ここからふたりではじめよう


5) 試合

 せんせェ、来てくれるかな。
 朝、目覚めてから、朝食を取り、服を着替え、荷物をまとめ、集合場所の、4つ先の駅にある、試合相手の高校の体育館に着くまで、考えていたのはそれだけだった。
 わざわざ、高校の名前と所在を、紙に書いて渡すことまでしたけれど、せっかくの日曜日を、担任ですらない生徒のために割こうという奇特な教師は、そういないだろうと常識的に考えて、ジェットは3分おきに、がっかりしたり、はしゃいだりを、夕べから繰り返していた。
 きっと来てくれると、思う端から、けれど週末はいつも本屋を回って過ごしているという、アルベルトの言葉を思い出し、じゃあ無理か、と勝手に結論づけて、失望する。
 あまり精神衛生によくない24時間だった。
 少しばかり寝不足と---アルベルトのことを考えていて、よく眠れなかった---、試合前の気分の高揚と、まだ拭いきれない不安と、ジェットは、小さなあくびをかみ殺しながら、まいったなぁ、とひとりごちる。
 無人の教室でユニフォームに着替え、体育館へ向かう。
 仲間たちは、それぞれが頬を紅潮させ、あるいは緊張した面持ちで、ウォームアップのために、軽い足取りで走り出す。
 ジェットたちのチームは、赤いユニフォームで、相手チームは白だった。
 ジェットたちの高校よりも、少しだけ、バスケットのレベルは高い。今年の全国大会予選では、間違いなく強敵になるチームだった。
 この試合も、その予選大会のための敵情視察で、過去に何度か、全国大会でも準決勝まで残ったことのあるジェットの高校は、今年こそは優勝、あるいはせめて決勝までと、みなが同じことを願っていた。
 せんせェ、来るかな。
 ネットにボールを放り込みながら、また思う。
 ぱらぱらと、コートの周りにある、観客席に見える顔は、ほとんどが見慣れないものばかりだ。私服が大半のそれらの人々は、この高校の生徒に違いなかった。
 顧問の教師が、コートの端に全員を集め、いつもの、試合前の注意を始める。
 ほとんど上の空で、ジェットはそのどの言葉も、耳には入らなかった。
 ふと、肩をつつかれ見上げると、ジェロニモが、あごを、声の聞こえる方へしゃくって見せる。
 ちゃんと話を聞け、と、その茶色い静かな瞳が言っていた。
 いけね、と小さく舌を出し、ようやく、もうすぐ始まる試合に向かって、神経を集中しようとした。
 せんせェ、どこだろ。
 もう一度だけそう思って、それから、もう考えまいとする。
 ユニフォームのすそを引っ張って、自分の番号を何となく見下ろしてから、そして、気合を入れるように両手で頬を叩いた。
 少しずつ、体育館の中が騒がしくなってゆく。人が増え、ボールがあちこちに当たる音が、大きくなる。バスケットシューズが、木の床をける、きゅっという音、それを聞くと、いつも心が、ボールを追い始める。
 始まる、と思った。
 人ごみの中に、彼の姿を探すのをやめ、ジェットは、相手チームの方へ視線を当てた。
 見たことのないのは、新入りの1年生に違いなかった。また肩も首筋も細く、すぐにそうとわかる。妙にうろうろと落ち着きがなく、自分が出るわけでもない試合に、それでも興奮を隠せない。
 オレもあんなだったっけ、とジェットは思った。
 身長は、どれも似たり寄ったりだった。ジェロニモが、見渡す限りはいちばん背が高く、後はみな、ジェット程度か、少し低くなって、ピュンマくらいか。
 「今日は、いつにも増して、落ち着きがないな、君は。」
 ピュンマが、後ろから、呆れたように言った。
 大きな素振りで振り返って、
 「なんだって?」
 「先生が、1対1を、始まる前に、みんなでやっとけってさ。聞いてなかったのか?」
 ボールを、ジェットの方へ投げて、ピュンマが真っ白い歯を見せて笑った。
 「頼むから、試合中はもう少しマシに、集中してくれよ。」
 コートを見ると、みんなもう並んで、マンツーマンの順を待っている。
 いけね、とジェットはまた頭をかいた。
 「夕べ、寝れなくてさ、あんまり。」
 ふたりで肩を並べて、みんなの後ろに並びながら、ピュンマが訊いた。
 「悩みごと?」
 「・・・・違う、と思う。」
 「そうだろうな、君は、あんまりくよくよ悩むタイプじゃないし。」
 「・・・オレだって、たまには悩むぜ。」
 そう、唇を尖らせて反駁すると、ピュンマがまた笑った。
 「3年、君と一緒にバスケやってて、バスケのこと以外で君が悩んでるのは、見たことがない。」
 「まあ、そうだよな。」
 素直にそう言って、それから、フリースローゾーンに向かって、ふたりで走り出す。
 こうしてボールを追い駆けている時が、いちばん楽しいと思う。
 走り、腕を伸ばし、高く飛び、たったひとつのボールを、12人が追い駆け、ネットに放り込むために、体をぶつけ合う。単純な、原始的なスポーツ。体と、ボールだけ。
 そのシンプルさが、ジェットは好きだった。
 中学から、突然背が伸び始め、まるで当たり前のように、何も考えもせず、バスケットを始めた。考えるより先に体が動き、頭を空っぽにして、ただボールを追い駆けるだけの単純さが、ジェットの性に合ったらしい。
 背が伸びるのと同時に、もっと素速く動けるようになり、高く飛べるようになった。
 3年間、バスケットボールだけで過ごした。それからまた高校で、3年。
 大学も、恐らくバスケットボールで入学することになるだろう。2年の半ばから、すでに何校か、打診が来ている。どれにも、返事はしていない。今は、高校のバスケットボールに、集中したかった。
 肩を叩き合い、円陣を組んで声を出し、それから、ホイッスルが鳴る。 
 試合が、始まる。もう、コートの中以外は、何も見えなかった。
 歓声と、熱気。その中で、視線は、ボールだけを見つめている。
 ピュンマから飛んできたボールを、うまくつかんだ。それから、飛ぶ。誰よりも、高く。腕を伸ばして、高く高く。
 軽々とシュートを決め、地上に降り立つと、いつも笑みが漏れる。自分のための、極上の笑み。
 親指を立てて見せると、ジェロニモが、ディフェンスの位置で、うなずいたのが見えた。
 相手に渡ったボールと止めるために、また走り出した時、ふと、観客席の中に、淡い影がゆらめいたのが、視界の隅をよぎった。
 一瞬、試合から心がそれる。
 せんせェ、来てくれた。
 彼の姿を、ずっと探していた彼の姿をみとめて、ジェットは、さっきよりももっと明るく、うれしそうに笑った。


