「あらし」


11) 少年

 肩を揺さぶられ、ソファの上で目を覚ますと、もう、部屋の中には夜明けの陽が差し込んでいた。
 光を遮って、自分を起こした人物に、まだ少し焦点の合わない視線を向ける。
 白い髪の、がっしりとした肩の老人に、グレートは、無言のまま、質問をした。
 「終わったよ。まだまだ、安心はできんがな。」
 「腕は、どうなった?」
 老人は、目を伏せ、首を振った。
 「ここの設備で、元通りにつなぐなど、とても出来ん。」
 それでも、助かったのかと、グレートは大きく息をついて、またソファにばさりと体を落とした。
 「一体、あの子は何をされたんじゃ? ろくに太陽にも当たってないようじゃな。栄養失調に、発育不良、普通に健康になるのに、やれやれ時間がかかりそうじゃ。」
 「おれみたいな下衆どもに、酷い目に遭わされたらしいな。」
 「おまえさんたちみたいな、下衆どもに、な。」
 ふと、視線が絡む。
 物騒な研究に手を染めて、公けの場から追放された学者は、今は張に頼まれて、医者の真似事をしている。真似事とは言え、そこらの医者よりも腕は良く、この屋敷の地下にある医療設備は、小さな病院などより、よほど金がかかっている。
 警察に通報されると困る怪我人は、いつもここに運び込まれた。
 血塗れの、あの少年をここに運び込み、この元学者---ギルモア博士と張は呼んでいる---を叩き起こして、地下へ向かわせた。
 今はもう、すっかり夜が明けきっている。
 ふたりとも、くたびれた姿で、互いに見つめ合っていた。
 「何があったかは、聞かんよ。ワシが気になるのは、あの子が元通り健康になるかどうかじゃ。」
 「ぼろクズみたいになってるのか?」
 「・・・・・・それに近い状態じゃな。裂傷、打撲傷、擦過傷、鬱血、あの顔色じゃあ、内臓も機能検査をした方が良さそうじゃ。あんな子どもに・・・・・・」
 最後の辺りは、ひとり言のようだった。
 グレートは、上目にギルモアをちらりと見てから、ゆっくりとソファから立ち上がった。
 上着に袖を通してから、コートを視線で探し、あの少年を包んで、血塗れになったことを思い出した。
 ゆるめていたネクタイを締め直し、わざとギルモアの方は見ずに、言った。
 「ここで、しばらく預ってもらえるんだろう?」
 「仕方なかろう。とても動かせる状態じゃない。腕の良い看護婦と付添人を探さんとな。」
 「張大人のところへ、おれ宛てに連絡を入れてくれ、ギルモア博士。あの子のことは、しばらく他言無用だってのは、言うまでもないか。」
 語尾を茶化して、グレートは自嘲じみた笑みに、唇をひずませる。
 「ワシが何も言わんでも、どうせそのうち、何が起こったのかくらい、耳に入る。」
 「風の噂、結構結構。噂がいつも真実を伝えるとは限らない。」
 「火のないところに煙は立たんよ。」
 切り返されて、グレートは、ふと鼻白んだ表情を、ギルモアに向けた。
 「・・・・・・お互い、疲れて神経が立ってるらしいな。」
 「どうやらそうらしい。お互いに首の絞め合いを始める前に、とっとと出て行ってくれんか。張大人のところへ、忘れずに連絡を入れよう。」
 最後だけは、医者---にせものではあるけれど---らしく、硬い声で重々しく言うと、ギルモアはくるりと背を向けた。
 向けられた軽蔑に、けれど腹を立てることも出来ず、グレートは舌先を軽く噛んで、ここから出て行くために、玄関へ爪先を向けた。

 
 まだ早朝ではあったけれど、もしやと思って、グレートは真っ直ぐ自宅へは戻らず、張の店へ寄った。
 半ば期待した通り、張はひどい顔色で、事務室の机に坐って、キセル煙草を吹かしていた。
 「お互い、ひどい夜だったらしいな。」
 薄く笑ってグレートが言うと、張はにこりともせず、ぷうっと、煙を輪にして吐き出して見せた。
 「ワイの方が大変だったアルよ。」
 「・・・・・・ああ、わかってるさ。」
 素直に、すまなさを口元に刷いて、グレートはそう言った。
 で、と言うふうに、張は、キセルを灰皿の縁で軽く叩き、鋭くグレートを見る。いつもの柔和さは、もうない。
