「あらし」
12) Wild Thing
背中を押され、初めて会う、見知らぬ男の方へ、差し出された。腕を引かれ、車の中へ押し込まれ、これから何が起こるのか、背中を押した父親も、その見知らぬ男も、車の中にいた他の誰も、何も説明してくれなかった。
腕が伸びてくる。突き飛ばされ、殴られ、蹴られ、避けようとして、体を丸めた。力尽きる頃、引き裂かれるようなやり方で、強姦された。
それを強姦と呼ぶのだとは、もちろんその時は知らなかったけれど。
苦痛が日常になり、日常が苦痛になった。
光の差さない部屋の中で、怯えて泣いて、同じように連れられて来た少年たちと、家族の話をした。
母さん。誰もいない宙に、腕を伸ばす。
助けてと、叫んだところでせせら笑われる。
日を数えることを忘れ、今日の次は明日、明日の前の前は昨日、そんなふうに、時間が過ぎてゆく。
ゆき過ぎる寒さと暑さを、何度か耐え、殴られないために、大人たちに気に入られる術を、ささやかながらも身に付け、生きていれば、いつか逃げ出せるかもしれない、家族にまた会えるかもしれないと、起こるはずがないとわかっている未来に、虚ろな希望を抱いた。
朝を待たずに、眠りの中で死んだ少年や、人間の形をとどめずに殺された少年や、大人たちの目をかすめて、自ら命を断つことを選んだ少年や、そんな中で、死も暴力も、空の色が、毎日変わる程度の意味しか持たず、少しずつ、体も心も擦り切れていった。
舌の使い方が下手だと、ひどく殴られた翌日、別の場所へ運ばれた。
そこでは、誰も知っている言葉を話さず、また、何が起こっているのかわからないまま、小さな箱に押し込まれた。
長い長い、息苦しい時間の後、ようやく、光の差すところへ、引きずり出された。
薄い、茶色い髪の、優しげな男が、あごをしゃくった。腕が無数に伸びてくる。
また始まる、と思う。
押さえつけられ、裏返された体に、容赦なく加わる力。暴力が、注ぎ込まれる。もう、叫ぶ声すらない。
もっとも、叫んだところで、ここの大人たちは、こちらの言葉を解さないのだけれど。
助けて。固い床をもがいた指で引っかき、右手の爪が割れた。血が流れ、その手を、あの茶色い髪の男が踏みつける。
大人たちが、ようやく去った後、茶色い髪の男に、あごを強くつかまれた。
また、舌の使い方が下手だと殴られないように、必死になって、男の手が促すまま、必死に顔を動かす。
いつの間にか、痛いほど眩しい光の中にいた。
固い、大きなベッドの上だった。男たちと、光と、下卑た笑い。
男たちのひとりが、思いもかけないほど、優しく触れた。
早口の、平たい声。跳ねるようなリズムの会話は、薄笑いに満ちている。
逃げるな、逆らうなと、言われたことはわかった。
優しく触れられ、それから、頬を殴られる。また優しく触れられ、今度は首を絞められた。
押し潰された気管に、空気が戻って来た時、神経に突き刺さる針のような、高い連続音が耳に入る。
辺りはまだ光に満ちて、大人たちの腕が、体を押さえつけた。
指先すら動かせない。音は次第に近づいて来て、その正体を視界に入れた瞬間、音は、右耳のすぐ傍に移動する。
叫んだ。と、思った。
一瞬。
血のしぶきが、視界を舞った。
キーンという、いやな音が、薄い肉を切り裂いた。ぶしゅりと、最初の一触れで、あっけなく骨まで剥き出しになる。
柔らかな筋肉と違い、骨に達すると、音は、ギーンという、もっと固い音に変わり、ぎしりぎしりと骨に食い込む。
跳ねる体を、大人たちが必死に押さえていた。
彼らにも血は飛び、赤く染まった彼らの顔は、目の前の光景を直視できず、あらぬ方向へ向けられている。
がくがくと、肩が揺れた。
正気は血に染まり、瞳と唇と喉は限界まで大きく開かれ、けれどもう、声はない。
耳の傍で、骨を削って断ち切ろうとする、大きな回る刃の音を聞く。
骨は、きりきりと回りながら食い込む刃に負ける。小さな骨片を辺りに散らしながら、ようやくがきりと、その巨大な刃は骨を断ち切った。
そちらに顔を向けると、血塗れの巨大な刃の向こうに、あるべきではない方向へ指の曲がった腕が見えた。
右腕。それだけは、わかる。
さっきまで、肩からぶら下がっていた、自分の右腕。
切り裂かれた、肩の断片の縁が見える。血の匂いに吐き気がして、そこから顔を背けた。
と、自分の上にいるのが、あの、茶色い髪の男に変わる。優しく冷たく笑って、肩の切り口に、顔を落として来る。
血の匂いなど、気にもしないふうに、ぺろりと血を舐め顔を上げると、それは、ジェットに変わった。
ジェットの顔が、目の前で、突然額から、砕けた。
潰れた、赤い果実のような顔が、上から降って来る。
