「あらし」
13) Welcome Home
3日続けて、ジェットが店に現れた後、ようやく我に返ったのは、ジェットに、
「アンタ、恋人とかいないのか?」
そう訊かれた時だった。
いないはずがないと、そう思ってジェットが質問しているのが明らかで、アルベルトは不意をつかれたように動揺する。
もうずっと寝不足で、ぼんやりした頭はうまく働かず、どうしてグレートのこと---今はこの街にはいないけれど、じきに帰って来る---を考えずにいられたのか、その時やっと、アルベルトは驚きに目を見開いた。
塞がれていた瞳は、今ははっきりと開いて、思いもかけない現実と、醜い有り様になりえる未来が、そこに転がっていた。
「しばらく、来ないでくれ。」
ジェットの質問に、アルベルトはそんな言葉を返す。
ジェットは、声の震えに気づいたのか気づかなかったのか、一緒にシャワーをさっき浴び終わって、まだ濡れたままの髪を、水を飛ばすように振り、額に垂れた赤い髪の間から、すくうようにアルベルトをにらむ。
部屋中に散らばっていた服を拾い上げて身に着け、それから、何も言わずに出て行った。
もう、空は白み始めていた。
少しだけでも眠っておこうと、もう、ジェットから心を引きはがし、乱れたままのベッドに横たわる。
空の隣りに腕を伸ばして、くしゃくしゃのシーツを撫でた。
そこにいて欲しいのが、ジェットなのかグレートなのか、見極めもつかず、アルベルトは眠るために目を閉じて、それから、涙をこぼした。
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ジェットが消えてから、1週間近く経った水曜日の午後、ジェロニモから、店に電話が入った。
「さっき、戻った。ボス、店、人と話、してる。元気、訊いてる。」
アルベルトの声も待たずに、相変わらず素っ気もない声で、単語を並べる話し方は、聞き間違うはずもない、あの大きな男で、背後にかすかに雑音が入るのは、どうやら店の地下から、携帯電話からかけているせいらしかった。
「これからすぐ行く。そこにいるように言ってくれ。」
ジェロニモの返事も待たずに電話を切って、店を手早く閉め、アルベルトは車に飛び乗った。
運転しながら、ハンドルを叩く。帰って来た、と何度も歌うように言いながら、はやる気持ちを押さえきれずに、信号が変わってもなかなか進まない前の車に焦れて、クラクションを鳴らしてみたりする。
残念ながら、帰って来て真っ先にしなければならないのは、不在の間に滞っていた事務処理で、アルベルトに会うことではないのは、重々わかっていた。
空港に着いてすぐ、店に顔を出して、おそらく1分の間すらなく、電話をかけ、人と話し、たまっていた書類に目を通し、今夜はもう、普通通りに仕事に戻ってしまうに違いない。
それでも、この街にグレートがいるとわかった今、会わずにいられるわけがない。
店の裏に車を駐め、大きな音を立ててドアを閉めて、アルベルトは全力疾走した。
階段を、3段飛ばしで駆け下り、ようやく、ドアの前で呼吸を整える。
かすかに聞こえるのは、グレートの声と、それに応えるジェロニモの気配だけだった。
ドアをノックし、グレートの返事を待ってから、そっとドアを開ける。
「おお、来たな。電話を切ってから、すっ飛んで来たのか?」
机に腰かけ、目の前のジェロニモに書類を手渡しながら、視線だけアルベルトに当てて、グレートが微笑んでいた。
ネクタイも上着もなく、ワイシャツのボタンはいくつかは止めもせず、服装に長旅の疲れが見えたけれど、それでも笑顔はいつも通りだった。
アルベルトは、息を止めた。
そのまま、物も言わずにつかつかと机の方へ寄ると、いきなりグレートに抱きついて、キスをする。
そんなつもりはなかったけれど、無視した形になってしまったジェロニモは、グレートが驚いて床に落としてしまった書類を拾い上げ、いつもの無表情のまま、集めた書類を、ふたりから離れた位置の机の上にそっと置き、静かに部屋を出て行った。
それを見定めてから、アルベルトは、もっと強く体を押しつけて、グレートを、机の上に押し倒した。
上着の襟を引っ張られてから、ようやく唇を外し、アルベルトは、泣きそうな瞳でグレートを見下ろす。
「・・・・・・大した、熱烈歓迎ぶりだな、My Dear。」
懐かしい、呼ばれ方。たった2週間だと言うのに。
「・・・・・・当たり前だろう。連絡一本よこさなかったくせに。」
連絡など、入れられるはずもなければ、入れるべきでもないとわかっていて、そんなわからず屋なことを、言ってみた。
まだ、机の上に、不自由な形で体を重ねたまま、グレートが、下から優しく微笑んだ。
前髪の生え際を撫でられ、アルベルトは、深呼吸しながら、目を閉じる。
「うまく行ったのか?」
「ああ、うまく行った。また、しばらく忙しくなる。」
「あんたが忙しいのはいつものことだ。」