 「言ったことは守ってもらうアルね、ブリテンはん、あの子を見逃したら、何でもする、そう言ったアルな。残念ながら、五体満足で、ピンピンしてないアルから、その分は差し引くとして、ジョーのことは、ちゃんと穴埋めしてもらうアル。」
 グレートはネクタイをゆるめ、どさりと、机の前の大きな椅子に腰を落とした。
 「今ここで、頭を撃ち抜けって言うなら、そうするさ。」
 首を伸ばし、天井を見上げて、グレートは言った。
 「死にたい人間殺しても、ナンの得にもならないアルよ。」
 ずるりと、体を、下の方へずらす。だらしのない格好で、椅子の中で体の力を脱くと、グレートは昏い虚のような瞳で、それでも鋭さだけは消せずに、張を眺めた。
 「ブリテンはん、アンタはん、今日から、ジョーの店の管理してもらうアルね。そのうち裏の方も、アンタはんに責任持ってもらうアル。」
 「・・・・・・おれに、女衒の真似をさせる気か。」
 胸の前で両手を組み、そこにあごを寄せる。無駄とわかっていて、少しだけ、声に凄みを込めてみた。
 張は顔色ひとつ変えず、是とも否とも言わず、またじっとグレートを見やる。
 断れるはずもない。
 よりによっておれが、女子どもを集めて、下衆どもにいいようにさせて、その上前をはねるのか。
 ひどく自虐的に、それも、悪くはないかもしれないと思った。いやなことには変わりはない。ジョーのしていたことを引き継ぐなど、それだけでも充分に、膚に粟が立ちそうだった。
 それでも、張の部下を6人---うちひとりは、張の右腕だった---殺したことが、それで償われるなら、安いものだと、思う。
 そして、殺されずにすむなら、あの少年の行き先を、きちんと見届けることもできる。
 ひどく寛大な処置なのだと、グレートはわかっていた。
 「また、おまえさんには、でかい借りをつくったな、張大人。」
 「わかってるなら、馬車馬みたいに働くヨロシ。」
 「・・・・・・せいぜい、腕を奮うさ。」
 ふと沈黙が訪れる。グレートも張も、疲れきっていた。
 組織の中での争い事は、外へ漏れれば、ひどく面倒なことになる。仲違いがあるとわかれば、そのすきをついて、よからぬことを企む連中もいる。
 張が、どんな理由でジョーと、その部下が消えたのかを説明するのか、おそらく知る必要はないのだろう。グレートは何も知らない。いきなり早朝呼び出されて、ジョーの店を管理しろと、組織のボスである張に、言い渡されただけだ。
 ボスの命令に、逆らえるわけがない。質問すら、許されない。
 驚きうろたえながらも、グレートは新しい役目に全力を尽くす。友人であり、恩人であり、そして今ははっきりと自分のボスになった張のために。
 そのうち、噂が耳に入る。
 あの若いジョーとか言うのは、大人を殺して、後釜を狙おうとしてたらしいぜ。
 ピンハネがひどかったって話だ。
 何でも、店と、抱えてる女ごと、別の組織にこっそり売ろうとしたんだってな。
 ロクでもない失敗で、張大人怒らせたんだってよ。
 どれを、誰がほんとうだと思おうと、グレートには関係ない。何も知らない。そんな顔をして、必死に、張のために働けばいい。口を開く必要はない。
 それだけのことを、無言のまま、互いにわかり合って、グレートは、ゆっくりと瞬きをしながら、張に向かってうなずいて見せた。
 「アンタはんが来る前に、ギルモア博士から、電話があったアル。」
 突然、話が変わる。
 グレートは、睡魔に襲われかけていたまぶたを、慌てて押し上げ、正気に返ったようにまた張を見た。
 「あの子に何かあったのか?」
 出て来る前に、この店に連絡をくれと言ったことを思い出す。
 「何でもないアル。命助かった、その報告だけアルよ。ブリテンはん、アンタはん、あの子、どうする気アル?」
 そこは一向に、考えのない部分だった。
 見殺しに出来なかった。だから救った。少年は、生き延びた。けれど右腕を失った。そんな体で救われて、それを幸運と思うのかどうか、わからない。グレートは、大きく息を吐いた。
 「あの子、そんなに大事アルか?」
