てのひらをかさねて
3) 6月
ただいまとも言わずに玄関から入って来て、ジェットは、キッチンでちょうど紅茶をいれていたアルベルトを、リビングの方へ、ものも言わずに引きずって行った。
何ごとかと、首に巻かれた腕をゆるめようとしながら、アルベルトは、顔さえ見ないジェットの名を、呼び続けた。
ソファの後ろに押し倒されてから、ようやくジェットの目的を悟る。
「ジェット、ちょっと待ってくれ、ちょっと------」
手首をつかまれ、そのまま床に縫いつけられ、首を振ろうとする前に、ジェットが唇を重ねて来た。
体の重みで押さえ込まれ、舌を絡め取られてから、アルベルトは、諦めて体の力を脱いてしまった。
ここまで来れば、放っておいても、勝手にそんな気になってしまう自分の体のことはよくわかっていたし、何より、上に乗ったジェットの、もうすっかり形を変えてしまっている下肢の辺りが、なだめてほしいと、声のない信号を送って来る。
どうしたのだろうかと、少しばかり訝しがりながら、アルベルトは、ジェットの首に、解放された両腕を軽く回した。
シャツの裾を引き抜き、手を差し入れてくる。
指の長い掌が、みぞおちの辺りを撫でた。
動きはひどくせっかちで、いつもなら、先へと突っ走ろうとするのを、アルベルトに合わせて押し止めようとするのに、珍しいなと思いながら、アルベルトも、右の掌を、ジェットのシャツの上に滑らせた。
シャツの前をすっかりはだけてしまって、そこにジェットの唇が触れ始めても、そこから下に触れさせる気はなく、このまま、ここでさらに先に進もうとする気なら、腰の辺りでも蹴飛ばしてやろうかと思った時、ふと妙な動きをして、ジェットが、喉の奥で声を殺した。
体を浮かし、頬を真っ赤に染める。
アルベルトをまっすぐ見ることもせず、ジェットは、片手で目の辺りを覆ってしまった。
「ごめん、せんせェ、オレって、最低だよね。」
わかりきったことを、何を今さら言っているのだろうと、アルベルトは軽い腹立ちに唇を曲げ、何か言ってやろうとした時、ジェットがのろのろと体を起こし、それから、信じられないほど素早い動きで、バスルームへ走って消えた。
何が起こったのかわからず、乱れた格好で、床に半分体を起こしたまま、アルベルトはバスルームのドアを、呆然と眺めていた。
水を使っているらしい音を聞いて、初めて何が起こったのか、悟る。
ああ、そうだったのかと思ってから、一瞬に頬に朱が散った。
羞恥と、かすかな腹立ち。
あそこに昇れと、上の方を示され、ほとんど昇りつめた辺りで、突然、もういいから降りて来いと言われたような、そんな感じだった。
期待していた通りに、物事が進まずに、肩すかしを食らって失望しているのだと気づいて、アルベルトは、もっと頬を染めた。
ジェットがようやくバスルームから出て来た時、アルベルトは、冷めてしまった紅茶をいれ直していた。
その方をちらりと見て、うなだれているジェットに、けれど声はまだ掛けない。
大人気のない態度だとわかっていて、けれど、勝手に始めたのはそちらだろうと、そんなことも言ってしまいたくなる。
「ごめん、せんせェ。」
また、ジェットが、うつむいたまま言った。
どちらに対して言っているのだろうかと、アルベルトは思った。
突然、帰って来て、一言もないまま、いいかとも訊かずにアルベルトを押し倒したことに対してなのか、それとも、中途半端にアルベルトを放り出したことに対してなのか。
そして、自分はどちらに腹を立てているのだろうかと、アルベルトはまた思った。
「ごめんなさい、もうしません。」
何も言わないアルベルトに、怯えたように、生徒の頃の声音で、ジェットは重ねてそう言った。
紅茶を、まずジェットのためにマグカップに注ぎ、まだそれでも無言のまま、ジェットの前に差し出してやった。
「今度やったら、すぐに叩き出す。」
生徒を叱る時にさえ使わない、低めた声で、ジェットの額の辺りを見ながら言った。
ジェットはますます肩を縮め、受け取ったマグを両手で抱えて、またごめんなさい、と小さく言う。
「今日、オレ、なんか変で・・・」
自分の分の紅茶を注いで、アルベルトは椅子に坐ろうともしないジェットに付き合って、シンクに寄りかかって、熱い紅茶を一口すすった。
「せんせェのこと、ずっと考えてて、なんか、オレ変で・・・」