抱きとめる腕は、あちらに転がっている。怯えよりも驚きで、何が起こったのかと、倒れてきたジェットの背後に視線をさまよわせ、それから、そこにグレートの姿を認めた。
その手に握られた銃が、ジェットの砕けた顔の原因だと、一瞬にして悟る。
無表情なまま、こちらに静かに歩いて来ながら、また持ち上がった銃が、こちらへ向いた。
「もう、誰にも指一本触れさせないと、言わなかったかな、My Dear。」
自分の血と、ジェットの血---いや、あの茶色い髪の男の血かもしれない---に染まったまま、不意に、グレートに笑いかけた。
突き出された銃に、残った左腕を伸ばし、そのまま、眉間に当てがった。
グレート。
名を呼んで、微笑んだ。
それから、目を閉じた。
静かに、引き金を引く、いとしい男の指を待つ。
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目が覚めた時、まるで、そこに何かがいたように、腕を宙に向かって伸ばしていた。
思わず頬を撫で、血などついていないことを、思わず掌に確かめる。
ひどく乱れたベッドの上で、もうひとりきりだった。
夕べ、思いもかけない成り行きで、秘密の時間を分け合った若い男は、朝を待たずに出て行ったらしい。
それに安堵し、けれど微かに失望もしながら、アルベルトは、ふと甘く自己嫌悪を味わう。
血塗れの夢だったと、それだけを覚えている。
もう、起きるべき時間をとうに過ぎているのに苦笑し、ようやく起き上がって、バスルームに向かった。
今日は、店を開けるのをよそうかと、アパートメントを出るまで思いながら、鈍く重く動く体を引きずって、それでも外へ出た。
車を運転しながら、ふとどこかへ飛ぼうとする意識を、ハンドルを握る手に集中させるのに、ひどく苦労する。
店に着いても、仕事をする気が起こらず、店は開けたものの、奥の事務所に閉じこもって、紅茶ばかり飲んでいた。
本を読んでいても、目は字の流れを追いながら、気がつけば、皮膚は、夕べのジェットの掌の感触を思い返している。躯の中の感覚を反芻しながら、鈍く、頭のどこかが疼く。
ぱたんと、音を立てて本を閉じた。
赤い髪。ひょろりと背高い体。長い手足。厚くはないけれど、筋肉のついた胸と肩。
それから、と思って、アルベルトは思わず顔を赤らめた。
左の掌に、熱さが甦る。舌の上に、苦さが蘇る。
口元を覆って、誰もいない小さな部屋で目を伏せた。
小さな部屋に息苦しさを感じて、また表の方へ出た。
あれこれ本を手に取り、意識を、ジェットからずらそうとする。無駄な努力では、あったけれど。
それから、不意に予感がした。
足音が聞こえたはずもなかった。
それなのに、外の方へ振り返って、たっぷり30秒数えた頃、長い足を持て余すような歩き方で、あの長身が肩を揺らしているのが、店の外の通りに、見えた。
いつものように、ドアのベルが鳴る。
今日の最初の客だった。
赤い髪、長身、長い手足。覚えている通りだった。頭の中で、朝からずっと思い出していた通りだった。
本を、思わず取り落として、慌てて床から拾い上げる。
「よォ。」
馴れ馴れしい口調。耳元で囁かれたのと、同じ声。
眩暈がしそうだった。
「まさか、今日店開けてるとは思わなかった。」
馴れ馴れしい笑顔。何度も、顔のすぐ上で眺めた。
視線が、知らずに、下の方へ下がった。
大きく開いた、タンクトップの襟ぐりから、胸へ、みぞおちへ、それから、もう少し、下へ。
熱さを、不意にまた思い出す。
ジェットが、口をつぐんだ。
無言で、ふたりで見つめ合っていた。
同じことを思い出しているのだと、視線の動きでわかる。
「アンタ、なんて瞳(め)で、人のこと見やがる。」
そう言われて、羞恥で頬に血が散った。
目を反らし、本を棚に戻して、カウンターの向こうへ入ろうと---そうすれば、安全な気がした---、そちらへ体をねじる。
ジェットが、突き刺すような視線で、それを見ている。
互いに、体が、別々の方向へ動いた。
アルベルトがカウンターへ向かう間に、ジェットは店を出て行こうとするように、表のドアの方へ向かった。
何か、期待外れのことでもあって、このまま立ち去ってしまうのだろうかと、また、安堵と失望が両方とも、首の辺りを疼かせる。
ジェットは、ドアのノブには触れもせず、ドアの上からかかっている、OPENのサインを、裏返してCLOSEDに変え、昨日、右腕を見せる前にそうしたように、表通りに面した窓のカーテンを、すべて閉めてしまった。
何をするつもりなのかは明らかだったけれど、アルベルトは、まるで、凍りついたように、カウンターの傍から動けなかった。
