てのひらをかさねて


5) 8月

 ふたりで一緒に目覚めた日曜日の朝、並んで眠ったベッドの、並んだふたりの間に、卵があった。
 「なに、これ?」
 まだ、きっちりと開かない瞳のまま、ジェットが、白いそれを指差して、アルベルトを見た。
 「さあ、どう見ても、卵だな。」
 少しざらついた感触は、普通に、料理に使う卵と大差なく、ただ大きさは、ちょうどアルベルトの並べた両手に、すっぽりと収まるほどだった。
 大きくはないベッドに、大の男がふたり並んで寝ていて、朝までつぶれることがなかったのは、まず奇跡だけれど、ふたりはそれがどこから来たのかと言うことに、どうしてか言及できない。
 「とりあえず、壊さないように、タオルの上か何かに乗せておこう。」
 高いところに乗せておいて、落ちると困るなと思ってから、アルベルトは、どこかで小さな箱でも見つけて来ようと、その時思った。
 「せんせェ、これ、あっためるの?」
 「・・・・・・何が孵るんだ?」
 「・・・・・・知らないよ、そんなの。」
 珍しく、反抗するような口調で、ジェットが唇をとがらせる。
 正確には、知らないのではなく、知りたくないのだと、ふたりそろって、口にはしない。
 それでも、アルベルトが手に乗せたそれに、ふと興味がわくのか、ジェットが、そっとその表面に指を触れ、まるでそこにあるかもしれない体温を確かめようとでもするかのような、仕草を見せる。
 興味が愛しさに変わるのに、そう時間はかからなかった。


 大きなタオルに何重にもくるみ、近くの食料品店でもらってきた、小さなサイズの発泡スチロールの箱に納め、それをたずさえて学校へ向かう。
 一日中、片時も傍から離さない。
 アルベルトの、右腕の事情と相まって、また校内が騒がしくざわめいたけれど、アルベルトは、質問のない限りは、それを一切無視した。
 椅子に坐れる時間があれば、取り出して、腹の上に抱える。
 暖かさが充分なのかどうか、そんなことはわからなかった。それでも、ぽつんと放っておくわけにも行かず、ごく自然に、そんなことを始める羽目になった。
 片手には、少し大きい。右手で触れるのに、最初はためらいがあった。うっかり、力を入れすぎて、壊してしまいそうで。
 何の卵ですか?
 当然の質問だった。
 わからないんです。
 アルベルトは、少し困惑を刷いた笑顔で、そうとだけ、答えた。
 ほんとうに、わからなかった。
 どこから来たのか、何の卵なのか、ほんとうに、孵化するのか。
 それでもアルベルトは、義務心からではなく、小さな無力なものに対する、ごく普通の愛しさから、その卵を、抱え続ける。


 卵の出現以来、ジェットは、以前よりももっとまめに、アルベルトの家にやって来るようになった。
 「かえった?」
 靴を脱ぎながら、玄関から声を投げる。
 ここにいる間は、ジェットが卵を抱える。
 長い両腕に、そっとくるみ、タオルの中から、ほんの少し顔をのぞかせた白い卵を、ジェットは愛しげに抱く。
 今は冗談で、
 「オレとせんせェと、どっちが生んだんだろうね、この卵。」
と、言えるようになった。
 ふたりの間に生まれたのだと、冗談にせよ決め込んだその口調を、アルベルトは、心の底から愛しいと思った。
 ベッドに持ち込むことは、さすがに出来ず、夜、ふたりで眠る時には、まるで儀式のように、箱に敷いたタオルの上に卵を乗せ、表面を、まるで子どもの頭を撫でるように、撫でる。
 その横顔が、ひどく大人びて見えるのに、アルベルトは、こっそりと気づいていた。
 自分を抱くジェットの腕が、以前よりも優しくなったと思うのは、アルベルトの思い過ごしだったのだろうか。


