ここからふたりではじめよう


7) 告白

 「なんだ、帰らないのか?」
 ピュンマが、まだコートに残ってシュートを繰り返しているジェットに、そう声をかけた。
 「残って練習してくよ。フリースロー、今イチだったし、今日。」
 意外そうな顔をして、それでもそれ以上は何も言わず、ピュンマは、
 「じゃあ、明日な。」
 そう言って、手を振って、体育館を出て行った。
 がらんと、人気のなくなった体育館で、ジェットは改めて周囲を見渡して、溜息をこぼした。
 近頃、こんなことが多い。
 ひとりになりたくて、そうして、ひとりになると、溜息ばかりついている。
 ひとりになって考えるのは、アルベルトのことばかりなのに、彼に会いたいのに、目の前に立つと、途端に背中の辺りの筋肉が、まるで板でも張ったように、固くなる。
 あの夜、泣きながら眠りに落ちて、そしてまた、彼の夢を見た。
 どんな夢だったかは覚えていなかったけれど、アルベルトに触れた感触だけは、目覚めてもしっかりと憶えていた。
 ボールを、ネットに向かって投げる。どこにも触れずに、するりとネットの中に落ち込む。鮮やかに。
 それに、少しだけ得意そうに笑ってから、また、ボールを放る。
 誰と誰が付き合っているとか、誰が誰のことを好きだとか、そんな話の外に、いつもいた。意地を張っているわけでも、硬派ぶっているわけでもなかった。こうして、ボールに触れているのが楽しくて、それだけで満足していた。視線は、いつも、周りが可愛いと騒ぐ女の子たちを素通りして、コートとネットだけに注がれていた。
 憧れた相手はいた。あんなふうになりたいと思ったのは、いつもバスケットの先輩たちで、人に対する好意の感情をまったく隠さないジェットは、向こうにお構いなしにまといつき、そんなジェットを、彼らも弟のように可愛がった。
 けれど、今は、それとは少し違う。
 何をしていても、何を見ても、アルベルトを思い出す。すべてが、彼に繋がる。いつも一緒にいられたら、どんなにいいかと思う。
 黒板に向かって伸ばされる、あの右腕を見るたびに、夢の彼を思い出す。そうして、ひとりでこっそりと頬を赤らめて、実際の感触とすら確かめる術もない、あの、夢の中の彼の指先の硬さを思い出す。
 ネットの下へ走り込み、腕を伸ばし、高く飛ぶ。ボールを、叩き込む。
 大きく息を吐いて、肩を落とした。
 息苦しい。彼を見るたびに、まるで、自分の周囲の酸素が、急に濃度を低めたような、そんな気分になる。
 どこにいても、彼の気配を感じると、不意に、彼の周りだけが、鮮やかに浮き上がる。まるで、白黒の景色の中で、彼だけが、色のある存在であるかのように。
 ボールを、高く投げ、ネットに入れずに、わざとボードにぶつけ、跳ね返ってきたそれを、ジェットは緩慢な動作で、追った。
 息を吐いて吸って、ボールとネットを、交互に見る。構えて、ネットだけを、見つめる。膝を折り、手首をひねって、腕を伸ばす。頭上に、指先がひらりと舞う。手を離れたボールは、また、するりと吸い込まれるように、ネットの中に落ちた。
 「ジェット。」
 ボールが床に落ちるのと同時に、声がした。
 声のした方へ振り向くと、たった今、体育館の中へ入って来たらしいアルベルトが、こちらへ向かって歩いてくるところだった。
 不意の、彼の出現に、ジェットは目を大きく見開いて驚きながら、同時に、彼から目が離せない。
 ゆっくりと目を細め、こちらへ足を運ぶ彼を見ている。そこだけ、周囲から輪郭がはっきりと浮き上がったアルベルトの姿を、まるで、目に焼きつけようとするかのように、ジェットはじっと目を凝らした。
 「ここだろうと、思って。」
 はにかんだような口調で、アルベルトが言った。
 「バスケ部の連中が帰るのが見えたのに、君の姿だけ、見当たらなかった。」
