ここからふたりではじめよう


8) 恋人

 いやな天気だと、アルベルトは外を見ながら舌を打った。
 もう3日も降り続いている雨は、それでも止む様子を見せない。今日が日曜日で、学校へ行く必要がないからいいものの、こんな日には、外に出る気にもならない。
 雨が降り続くと、いつも腕が痛むような気がする。
 ないはずの右腕なのに、まるで、今もそこにあるかのように、痛みを感じる、そんな気がする。
 体との接合部が、鈍く疼いて、そこから錆びついて、ぎしぎしときしみ始める、そんな恐怖に、ふと襲われる。
 首と肩の辺りが熱っぽく、夕べから、薬を飲もうかと思いながら、何となくそれもいやで、今日は朝から、ずっとベッドから出ていない。
 夕べの天気予報は、今夜にはきっと晴れると言っていたから、月曜日の朝には、いつも通りになっていると思いたかった。
 微睡むのが、いやだった。夢を見るのが、恐ろしかったので。
 あの日、体育館で、ジェットに抱きしめられた日、その夜、夢を見た。
 ふらふらと歩き回りながら、右腕を探していた。なぜなのか、全裸で。
 右腕は、肩からすっかりえぐり取られていて、それでも血も流れず、ただ、つるりとした、紅色と少しばかり黄色がかった白の断面を、清潔に晒していた。
 探している右腕が、一体、生身のものなのか、それとも機械の腕なのか、それさえよくわからず、アルベルトは、ただふらふらと、夢遊病者のように、歩いていた。
 せんせェ、どうしたの。
 不意に、ジェットが現れた。制服でも、ユニフォームでもなく、初めて街の古本屋で会った時のままの格好で、ポケットに両手を突っ込んで、ジェットがそこに立っていた。
 どうしたの、せんせェ。
 反応しないアルベルトに、戸惑ったように、体を前屈みにして、またジェットが声を掛ける。
 我に返ったように、アルベルトがきょろきょろと周りを見回しながら、言った。
 腕が、ないんだ。探してるんだ。
 全裸で、ジェットの前に立っているのに、互いに、それを気にする風もない。
 どこかで落としたの?
 わからない。ただ、ないんだ。
 どこかに忘れてきたの?
 知らない。覚えてない。
 虚ろな声で、そんな答えを繰り返すばかりだった。
 気づくと、ジェットは消えていた。
 いつの間にか、周囲は真っ暗になり、それから、地面に広がる赤を見た。
 赤い、ぬるりとした水たまり。血溜まりだと気づくのに、そう時間はかからない。生臭い、体から流れ出たばかりの血の匂いが、どことも知れない、今、アルベルトがいる場所を満たす。
 その血溜まりに浮く、白い体。半分が、吹き飛ばされた、肉体。右腕は、そのそばに転がっていた。失った、生身の腕。見覚えのある、右腕。
 その、血まみれの腕を、赤い地面から拾い上げようとして、左腕を伸ばした時、後ろから、声を掛けられた。
 せんせェ、ほら、腕。
 振り向くと、ジェットが笑いながら、手にした腕を、アルベルトの方へ差し出した。
 肩から引きちぎられたように見えるそれは、どくどくと、ぎざぎざの切断面から、まだ血を流していた。
 受け取って、自分の右肩に、合わせてみようとする。
 肩の部分がないその右腕は、アルベルトの切断面には合わなかった。
 これは、違う。この腕じゃない。
 合わない腕を抱えたまま、それをどうしようかと思案するアルベルトに向かって、ジェットは、にっこりと笑って言った。
 そりゃそうだよ。それ、オレのだもん。
 頬と首筋に散った血、だらりと中身がなく垂れ下がる、上着の右腕、そこを染める、鮮血。
 すうっと、頬から血が引いた。
 いいよ、せんせェにあげるよ。オレは、せんせェのみたいな機械の腕、作ってもらうからさ。オレどうせ、左利きだし。
 まるで、上着でも貸してやるとでも言うように、ジェットが言う。いつもの、明るい口調で。
 その、自分のよりも長い、ジェットの右腕を抱えたまま、血の匂いの濃く匂う空間で、アルベルトは無言のまま立ち尽くしていた。
 目覚めた時に、ひどく頭が痛み、それから右腕に触れて、そこにあることを確認した。
 いやな夢だった。
 少しばかり熱が出て、それでも、重い体を引きずって、学校へ出かけた。
 幸いに、ジェットと直接口をきく機会はなく、向こうも、固い表情を崩さないまま、唇を引き結んで、アルベルトに近づこうとはしなかった。