 「名前、つけようか、この卵。」
 ジェットが言った。
 珍しく、ジェットが、卵を抱えて家に帰った日の翌日、突然そんなことを言い出した真意をわかっていて、アルベルトは、笑っただけで何も言わない。
 「名前、つけようか、せんせェ。」
 また、ジェットが言った。
 卵を抱えて椅子に坐るジェットを振り返って、アルベルトは、にっこりと笑って見せた。
 「ただの卵で、いいだろう。名前なんか、必要ない。」
 ジェットが、いきなり眉を曇らせる。
 「・・・・・・だってさ、せんせェとオレの卵だもん。」
 「小型のワニかもしれない。」
 「ワニでも、トカゲでも、なんでもいいよ。名前、ないと、かわいそうだよ。」
 子どもらしい発想だ。
 自分は冷たい人間なのだろうかと、アルベルトはふと思う。
 卵を、間違いなく愛しいと思いながら、それでもジェットのように、ふたりの間に突然出現した存在だとは、どうしても思えない。もっと正しく言うなら、そう、思いたくなかった。
 ジェットは、自分の子どもとして、卵を愛しく思い始めている。
 アルベルトは、そう思うことを、怖がっている。
 子どもを嫌いだとは思わない。それでも、こんなふうに、子ども的存在を間に置いて、ジェットと、ごく普通の恋人同士か夫婦のようなやり取りをするつもりは、少なくとも、まだない。
 「ただの、卵だ。」
 会話を終わらせるために、アルベルトはそう言って、ジェットに背を向けた。


 アルベルトに、そうとは言わずに、ジェットはひとりで卵に名前をつけたらしかった。
 怒られるとでも思っているのか、アルベルトには一切知らせず、卵と一緒にひとりきりの時にだけ、その名前で、卵に話しかけているらしかった。
 胎教、という、冗談にもならない言葉を思い浮かべて、アルベルトは、ひとりで苦笑をもらした。
 卵は、相変わらず無言のままで、見た目には、何の変化も見られない。
 ほんとうに卵なのだろうかと、アルベルトは時々思う。
 卵の形をした、卵に見える、他の何か------たとえば、実はこれは、ジェットが仕掛けたいたずら、という可能性もあった。
 何かを試されているのだろうかと思いながら、それでもアルベルトは、卵を抱え続けることをやめられない。
 始めたことを途中で放り出せない性格は、もちろんあるけれど、それよりも、認めたくはなくても、卵に対する愛しさがある。
 ジェットのように、まるで子どものように愛しいとは、思わないけれど、放り出せば、そこにころんと転がって、永遠にそのままでいるだろう、無力な存在を、無下に放り出す気にはなれない。
 壊れないだろうかと、最初はおそるおそるだったのに、今は、右手で、抱えることさえできる。
 名前かと、アルベルトは思った。
 今度、ジェットに、つけた名前のことを訊いてみよう。


 紅茶をいれて、皿に、クッキーを並べた。
 リビングのコーヒーテーブルにそれを置いて、ふたりは並んで腰を下ろしたソファの上で、互いに両腕を絡め、卵を抱いていた。
 この卵が、ふたりの間に現れてから、一体どれほど時間が経ったのだろう。
 孵るかどうかさえ定かではない、この白い卵を抱き続けて、それでもふたりは、文句も言わず、いつか孵ると、口には出さずに信じている。
 触れ合った肩と、左腕が、暖かい。
 アルベルトは、ジェットの、骨張った肩に頬を当て、このまま眠りに落ちてしまいそうになる。
 「何が、孵るんだろうな。」
 瞳を閉じたまま、囁くように言った。
 「ちっちゃいワニ。」
 茶化すように、ジェットが返した。
 ふっと、肩を揺らして笑う。
 「ここじゃ、飼えない。動物園にでも、連絡しないと。」
 「そしたらさ、動物園に、毎週会いに行こうよ。オレよりでっかくなるかもしれない。」
 楽しそうに、ジェットが言う。
 アルベルトは、また笑った。
 「・・・・・・そんなに大きくなっても、親のことは、覚えてるんだろうか。」
 親、と言うのが、卵を暖めている自分たちのことなのか、それとも、そもそもの最初にこの卵を生んだ、どこかの誰か、あるいはどこかの生き物のことなのか、あまり深くも考えずに、アルベルトは言ってみる。
 家族。自分が、失ったもの。取り戻すことはできず、時折、ふと恋しくなるもの。
 ジェット、とアルベルトは思った。
 ふたり。卵。子ども。親。子。ちいさなワニ。あるいは、小さなジェット。あるいは、小さなアルベルト。
 眠い、とアルベルトは思った。
 「鳥とかって、卵から孵って最初に見たもの、親って、思うんだろ?」
 「ああ。」
 短く、答える。
 「だったらこの卵も、オレたちのこと、きっと親だって思うよ。」
 アルベルトの、質問への答えにはなっていなかったけれど、ジェットの無邪気さが、今は、まるでくるまれた毛布のように、暖かく心地よかった。
 タオルにくるまれ、抱きしめられている卵。
 殻の中に、とろりとした粘膜に包まれて、膝を抱えて眠る自分が見える。
 ジェットに抱かれ、暖められ、愛され、名前をもらった卵は、自分なのだと、眠りに落ちる直前に、アルベルトは思った。


