ここからふたりではじめよう


6) 兆候

 フランソワーズが、買い物に行こうと言い出した。
 衣替えの終わった頃、少し暑くなり始めた、週末だった。
 「なんで、オレまで行かなきゃなんねぇんだよ。ねーちゃんとジョー兄(にい)で行ってくりゃいいだろ。」
 「だって、アナタのも買わなきゃいけないんだもの。シャツの肩がきついって、文句言ってたでしょ。」
 まだ身長の伸びているジェットが、また服のサイズが合わなくなったとこぼしていたのを、フランソワーズはちゃんと覚えていた。
 尻尾をつかまれて、ジェットは言葉につまり、またケンカになるのかと、固唾を飲んで見守っているジョーを、八つ当たりでにらみつけ、
 「せっかくの日曜日に、勝手に人のスケジュール決めんなよな。」
 まだ未練たらしく反駁しながら、それでもジェットは、わかったよ、とフランソワーズにふてくされた口調で言った。
 「いいじゃない、家族みんなで出掛けたって。アナタ、ただでさえ、バスケットばっかりで、ロクに家にもいないんだから。」
 「オレのせいじゃねーよ。文句があるなら学校に言えよな。」
 「よく言うわよ、部活じゃない時だって、最近は出掛けてばっかりじゃない。帰りは遅いし。」
 「うるせーなぁ、オレの行動にいちいちチェック入れんなよな。いいだろ、オレがどこに行こうと。」
 「いいわけないでしょ。父さんがいないんだから、アタシに責任があるのよ。」
 「責任って、まるでオレが、どこかでなんか悪いことしてるみたいな言い方すんなよ。」
 「そんなこと言ってないでしょ。目が届かないから、きちんとしてね、って言ってるだけでしょ。」
 「オレがいつ、きちんとしてなかったよ。ねーちゃん、そういう言い方、性格悪いぜ。」
 フランソワーズが、手近にあった雑誌に手を伸ばした時---もちろん、生意気な弟を、それで叩いてやるため---、ジョーが、気弱に笑いながら、
 「ね、ねぇ、出掛けるなら早くしないと、お昼になっちゃうよ、ふたりとも。」
 ふたりで同時にジョーに振り向いて、ジョーが思わずたじろいで後退さると、それでようやく我に返る。
 ふん、とそっぽを向いてから、ジェットは、着替えるために2階へ行った。

 
 「何だよ、ようするにねーちゃんは、買い物にかこつけて、ジョー兄と出掛けるのに、子守りがほしかっただけじゃねえか。」
 イワンのベビーカーを押して、並んで歩くふたりの後について行きながら、ジェットはまだぼやくのを止めなかった。
 フランソワーズとジョーは、腕を組んで歩きながら、ジェットに振り返りもしない。駅の近くの繁華街の人混みの中を、ふたりはいかにも幸せそうに、歩いてゆく。
 その背を眺めながら、ふとジェットは、アルベルトを思い出していた。
 いつ見ても、黒のトレンチコートを羽織り、流れるように歩く。影が揺れるように、人の間を滑ってゆく。いつも、ひとりで。
 今頃また、どこかの本屋で、探しものの最中かもしれない。高い棚に向かって首を伸ばす彼の横顔を思い浮かべて、ジェットはひとりで小さく笑った。
 フランソワーズが不意に足を止め、通り過ぎたばかりの店を振り返る。
 優しげな瞳でジョーを見上げ、何か言っているのが、唇の動きで見えた。
 そちらへ動くふたりを見て、ジェットは足を止め、ふと、イワンの頭に手を伸ばした。
 髪を撫でてやると、くすぐったそうに肩をすくめる。思わず、笑みがこぼれる。
 店に入ったふたりは、中ほどで何かを指差したり、お互いに笑い合ったりして、こちらを振り向きもしない。
 店先の、邪魔にならない辺りでそれを眺めながら、ジェットはふと、頭の後ろが寒いような、そんな気がした。
 5分も経たずに、ジョーが店を出て来た。
 「君の番だよ。イワンはボクが見てるから。」
 「オレ?」
 陥っていた、ひとり思いの淵から、不意に引き上げられ、ジェットは間の抜けた声を出す。
 指差された方向では、フランソワーズが、何枚かの、シャツを手に取り、ジェットに向かって手招きしている。
 「頼むから、ここでケンカはしないでくれよ。」
 ぽそりとジョーが言った。
 「オレらのケンカはスキンシップだもん。害はないよ。」
 「キミらには害はなくても、ボクの精神衛生には害がある。」
 ジェットとフランソワーズの間の冗談を、まったく解さない義兄に軽く手を振って、ジェットは店の中に入った。
 色の氾濫。
 微かに流れる、流行りの音楽と、天井近くまで飾られた、様々な形と色。いかにも若者向きの店だった。
 こんな場所には、あまり自分では足を踏み入れることのないジェットは、何となく居心地悪げに、のそりとフランソワーズの方へ近づいて行った。
 「Tシャツと、半袖のシャツと、他に何かいるものある?」
 すでにジェットのために選んだ、何枚かのシャツを見せながら、フランソワーズが、ジェットを見上げた。
 「いいよ、そんなもんで。」
 「色は?」
 フランソワーズが手に取ったのは、鮮やかなオレンジと赤。ジェットのいちばん好きな色だった。笑顔で、肯定してから、ありがとうと、小さく言った。
 レジの方へ歩いて行くフランソワーズを見送って、所在もなさげに、ジェットは辺りを見回した。
 興味もない場所に、いつまでも姉を待って突っ立っているのもみっともなく思えて、店から出ようときびすを返した時、フランソワーズが自分のために選んでくれたシャツの、色違いを見つけ、ジェットはふとその前で足を止めた。
 ほとんど黒と見まがう、深い濃い青。アルベルトに似合うかも、と、最初に思ったのはそれだった。
 手に取って、広げて見る。そうしてから、それが半袖なのに気づいて、ジョットは、そうとは知らずに唇を噛んだ。
 あの腕を隠すために、着る服さえ自由には選べないのだと、それが、ジェットには痛かった。自分が、気に入れば、何を着ようと気にしたこともないのに、アルベルトは、こんな服を、手に取ることさえしないだろう。
 初めて、胸が痛んだ。彼の痛みが、現実感を伴って、ジェットの胸を刺した。
 「あら、そんな色、欲しいの?」
 不意に、フランソワ-ズが横に立って、声をかけた。
 飛び上がるほど驚いて、ジェットは慌てふためいて、シャツを棚に戻した。
 「いい、今日はいい。これは違うんだ。」
 説明しようとすればするほど、舌がもつれる。なぜか、顔が赤くなった。
 ヘンな子ね、と口の中で、フランソワーズが呟いた。