 わざわざ、何の用か、探しに来たのだと、彼の口調が暗に言っている。
 ジェットはボールを拾いながら、わざと、傍に立ったアルベルトの顔を見なかった。
 「どしたの、先生、わざわざ。」
 声が震えないように、気をつけて。
 「いや、別に。」
 そのまま、会話にもならず、ジェットはまた、ボールをネットに向かって放り投げた。
 いつもなら、自分の方から、埒もないことを話し始めるのに、今日は、何を話せばいいのかも思いつかない。自分から口を開けば、言い出すのは、ろくでもないことのような気がした。
 真剣に練習しているふりをして、ろくにアルベルトの方を、見ようともしなかった。
 「別に、用があったわけじゃないんだ。ただ、ひとりで練習してるんだろうと思って、見に来ただけだよ。」
 少しだけ、低い、声のトーン。淋しそうに、耳に響いた。
 「邪魔して、悪かったよ。」
 そのまま、肩を回して立ち去ろうとしたアルベルトに、ジェットの胸が、痛む。
 帰したいわけはなかった。いてくれるなら、その方がいいに決まっている。わざわざ会いに来てくれたのだと、そう思っていいのだと悟って、ジェットは慌てて、小さくなろうとするその背に、腕を伸ばした。
 「いいよ、ジャマなんかじゃないってば、せんせェ。」
 呼び止めると、素直にアルベルトが振り返って、またこちらに戻ってきた。
 今度は、真っ直ぐに彼を見て、ジェットは言った。
 「ごめん、せんせェ、オレちょっと、キゲン悪くてさ・・・ごめん。」
 一拍置いて、アルベルトが訊いた。
 「何か、あったのか?」
 ふと、目を細めて、アルベルトを見る。心配そうに、軽く寄せられた、眉が見えた。同じ表情を、バスケットの試合の時に見たのを、思い出す。
 「別に、何にもないけど・・・ただちょっと、ムシャクシャするだけ。」
 まさか、目の前の彼が原因だとは、もちろん言えるわけもなく、アルベルトを、じっと見つめてしまわないために、ジェットはまた、ボールをネットに向かって投げた。
 ボールは、まるでジェットの心の乱れを顕わすように、ガシャンと不粋な音を立てて、リングに当たって床に落ちた。
 転がってゆくボールを、ゆっくりと追いながら、その背に、アルベルトがまた声をかけてきた。
 「あんなに高く飛ぶのって、どんな気分なんだ?」
 ボールを拾い上げて、え?と顔をアルベルトの方へ振り向ける。
 「あ、いや、スポーツには、全然縁がないんだ。だから、それで・・・」
 しどろもどろに言い訳でもするように、アルベルトが隠すような仕草で、唇に触れた。
 それが何だかおかしくて、ジェットは、やっといつものように、声を立てて笑った。
 「すっげー、気持ちいいよ。オレ、体動かすの、好きだし。」
 また、フリースローゾーンに戻りながら、ようやく、滑らかに唇が動き始める。
 不意に思いついて、ジェットは、いつものいたずらっぽい笑みを、アルベルトに向けた。
 自分の方へ、招く仕草をする。
 あごを軽く突き出して、何だ、という表情のアルベルトを、ジェットはまた手招きした。
 恐る恐るというふうに、足を進めてきたアルベルトに、ジェットはボールを投げて渡した。
 戸惑いを隠さずに、いきなり腕の中に飛び込んできたボールとジェットを、アルベルトは交互に見た。
 「やってみなよ。ボール、使えるよね、せんせェ。」
 「こういうのは、リハビリにはなかったな・・・。」
 ボールを、異星人か何かのように、観察する目つきで眺め、アルベルトは少しばかり唇を突き出して見せる。
 フリースローゾーンを示して、床に引かれた線からは出ないように、目顔で言ってから、
 「ここから、投げてみなよ。」
 ネットを指差した。
 コートの外からはそう見えなくても、実際にボールを構えて立つと、意外に距離があるように見える。
