てのひらをかさねて


4) 7月

 車の群れの中から名前を呼ばれ、何かと足を止めて、声の出先を探す。大きな車の中から手を振る、久しぶりのピュンマの顔をそこに認め、ジェットは大きく笑み崩れて、そちらへ走って行った。
 車を路肩に止め、ジェットを待っていたピュンマは、ジェットが車の窓に手をかけ、相変わらずの笑顔で自分を見るのを、まぶしそうに、懐かしそうに、眺めた。
 「よお、どうしてるんだよ。」
 「相変わらずだよ。」
 肩をすくめ、少し大人びた仕草で、ジェットの問いに答える。
 車高の高い、大きなその車の中を覗き込んで、ジェットは軽く唇を鳴らした。
 「すげえ車だな、これ。」
 そう言ってようやく、助手席に、同じ年頃の女性が静かに坐っているのに気づく。
 「ボクのじゃないよ。父さんのだよ。ちょっと遠出するって言ったら、乗ってけって。」
 ピュンマが、ちょっと得意そうにアゴを上げる。
 奥にいる女性にちらちらと視線を当てながら、ジェットは、革張りのシートや、フロントガラスの上の方にある、用途のわからない様々な付属品に、目を奪われる。
 「で、君はどうしてる?」
 「え、オレ?」
 いきなり質問の矛先を向けられて、慌てて車から、またピュンマに視線を戻した。
 「マジメに大学行ってるよ。もっとも、バスケばっかだけどさ。」
 「レギュラー狙えそうなのかい、まさか。」
 「まさかとはなんだよ、まさかとは。1年レギュラー、狙ってるぜ、オレ・・・・・・って、言うだけタダだしな。」
 「・・・・・・相変わらずだな、君は。まあ、1年レギュラーは、高校と違うからね。夏の大会で会えるよ、とにかく。ジェロニモも、君に会いたがってたよ。」
 「オレも会いたいって、言っといてくれよ。」
 伝えとくよ、という笑顔を見せたピュンマに、ようやくジェットは、目くばせをして、奥の女性は何だと、視線で訊いた。
 ピュンマが、車から身を乗り出し、ジェットの方へ顔を近づけて、秘密めかして耳打ちする。
 「同じクラス取ってる子でさ・・・・・・まだガールフレンドじゃないけど、もしかしたら、そろそろかなって。」
 「まあ、うまくやれよな。おまえ、3点ゴール得意だろ?」
 「・・・・・・バスケと一緒にするなよ。」
 ピュンマが、唇をとがらせて見せる。
 「君こそ、大学で、女の子なんかよりどりみどりだろ?」
 突然言われて、思わずあごを引く。
 いや、オレはせんせェいるから。
 口の中でそう言葉を転がしてから、ああともいやとも言わず、少し困った顔で頬を撫でた。
 「バスケやってて、そんなの、見てるヒマねえよ。」
 正確には、他の誰も目には入らない。アルベルトの笑顔を思い浮かべて、ジェットは思わず口元をゆるめる。
 「まあ、いいや。そのうちまた一緒に会おうよ。」
 手を振って去ってゆくピュンマを見送る時に、車体の横にある文字が見えた。
 Cherokeeか、と何となくつぶやいた。


 「オレさ、免許取りたいんだけど」
 久しぶりに家族揃って取る夕食のテーブルで、ジェットは上目に、姉のフランソワーズの顔色をうかがいながら、そう言ってみた。
 「免許?」
 反応したのは、フランソワーズではなく、彼女の夫のジョーで、フランソワーズは、息子のイワンに食事を食べさせるのに忙しく、ジェットの声は耳に入らなかったらしかった。
 「いいじゃないか。君も大学生だし、夏休みに教習所に通えば。合宿っていう手もあるよ。」
 ジョーが、弾んだ声で言う。
 「そうね、今時免許くらいないと、就職とかアルバイトも、ね。」
 よだれかけの前を、スープで汚しているイワンから目を離さずに、フランソワーズもそう言った。
 「じゃあ、オレ、どっか調べて申し込むよ。」
 そうしなさい、とまた、イワンの口元に、小さなスプーンを運びながら、フランソワーズが言った。
 「ジョー兄(にい)、Cherokeeって、知ってる?」
 「Cherokeeって、Jeepの? 車のだろ。それがどうかしたの。」
 「いや、どんな車かな、と思って。」
 ピュンマが乗っていた、大きな角ばった車体を思い出しながら、ジェットはジョーの方を見た。