 少しばかり、紅茶を飲み終えるのに時間をかけ過ぎて、家を出たのはぎりぎりの時間だった。
 慌てて階段を走り降り、車に飛び込んで、ジェットに教えられた、高校のある街へ向かう。
 前の日に、所在をきちんと調べておくべきだったと、少しばかり道に迷ってから舌を打っても、もう遅い。
 珍しく苛立ちを頬に刷いて、アルベルトは、急いで元来た道を、また戻った。
 何度か間違った道を曲がって、それでもようやく、目指す高校の正門に車を滑り込ませた時には、もう示された時刻をとっくに過ぎていて、アルベルトは、焦りを露わにして、体育館らしい建物に向かって走り出した。
 大きな扉を、なるべく静かに開けた途端、声が、塊になって押し寄せてくる。
 はあはあと、荒い息を落ち着けながら、アルベルトは、小さく開けたドアに、体を横向きに滑り込ませた。
 意外な人の数に少し驚きながら、目で、ジェットの姿を探す。ベンチの方へ向かいかけた視線の端に、走る彼の姿が映った。
 動く、彼のからだ。まだ細く長く、それでも肩と背中に、厚く筋肉がつき始めている、少年のからだ。肩の線とはアンバランスに見える、少し華奢な首が、ゴールを目指して伸びる。
 思わず視線を奪われ、見惚れた。
 素速い動きに混じる、ざわめき。けれど、ひたむきにボールを追う、選手の周囲にだけは、恐ろしいほどの静けさがあった。息遣いと、汗の落ちる音。
 赤い髪が、コートを、ところ狭しと動き回る。
 気がつくと、こぶしを握りしめ、ジェットの姿だけを追っていた。
 シュートを決めて着地した時に、ふと流れた視線が、アルベルトを認めて、信じられないほどうれしそうに、笑った。
 思わず、頬が染まる。
 真剣な表情と、素速く動き、高く飛ぶために鍛えられた体。教室で見る、生徒のジェットとは違うジェットが、コートの中にいる。
 思わず手を胸に当て、アルベルトはそうとは気付かずに、シャツを握りしめていた。


