てのひらをかさねて


10) 1月

 そんな、切羽詰まった声で、電話して来たことなどなかったから、ジェットは、電話を置いた瞬間、リビングにいた、フランソワーズとジョーに、出掛けてくるから、と言い捨てて、家を飛び出した。
 まだ、ひとりでは車を運転できないことを、こんな時には悔しく思いながら、駅まで全力疾走する。
 ぜいぜいと息を切らして、まだ最終には間のある、人気の減った駅のホームで、ジョーに頼んで、アルベルトのところまで送ってもらえば良かった---友達のところだと言えば、あのジョーなら、深くは追求しないに決まっている---と、思ってももう遅い。
 ようやく来た電車に飛び乗って、またじりじりと、時間を確かめる。
 どうしたんだろう、せんせェ。
 腰を下ろすこともせず、停車する駅を数えて、電話の声を、思い出していた。
 来て・・・来てくれないか、今すぐ。
 かすれた声でそう言われ、何があったとか、そんなことは一切聞かず、今行くからと、投げるように電話を切った。
 ほんとに、どうしたんだろう、せんせェ。
 今さら、思い当たる原因を頭の中に並べて、不意に不安になる。
 ジョーの携帯電話を借りてくれば良かったのにと、また自分の迂闊さに気づいて、ジェットが、思わず唇を噛んだ。
 下りた駅から、人をよけながら、アルベルトのマンションまで、また全力疾走する。
 長い足を伸ばして、階段を3段置きに駆け上がり、ドアの前にたどり着くまで、足を止めなかった。
 ドアを叩いて、反応はなくても、ドアは開いていた。
 遠慮もなく中に入ると、アルベルトの姿はどこにもなかった。
 「せんせェ?」
 呼んだ途端に、どこかで音が消えた。
 バスルームから聞こえていた水音だと気づいて、そちらに向いてしばらく待つと、ほとんど間を置かずにドアが開いて、アルベルトが、濡れた髪をのぞかせる。
 ジェットを認めた瞬間に、ぱっと頬に血が上がる。
 戸惑ったような、困惑したような表情を見て、ジェットは、怪訝に思った。
 「どしたの、せんせェ?」
 開けたドアから、湿った暖かさも、湯気の気配も流れ出て来ない。
 傍へ寄って、濡れた髪に触れた。
 「せんせェ、もしかして、水浴びてたの?」
 隠し事を見つかった時のような反応が、びくりと、触れた肩から伝わる。
 「どしたの、せんせェ?」
 事の次第が見えず、ジェットは、本気の心配を込めて、また重ねて尋いた。

 
 訊かれたところで、はっきりと答えようもなく、アルベルトは、いっそう頬を赤らめて、ジェットの腕をつかんで、うつむいてしまった。
 皮膚が、一日中、ぴりぴりとしていて、それをどうしてなだめていいかわからず、どうしてそんなに、神経が立っているのか---苛立っているというわけでもなく---わからず、なぜかジェットに会いたいと、そればかり考えていた。
 会いたいと思ってから、声を聞きたいになり、その声が、ふたりの時にだけ聞ける、甘い囁く声に変わった頃、触れたいと思って、そうしてようやく、どうしたいのかに思い当たって、アルベルトは、誰にも見せられないほど、全身を真っ赤に染めた。
 追い払っても追い払っても、頭に浮かぶのは、ジェットの、裸の胸や肩ばかりで、長い腕が、シャツの下の膚に、直に回ることばかり考えていた。
 足に触れるジェットの掌や、右腕を滑る指を思い出して、それから、はっきりと、ジェットの体の重みを両脚の間に感じて、ほんの数瞬、椅子から立てないほど、躯のどこかが、甘く重く疼いた。
 必死で、昼間の顔を取り戻し、それでも授業に集中できず、板書のために向けた背中に、ジェットの呼吸を感じて、黒板に向いたこちら側で、せつない息がもれるのを止められない。
 気分が悪いと言って、早引けしてしまおうと、何度も考えながら、そんな不謹慎なことをするとくせになると、必死で、頬の赤みと闘いながら、午後のいちばん最後の授業まで、かろうじて耐えた。
 ここに来る時には、たいてい電話が先にあるから、今日はいつ頃来るのだろうかと、そわそわと電話を待ったけれど、こんな時に限ってジェットからの電話はなく、ついさっき、とうとう耐えきれずに、思わず切羽詰まった声で、ジェットを呼び出した。
 来る間が待てず、せめて、頬の赤みくらい消せるだろうかと、水を浴びていたら、ジェットが現れた。