「おまえさんも忙しくなるさ、アルベルト。」
「・・・・・・あんたがいなくて、暇を持て余すより、ずっといいさ。」
グレートの唇を、柔らかく噛んだ。
「今度は、一緒に行こう。仕事でなしに、だ。ふたりで歩くのに、なかなか良さそうなところだった。」
「・・・・・・置いてきぼりは、これっきりだ。」
「来ないと言い張ったのは、おまえさんの方だ、My Dear。」
「わかってるさ、俺にだって、後悔する権利くらい、あるだろう?」
また、唇を深く合わせて、どこら辺りまでなら許されるだろうかと思いながら、アルベルトは、黒の革手袋の右の掌を、グレートの脇腹に滑らせる。
その手を、グレートが止めようとするより一瞬早く、ドアの外で、ジェロニモが何か言う声が聞こえた。
慌てて体を起こして、グレートから離れ、アルベルトは乱れた髪をかき上げる。
「ボス、忙しい、今、無理。」
中に入ろうとしている誰かを、ドアのところでジェロニモが止めているのだとわかって、グレートが、ドアの向こう側に聞こえるように声を投げた。
「すぐにすむ。そこで待っててくれ。」
今は、5分の余裕すらないのだと、ようやく理解してから、アルベルトは、もう、部屋を出て行く心の準備をする。
一瞬、逡巡してから、アルベルトはドアの前から、グレートに振り返った。
「今夜、会えるのか?」
無茶なわがままだとわかっていて、それでも、そう訊かずにいられない。
まるで、迷子になった子どものような表情で、アルベルトはじっとグレートを見た。
グレートは、ため息と苦笑を一緒にこぼして、折りの取れてしまっているズボンのポケットに両手を差し入れ、少し肩を丸める。
そんなグレートの姿に、ふと老いを感じて、アルベルトは、誰かと比べている自分に、表には出さずに愕然とする。
「駄目か?」
不安が、声にこもった。
「今夜は、おまえさんの隣りで寝るのが良さそうだな。酒でも飲んで、熟睡するさ。」
アルベルトは、思わず微笑んだ。
こんな無茶を言うのが、会えなかった淋しさからだと思うのか、それとも何かあったのかと不審に思うのだろうかと、グレートの苦笑まじりの表情を見ながら、アルベルトは、自分の常ではない態度に、ひとりで動揺する。
余計なことを口にする前に、自分に向かって手を上げたグレートを、もう一度振り返って、アルベルトはようやく部屋を出た。
ジェロニモの傍で、苦々しい表情で腕時計を見ていた男が、出て来たアルベルトの脇をすり抜け、入れ違いに部屋に入って行く。
ドアが閉まると、もう、グレートの気配は、かき消えてしまった。
ドアに向かってため息を小さくこぼし、アルベルトは、ようやく気づいたという仕草で、ジェロニモを見上げる。
「・・・・・・悪かった。」
無視するつもりではなかったと、言葉にしなくても、伝わっているのはわかっていた。
ジェロニモは、それに首を振って見せ、それきり何も言わない。
自分の足元を見下ろしてから、アルベルトは、ありがとうという意味で、ジェロニモに笑いかけた。
「じゃあ、後で。」
廊下を歩き始めた背中に、不意に、ジェロニモが声を掛けてきた。
「ボス、毎日、元気、心配した。」
肩だけで振り返って、思わず、口元が硬張るのを止められない。
「連絡できない、悪い、言った。会いたい、毎日、言った。」
足を止め、ジェロニモが並べた単語の、ひとつびとつをゆっくりと反芻する。
思い出していたのは、グレートの唇と、頬に触れる掌と、柔らかな皮膚の感触だった。
目を細め、不意に視界の中に遠くなったジェロニモを、もっと近くに引き寄せようとする。
「ありがとう。」
思わずそう言って、ふっとこちらに微笑んできたジェロニモに、かすかに驚いてから、アルベルトはまた、廊下を歩き出した。
「信じられんな、24時間ぶりのシャワーだ。」
バスローブだけを着けて、ソファに体を投げ出すと、ようやくさっぱりした表情で、グレートは大きく息を吐き出した。
グレートが、ここに来てすぐいれた紅茶はもう冷めてしまっていたから、新しい紅茶をいれる代わりに、アルベルトはウイスキーをグラスに注ぎ、氷をひとつだけ落とした。
今夜は酒を飲む気にはならず、自分には、もう冷めてしまっている紅茶を、かまわずにまたマグカップに注ぐ。
「明日、荷物が届く。今週中には、おまえさんのところに、いくつか運び込む手筈になってる。」
ああ、とマグから唇を離さずに、アルベルトはうなずいた。
疲れているからこそ、仕事から気持ちが離れない。
手元から品物が消え、取引の結果と金が見えるまで、仕事は終わらない。くつろげるのは、完全に仕事が終わってからだった。
グレートの、大きなたれた目の下に浮いた隈を、痛々しく眺めて、アルベルトは、少し顔をしかめる。
「あっちは、どうだった?」
ハンガリーという固有名詞を、わざと口にはせず、世間話のように話を変える。
「ヨーロッパの匂いを、久しぶりに嗅いだ。あそこは、ここほど時間の流れが早くない。100年経っても、同じ街並みが見れそうだ。いいところだった。」