 安堵とともに、味わったのは、軽い失望だった。
 恐らくこれで、もうジェットと立ち話をすることさえ失くなってしまうだろうと、アルベルトはそう思った。
 そう思ってから、ゆっくりと、出逢った最初の日のことから、ひとつびとつを、内側でたどってみた。
 ジェットのことを思うたびに、心のどこかが暖かくなるのは、どうしてなのだろう。あの、馴れ馴れしいほど近くに踏み込んできた彼を、嫌悪もなく受け入れたのは、なぜだったのだろう。彼と出逢ってから、街をひとりで歩くたび、隣りが、ふと薄寒いような気がするのは、なぜなのだろう。ジェットのことを思っては、ひとり笑いを漏らすことが多くなったのは、なぜなのだろう。どうして、この右腕を、ジェットが愛しいとさえ思ってくれていると、感じたのだろう。
 胸が、疼く。
 失ったのだと、そう思う。
 受け入れられるわけのない想いだから、受け入れてはいけない自分だから、これで良かったのだと思いながら、それでもアルベルトは、痛む胸を持て余している。
 もう、何度目かの溜息をこぼして、アルベルトは寝返りを打った。
 眠る気にはならない。本を読む気にもならない。頭の後ろが、熱のせいか寝不足のせいか、それともこの雨のせいか、ずきずきと鈍く疼く。
 雨音が、ひどく神経に障った。
 腹立たしげに、毛布を跳ね上げると、アルベルトは乱暴な仕草でベッドを降りた。
 苛立っている自分に、もっと腹立たしい思いをしながら、気分を沈めるために、お茶でもいれようかと思う。
 明かりをつけていない部屋は薄暗く、とりあえず、キッチンだけは明かりをつけた。
 湯を沸かす準備をして、その間、テーブルに坐って、頬杖をついた。
 冷たい、鉄の感触。この腕を、剥き出しにしたままで、誰かに差し出すことが、これから先あるのだろうか。誰かが、同情でも好奇心でもなく、アルベルトを見つめてくれることが、あるのだろうか。
 掌の中に、思わず顔を埋めた時、ドアのベルが、鳴った。どこか遠慮がちな、鳴らし方だった。
 まだパジャマのままでいることを、一瞬だけ気にして、アルベルトは急いで玄関へ向かった。
 ドアを開ける前に、もう一度ベルが鳴る。
 ドアの内側から、誰かを確かめることもせず、ドアを開けた。
 ジェットが、そこにいた。
 世にも情けなさそうな表情で、彼には珍しく目を伏せ気味にして、唇を噛んでいるのが見えた。
 「駐車場に、車あったから、きっといるだろうと思って・・・」
 言い訳するような口調が、いつもより子どもっぽく響く。
 戸惑いや困惑よりも、アルベルトが感じたのは、安堵だった。
 「つきまとうとか、そんなつもりじゃないけど、でも、オレ、せんせェに、どうしても言いたくて・・・」
 濡れた傘が、ジェットの足元に、水たまりをつくり始めていた。肩も髪の先も、少しだけ濡れている。
 家の中から、薬缶が沸騰する音が聞こえ始めた。
 「ちょうど、良かったよ。お茶でもいれようと思ってたんだ。」
 目顔で、中に入るように促すと、意外そうな表情が浮かぶ。数瞬、考えた後、ジェットはその促しに従った。
 「わざわざ歩いて来たのか、この雨の中?」
 うん、駅から、とジェットが小さく答えた。
 キッチンでお茶をいれるのは、ジェットの顔を見なくてすんで、都合が良かった。
 熱い湯を、ティーポットの注いでから、またジェットの方を見ないようにして、アルベルトはバスルームに、乾いたタオルを取りに行った。
 ジェットは、キッチンのテーブルに坐って、いつもより、少しばかり大人びて見える横顔で、テーブルの上に組んだ両手に、視線を落としている。
 タオルを投げてやると、それでも、少しだけ笑って見せた。
 何も入らない紅茶を、目の前に置いて、それから、ミルクと砂糖を並べた。
 「カゼでもひいたの、せんせェ?」
 ジェットが訊く。
 いや、と苦笑を返してから、ミルクだけを注いだ紅茶を、アルベルトは一口飲んだ。
 「顔色、あんまりよくないよ。」
 心配そうに、ジェットが言葉を継いで、それから、自分の紅茶にミルクと砂糖を、たっぷりと入れた。
 「雨が降ると、腕が痛むんだ。」
 「腕?」
 怪訝そうに、またジェットが訊いた。
 「ないはずの腕が痛む。あんまり、気分のいいものじゃない。」
 薄く笑って見せると、ジェットも、つられたように、少し笑った。