 奇妙な光と、ごそごそというかすかな音に目を覚ましたのは、ジェットの方だった。
 「せんせェ、卵がヘンだよ。」
 部屋のすみの箱の方を指差しながら、肩を揺するジェットに起こされ、アルベルトは、卵、と言われ、いきなり覚醒する。
 「どうした?」
 鋭く言って体を起こすと、まだ焦点の定まらない視界に、青白い光が入り込んできた。
 ふたりで慌ててベッドから飛び降りて、部屋のすみの床の上に置いてある卵の箱に、一緒に駆け寄った。
 タオルの上で、ことことと揺れ、卵の底から、光があふれる。
 「生まれるのかな。」
 ひとり言のように、ジェットが言った。
 それ以上は無言のまま、ふたりは、光る卵を、じっと凝視し続けた。
 ぴきん、と、小さな小さな音がした。それから、こつこつと、少しだけ音がして、卵の表面に、ひびが入る。
 ふたりは、額を寄せ合うようにして、もっと卵に顔を近づけた。
 光はもっと強くなり、こつこつという音も、少しずつ大きくなる。
 ふたりとも、抱き合った後で眠りに落ちたまま、全裸であることも忘れていた。
 長い長い時間が、経ったように感じた。
 突然、あふれていた光が弱くなり、ぼうっと卵を包むような、柔らかな薄黄色い光に変わり、それから、卵の表面に、ぱきりと音を立てて、小さな穴が開く。
 そこから、細長い、くちばしのようなものが、のぞいた。
 叫ぼうとして声が出ずに、ジェットが口だけぽっかりと開ける。
 そのくちばしは、また卵の別の部分を内側からつつき、ふたりの目の前で穴を次第に大きくしてゆくと、ようやく、どろりと濡れた頭を、殻の外に突き出した。
 自分の目の前にいる、巨大な生き物のふたりを、よくひらいてさえいない、黒い線のような両瞳で見つめ、ぎえ、と、かわいらしいとは言い難い、それでも、しっかりと、生きている声を出した。
 完全に割れた卵の殻の中に、すっくと立ったその生き物は、黒っぽい赤の体毛に包まれ、まだ、体は濡れている。
 丸い頭に、とがった細いくちばし。ひょろりと長い華奢な首から、ほとんどない肩を落ち、やけにバランス悪く見える足元まで、一気に流れる体の線。体の両わきに、ひらひらとした、中途半端な長さの、ひれのような両手が見えた。
 「・・・・・・鳥、かな。」
 ぎえぎえと泣き続ける、その小さな生き物に両手を伸ばしながら、ジェットが、細い声で言った。
 「ペンギンだ。」
 きっぱりと、アルベルトは答えた。
 ジェットが、まだぬるついて滑る小さな体を必死で両手に抱え、こぼれそうな笑顔で、アルベルトに差し出した。
 「生まれたよ、せんせェ。」
 「・・・・・・ワニじゃ、なかったな。」
 裸の胸に、ごそごそと動き回るペンギンのヒナの体が、冷たい。
 ジェットが、何か言った。
 顔を上げると、ジェットが、また何か言いながら、アルベルトの頬に手を伸ばす。
 この、ペンギンのヒナに、卵の頃からつけていた名前を、ジェットがつぶやいているのだとわかって、それなのに、名前の部分が聞き取れない。
 目を細めると、頬が冷たかった。
 「せんせェ、どうして、泣いてるの?」
 ジェットの、伸ばした手が、涙を拭うためだったのだと知って、アルベルトは、ゆっくりと、瞬きをした。