訥々と、とりとめもなく、話すというよりはつぶやきに近く、ジェットは紅茶の湯気の向こうで、まるで自分の中をのぞきこむようにしながら、言葉を取り出してゆく。
「しかたないから、トイレ行って、自分で済ましても、まだ変で・・・」
大学で、一体何をやってるんだと、思わずアルベルトは、カップを握った指に、力を込めた。
「オレ、ずっとせんせェのことばっかり考えてて・・・どうしようもなくて・・・だから・・・オレ、ごめんなさい。」
自己嫌悪、と大きく、額の上に字の並びが見えるような、顔つきだった。
自分が、18だった頃のことを思い出そうとして、思い浮かぶのは、ピアノに向かっている自分の姿ばかりで、こんなことに慌てた記憶など、一度もない。
個人差の大きいことだから、比べることなど出来ないのだろうと、教師で理性的なアルベルトは思えるけれど、ジェットの恋人であるアルベルトは、こんな扱いをされる覚えはないと、まだ少し腹を立てている。
有無を言わさず押し倒されてうれしいほど、子どもではないし、第一、無理にされるこちらの大変さがわかっていないのだろうかと、腹立ちまぎれにそんなことも思う。
それでも、こんなに素直にうなだれられれば、怒りよりも、思わず頬を撫でてやりたい気持ちの方が強く、アルベルトは自分に呆れながら、仕方ないなと苦笑をこぼした。
また紅茶を一口すすって、それで、と声を落とした。
「もう、治まったのか?」
まだ少し怒っている、けれど、もう許してやってもいいというトーンを、慎重に選んで、アルベルトは頬が赤くならないように気をつけながら、尋ねた。
眉間の辺りに、いきなり指先でも突きつけられたような表情で、また、ジェットが顔を赤くする。
口ごもってから、うつむいてしまい、小さな声が、聞こえた。
「・・・まだ、オレ・・・」
変だ、と言う部分は、もう省略した。
まだ口もつけていない紅茶のカップを抱えたまま、ジェットは、途方にくれた表情を、頬の辺りに刷く。
アルベルトは、明日はまた、1時間目から授業なのにと思いながら、ため息をこぼした。
ジェットが、アルベルトの方へ寄ると、手をつけないままのカップをキッチンのカウンターに置き、そっと唇に触れてきた。
「オレ、わかってるんだけど・・・でも、オレ、変だ。」
こんなに性急に求められるのは、もしかして初めてだろうかと、ジェットとの、長くはない記憶を手繰り寄せるようにして、アルベルトは、ジェットの頬に右手を添えた。
急がせないように、なだめながら、アルベルトはジェットの腰に足を絡めた。
さっきの自己嫌悪の名残りか、おとなしくアルベルトの手の動きに従いながら、ジェットは唇を引き結んだまま、ゆっくりと、いつもよりも時間をかけて、アルベルトの中に入り込んで来る。
自分の躯の熱さに戸惑いながら、アルベルトは、ジェットの肩に手を掛けた。
無茶はしないと、始める前に約束させた通り、肩を押せば素直に躯を引く。押し入るというとよりは、包み込まれに来るように、ジェットはゆっくりと、ゆるく動いた。
ジェットと、床の上で重なった時には、もう起こることへの期待で昂ぶりかけていた躯が、ジェットの形に添いながら、熱く融ける。
自分の方が焦れて、無茶をするなと言ったことを忘れたように、アルベルトは、ジェットの肩を叩いて、先へと促した。
不意に激しく動き出しながら、それでも時折、ふっと動きを止め、欲しがってジェットを見上げるアルベルトに、ジェットが接吻する。
頬や額、眉の間、唇とあごの先と、耳元や首筋、薄く張り切った皮膚を吸われ、アルベルトは思わず声を上げた。
耳や首筋を、ジェットの唇が滑るたび、躯の中がうごめくのが、自分でもわかる。
そんなことを、散々繰り返した後、ようやくジェットが、アルベルトの中で終わった。
繋がったまま、まだ未練げに、耳たぶを甘噛みながら、ジェットはアルベルトから離れようとしない。
アルベルトも、ジェットの背中にしっかりと腕を回して、流れるように触れるジェットの唇の感触が、まだ名残り惜しかった。
「もう少し、オレ、このままでいてもいい・・・?」
耳元でそう訊かれて、また、肩の辺りが震える。
ひどくしっくりと、躯の中を合わせたままで、ふたりはまだあちこちを、互いに探り合っていた。
「なんか、オレ、発情期みたいだよ、せんせェ。」
ジェットの指先が、髪を通った。
「ずうっとせんせェのことばっかり考えてて、なに見てもせんせェばっかり浮かんで、せんせェに会いたくてしかたなくて、本気で学校まで行こうかと思ってた。」