 「せんせェ、顔赤いよ、熱でもあるの? 気分悪いの?」
 額に、大きな掌を乗せると、確かに、いつもより少し熱い気がする。
 真っ赤に火照った頬と、潤んだような目が尋常ではなく、救急病院は、どこにあるのだろうかと、そんなことに頭を巡らせる。
 アルベルトが、軽くかぶりを振った。
 「せんせェ、病気?」
 さっきよりも、もっと大きく、アルベルトが首を振る。
 何が何だかさっぱりわからず、うつむいて、色の失せた唇を噛んでいるアルベルトの、白くのぞく歯列を下目に見る。
 「でもせんせェ、気分悪そうだよ。」
 また、アルベルトが首を振る。
 「気分悪くないの? でも顔赤いよ、せんせェ。」
 顔だけではなく、ゆるいパジャマの首元の辺りも、真っ赤になっている。
 水を浴びたばかりらしいというのに、つかんだ腕から伝わる体温も、掌に熱いような気がした。
 とりあえず、ベッドに寝かせた方が良さそうだと、ジェットは思った。


 ジェットの掌から、びりびりと、電気のように、流れてくるものがある。
 黙って引き寄せて、接吻でもしてしまえば、事の次第を悟ってくれるのかもしれないけれど、自分から誘ったことなど皆無なアルベルトには、そんなことさえ、しようと思えば、死ぬほどの勇気がいる。
 口にするなど、たとえ死んでもできそうになかった。
 どうやら、病気だと思い込んでしまったジェットは、そこから先を考え直す気はないらしく、真剣に心配そうな表情で、アルベルトの手を引いて、ベッドに連れて行った。
 それでも、もしかすると、いつものように、そこへ行ってしまえば、何とかジェットに悟らせることができるかもしれないと、一縷の望みをかけたけれど、こんなことには、特に疎い---アルベルト同様---ジェットに、ベッドの中にしっかりとたくし込まれ、それ以上、触れてくる気配さえない。
 せめて、傍にいてくれないかと、毛布の下から手を伸ばして、ジェットの手を握ろうとした。


 伸びてきた指先が、強くジェットの掌に触れた。いつものように、おずおずとした触れ方ではなく、すがるように、逃がすまいとでもするように、ジェットの指を握りしめてくる。
 行くなと、言っているのはわかったけれど、どこにも行くわけないじゃないかと、そっとその指を外す。
 「寝た方がいいよ、せんせェ。オレ、帰らないからさ。」
 安心させるためにそう言って、微笑んで見せる。
 アルベルトの様子によっては、明日は大学を休もうと思いながら、また、そっと額に触れた。
 帰らないと言っても、一向に安心した表情を見せないアルベルトに、ジェットは、さらに不安をつのらせた。
 心細いのだろうかと、思って、ふと、ここからジョーに電話をして、車で迎えに来させて、このままアルベルトを連れて帰ってしまおうかと、乱暴なことを考える。
 なしくずしに、フランソワーズたちに紹介してしまうことにして、病人を、無下に扱うはずもないから、どさくさまぎれに、案外すんなりと受け入れてもらえるかもしれない。
 そんなことを考える自分も、アルベルトの様子のおかしさに、不安になっているのだと、ジェットは気づかない。
 薬でも飲ませた方がいいだろうかと、ふと、部屋のドアを、肩越しに振り返る。