 「ボクも車は詳しくないからなあ・・・オルロード仕様とか、色々あるらしいけど。燃費があんまりよくないとか、まあ、高い車だよ。」
 「燃費って?」
 「ガソリン代がかかるってことだよ。」
 普段はろくに顔も合わせない義理の兄弟が、今日は珍しく会話をしていると、フランソワーズが思わず見返ったのに、ジェットは気づかない。
 「高いって、どのくらい?」
 「さあ、新車で400万くらいじゃないかな。」
 「400万?」
 ジェットが、フォークを口元に持って行ったまま、思わず叫んだ。
 「・・・・・・ひとケタ違うよ、それ。誰がそんな車買うんだよ。」
 「そりゃ、車が好きな人とか、お金がある人が買うんだろう。ボクは車に、そんな大金つぎ込む趣味ないけどね。」
 当然でしょう、とちらりとフランソワーズがジョーを見た。
 ジョーは慌ててそれから目を反らして、ジェットの方へまた振り向くと、引きつった笑顔を作る。
 「ふーん。今日さ、ピュンマに街で会ってさ、あいつが、親父さんの車だって、運転してたんだ。」
 そんなに高い車だったのかと、今さら驚いて、あの助手席の女性のために、おそらく父親に頭を下げたのだろうピュンマの姿が、ふっと脳裏に浮かんだ。
 「かっこいい車だけどさー。」
 「まず、免許を取ってから、車の話をしましょう。」
 ぴしりと、話を終わらせるように、フランソワーズが言った。
 ふたりに振り向いて、にっこりと口元は笑っていたけれど、目はすわったままだった。
 ふたり揃って、互いに目くばせをして、それから、フランソワーズに敬意の笑みを送ると、黙って食事を再開した。


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 汗で湿ったアルベルトの髪を撫でて、ジェットは、大きく息を吐いた。
 翌日がまだ日曜の、土曜の夜には、気兼ねをせずに、躯を重ねられる。
 じめじめとした梅雨が、そろそろ終わりに近づき、昼間の日差しは少しずつ凶暴さを増してゆく。まだ冷房を入れるほどではないけれど、それでも、こうしてふたりで抱き合った後には、シャワーをまた浴び直したいほど汗をかく。
 閉めていた窓を開けて、またベッドに戻って来てから、ジェットはアルベルトの首に両腕を巻いた。
 「オレさ、免許取るんだ。」
 唐突に言うと、こちらに背中を向けていたアルベルトが、ゆっくりと寝返りを打って、ジェットと向き合う形になる。
 肩まですっぽりと上掛けをかぶって、枕の中に頭を落ち着け、ひどくゆったりとした表情でジェットを見る。
 「教習所に通うのか?」
 「うん、来週申し込みに行こうかと思って。」
 「教官に、いじめられるぞ。」
 「せんせェもいじめられたの?」
 くすっと笑って、いや、とアルベルトが首を振る。
 上半身を少し起こして、肘を曲げて腕を立て、そこに頭を乗せる。アルベルトの、すでに睡魔に襲われかけているまぶたの辺りを眺めて、ジェットはふっと、柔らかく笑った。
 「ピュンマがさ、Cherokee、運転してたんだよ。」
 「彼が買ったのか?」
 「いや、親父さんのだって。」
 「・・・・・・だろうな、あんな高い車。」
 おや、知っているのかと、アルベルトの顔を見直す。
 「せんせェ、車のこと詳しいの?」
 アルベルトがまた首を振る。小さくあくびをこぼしてから、目元をこすった。
 「ジョー兄が、燃費が悪いとか、高いとか言ってたけど。」
 「趣味の車だな。通勤用にするような車じゃない。」
 ふーんと言って、またアルベルトの髪に触れる。
 「ピュンマさ、女の子と一緒に車に乗っててさ、すっげーかっこいい車だったから・・・・・・なんかオレ、あんな車でせんせェとどっか行けたらなって、思ったんだ。」
 アルベルトが目を開けて、上目にジェットを見た。一瞬考えるような顔つきを見せてから、唇の端を上げる。
 「君には似合いそうな車だな。」
 車とジェットを並べて想像して、ほんとうにそう思って言っているのだとわかったから、ジェットは素直に喜んで笑顔を作った。
 「あんなかっこいい車、ほんとに?」
 「・・・・・・君だって、かっこいいだろう。」