学校で押し倒されなくてすんで良かったと、ふと、冷静に思う。
ジェットの後ろ頭を軽くこずいて、ようやく、自分から躯を離した。
ジェットが、まだアルベルトの腕を離さず、そのまま後ろ向きに引き寄せられ、ジェットの胸に背中を重ねると、ジェットがまた、肩の後ろに口づけた。
前に回った腕に、手を添え、軽く目を閉じる。
まだ火照った膚に、ジェットの唇が、もっと熱かった。
「頼むから、もうおとなしく寝てくれよ。」
うん、と背中でジェットがうなずく。
ジェットの腕に重みをかけないように、もぞもぞと動きながら、ジェットが眠るまでは、眠れないかもと思う。
また背中に触れながら、ジェットが口を開いた。
「せんせェ、オレのこと、どのくらい好き?」
質問の唐突さに、アルベルトは思わず体をねじって、ジェットの方へ振り向いた。
肩越しに見たジェットの瞳は、問いの子どもっぽさと同じほど稚なく見え、アルベルトはふと、捨てられた犬や猫と、路上で視線が合ってしまった時のような、ばつの悪さを感じる。
ジェットが、アルベルトに巻いた腕に、力を込めた。
「どのくらい、オレのこと、好き? せんせェ。」
頭を抱えようかと思って、止めた。
その代わりに、額を押さえ、質問の場違いさだけは、ジェットに伝えようとしてみる。
「どのくらいって・・・計れるものじゃないだろう。」
「そうだけどさ・・・でも、オレ、知りたい。」
正論で返せば、感情論で戻って来る。
ため息をついて、アルベルトは、少しの間だけ、考え込んだ。
「例えば、君が突然いなくなれば、淋しい。君といたいと、いつも思う。明日死ぬなら、君と最期に、一緒にいたいと思う。」
「じゃあ、オレと、ずっと一緒にいてくれる?」
「そうなればいいと、いつも思ってる。」
素直に、正直に、飾らずにアルベルトは答えた。
必死にすがりついてくる、ジェットの腕に触れてやりながら、アルベルトは、ふと新しくわいた愛しさに、自分で困惑した。
「オレ、こわいよ、せんせェ。せんせェのこと、どんどん好きになる。せんせェのことばっかり、考えてる。バスケ好きだけど、せんせェがバスケやめろってオレに言ったら、オレ、全然言い返さずに、やめちゃいそうだよ。そのくらい、オレ、せんせェのこと好きだよ。せんせェいなかったら、オレ、死んじゃいそうだよ。」
何か、不安なのだろうかと、ふとアルベルトは思った。
躯を合わせても、心までは探れない。あんなに奥深く、躯の内側をを重ね合わせて、それでも相手の体温ほども、相手の心の中のことはわからない。
ジェットの内側にあるものを、のぞきこもうとして、それでもそこには、悩みなど、これっぽちもなさそうな、いつも明るいジェットしか見えず、アルベルトは代わりに、ジェットの腕を解いて、胸に抱き寄せてやった。
肩に頭を乗せ、アルベルトの腕の中で、ジェットがおとなしく長い体を丸めた。
「オレ、せんせェしか見えないけど、でも、せんせェはどうかなって思うんだ。オレ、もう学校にいないし、せんせェが、誰とどこで何してるか、全然知らないし。」
「こっちだって、君が大学で何を誰としてるかなんか、全然知らない。」
「でも、オレ、せんせェ以外、見えないもん。」
「君以外、誰のことも、見てない。」
ジェットの語尾を引き取るように、そうまで言って、ようやく納得したように、ジェットが目を閉じた。
機械の右手で、ジェットの頬に触れ、アルベルトは、閉じたまぶたの上に、接吻した。
絶対はあり得ないから、こうして、躯を繋いで、愛を錯覚する。愛は錯覚でも、誰かを愛しく思うという、真実は存在する。
愛しいと思う気持ちを、いくら言葉で伝えたところで、抽象の羅列にしかならない。それでも、言葉以外に、明確にそれを伝える手段はなく、躯を交わして、言葉を交わす。
心変わりをしない保証はない。それでも、次の恋が、そんなに急いで現れるとも、とても思えなかった。
ジェットの不安の源が、わかるような気はしても、アルベルトには明確につかめない。
こんなことを、他の誰ともする気はないのに。
24時間、躯を繋げていれば、それで証しになるとでも言うのだろうか。
ジェットの若さと稚なさを、ふと肩に重く感じる。
その重さは、肩からぶら下がった右腕の、不自然な重さと、どこか似ているような気がした。
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