 フランソワーズとジョーが、別の店に入っている間、ジェットはイワンとふたりで、外でふたりを待つことにした。
 路上の、木の陰に置いてあるベンチに坐り、イワンをあやす。
 イワンは機嫌よく、ジェットの指を握って喜んだ。
 イワンの、柔らかな髪に触れ、目を細める。色合いは少し違うけれど、アルベルトとよく似た色の髪。
 今頃、何をしているだろうかと、ふとまた思う。
 「イワン、おまえ、誰にも言わないよな?」
 小さな声で、囁くように、そっと言うと、まるでそれに答えるように、イワンが、ぶ、と言った。
 また頭を撫でてやり、指を預けたまま、ジェットはまるでひとりごとのように、話し始めた。
 「こういうの、マズいんだろうけどさ、オレ、今日は、先生と一緒にいたかったんだよな。ねーちゃんとかとじゃなくて。家族といるより、他の誰かと一緒にいたいなんて、バレたらねーちゃんに、殺されるよなぁ・・・。」
 一呼吸置いて、イワンが、話し掛けるジェットから、目を逸らさないのを確かめて、ジェットは言葉を継いだ。
 「せんせェさあ、右腕、義手みたいになっててさ、半袖、着れないんだよな。それがなんかさ、哀しいなぁって・・・せんせェは別に、同情なんかされたくないんだろうけどさ、でも、やっぱ、考えちゃうんだよな。オレなんか、腕失くして、バスケできませんて言われたら、どうするかなあ。あんな涼しい顔してられるかなあ、ムリだろうなあ。」
 心のどこかに、澱のように積もっていた思いを、ジェットは不器用に言葉にする。相手がイワンなら、それを指摘もしないし、黙って聞いていてくれるし、誰に告げ口される心配もない。
 時々、イワンが指を強く握ってくるのに、笑みを返しながら、ジェットは言葉を紡ぎ続けた。
 「ねーちゃんたちみたいにさ、腕組んで街とか、歩けたらいいのになー、って思うんだよなぁ。いいよなー、ねーちゃんたちは両想いで。」
 結婚している夫婦に、両想いもへったくれもないけれど、自分の気持ちを、何の戸惑いもなく、片思いだと暗に表現したことに、当のジェットは気づかない。
 頬杖をつき、溜息を降りこぼしてから、ジェットはまた、アルベルトを思った。
 今頃、恐らくどこかをひとりで歩きながら、気に入った本を見つけて、もしかしたら小さく微笑んでいるかもしれない彼を。 
 その隣りにいられないことが、ちくりと胸に痛い。
 今度はいつ、どんな口実で誘おうかと、そんなことを考え始める。
 ここに今、自分の隣りにアルベルトがいたらどんなにいいかと、そう思った時に、ぶ、とまたイワンが声を上げた。
 「ああ、ワリぃ、ワリぃ、おまえといても楽しいよ。」
 むりやり作り笑いを見せて、その柔らかな頬を、指先でつついた。
 彼を恋しいと、思った。


