てのひらをかさねて


9) 12月

 寒い寒いと、まだマフラーに鼻まですっかり埋めて、ジェットが中に入って来た。
 ドアが開いた瞬間に、もうケトルに湯をわかし始め、熱い紅茶をいれるために、マグカップも出す。
 外に比べれば、ずいぶんと暖かい部屋の中にいるアルベルトに、ジェットが、一瞬目を細め、どこかまぶしそうな目つきのまま、ようやくマフラーを取る。
 「寒いの、きらいだよ、オレ。」
 「平気な人間はいても、大好きな人間は、あまりいないな。」
 「いつかもっと、南の、あったかいとこ行こうよ、せんせェ。」
 いつか、というのがいつ頃のことなのか、行こう、というのが、ただ訪れるという意味なのか、そこに住みにゆこうということなのか、言われて一瞬の間に、言葉の間の足らなさを、つい考えてしまう。
 もっとも、きちんとわかるようにジェットに言われれば、返事に困ることはわかっていて、そこに口出しすることも、問いを追加することもあえてせず、アルベルトは、とりあえずにっこり笑って、湯気の立つ、熱い紅茶のマグを、ジェットに差し出した。
 さっきまで坐っていた、ジェットの向かいにまた腰を下ろす。 
 自分の分の紅茶は、すでに2杯目だったので、しおりを挟んだ本をまた取り上げ、膝の上で開いた。
 「せんせェ、冬と夏と、どっちが好き?」
 落としたばかりの顔を、本から、ゆっくりと上げる。
 「さあ、どっちだろうな。」
 少し首を傾げて、ちょっとだけ、考える表情になる。
 「・・・君はどっちだ?」
 考える時間を稼ぐために---それから、実のところ、ジェットの質問の真意を探るために---、またにっこりと聞き返す。
 ずずっと、音を立てて、ジェットが熱い紅茶をすすった。
 「夏かなあ、バスケのシーズンだし、夏休み長いし、オレ、寒いのきらいだし。」
 ジェットらしい、子どもっぽい答えに、アルベルトはくすりと笑う。
 「せんせェは?」
 まだ、少し考えて、正直に、思ったままを答えても、ジェットは別に傷つかないだろうと思った。
 「・・・冬の方が、自分のためには楽かな。服を着込んでも、誰も奇異には思わないし、腕を隠すのは、冬の方が楽だな。」
 以前ほど、病的に心配はしなくなったけれど、それでも、まだ半袖のシャツを着たり、腕そのものをあえて人目に晒すことには抵抗がある。手袋をまったく着けなくなって、少しずつ、周囲を自分に、自分を周囲に馴染ませながら、来年には、半袖くらい着てみようかと、ひそかに思っていたりもするけれど。
 「そっか・・・。」
 よけいなことを訊いたかなと、ジェットの、ちょっと突き出した唇が伝えて来る。ごめんなさいと、伺うように上目に見る、緑の瞳が言っていた。
 君が気にする必要はないんだと、肩をすくめて、軽く微笑んで見せた。
 「・・・オレ、せんせェの腕、好きだけどなあ。」
 ジェットの手が、テーブルの上で、アルベルトに向かって伸びてくる。
 膝の上で、本に添えていた右手を、ジェットに向かって差し出した。
 「いてっ!」
 上を向いた、銀色の掌に、指先から掌を重ねようとしたジェットが、指先同士を触れ合わせた途端、弾かれたように、指を宙にはね上げた。
 アルベルトの方にも、軽いショックがあり、ジェットのように、叫ぶほどではなかったけれど、はじかれるようなその感覚に、アルベルトも、ちょっとだけ肩を引いた。
 「いってェ。」
 肩の線で手を振りながら、ジェットが顔をしかめている。
 それを見て、アルベルトはまた、手を膝の上に置いて、うつむきながら、頬を赤く染めた。
 「ああ・・・静電気だ。」
 「静電気?」
 ジェットが、自分の指先を、不審げに眺めて、声を高くする。
 「冬に、空気が乾燥すると、よく起こるだろう。」
 金属に触れると、という部分は、あえて言わないことにした。
 そう言えば、ジェットに出会うまで、誰かがこの手に触れることなど、考えなくても良かったのだと、改めて気づく。触れれば冷たいこの手に、そんなことが起こると、心配する必要もなかったのだと、今さら気づいて、アルベルトは、ほんの少し皮肉に笑った。
 膝の上に置いた、銀色の手を眺めながら、ほんの少し、自分が傷ついているのだと、思う。
 しばらく、右手でジェットに触れるのはよそうと、心のすみに、メモをする。
 笑えない顔を隠すために、また、本の上に視線を落とした。
 ジェットがまた、凝りもせずに、手を伸ばしてくる。
 それを上目にちらりと見て、わざと、今度は左手を差し出した。
 「そっちじゃないよ、せんせェ。」
 機械の方の、右手を出せと、ジェットがテーブルの軽く叩いた。