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 せんせェ、と呼びかける声に誘われて、アルベルトは、ゆっくりと目を開けた。
 白っぽい天井には、見覚えがある。
 視界の端に、見慣れた赤い髪が、引っかかる。
 乾いて、動かすとひりひりと痛む唇を、アルベルトは必死で開こうとした。
 「おはよう、せんせェ。」 
 ジェットの笑顔が、そこにあった。
 ペンギンだ、と思ってから、考える前に、微笑んでいた。
 「手術、終わったよ。もう、新しい腕が、接いてるよ。」
 ああ、そうなのかと、まだ少しぼんやりした頭の隅で、思うよりも、感じる。
 腕を動かそうと思ってから、いつもより長く時間がかかった後、シーツがようやく腕の形に盛り上がった。
 「もう、動くのか。」
 肩に走る痛みが、よけいに腕の存在を主張する。
 包帯を巻かれた右肩を、首をねじ曲げて眺めてから、アルベルトはまた、ジェットに視線を戻した。
 左腕をシーツの上に出すと、ジェットが、何も言わない前から、そっと握ってくれる。
 左手の甲に頬ずりされて、戻って来た、とアルベルトは思った。
 「手術、うまく行ったって。すぐリハビリにかかるってさ。」
 「・・・・・・取った方の、腕は?」
 「なんか、調べるとかで、研究室に持ってくとか、なんとか言ってたよ。」
 「見たのか?」
 語尾をさらうように、少し鋭い口調で、アルベルトは訊いた。
 うん、とジェットが、アルベルトの手に頬をするつけたまま、うなずいた。
 「気味が、悪かったろう。」
 やや、自虐的に言うと、あまり否定もせずに、ジェットが苦笑する。
 「血とかいろいろついてたし、なんか濡れてて、まあ、あんまり、抱いて寝たいとか思わなかったけど、でもさ、せんせェの腕だったんだから。きれいにして、調べることとか終わったら、オレがもらってもいいってさ。」
 「もらってどうするんだ、あんなもの。」
 「だって、せんせェだもん。」
 答えにもならない答えを、ジェットが無邪気に返す。
 アルベルトは、薄く笑って、頭を正面に戻すと、天井を眺めた。
 ゆっくりと瞬きを繰り返して、次第に落ち着いてゆく心の中で、目覚めるまで、見ていた夢を反芻する。
 それから、ゆるゆると、唇を開いた。
 「卵の夢を、見てた。」
 「卵?」
 「どこからか、卵が現れて、君と一緒に暖めるんだ。やっと卵が孵って、でも、君が卵につけた名前が、夢の最後で聞き取れない。」
 「卵から、なにが出て来たの?」
 「ペンギンの、ヒナ。赤い色だった。」
 アルベルトは、目を閉じた。
 手術の前の夜、たまたま開いた雑誌で、南極に生息するペンギンの、写真入りの記事を読んだせいの夢に、違いなかった。
 メスとオスが、交代で卵を暖める。育児も、一緒にやる。群れてぬくもりを取り、白い氷の大地に、黒々と存在する。
 あの、卵から孵ったヒナは、ジェットだったのだろうか、古くなってしまった腕だったのか、それとも、アルベルト自身だったのか。
 ジェット、と、意味もなく、アルベルトは、つぶやいた。
 「なに、せんせェ?」
 天井を見つめたまま、アルベルトは、唇を笑みの形に上げて、ゆったりと頭を振った。
 不安だったのだと、ジェットに言うのはやめようと、アルベルトは思う。
 もし、手術が失敗したら、もし、何か起こったら、もし、機械部分との拒絶反応がひどすぎたら、そんなことを、考えていた。口には出さずに、もし死んだらと、思った。
 死にたいと思った自分は、もう、どこかに消えていた。ジェットに、もう逢えなくなるなら、このまま、壊れた腕を抱えたままでもかまわないと、そんなことさえ思った。
 けれどそれを、ジェットに言うのはやめようと、アルベルトは思った。
 ふふっと、思わず笑いをこぼす。
 顔の筋肉の動きに刺激されたように、いきなり涙があふれた。
 耳まですうっと落ちて流れてゆく涙が、まるで、夢で抱いたヒナの体のように、冷たかった。
 「せんせェ、どうして、泣いてるの?」
 夢の中と同じに、ジェットが言った。
 伸びた指先が、涙の跡をたどる。
 ジェットの指に、頬をすりつけて、アルベルトは、真っ直ぐに、その緑の瞳を見つめた。
 「ただいま、ジェット。」
 思わずこぼれた言葉に、ジェットが、打たれたように、肩の辺りを揺らす。
 唇が、一瞬にして引き結ばれてから、それから、またゆっくりと、優しく開いた。
 「おかえり、せんせェ。」
 ジェットの頬に流れる、暖かな涙に向かって、震える指先を伸ばす。


                










































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