 血に濡れた銀色の、柔らかな髪の感触が、指先に甦った。
 グレートは、忘れようとして、決して忘れることのできない場面を、そっと胸の奥から引き出した。
 それから、ゆっくりと、乾いてひび割れた唇を開いた。
 「・・・・・・おれの最初の仕事は、スウェーデン人の売人だった。依頼人の商売敵だ。仕事は簡単だったさ。真夜中過ぎに、家に忍び込んで、バン、それだけだ。」
 銃声の音を口真似して、銃の形にした指先を、張に向ける。
 「誤算だったのは、やっこさんの娘が、目を覚ましちまったことだった。4つか5つの、ちょうど、あの子と同じような銀髪の子だった。ふらふら、おれがまだ、煙の出てる銃を構えてるところへやって来て・・・・・・」
 ばん、とまた銃声を口真似して、グレートは、銃の形の自分の手を見つめる。
 「小さな体だ、胸の真ん中を撃ったら、左肩の後ろに抜けて、肩が砕けた。眠そうな目を、開けたままだった。殺す必要はなかったさ、もしおれが、ちゃんと調べて、やっこさんがひとりじゃないとわかってれば・・・・・・だからおれは、あの子を、今度は見殺しにしたくなかった。」
 グレートの、弱々しい独白を聞いてから、張は、声に硬さを含めて、ぴしりと言った。
 「・・・・・・アンタはんの好きにするヨロシ。ただし、アンタはんがしたことと、あの子に起こったことと、それだけはしっかり口止めしとくアルね。」
 「わかってるさ。」
 そのためにも、生かして、手元に置いて、恩を売ればいい。
 自分がしたと同じことをしろと、張の、細い小さな目が言っていた。
 「ジョーが映画撮る決めた時に、あの子のこと、少し調べたネ。死体で見つかっても誰も文句言わないように。」
 「そんなこと、できるのか?」
 「こっちに売った先に連絡取ったアル。」
 で、とグレートは先を促した。
 「ハンガリー経由で、こっちに売られて来たアルよ。ドイツの組織に、親が売ったらしいアル。」
 「親が?」
 「珍しくもないアルね、そんなこと。」
 切り捨てるように言い放った張に、少しだけ目つきを険しくしてから、グレートは目を伏せた。
 「じゃあ、あの子はドイツ人か?」
 「英語もほとんど喋れない、ジョーが言ってたアル。」
 冷たい額を撫で、グレートは疲れたように、首を振った。深く重い溜め息を吐き出して、夕べ自分のしたこと、起こったことをじわりと反芻する。
 厄介な荷物を抱え込んだのだと、ようやく悟る。人を殺し、大きな借りをつくり、償いのために、汚い仕事に足を突っ込む。一度に、自分の肩にのしかかって来たことを、ひとつびとつうまく機能しない頭の中で数え上げながら、グレートは、やれやれと、思った。
 まるで冗談だ。自分がまいた種とは言え、ここまで重なると、ほとんど笑い話だ。
 思わず、笑い声を立てた。
 笑いながら、それでも、見殺しにはできなかった、すべきではないと、思う。
 気味悪そうに、自分を見ている張に構わず、グレートは、額に両掌を当て、いつまでもくつくつと笑い続けた。


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 1週間経って、ようやくほんの少し、ストリップバーの雇われ経営者の顔に馴染み始めた頃、ギルモアから連絡が入った。
 あの少年が目を覚ましたので、会いに来いと、素っ気なく言われ、グレートは、丁寧な礼を述べて、そちらへ行くと答えた。
 人目を避けるのが当然な訪問のため、ギルモアの屋敷を訪れるのはいつもなら夜だったけれど、今日は、店が開店したすぐ後、午後の少し遅くに、重々しい木の扉を、グレートは、遠慮がちにノックした。
 ギルモアが中から顔を出し、何も言わずに、2階の部屋へ案内してくれた。
 真っ白ではなく、ほんの少しベージュがかった壁のせいで、部屋の中は柔らかく明るく、広いその部屋の中に、ぽつんと置かれたベッドの上に、少年の姿があった。
 ベッドの傍にいた、看護婦の制服を着た、グレートより少し若そうな女が、部屋に入って来たふたりを見て、ギルモアに向かって軽く会釈をした後、静かに部屋を出て行った。
 「調子は?」
