顔。
 こんな風に、真っ直ぐに見つめられたことは、長くなかった。
 右腕のことが知れると、途端に相手の顔色が変わる。同情と失望と、そして、微かな恐怖。その底に、それでも必ず流れている、好奇心。それを醜いと思うのを、アルベルトは止められなかった。
 右手を、人目に触れないようにし、そして、尋かれない限りは、自分からは口にしない。そう決めたのは、もう随分前のことだ。
 人はみな、アルベルトを冷たい人間だと言った。いつも距離を置いて、誰にも近寄らないし、誰も近寄らせない。少なくとも、無駄に傷つくことは、減った。
 それと引き換えにしたものが、一体大きかったのか小さかったのか、時々考えることがある。
 人恋しいと、思うこともある。秘密を抱えて---そう、望んだわけではないけれど---生きることが、時々息苦しくなる。自分を守るためには、それでもそれが最良の方法なのだと思えても、ふと感じる淋しさだけは、癒しようもなかった。
 ひとりも、慣れれば、そうだというだけのことになる。それだけのこと、そう、苦く笑って自分に呟いても、ギルモア博士が繰り返す、キミには幸せになってほしいという、そんな言葉が甦る。
 幸せは、ひとりでは求められないものなのだろうかと、思う。恐らく、それは事実ではないのだろうけれど、強いられた孤独を幸せと思えるほど、まだ悟りきれない。
 ジェットが、アルベルトに向かって、いつもと同じ笑顔を見せる。
 そこにあるのは、同情でも、恐怖心でもなく、ただ、底なしに明るい、屈託のない好奇心だけだった。
 右手が、膝の上で震えていた。恐ろしいほどの、勇気が必要だった。
 ようやく、その笑顔に励まされたように、アルベルトはゆっくりと、息苦しい時間をかけて、右手をまたテーブルの上に出した。
 ジェットの視線が、動く。笑顔はそれでも、変わらないまま。
 「これって、義手?」
 触れてもいいものかどうかと、ジェットの指先が逡巡しているのが見えた。
 「いや、構造は、よくわからない。手っ取り早く言えば、機械の腕だ。普通の人間がすることは、ほとんどできる。」
 「そうだよな、せんせェ、チョーク使ってるし、ピアノ弾けるし、言われなきゃ、わかんないもんな。」
 感心したように、ジェットが言う。
 珍しいおもちゃでも観察するように、ジェットはまじまじと、アルベルトの右手を眺めていた。
 不気味なものを見ている眼差しではなく、たとえば、見たこともないきれいな蝶を眺める時のような、そんな瞳の色だった。
 ふと、頬に血が上る。
 なぜだかわからなかったけれど、その視線に、自分の右手に対する、愛しさのようなものを見たような気がして、そんな馬鹿な、とアルベルトは慌てて首を振った。
 「これって、取れるの?」
 また無邪気に、ジェットが訊く。
 我に返って、まだ頬が赤いまま、アルベルトは、
 「いや、取れない。完全にくっついてる。」
と、早口で言った。
 ジェットが、指を伸ばしてきた。
 手を引きかけて、やめた。
 本来なら、爪があるべき部分に、ジェットの指先が触れる。
 指の長い、節の高い手だった。大きく、どちらかと言えば薄く見える、掌。形のいい爪が、ふとまぶしくて、アルベルトは目を細めた。
 ギルモア博士以外の、誰にも触れさせなかったこの手を、ジェットが今、指先で探っている。
 つなぎ目に触れるたび、確かめるように、指が止まった。
 機械の掌と、生身の掌。テーブルの上で、まるで匂いで互いを確認する昆虫のように、触れ合っている。
 「腕、全部、こうなの? それとも手だけ?」
 ここから、とアルベルトは、自分のシャツの、右胸の辺りを指差した。
 説明しながら、白いシャツの上を指で差し、機械の範囲を、ジェットに示した。
 その範囲の、思いがけない広さに、ジェットが素直に、驚きを口元に刷く。
 「だからせんせェ、いっつも長袖のボタン、きっちりとめてんのかぁ。」
 そんなことに気づいていたのかと、今度はアルベルトが驚く番だった。
 訊きたいことを、いま全部尋いてしまうのは、それでも礼儀知らずだと思ったのか、ジェットはようやく手を離し、椅子に坐り直した。
 「隠すのも、めんどクサくない?」
 少し間をおいて、答えた。
 「ああ、面倒くさい。」
 笑ってそう言うと、そうだろうな、とジェットも笑った。
 くるりと、自分の周りを見渡して、帰るよ、とジェットが椅子から立ち上がった。
 慌ててマグをテーブルに置き、アルベルトも立ち上がろうとした。
 「送って行くよ。」
 さっさと、ひとりで玄関へ向かうジェットの背中を追おうとすると、ジェットが急に振り返った。
 「いいよ、さっき駅の前通ったし、道わかるし、オレ。」
 「送る約束で、ここまで来てもらったんだ。」
 「いいってば。せんせェ、本でも楽しんでよ。」
 ジェットは、いつもよりももっと優しく、アルベルトに向かって、笑った。
 「これ以上一緒にいると、オレ、ロクでもないこと訊いちゃって、せんせェ怒らせて、墓穴掘りそうだからさ、ひとりで帰るよ。今度、またゆっくりハナシしよ、せんせェ。」
 アルベルトが、やはりこの手のせいで嫌われたのかと、微かに心配し始めていたのを、知ってか知らずか、ジェットはゆっくりと、心を込めて、そう言った。
 それでも玄関まで追って来るのは止めずに、靴をはいて、カバンを抱えてから、ジェットはまた、優しい笑顔をアルベルトに見せた。
 ドアを開けて、それから、思いついたように振り返ってから、照れたように、ジェットは言った。
 「せんせェ、握手。」
 右手を、差し出す。
 指先が、一瞬、硬張った。それから、ゆっくりと、右腕を、真っ直ぐ自分に向かって差し出されたジェットの手に向かって、伸ばした。
 掌が、重なる。
 柔らかい、生身の掌。暖かさに、気持ちのどこかが、優しく和んだ。
 「じゃね、せんせェ、また明日。」
 おどけた敬礼を残して、ジェットが、鉄のドアの向こうに消えた。
 ジェットの気配が消えてしまうまで、アルベルトはそこにいて、もう見えないジェットを、見送っていた。
 掌が、熱かった。