 わざと、軽薄な口調で、アルベルトはそう言った。
 「だって、オレ、せんせェに捨てられないように、一生懸命、努力してるもん。いい男になろうって。」
 「今でも充分いい男だから、勉強だけ頑張ってくれればいい。」
 ジェットの語尾を終わらせずに、かぶせるようにそう言うと、もう眠ってしまうために、アルベルトは目を閉じた。
 ジェットの腕が、そんなアルベルトを抱き寄せた。
 厚い肩に、唇が触れる。
 「じゃあさ、そのいい男と、せんせェ、一緒に海に行こうよ、夏休みさぁ。」
 満面の笑みを浮かべているジェットに、けれどアルベルトは反応しなかった。
 どうしたのだろうかと、下目にアルベルトを見ると、困ったように引き結ばれた唇の線が見える。
 眠ってしまって、聞こえなかったわけではないとわかって、ジェットは、怪訝に思いながら、肩に回した腕を揺すった。
 「せんせェ?」
 「・・・・・・夏休みは、どこにも行けない。」
 小さな声で、アルベルトが言った。
 ジェットは思わず体を少し離し、胸に顔を埋めて表情を隠そうとしたアルベルトの、少し硬張った頬に触れる。
 「なんだよ、それ、オレなにも知らないよ、せんせェの夏休みのことなんか。」
 高校の教師が、夏休みが取れないはずはない。ジェットは、止めることができずに、声を尖らせた。
 「・・・・・・手術があるんだ。腕を、取り換える。」
 また、小さな声で、アルベルトが言った。
 もしそんなことができるなら、アルベルトを引き起こして、肩をつかんで揺すぶってやりたいと、ジェットは思った。
 そうしないために、左手を握りしめ、ジェットはできるだけ穏やかに言葉を選んだ。
 「どこか、悪いの?」
 「単純に、老朽化らしい。指が、最近うまく動かないんだ。新しい腕は、もっときちんと動くし、もっと本物らしく見えて、耐久年数も長いらしい。今度は10年くらいは、交換しなくていいはずだって、そう言われた。」
 目を伏せたまま話すアルベルトに、ジェットは、低い声で、それでも穏やかさだけは保ったまま、言葉を継いだ。 
 「・・・・・・どうして、そういう大事なこと、オレが知らないかな。夏休み、どこか行こうって、もう去年から言ってるのに、オレ。」
 「手術の日取りが決まってから言うつもりだったんだ。」
 早口に、アルベルトが答えた。
 もっと早くに言わなかったことで、ジェットを怒らせてしまったことを、悔いている口調だった。
 そうとわかっていても、失望は抑えられない。ジェットは大袈裟にため息をついて、はっきりと唇を歪めた。
 「手術、いつ?」
 またアルベルトを抱き寄せて、アルベルトの悲しそうな顔を自分の胸に隠し、自分も、怒りを浮かべた表情を、アルベルトの視線から隠して、ジェットは硬い声で訊いた。
 アルベルトの、機械の腕が、背中に回る。
 「多分、今月の半ば。9月に学校が始まるまで、入院してる、と思う。」
 「恋人にさ、そういうこと黙ってるの、反則だよ、せんせェ。」
 「・・・・・・悪かった。」
 アルベルトの息が、胸にかかる。
 その吐息の感触に、思わず怒りが溶けてゆく。
 腕の中にいるのが、かけがえのない人なのだと、今さらのように思う。
 「じゃあ、罰だよ、せんせェ。オレが免許取って、いつかCherokee手に入れたら、言い訳無用で、一緒にどっか行こう。せんせェ授業中でも何でも、オレ知らない。オレと一緒に、黙って来るって約束してよ。いちばん最初に助手席に乗るの、せんせェだって、約束してよ。」
 アルベルトが、小さくうなずいた。
 「約束する。」
 はっきりとそう言ったアルベルトを、ジェットは強く抱きしめて、その髪に口づけた。
 夏休みの楽しみが、ひとつ確実に減ったことに、ジェットは胸の中で失望しながら、背中に触れる、もうすっかり馴染んでしまったアルベルトの機械の腕が、あと少しで、別のものに換わってしまうのだと思うと、ふと淋しさを感じた。
 アルベルトの一部として、この腕さえいとしいと思う。
 手術かと、その言葉に、かすかな不安を感じながら、アルベルトを抱きしめたまま、ジェットはようやく眠るために目を閉じた。