 何の他意もなく触れられて、アルベルトは、よけいに体温が上がるような気がした。
 いつもと同じように触れてくれるなら、ジェットを、熱っぽく見上げるだけですむのに、今は、ただひたすら優しいだけのジェットの触れ方に、アルベルトは、心の底から焦れていた。
 せめて手を握っていようとしても、ジェットは、アルベルトを静かに寝かせようと、指を外してしまう。
 ベッドから飛び降りて、いきなり床に押し倒したら、どんな顔をするだろうかと、そんなことを思った。
 そんなことをしたら、これから先、二度とジェットの顔を、真っ直ぐに見れないだろうと、同時に思いながら。
 けれどこのままでは、アルベルトを無理矢理寝かしつけて、ジェットは、家に帰ってしまいそうだった。
 電話の、信じられないほど切羽詰まった自分の声を思い出して、アルベルトはまた頬を染めた。
 自分で動かない限り、ジェットは、何もせずに立ち去ってしまうかもしれない。


 「せんせェ、薬とか、飲んだ?」
 アルベルトが、まさか、という表情で首を振った。
 「じゃあ、薬飲んで、寝た方がいいよ。」
 諭すように言うと、いきなりアルベルトが、目元を歪ませて、肩を上げて起き上がった。
 唇を震わせて、訴えるように見つめられて、ジェットは思わず気圧されて、あごを引く。
 そう言えば、アルベルトは、あまり薬を飲むのが好きではなかったのだと、思い出して慌てる。それでも、こんなに様子がおかしいのに、眠れないなら、薬くらいは、無理にでも飲ませるべきだと、妙な責任感がわく。
 「ダメだよ、せんせェ、おとなしく寝てないとさ。オレ、薬取ってくるから・・・」
 言いながら、ドアに向けて肩を回した途端、腕をつかまれて、引き寄せられた。
 引き寄せられて、ベッドの上に、膝立ちになったアルベルトに、息が止まるかと思うほど強く、抱きしめられた。
 肩にあごを乗せて、いきなり自分の体を巻いた、アルベルトの熱さに驚きながら、ジェットは、病人相手に、ふとわいた自分の不埒な思いに、気づかれないように頬を赤らめる。
 戸惑いながら、ようやく自分を鎮めて、背中に腕を回しながら、なだめるように、掌を滑らせる。
 「どうしたの、せんせェ? 今日、学校で、なんかいやなことでもあったの?」
 何か、腹の立つことか、悲しいことか、いやなことか。それとも、誰かが、アルベルトの腕のことで、ろくでもないことを言いでもしたのだろうかと、ジェットは思った。
 思いながら、かすかに震えるアルベルトの肩に、パジャマの上から、そっと唇を落とした。


 抱きしめて、抱き寄せれば、さすがのジェットも、事態を悟ってくれるかと思ったけれど、アルベルトが病人だという考えを改める気は、一向にないらしかった。
 ほんとうに病気だと思っているのか、それとも、アルベルトをからかっているのか、そんなことを思い始めて、どこかで腹を立てている自分がいる。
 ジェットの鈍感さに、自分の、口にできない弱気は棚上げしたまま、アルベルトは、怒りも混ぜて、また頬を赤くする。
 苛立って、焦れて、腹を立てて、ジェットにしがみつきながら、ほんとうにこのまま、押し倒してしまおうかと、一瞬決心しかける。
 それでも、そうするには、まだどこか理性の残る自分がいて、そんなみっともないことはすべきではないと、囁き続けていた。
 抱きしめて、抱き返されて、けれど、それでもそれ以上は、先へ進まない。
 何か、学校であったのかと尋いてくるジェットに、アルベルトはまた、頭を振った。
 ジェットの腕が、ゆっくりと離れ、アルベルトの肩を押した。
 胸が離れ、ジェットがにっこりと笑う。
 「薬取ってくるから・・・オレ、どこにも行かないから。」
 どこにも行かせるもんかと、口にできないつぶやきを、ジェットの背中を見送りながら、胸の奥に滑り落とす。
 そう思うなら、思う通りに、舌に乗せればいいのに。唇を開いて、言ってしまえばいいのに。言ってしまえば、ジェットにも伝わるのに。
 素直に、ジェットが欲しいと口にできない自分に、いちばん腹を立てているのだと自覚して、アルベルトは、痛いほど強く、右腕を、左手でつかんだ。
 一向に治まる様子のない、体の奥の熱が、冷たいはずの右腕まで、ぬくめているような気がする。
 足音が、壁の向こうを歩き回った後で、ジェットが、水の入ったグラスを片手に、部屋に戻ってきた。