 しばらくの間、ふたりは何も言わず、向かい合って、視線も合わせないようにしながら、お茶を飲んでいた。
 口火を切ったのは、ジェットの方だった。
 あのさ、とジェットは言った。
 「オレ、やっぱり、フラれたのかなぁ・・・」
 首を傾げて、アルベルトは、ようやく、真っ直ぐジェットを見た。
 「・・・事故に遭った話は、したかな。」
 「うん、治るのに、3年かかったって。」
 ジェットの問いには答えずに、アルベルトは、考え込む顔つきをして、それから、ゆっくりと唇を開いた。
 長い間、誰にも話したことのないことだった。
 「車の事故だった。両親と、恋人が一緒だった。みんな、死んだ。目が覚めたら、右腕がなかった。ピアノを、諦めなきゃならなかった。大学も退学した。何度も死のうと思った。それから、父親の友人だったっていう、ギルモア博士が、腕を造ってくれた。それでも、長い間、友達もつくらなかったし、誰とも親しくならなかった。やっと、大学に行き直す気になって、卒業して、それから、国語の教師になった。」
 一拍置いて、言葉を続けた。いちばん大事なことを、言うために。
 「それから、君に出逢った。」
 ジェットを真っ直ぐ見つめたまま、言えた。
 ジェットが、アルベルトの言った言葉の意味を、正確につかもうと、その答えがあるかのように、アルベルトの眉間の辺りに視線を彷徨わせている。半分だけ開いた唇が、何か言いたげに、震えているように見えた。
 「だから、君の方が、いやになるかもしれない。右腕がないだけでも充分なのに、大学も2回行ったし、だから、新任のくせにもう27になる。昔のことから、まだ立ち直ってない。もしかすると、一生こんなままかもしれない。君には、重すぎるかもしれない。第一、教え子と関係を持つのは、基本的にご法度だから、そう思うと、踏み切れない。でも、どうするべきか、わからない。教師としての理性は、悪い冗談だ、と言うし、自分の本心は、君と一緒にいたいと言ってる。どうしていいのか、正直、わからない。」
 一気に言ってしまってから、自分が比較的冷静なことに、驚く。
 「それって、ようするに、オッケーってこと?」
 ジェットが、自分自身の言っていることさえ信じていないというような口調で、訊いた。
 「ちょっと違う、かな。様子を見よう、と言うのは、なしかな。」
 ジェットが、慌てて首を振る。
 「ありあり、脈アリなら、オレはなんでもいい。」
 ようやく、いつものジェットらしい口調になる。
 「もし、君が卒業するまで、気持ちが変わらなければ、その時きちんと考えよう。大体、受験生に、こういう話はご法度だろう。」
 「オレ、バスケで大学入るから、関係ないもん。」
 苦笑を漏らしてから、おとといから続いていた頭痛が、きれいに消えていることに気づく。
 首筋に触れると、気のせいか、熱も引いているような気がした。
 自分の現金さに、こっそりと苦笑いしながら、アルベルトは、また何かを信じてもいいのかもしれないと、微かに思う。
 ジェットが、アルベルトを、真っ直ぐ見つめていた。
 「せんせェのさ、恋人ってさ、女の人?」
 「ああ。」
 「すっげー好きだった?」
 「結婚しようと、思ってた。」
 ヒルダ、と、アルベルトは、心の中で、懐かしい名前を呼んでみた。そうしてから、ジェットと出逢って以来、彼女のことを思い出すことが、以前より減っていたことに、改めて気づく。
 そういうことか、と、思わず自分の中に呟いた。
 自分も、恋に落ちているのだと、ようやく自覚する。古い恋は、新しい恋によって癒される。おかしなことに、相手は、10も年下の、教え子なのだけれど。
 右腕を失くさなければ、ジェットに出逢うこともなかったのだと、それが、なぜだかおかしかった。
 すっかりいつもの調子を取り戻して、ジェットが言った。 
 「今度さ、映画見に行こうよ、せんせェ。」
 ああ、いいな、と答えて、アルベルトは、喉を伸ばして、マグを空にした。
 「夏休みさ、オレの全国大会終わったら、旅行行こうよ、旅行、ふたりでさ。」
 話の飛躍の仕方が、いかにも高校生で、アルベルトは苦笑の代わりに、顔をしかめて見せる。
 ヒルダ、ともう一度心の中で呟くと、ヒルダの幻が、にっこりと、アルベルトに向かって微笑みかけた。
 その笑顔が、なぜか、目の前のジェットの笑顔と重なったような気がした。