大きな歩幅でこちらに戻ってくるジェットの緑の瞳に、獣の気配があった。
獲物に食らいつく、一瞬前の、狙いを定めた、肉食獣の瞳。
熱が、音を立てて、血管を流れる。
首の後ろを、強くつかまれた。
「店、閉めちまえよ、今日は。」
「誰かが、もう勝手に閉めたらしいな。」
「アンタだって、ここになんか、いたくないだろ?」
顔が、近づいて来る。
息が、唇にかかる。
視界いっぱいに、髪の赤が広がった。夢に見た、血の色を、ふと思い出す。
「オレが欲しくて、しかたねえって、顔に書いてあるぜ。」
否定しなかった。できなかった。唇は、舌をからめ取られて、すっかり塞がれていたので。
右手を取られ、熱を持って疼いている部分に、導かれた。
機械の冷たさは、その熱に、負けてしまいそうだった。
「アンタのいれてくれた紅茶でも、飲ませてくれよ。」
それが、暗喩なのか、言葉通りの意味なのか、もう、どうでもいいと思いながら、アルベルトはジェットの頭を引き寄せていた。
車の中で、運転しているアルベルトから、手を離さず、ジェットは、うっとうしいほどあちこちに触れてきた。
アパートメントに着く頃には、もうシャツのボタンは外れ、服は半分、脱がされかかっていた。
ベッドに倒れ込む間ももどかしく、リビングの床の上で、ジェットが躯を繋げに来る。
それを、押し止める理性すらなく、アルベルトは、ジェットが求めるままに躯を開いた。
もう、何も考えられなかった。
何かが自分を翻弄していて、視界さえ、色も形も違う世界に見える。
住み慣れた自分の部屋は、どこか別の場所で、この世界では、グレートの情人であるはずの自分は、別の誰かと一緒にいるのかもしれない。
例えば、ジェットと。
ソファに押しつけられ、後ろから、ジェットが押し入って来る。
押し潰された胸の痛みに、思わずうめいたけれど、ジェットには聞こえないらしかった。
荒い息を重ねて、絡めて、互いの熱を交換し合う。
煽るように、声を上げた。
ジェットの腕を引き、触れながら、触れさせる。
淫乱、と蔑んだように、ジェットがまた同じことを言った。
「その淫乱とやりたがってるのは、どこのどいつだ。」
昨日より、もっとしたたかな表情を見せて、そう返す。
天井に向けて足を上げ、自分の、ジェットの動きに合わせて曲がる爪先を、見ていた。
体を起こし、ジェットの膝に坐る形で、背中を抱いた。
体の重みをジェットにゆだねて、目を閉じる。
今、誰かがジェットを背中から撃ったなら、その弾丸は、自分の胸をも貫くのだろうと、そんなことを考える。
機械の指をジェットの髪に差し込んで、優しく撫でた。
いとしさではない。それでも、何か優しい気持ちが、ほんの少し、胸の奥に湧く。
躯を繋げた者の間に、不可避に湧く、感情。
ジェットの胸の中にも、そんなものがあるのかどうか、不意に確かめたくなる。
深く入り込まれ、また、声を上げた。
腕がなかったら、この機械の腕さえもなかったら、それでも、この男は自分を抱きたいと思ったのだろうか。
片輪の自分。心も、体も。
アルベルトは、ジェットの肩にあごを乗せたまま、自嘲に唇を歪めた。
手繰り寄せようとしたグレートの面影が、不意に遠い。
グレートの、柔らかな膚ではなく、かたく張り切った皮膚にこすられ、熱くさせられながら、アルベルトは、もう耐えるのをやめた。
ジェットが、耳元で、獣のように、吠えた。
全裸で、床の上で汗を混じり合わせ、ふたりはようやく、躯を解いた。
午後の遅く、けれどまだ、夜の気配は遠い。
床の上で、だらしなく体を投げ出したジェットを置いて、アルベルトはゆっくりと立ち上がった。
もう、全裸を隠す様子もなく、すべてを晒して、床から自分を見上げるジェットの前に、すっと立つ。
まぶしそうに、ジェットが目を細めた。
欲情をなだめられた緑の瞳に、もう獣も気配は、失せていた。
どちらがどちらを煽ったのか、わからない。煽り続けるのがどちらなのか、わからない。
アルベルトは、唇をねじ曲げて、笑って見せた。
「紅茶、飲みたいって、言ったな。」
ジェットの返事を待たずに、体の向きを変える。
全裸のまま、キッチンへ歩いてゆく。背中に刺さる視線は、まるで、発射された弾丸のようだった。
右腕のない、血塗れの自分の体を、脳裏に思い浮かべる。
ジェットが何か言ったけれど、振り返らなかった。
振り返りたくなかった。振り返れば、そこに、頭を撃ち抜かれた、ジェットの死体を発見してしまいそうで。
蛇口をひねって水を出し、そこに機械の手を伸ばして、目を閉じて、いつまでも、水の流れに指を遊ばせていた。
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