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 ジェット。
 名前を呼ばれた。手をつないでいた。右手と、左手。指を絡ませて、掌を合わせて。
 常ではない感触に、思わず視線をそこへ下げる。
 彼の、機械の腕と手。ひじがじかに、そこへ触れる。
 そうしてから、アルベルトが、半袖の、あの、店で見た青のシャツを着ているのに気づく。
 隠さないの?
 答える代わりに、おかしなことを訊く、と言いたげに、アルベルトが微笑んだ。
 つられて、それ以上は何も言わず、ジェットも笑った。
 ジェット。
 また、彼が、名を呼んだ。
 たとえようもなく、優しげな、柔らかな声で。
 耳に響くそれは、まるで、彼が弾くピアノの音のようにも聴こえた。
 肩を並べて歩きながら、よく笑うアルベルトに、ジェットはただ微笑みかけていた。
 喋る必要はなかったし、言葉は、まるで、ここにある空気を壊してしまいそうに思えた。
 髪と肩が、揺れる。
 繋いだ手を、思わず、強く握った。
 まるで、それが合図だったかのように、アルベルトが足を止め、ジェットの手を引き寄せた。
 彼の、生身の方の左手が、あごに伸びる。
 思わず体を引きかけると、アルベルトが、どうした、と言うように、また微笑んだ。
 それから、彼が、花びらが落ちるように瞳を閉じて、喉を伸ばして、ジェットの唇に、そっと触れた。
 目を閉じることも忘れて、まるで魔法にかかったように身動きもせず、ジェットは、冷たい薄い彼の唇を、全身で感じていた。


 アルベルトが、両腕を、ジェットに向かって開いた。
 その中に、体ごと飛び込んで行きながら、ジェットは、自分が何も身にまとっていないのに気づく。それは、アルベルトも同じだった。
 せんせェ。
 声が、思わずかすれる。
 呼吸を、肩に感じた。
 心臓が、もしかすると胸の上に浮き出るかと思うほど、強く鳴る。
 柔らかく口づけを繰り返しながら、ジェットはもう、自制も失くして、アルベルトごと、その場に倒れ込んだ。
 機械の掌が、背中を滑る。一緒に、背筋を、何かが走ってゆく。
 せんせェ。
 呼びかけても、彼はもう、唖のように黙り込んだまま、薄い唇は、言葉を発することはなかった。
 ただ、熱っぽく、濡れたような視線を、言葉以上に言葉らしく、ジェットに向けて投げかけてくる。
 形を変えてゆく自分の躯を、どうしていいかわからずに、ジェットは戸惑った。
 それを悟ったように、アルベルトが、機械の指先を、そっと伸ばす。
 触れられて、ジェットは思わず、声を漏らした。
 自分の手ではない、感触。生身ですらない、掌。
 視線を落とすと、アルベルトがまた、微笑んでいた。
 鉛色の、金属の体。肩と胸半分と、右腕が全部。
 ふ、と、ジェットは重く息を吐いた。
 せんせェ。
 躯を、落としながら、彼の肩に向かって呟く。
 オレ、せんせェが好きだ。
 口づけたそこは、冷たい鋼鉄の味がした。


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 一瞬にして、目が覚めた。
 数秒もかからずに、意識が澄み、夢だったのかと、失望とも安堵ともつかない溜息をもらす。
 覚えている通りの夢だったことの証拠を、変化している自分の体に見つけて、ジェットはひとり、暗い部屋の中で頬を赤らめた。
 首筋や掌に、アルベルトの皮膚の感触が、鮮やかに甦る。
 それを反芻する間に、静まるどころか、ますます昂ぶってゆく体を放ってもおけず、ジェットはついに、弾みをつけてベッドを降りた。


 きちんと手を洗ってから、なるべく静かにトイレを出ると、部屋へ戻る途中、ジェットはふと思いついて、イワンの部屋のドアを開けた。
 するりと体を滑り込ませ、抜き足差し足で、ベビーベッドに近づく。
 眠っているイワンを起こさないように、ベッドの傍に立って、その寝顔を、闇の中で見下ろしながら、ジェットは、さっき見た夢の中の、アルベルトの笑顔を思い出していた。
 部屋の中の、薄闇の中に、それでも鮮やかに浮く、銀色の髪と白い輪郭。イワンの寝顔に、アルベルトのそれを重ねて、ふと、胸が、切なく疼く。
 ゆっくりと、床に膝立ちになると、ベッドの柵の縁に両腕を組み、ジェットはそこにあごを乗せた。
 どうしたかなぁ、オレ。
 唇だけで、呟いてみる。
 不意に、泣き出したくなって、ジェットはそんな自分に驚いた。
 「イワン・・・」
 そこにいる、眠っている小さな生き物に、声をかける。そうしないと、本当に、泣き出してしまいそうだったので。
 「オレ、どうしよう。」
 口にする前に、もう一度、考えた。それから、確かめるように、一言一言、ゆっくりと言った。
 「オレ、せんせェが、好きだ。」
 ゆるゆると、息を吐く。
 涙の滲んできた目元を、ごしごしと乱暴にこすってから、ジェットはまた静かに立ち上がった。
 ベッドの柵を、壊れるかと思うほど強く握ってから、まるで腹を立てた時のように、歯を食い縛る。
 泣き出さないために。
 「おやすみ、イワン。」
 入って来た時と同じ静かさで、ジェットは部屋を出て、静かにドアを閉めた。
 涙があふれて止まらなかった。なぜなのか、わからなかった。