 届くかな、と口の中で言ってから、アルベルトはボールを、ネットに向かって投げてみた。
 ネットのリングにかすりもせず、ボールは弧を描いて、床に落ちて転がって行った。
 ジェットは、あきれたように、アルベルトを見た。
 「届かないってのも、すごいよ、せんせェ。」
 「言ったじゃないか、スポーツには縁がないって。」
 「それにしたってさぁ・・・」
 「こういうリハビリは、したことないんだ。」
 本気で羞恥で頬を染めて、アルベルトは言った。
 「まあ、せんせェ、ピアノ弾いてりゃいいんだから、いいんだけどさ。」
 走って行って、向こうに転がったボールを拾って戻ると、ジェットはまた、ボールをアルベルトに渡す。
 「あそこのさ、四角、ネットの上の、あれ狙って投げて。もっと高く。」
 少しばかり真剣な表情で、ボールの、行くべき方向を示す。アルベルトも、つられて、思わず真剣な声で、ああ、と相槌を打った。
 ジェットがいつもやっているように、それを思い出しながら、アルベルトは、前よりももう少し真剣にボールを構えて、それから、右腕を意識しながら、腕を伸ばした。
 今度は、派手な音を立てて、ボードに当たって、こちらへ真っ直ぐ跳ね返ってくる。
 まるで、新入生にボールの投げ方を教えているようだと、ジェットは少しばかりおかしくなった。
 「せんせェに、なんか教えるって、すっげー変な気分だよ、オレ。」
 またボールを手渡し、今度は、アルベルトの後ろへ立った。
 「ボールの持ち方からだね、せんせェ。」
 からかうように言いながら、ジェットは、背後から両腕を伸ばして、アルベルトの両手に、手を添えようとした。
 肩が触れる。アルベルトの、手袋に覆われた指先に、軽く指が触れる。
 そんなつもりではなかった。そんな気では、なかった。
 それなのに。
 ボールを、アルベルトの腕ごと引き寄せながら、触れ合っている両腕から、ジェットは意識を反らせなかった。
 「こうやってさ、指先だけで・・・ほら。」
 ボールを近く引き寄せ、アルベルトの目の前で、掌を重ねるようにして、ボールの持ち方を見せる。
 胸が、背中に触れていた。視線をずらせば、うなじが見える。
 ふと、動きが止まる。ふたり同時に、口をつぐんだ。
 不意に、体中に、熱く血が巡る。頬が赤くなっているのが、自分でもわかった。
 鼓動が、ユニフォーム越しに、アルベルトに伝わるのではないかと思う。静かで空っぽの、ふたりきりの体育館で、ジェットの心臓の音だけが、大きく鳴り響くような気がした。
 からからに渇いた唇を、ゆっくりと舌で湿して、ジェットは、喉に張りついた声を、ようやく発した。かすれないように、気をつけながら。
 「せんせェさあ、恋人、いる?」
 アルベルトの肩と背中が、一瞬に硬張る。それが、即座に胸に伝わった。
 「いや、いない。」
 かすれた声で、奇妙に早口に、アルベルトが、軽く首を振る。まるで、怯えているような、仕草で。
 もう、止められなかった。ボールごと、ジェットはアルベルトを抱きしめた。
 銀色の髪に唇を押し当て、長い腕の中に、ジェットはしっかりと、アルベルトを取り込んだ。生まれて初めて、他人とこんなに近く、体を寄せ合った。逃がしたくないと、必死に思った。
 「オレじゃ、ダメ? オレじゃぁ、せんせェの恋人に、なれない?」
 アルベルトが、ボールから手を離し、ジェットの腕に、両手を添えた。
 ボールは、アルベルトの手を離れ、ころころと音を立てて転がって、ネットの下辺りで止まった。
 「オレ、せんせェが、好きだよ。」
 腕に、力がこもる。アルベルトが、抗う様子を見せないのを、もしかすると受け入れてくれる意思表示かと、思わず信じそうになる。