 「悪くはない。肩の傷がふさがるまでは、絶対安静じゃがな。」
 ベッドの傍には、華奢な木の椅子が、3脚ほど並んでいる。
 そのひとつを引き寄せ、ベッドの傍に坐って、グレートは、起きているのか眠っているのかわからない、ぼうとした少年の顔を見下ろした。
 首まですっかり毛布に覆われているせいで、おそらく包帯がしっかりと巻かれているのだろう右肩は見えなかったけれど、腕のあるべき部分のふくらみは、もちろんそこにはなかった。
 頼りない、薄い盛り上がりは、少年の顔色の悪さと相まって、まるで、遺体安置所で死体と対面しているような錯覚を呼ぶ。
 ほんとうに生きているのかと、心配になって、グレートは思わず、少年の額に掌を乗せた。
 掌の重みに、ふと、花の蕾がうっすらとほころびるように、少年がかすかに唇の端を上げた。
 笑いかけられたのだと悟るまでに、一瞬かかり、思いもかけない少年の反応に誘われるように、グレートも、薄く微笑みを返した。
 「名前は?」
 ゆっくりとはっきりと、もっと顔を近づけて尋いた。
 「・・・name?」
 オウム返しに、小さな声が返って来た。細い首に動く、骨張った喉仏は、もう少年が声変わりをすませていることを示していたけれど、その喉から出た声は、かすれていて、男とも女とも聞き分けのつきにくい声だった。
 「ああ、そうだ。名前は?」
 また、重ねて訊いた。
 「Albert Heinrich。」
 アルベルト・ハインリヒと、聞こえた通りになるべく近く、グレートは、口の中で繰り返した。
 いつの間にか、背中の後ろで両腕を組んだギルモアが傍に来ていて、ふたりの様子を、伺うように、ベッドの足元から見ている。
 「年は、いくつだ?」
 少年が、ふと怯えた顔を見せた。
 グレートを見てから、ギルモアに視線を移す。その少年に向かって、ギルモアが、何かわからない言葉で少年に何か言った。少年がそれに、同じ響きの言葉を返す。
 「16に、もうすぐなるらしい。」
 少年に変わって、グレートの問いに答えたギルモアを、グレートは、意外そうな表情で見やった。
 「ギルモア博士、あんた、この子の言うことがわかるのか?」
 ギルモアは、また、かすかな嫌悪を消しきれない表情で、苦々しい口調で、肩をすくめて見せた。
 「医学用語は、ドイツ語なんでな。」
 そうなのかと、素直に感嘆の色を頬に浮かべ、グレートはまた少年の方へ振り返る。
 震える手が、毛布の下から這い出て、グレートのまぶたに伸びてきた。
 グレートの、ほとんど見えない薄い眉に触れ、それから、額に触れた。
 少年の指先は冷たく、触れる力は、ほとんど皮膚には感じない。
 少年------アルベルトの指を握り、グレートは、薄い掌を、自分の両手ではさむように包んだ。
 「ゆっくり、眠るといい。ここでは誰も、何もしない。」
 言葉がわかったようにも思えなかったし、ギルモアも通訳をしなかったのに、グレートの言ったことを理解したとでも言うように、アルベルトがまた、微笑んで、少しだけうなずいて見せた。
 アルベルトの手を毛布の下に戻してやってから、グレートはゆっくりと椅子から立ち上がった。
 ギルモアの方へ向き直り、感謝の意味で、あごを軽く引いて見せる。
 ギルモアも、それに首を傾けて応え、部屋を出ようと言うように、ドアに向かって頭を振った。
 もう一度アルベルトを見下ろして、まだ自分を見つめていた彼と視線を合わせると、グレートは、大丈夫だと言うように、小さく2、3度うなずいて見せる。
 立ち去ろうと、肩を回した時、不意に、指先に、何かが触れた。
 振り向くと、アルベルトが、毛布の下から手を差し出し、グレートの指を握っていた。
 アルベルトと、その手を交互に見て、グレートは、不意に、泣き出したい思いに駆られる。
 一度、きしむほど強く奥歯を噛んで、目の奥に、突き刺すような痛みを感じながら、震える唇を開いた。
 「また、来る。」
 アルベルトの指を握り返し、グレートは、不覚にも潤んでくる瞳のまま、アルベルトの、水色の瞳の中に映る、小さく揺れる自分の姿を見下ろしていた。