「・・・・・・イギリスを、思い出したか?」
ふふ、っとグレートが笑う。ウイスキーを一口嘗めて、氷がからんと音を立てた。
「もう少し、東洋の匂いがする。不思議な国だ。イギリスとは、違う。ドイツとは、似てるかもしれんが。」
「思い出したい国があるだけ、ましかもしれない。」
そんなつもりもなく、口調が少し冷たくなる。覚えてもいないドイツに、興味はないと言い切ってしまうには、まだ生々しい記憶がある。
祖国、とアルベルトは口の中でつぶやいた。
グレートは、祖国から逃げ出した。知己の張大人は、祖国に見切りをつけ、新しい可能性を、新しい国に見出した。アルベルトは連れ去られ、捨てることを余儀なくされた。
ふと、ジェロニモの微笑みを思い出す。
あの男も、自分の土地を奪われ、祖国から忘れ去られた存在になった。
祖国のない者たちが、こんなふうに肩を寄せ合っているのは、偶然なのだろうか。
懐かしい祖国を持つ者は、それでも幸運なのかもしれない。
おぞましい、とアルベルトは思った。思い出は、いつも苦痛を伴う。この国を、新しい祖国を思い定めたことはないけれど、それでも、グレートと出逢い、一緒にいる場所と思えば、グレート自身が、アルベルトの、今のHome(故郷)と言えた。
この国、と思ってから、浮かんだのは、ジェットの姿だった。
この国で生まれ、育ち、この国しか知らない。この海の向こうに、別の大陸があり、そこでは違う言葉と生活習慣で、違う人々が違う人生を歩んでいるなどと、思いすらしない、この国の人間の、ひとり。
英語すらろくに喋れもしないくせに、移民たちが、英語を喋らないと腹を立て---もちろん、自分たちの祖先が、英語も喋れない移民だったことなど、考えもしない---、思った通りをためらいもなく口にする、傲慢なこの国の人間たち。
ジェットは、俺たちとは違う。
そう思ってから、だから魅かれたのかと、不意に思った。
違う匂い、違う仕草、違う思考、違う言葉、違う気配、違う人生、違う過去、違う未来。
自分と重なるところなど、どこも想像すらできない、あの淡い緑の瞳に、あの赤い髪に、だから魅かれたのか。
いとしいとは思わない。恋しいとも思わない。逢いたいと、心の片隅で、思う瞬間はある。逢うことは、つまり躯を重ねることではあるけれど。
窓を開け、突然吹き込んできた、冷たい風のようだった。
頬をなぶり、驚かせ、ふと、憎悪さえわく。
けれど驚きは、胸を高鳴らせ、そこから、目が離せなくなる。
無色の自分には、色鮮やかすぎる。ジェットを思って、アルベルトはそう思った。
炎と氷。火を消すか、氷を溶かすか。
どちらにしても、自滅だなと、アルベルトはグレートから横顔を隠して笑いをこぼした。
もう、逢わない方がいい。そう、一瞬の後、心に決めた。
グレートが不在の間の戯れごとなら、グレートの帰国で、幕はもう降ろされている。
紅茶が、底に少しだけ残ったマグを見下ろして、アルベルトは、苦笑を混ぜた。
「"とかく恋というものは、子供のようにたわいなく軽はずみで愚かしくてぶざまなことをさせるものです"(恋の骨折り損)。」
ひとり言のつもりだった。グレートに聞かせるつもりではなく、グレートの好きなシェイクスピアを、グレートが時折機嫌のいい時にやるように、引用して、自分を嘲笑うつもりだった。
グレートが、眠るように閉じていた目を開け、ソファから、頭を上げた。
「・・・・・・何か、言ったかな、My Dear。」
「いや、別に。」
語尾を引き取るようにそう言ってから、アルベルトは、グレートの傍へ行った。
「今夜は、おとなしくあんたを寝かせた方が良さそうだ。悪さはしない。それとも俺は、ソファで寝るべきかな。」
グレートが、目を閉じたまま、唇の端を、おかしそうにつり上げた。
「ひとりで寝るつもりなら、ここまで来ない。おまえさんが隣りにいないで、何の安眠だ。」
つられて笑うと、アルベルトは、グレートの手を取った。
「立てるか?」
半分しか空になっていないウイスキーのグラスを取り上げながら訊いたけれど、返事はなかった。
グラスをテーブルに置き、少しの間考えてから、アルベルトは、取った腕を自分の首に回させて、膝の下に腕を差し入れ、ソファからグレートを抱き上げた。
もう、ずいぶんと前から、自分より小さく軽くなってしまった体。
自分を救い、守ってくれた体。
肩で揺れる、頭髪のない頭に、アルベルトはそっと接吻した。
昔、グレートがそうしてくれたように、そっとベッドに運んで、肩口まで毛布を引き上げ、それから、額におやすみのキスをした。
もう、開く様子のないまぶたに、もう一度キスをする。
「おかえり。」
帰って来たのは、グレートだけではない。自分も、戻ってきたのだと、アルベルトは思った。
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