 言ってしまえば楽になるかと思っていたのに、言葉にした途端、別の塊が、腹の底に生まれたような気がする。
 ジェットは、息苦しさに耐えられず、もっと強く、アルベルトを抱き寄せた。
 身じろぎもしなかったアルベルトが、ようやく、ジェットの腕を、軽く叩いた。
 呼吸さえ止めてしまったのではないかと思っていたジェットは、それで不意に、我に返る。
 「・・・離してくれ。」
 静かに、いつもより低い声で、アルベルトが言った。
 ジェットは、ぎゅっと固く目をつぶり、子どもがいやいやをするように、首を振った。
 「ジェット。」
 もっと低く、少しばかり凄みのある声で、教師の声で、アルベルトが、威圧するようにジェットの名を呼んだ。
 急に、冷水を浴びたような気分になる。
 まだ熱っぽい両腕を、ジェットはようやくしぶしぶと、アルベルトから解いた。
 体を引いて、ジェットから距離を置くと、アルベルトは、まるで、身を守ろうとするかのようにシャツの胸元をつかんで、
 「教え子と、どうこうするわけには、いかないだろう。」
 そう、困ったように薄く笑って言った。
 ジェットはそんなアルベルトを見ながら、思わず歯を食い縛って、両方のこぶしを、爪が食い込んで血の出そうなほど、強く握った。
 淡い緑の瞳が、いつもより暗く、激しい感情に燃えていた。
 「じゃあ、オレが、教え子じゃなかったら、いいのかよ。」
 突っかかるように言うと、アルベルトが、困ったように目を伏せる。
 「そういう問題でも、ない。」
 行き場のない怒りが、不意に湧いた。
 アルベルトの対してではなく、自分の気持ちを持て余して、先走った自分の愚かさ加減にでもなく、ただ、アルベルトを好きだという自覚が、ジェットの中であふれるほど膨れ上がっているのに、今どうやって扱っていいのかわからずに、ただ戸惑っている事実に、恐らくジェットは腹を立てていた。
 「オレ、せんせェが、好きだよ。どうしようも、ないくらい。」
 一言一言、まるで噛みしめるように、ジェットはまた言った。
 それ以外、どうすればいいのか、わからなかった。
 ジェットを、好きとも嫌いとも言わず、教師という立場でしか物を言おうとしないアルベルトに、何をどう言えばいいのか、ジェットにはわからなかった。
 アルベルトが、軽く首を振った。
 ジェットに対してとも見えたし、自分自身に対してとも見えた。何かを言おうとするように、唇を開きかけては、また首を振る。 
 困惑だけが、アルベルトの瞳の中にあった。
 「せんせェ、オレが嫌い?」
 「嫌いじゃない。」
 「じゃあ、それほどは好きじゃない?」
 たたみかけるように、真剣な口調で、詰問するように、ジェットは訊いた。
 アルベルトが、切なそうに、そして、少しばかりの苛立ちを、頬の辺りに刷いて、鋭く言った。
 「やめてくれ、頼むから。好きとか嫌いとか、そういう問題じゃないんだ。」
 その言い方が、ジェットをもっと激昂させた。
 「じゃあ、どういう問題なんだよ。オレが生徒なのがマズいんなら、それだけなら、オレが卒業しちまえばいいだけだろ。」
 アルベルトが、言葉に詰まって、それから、気弱げに、目を伏せた。
 ジェットの方は見ずに、細い声で、ようやく言った。
 「頼むから、今はやめてくれ。頼むから。」
 掌からこぼれてしまったことを、ジェットは思い知った。
 顔を背けたまま、足早に立ち去ってゆくアルベルトを、呼び戻す術さえない。
 霞みのように、アルベルトの背が、扉の向こうに消えてから、ジェットは、床に転がったままのボールを拾い上げた。
 「ちくしょう・・・」
 思わず、そんな言葉を口にして、それから、力いっぱい、ボールを壁に向かって投げた。
 ただっ広い体育館の中に、ボールが壁にぶつかる音が反響して、ジェットの耳を満す。
 ちくしょう、とジェットは、もう一度呟いた。