てのひらをかさねて
7) 10月
久しぶりに、ひとりで雑踏にもまれた。
腕のことが心配ではなくなって、いつもいたわるようなジェットの視線から、少しだけ離れてみたくて、ひとりで、いつもなら滅多と足を向けない、ひどく騒がしい街へ、肩をすぼめて入り込んだ。
この街には、誰もが知っている大きな書店があるけれど、そこへ今日は行く気にはならず、駅の反対側へ出て、いつもとは逆の方へ歩いて行った
ゆるい、小さな坂を上がりながら、以前にも前を素通りしたことのある店の前で、今日はふと、足を止める。
昔よく見ていたテレビ番組の、キャラクターたちの店は、どう言い訳したところで、アルベルト向きではなかったけれど、今日は何となく、子どもっぽい気分というか、自分の内側の、あまり外には出さない部分が自己主張しているような、そんな気がした。
小さく咳払いをして、そう言えば、小さな子どもがいても、別におかしくはない年齢に、そろそろ近づきつつあるのだと、ふとそんなことを思い出す。若い父親のふりをすることにして、店の中へ、肩を滑り込ませた。
色とりどりに飾られた、ありとあらゆる品物が、床から天井まで、びっしりと並んでいる。大半のものには、当然ながら気を引かれるわけもなく、少しだけ奥へ入ってから、居心地の悪い視線を、ゆっくりと店の中へ走らせた。
お、と眉が上がる。
ぬいぐるみ。大小さまざま、表情も服装もさまざまな、それ。
誰にも言ったことはないし、行動に出したこともないけれど、アルベルトは、こんなものが好きだった。
買って集めるには少々気恥ずかしくて、いつもはこっそりと、胸に抱いて感触を味わうくらいしかしないのだけれど。
ずらりと並んだその中に、一際目立つ赤いぬいぐるみがあった。
キャラクターの名前が思い出せず、手に取って、ついているタグを裏返す。エルモと、書いてあった。
「エルモ?」
そんな名前だったのかなと、思わず声に出した。
テレビの番組はともかく、好きなキャラクターだったのだと、改めて思い出す。
腕を失くして、ひとりきりだった。部屋に閉じこもり、外へ出るのは、冷蔵庫が空っぽになった時だけだった。
以前は興味もなかったテレビを、一日中つけっ放しにして、その前で漫然と、画面を眺めていた。
そうして過ごす一日が、ひとつひとつ重なってゆく。ただそれだけの、時間。
テレビからもれる、明るい笑い声や家族の姿に、何度か、空になったビールの缶を投げつけたこともあった。
それでも、この、エルモを見るたびに、かすかに唇がほころんだことを思い出す。
子どものための番組。真っ赤な毛のモンスター。一人称のない、キャラクター。小さな体に長い手足。大きく笑う、口元。
ああ、ジェットだ。
そう思ってから、慌てる。
暗い思い出が、エルモを通して、今は少なくとも、死にたいとは思わない程度に明るくなっている今に、繋がる。そんなばかなと思ってから、それでも、エルモとジェットが、目の前で重なった。
ジェットに魅かれたのは、まさかこのエルモを好きだったせいだろうか。
そんな、ばかな。
そう思いながら、ほんの一筋、否定できない何かがある。
見れば見るほど、似ているように思えた。ジェット、と小さな声で、呼びかけてみた。
抱きしめて、それから、体の向きを変えた。
珍しく会えなかった週末明け、月曜の夜に、ジェットがやって来た。
わざわざリビングのテレビの上に置いたエルモのぬいぐるみに、気づかれないわけもない。
「どしたの、これ、せんせェ?」
手に取って、ごく自然な仕草で胸に抱きしめて撫でながら、ジェットが怪訝そうに聞いた。
「なに、学校で女の子からでも、もらったの?」
さり気なく、そんなことも言う。
キッチンから、いれたばかりの紅茶をふたり分運んで来ながら、アルベルトは苦笑を口元に刷いた。
「自分で買ったんだ。」
隠すほどのことでもなし、とほんとうのことを言うと、ジェットが、いわゆる鳩が豆鉄砲をくらった、と表現される類いの表情に顔を変える。
「せんせェがこれ、自分で買って来たの?」