 
 ベッドに、ぺたんと坐ったままのアルベルトに、ジェットは水と、風邪薬のカプセルを、掌に乗せて差し出した。
 それをちらりと見てから、アルベルトが顔を伏せる。
 「ダメだよ、せんせェ、薬飲まなきゃ。飲んで寝たら、明日の朝、気分良くなるからさ。」
 アルベルトが、肩を落として、首を振りながら、違う、と小さな声で言った。
 「え・・・?」
 ゆっくりと、アルベルトが、首を傾けたまま顔を上げ、泣きそうな表情で、ジェットを斜めに見上げた。
 また、首を振る。
 「病気なんかじゃない・・・薬なんか、いらない。」
 首筋にまた、血が上がるのが見えた。
 「・・・一日中、君のことばっかり、考えてた。」
 カプセルの乗った掌が、汗をかき始める。表面が溶けるかも、とも思わずに、その手を、握るように閉じた。
 「薬なんか、じゃなくて・・・君が、欲しい。」
 掌の中で、カプセルが、くしゃりとつぶれた。


 言った瞬間に、全身から火を吹くかと思った。
 こんなことを口にする自分を、もしかして軽蔑でもしたのだろうかと、黙っているジェットを、そっと盗み見る。
 ジェットも頬を赤くして、するりとアルベルトから目を反らした。
 せっかく、本気で心配してくれていたのに、病気だと思ったのがこんなことで、呆れているのかもしれないと、アルベルトは、このまま消えてしまいたいと思った。
 もっと早く、素直に口にしていれば、軽蔑されることも、呆れられることもなかったのにと、自分の頑固さを、つくづく恨みながら、仕方ないなと、素早くあきらめようとする。
 こんな自分を、好きだと言ってくれるジェットの気持ちの方が、不思議だから。
 こんなに、意地っ張りで、かわいげのない、無知で、何の取柄もない自分を、好きだと言うジェットの方が、不思議だから。
 ジェットみたいに、何もかも、素直に、かわいらしく口にできればいいのに、と思った。
 どう言い訳しようかと、言葉を探しながら、また顔を上げた時、ジェットの腕が、肩を押した。


 「オレ、明日、大学休む。」
 ベッドの上に、体が重なる。
 「せんせェも、明日は、病欠。」
 きっぱりと、宣告して、するすると、パジャマを脱がせにかかる。
 普段にない手際の良さで、アルベルトを裸にすると、それ以上は何も言わせずに、唇を重ねた。
 欲しいと、口にしてくれただけで、充分だった。
 オレ、鈍感でごめんね、せんせェ。
 そう耳元で囁くと、アルベルトが、泣くほど潤んだ瞳で、ようやく安堵の色を浮かべて、見上げてくる。
 まだ濡れている、アルベルトの髪に指を差し入れながら、後でゆっくり、熱いシャワーを一緒に浴びようと、ジェットは思った。思って、アルベルトの、火照った体を抱き込んで、その熱を、自分の皮膚に移してゆく。