 リードしたまま前半を終え、後半10分で、それは起こった。
 シュートしようと飛び上がったジェットの左の頬に、相手チームのディフェンスが、ひじを入れた。
 空中での衝突は、体のコントロールがききにくく、故意ではないと相手が言えば、よほど露骨でない限り、ファウルは取られない。
 その時も、審判はファウルをコールはしなかった。
 右肩から落ち、それでもボールは離さずに、ジェットは惨めに倒れて、痛みに呻いた。
 観客席が、大きくざわめく。
 ばらばらと足早に走り寄ってくるチームメイトに囲まれて、それでもジェットはすぐには起き上がらずに、頬を抑えて小さくちくしょう、と呟く。
 「大丈夫か?」
 ピュンマが肩に手をかける。
 「わざとだったら、ブン殴ってやるのに。」 
 ジェットがそう言うと、
 「試合放棄する気なら止めないけど、退部はいやだろ? ボクも困るよ。」
 ゆっくりと上体を起こすと、ジェロニモの、長くて太い腕が、頬に伸びてきた。
 「血が、出てる。」
 「ああ、ちくしょうっ。」
 今度は遠慮もなく、周囲に聞こえる大声で悪態をつくと、ジェロニモの肩を借りて、ようやくジェットは立ち上がった。
 口の中を切ったらしく、舌の上に血の味が広がって、吐き気がした。唇の端を、こぶしで拭って、ジェットはふと、観客席の方を見た。
 予想にたがわず、アルベルトが、心配そうにこちらを見ているのが、目に入った。
 「あーあ、みっともねえ。」
 のん気な声音で呟くと、ジェロニモが、何のことだと言いたげに、ジェットを見る。
 ふたりで肩を並べてベンチへ向かいながら、
 「いいとこ見せようと思ってたのに、台ナシ。」
 「誰に?」
 短く、素っ気なくジェロニモが訊く。それに、にいっと笑って見せてから、
 「いいとこ見せたい人。」
 眉を寄せて、ジェロニモは、
 「おまえの言ってることは、さっぱりわからん。」
 低い声でそう言って、ジェットの頭を撫でた。
 ベンチで水を飲むと、口の中の傷にしみた。
 「まだやれるか?」
 コートから走って来て、ピュンマが、心配そうに訊く。
 「ったりまえだろ。もう10点くらい入れてやらなきゃ気がすむかよ。」
 早口でそう言って、ジェットはまた、コートに向かって駆け出した。


 結局、試合は大差で終わり、最後の5分で、ジェットはひとりで6点のゴールを決めた。
 10点に届かなかったのに、それでも少しばかり腹を立てて、相手チームのベンチに、試合終了のホイッスルとともに、ボールを放り投げてやった。
 服を着替え、顧問教師の、うきうきした、解散という言葉とともに、皆ばらばらと勝手な方向へ向かう。
 ピュンマとジェロニモに、一緒に帰ろうと誘われたけれど、ジェットは、行くところがあると言って、また体育館の方へ向かった。
 そう約束したわけではなかったけれど、思った通り、正面のドアの外に、アルベルトが立っていた。
 「せんせェ。」
 手を振って近づくと、アルベルトが、ふわりと振り向く。
 「来てくんないかと思ってたよ、オレ。」
 「場所がわからなくて、少し迷ったんだ。遅れて悪かった。」
 アルベルトの、手袋の右手が、ジェットの、腫れた頬に伸びた。
 唇の端は黒ずんで、そこから頬骨にかけて、かすかにふくれている。
 「ずいぶんひどく、やられたな。」
 手を伸ばしたまま、思わず、顔をしかめて言うと、
 「ま、ね。試合中じゃなかったら、オレも一発くらい殴り返したかったんだけどさ、ピュンマが退部くらうとかって、よけいなこと言うから。ま、でも試合勝ったし、顧問の先生、ごきげんだし、みっともないのはオレだけってね。」
 おどけて、また笑って見せる。
 触れそうなほど、頬の近くに指を伸ばして、それを、名残惜しげに引いてから、アルベルトは、うつむいて、小さく言った。
 「みっともなくなんか、なかったよ。」
 ずっと、ジェットだけを見ていたとは、さすがに言えなかった。
 ジェットは、誉められたのだと一瞬わからず、え?と訊き返して、目を丸くした。
 ふたりで向き合ったまま、なぜか頬を赤らめて、同時に言葉を失った。
 いつもの軽口が出ず、ジェットはそれでもとりあえず口を開けて、滑らかに舌を動かそうとする。
 それより先に、アルベルトが言った。
 「スポーツなんて、見ることは滅多にないけど、すごかったよ。あんなに、高く飛んで。」
 鳥のようだと、思った。
 走り回るジェットを見ながら、アルベルトは、鷹か鷲を、連想していた。
 勇猛な、空の王者。高く飛んで、獲物を狙う鋭い眼。大きな翼と、頭を真っ直ぐに上げた、その誇り高い姿。
 また、ふと頬に血が上る。
 「せんせェ、来てくれたからさ、オレ張り切っちゃった。うれしかったよ、わざわざ来てくれて。」
 うれしそうに笑うジェットにつられて、アルベルトも笑った。
 「もう、帰ってもいいんだろう?」
 「うん、もう解散したから、今日は。」
 「じゃあ、食事だな。試合の後だし。」
 途端に、ジェットの顔が輝く。
 「オレ、アイスクリーム。そしたらこの腫れも引くし。」
 おどけて言うジェットの肩を押して、アルベルトは、車の止めてある駐車場へ向かって、歩き出した。
 歩きながら、ふたりは互いに顔を見合わせて、また、一緒に微笑んだ。