素っ頓狂な声を上げ、紅茶のカップを抱えて立っているアルベルトと、そのぬいぐるみを、交互に何度も見た。
肩をすくめ、アルベルトは小さな苦笑を、口元に刷いた。
「昔、まだ、右腕がなくて家に閉じこもってた頃、よく見てたんだ、セサミ・ストリート。」
「オレもガキの頃に、見てた記憶があるけどさー、ぬいぐるみ買おうとは思わなかったなあ。」
エルモとジェット、よく似たふたりが並んで、なんとなくおかしな光景だった。
「君に似てるから、買ったんだ。」
決して深刻さなど含まないように、気をつけながら、なるべくさらりと言ってみた。
ジェットが、いきなり静かになる。
言うべき言葉の見つからないように見えるジェットに、真っ直ぐ見つめられて、アルベルトは思わず頬を染めて、視線を反らした。
よけいなことを言ったかなと、ほんの少しだけ、後悔とも言えない後悔をしつつ、湯気の立つカップを、コーヒーテーブルに置いた。
ジェットが、そのエルモの頭を撫で、丁寧な手つきでテレビの上に戻す。きちんとそこに坐らせてから、ようやくソファの方へ来た。
「・・・・・・そういうこと言うと、オレ、せんせェに愛されてるって、うぬぼれちゃうよ。」
「いくらでも、好きに自惚れてくれ。」
カップの陰に口元を隠して、すらりと口にする。
ジェットが、うれしそうにへへへと笑って、頬に唇を寄せてきた。
「偶然だね、オレも、せんせェに似てるなあって、思ってさ。」
カップを持ち上げながら、ソファを背もたれにして、床に坐り込みながらジェットが言う。
「何が?」
ちょうど、右腕を伸ばしたそこにあるジェットの赤い髪に、掌を置いた。
ずずっと、熱い紅茶をすすって、ジェットが、気持ち良さそうに、肩をすくめた。
「ジェロニモん家に、今週末、ピュンマと一緒に行ってさ、泊まったんだよ。久しぶりにってさ。」
まるで、猫か犬にでもそうするように、アルベルトはジェットの髪を撫で続ける。
「ジェロニモ、猫拾ったばっかりでさ、もう、すげえ親バカ。」
「猫?」
「うん、猫。ロシアンブルーって言うのかな、雑種だけど、銀色みたいな毛の色で、薄い茶色のブチが入ってて、瞳がさ、ほとんど水色みたいなうすい緑色でさ、ちっちゃくて、かわいいんだ。」
ジェットが床からアルベルトを見上げ、目を細めた。その猫を思い出しているのか、うっとりと、淡い緑の瞳が潤んでいる。その瞳に笑いかけて、アルベルトは続きを促した。
「子猫なのか?」
「ううん、もう1歳以上って、獣医さんで言われたって言ってた。」
ジェットが、少しだけ遠い目つきになって、猫とジェロニモのことを、ゆっくりと話し始めた。
2、3日前から、家の傍で見かけるようになっていたのだけれど、せいぜいが近づいて撫でてやるくらいのことで、比較的人なつっこいその小さな猫を、ジェロニモは、どこかの飼い猫だろうと思っていた。
ところが、いつ見ても外をうろついていて、そのひどく痩せた体や、毛並みの悪さで、どうやら野良猫らしいと知れた。
生まれつきの野良にしては、人をあまり怖がらず---もっとも、体の大きさにも関わらず、ジェロニモはいつも動物に好かれる---、それでおそらく迷い猫か捨て猫なのだろうと、見当をつけた。
ある日、大学からの帰り、雨の中を家までの道を急ぐ途中、ふと、その猫のことを思い出した。
雨の中、どこかで濡れてるんだろうか。
小さな体が、降る雨に濡れた惨めな姿を思い浮かべて、それで、心を決めた。
家に帰ってすぐ、雨の中をタオルを持って外に出て、その猫を探した。
まるで、ジェロニモの行動を予期していたかのように、猫は、ジェロニモの家の、すぐ裏の軒下で、雨宿りをしていた。
ジェロニモを見上げて、みゅうと、細く鳴いた。
タオルにくるまれても抵抗もせず、胸に抱えると、途端に喉を鳴らし始め、もう、絶対に離れないとでも言うように、目を細めてすり寄って来る。
ざらりとした舌が、家の表まで歩く間中、あごを舐めていた。
猫用のエサなどもちろんなく、ミルクをやっている間に、電話帳で、近くに獣医はいないかと探す。