 動きを止め、まだ膝の上にある右手と、少しだけ真剣な顔つきで自分を見ているジェットを、アルベルトは交互に見た。
 うっすらと、ため息をこぼして、つっかかるような思考を、自分の中でなるべくまとめながら、唇を開く。
 「・・・冬の間は、また、手袋でも、した方がいいのかもしれない。」
 ジェットが、はっきりとわかるほど大きく、眉を寄せて、顔をしかめた。
 「触れば、いつも冷たいし、悪いだろう、そんなの。」
 テーブルの上の手を、自分の方へ引き戻して、ジェットが、椅子の背中に、体を投げ出した。
 「・・・せんせェが、寒いんなら、手袋でもなんでもすれば? でもさ、他の人に気つかって、わざわざ手袋なんかはめることないよ。別に、生身の手だって、年中冷たいヤツいるし。でもそいつら、別に手袋はめないとまずいとかって、思わないだろ?」
 珍しく、口がよく回る。
 ほんとうに、ジェットが腹を立てかけているのだとわかって、アルベルトは、少しだけ驚いた。
 「こういう手なんです、なんか問題ありますか?って、せんせェは堂々としてればいいんだよ。誰かなんか言ったらさ、別になにも言わずに、じっと目見返したら、絶対、向こうの方が、あ、まずいこと言ったって、思うから。」
 「そういう、ものかな。」
 「うん、そういうもんだよ、せんせェ。」
 ジェットが、口調と同じほど、力強くうなずいた。
 アルベルトを慰めるためではなく、ジェット自身が、ほんとうにそう信じているのだと、はっきりとわかる力強さだった。
 自分にはないもの、とアルベルトは思う。
 否定されたことがないゆえなのか、否定されても、はじき返せるほど、元々が強い人間なのか、はっきりと自覚はないくせに、自己認識の度合いが、驚くほど高い。
 自分はこういう人間なのだと、常に頭を高く上げて、周囲の非難の視線を、難なくはじき返してしまう。
 傷つかないわけではない。けれど、自分を肯定するのに、他人の評価も、おもねる視線も必要とせず、うらやましいほど、ジェットは強い。
 自分にはないもの、とアルベルトはまた思った。
 普通ではなくなってしまった自分を、常に恥じて、人目から隠すことばかりに腐心していた自分と、目の前のジェットの、大きな違いを今さら思い知る。
 自分の弱気を、アルベルトは、思わずふっと笑った。
 腕を、まだ差し出さないアルベルトの方へ、ジェットがやって来た。
 椅子を、アルベルトの傍に動かして、すぐ横に坐り、膝の上の手を取る。
 いとしげに、両手ではさんで、自分の方へ引き寄せた。
 「冷たいのがいやだったら、オレがあっためるよ。」
 頬に、銀色の手が、重なった。
 「この腕も、せんせェだもん。オレ、せんせェが、腕があってもなくても、どんな腕でも、好きだよ。」
 真っ直ぐに、ジェットがそう言った。
 アルベルトは、思わず頬を染めた。
 言われた言葉に対してでなく、まだ、生身の腕を持たない自分を、きちんと受け入れられない自分を、恥じたせいだった。
 いつかほんとうに、ジェットの言葉通り、ジェットのように、頭を常に高く上げて、胸を張って、堂々と、自分の腕を人目に晒すことができる自分が、どこかに現れるのだろうか。
 この腕を含めた自分を、自分自身だと、そう言える自分に、いつかなれるのだろうか。
 少しずつでも、ゆっくりでも、そうなれたらいいなと、アルベルトは、うっすらと思う。
 おそらくいつか、遠い先ではあっても、ジェットがいる限り、そんな自分に出逢えるのだろうと、そう思った。
 指の腹に、ジェットが、音を立てて口づけた。
 手を、頬に添えさせたままで、ジェットがにっこりと笑う。
 「夏になったらさ、半そでのシャツ、買いに行こうよ、一緒に、せんせェ。おそろいでさ。それ着て、どこか行こうよ。南の方。オレが運転するから。どっかから、チェロキー手に入れてさ。」
 「・・・初心者マークのついたチェロキーは、あんまり見たことがないな。」
 照れ隠しにまぜっ返すと、ジェットが頬をふくらませる。
 「いいんだよ、チェロキーはオレの夢なんだから!」
 ジェットのTシャツを着た自分の姿を想像して、アルベルトは、心の中でこっそりと笑った。
 それを見て、ジェットが、ふっと黙り込む。
 それから、アルベルトの手を、胸に引き寄せて、小さな声で言った。
 「・・・せんせェの手、今あっためても、いい?」
 うっすらと染まった目元で、誘われているのだと、一瞬の後で、悟る。
 ああ、と考える前にうなずいていた。
 ジェットの背中の皮膚の熱さを、掌に感じたような気がして、アルベルトも目元を染めた。
 腕を引かれ、ふたりで一緒に、ゆっくりと、椅子から立ち上がる。