歩いて行ける距離に一軒、すぐに電話をかけた。
猫を、拾ったんです。
電話の向こうの、ひどく優しい声の女性が、すぐに連れて来てもかまわないと、言ってくれた。
財布の中の残額を思い浮かべながら、タクシーを呼んだ。
小柄な獣医は、ああ、かわいそうに、と言いながら、手早く猫を調べ、ひどい病気も怪我もないことを確認してくれた。
胃が、小さくなってるねえ。
声を低めて、ひとり言のようにつぶやく。
確かに、触れるのは骨ばかりで、腰の部分は、片手で回るほど細かった。
それでも、ジェロニモに向かって、元気に鳴き続けている。
ブドウ糖を注射しとこう。こんなに痩せてちゃ、急に食べると、体に悪い。
せいぜい子猫が少し大きくなったばかりだと思っていたら、口の中を調べた獣医は、その猫が、もうりっぱな成猫だと言った。
そんなに長く外をうろついてたわけじゃないだろうけど、どうやら捨てられる前から、あんまりゴハン、食べさせてもらってなかったみたいだね。
また、かわいそうに、と獣医は、小さな声で付け加えた。
この歳で、外にいて、避妊手術もしてなくて、妊娠した形跡がないってことは、栄養不良で、発情期がなかったってことかな。
尻尾を持ち上げて、その猫がメスであることを確認しながら、ため息交じりに獣医は言った。
猫のエサを、どこかで大量に買って帰ろうと、ジェロニモは思った。
「で、今は元気なのか、その猫?」
言葉の切れ目に、アルベルトは訊いた。
「うん、まだやせてるし、まだ少しおびえてるけど、100年前から、ジェロニモん家にいるってでかい顔で、家の中、うろついてるって。」
アルベルトの足を抱え込み、膝に頬を乗せる。耳の後ろを撫でられて、ジェットはわざと猫の真似で喉を鳴らした。
「ハラなんか、オレの片手握ったくらいしかなくてさ、肋骨、浮き出てるし、まだ毛並みもボサボサだけど、でも、ジェロニモのひざに乗ってさ、かわいいんだ。」
言いながら、シャツの胸ポケットから、ポラロイドの写真を取り出した。
「毛の色とか、瞳の色のせいなんだろうけど、見た瞬間、オレ、あ、せんせェだって、思っちゃってさ。」
差し出されたそれに、その猫を抱いたジェットが、写っていた。
細長い体で、ジェットの頬に向かって伸び上がっている、銀色の猫。薄茶のぶちが、なんとなくユーモラスに見える。鼻先に向かって、三角形に尖った顔つきは、少しだけシャム猫のようにも見えた。
少し長めの毛に覆われた尻尾は、それでも、元気にぴんと伸びて、体と同じほど長い。
「すごい美人な猫でさ、ジェロニモ以外にはまだあんまりなつかないみたいなんだけど、オレのことは好きみたいでさ。」
得意そうに、ジェットが言った。
なるほど、自分はジェットの目には、こういうふうに映っているのかと、改めて写真を眺める。
「まだ拾って2週間にもならないのに、ジェロニモのやつ、もうフィルム4本分くらい写真撮ったって。親バカだよ、あいつ。」
思わず、声を立てて笑った。
小さな猫の後を、カメラを片手に追いかける、大きな体のジェロニモを思い浮かべて、ひどくほほえましい気分になる。
「あのさ、せんせェ。」
急に声をひそめて、ジェットが言った。
アルベルトが、写真を返しながら、なんだ、と言うと、くすぐったそうに肩を揺する。
「いつかさ、一緒に暮らせるようになったら、なんか飼おうよ。猫とか犬とかなんか、そういうの。」
ジェットの髪に、今は銀色の指先を、そっともぐり込ませた。
返事の代わりに、ふふっと、軽く笑って、それから、思いついたように、またジェットに尋いた。
「その猫、名前は、なんて言うんだ?」
「クリスタル。」
ジェットが、愛しげに、透き通るようなその名前を、転がすように発音した。
「クリスタル。」
口移しに繰り返して、なぜかジェロニモではなく、ジェットの膝に体を丸めて眠る、その銀色の猫を思い浮かべる。
クリスタル---水晶---という名のその猫が、ピンクの口を大きく開けて、みゅうと鳴いた。
前 戻
次