「あらし」
14) Dangerous Game
グレートがそう言った通り、店に、ハンガリーからの荷物が運び込まれ、その週末には、取引がすでにひとつ終わった。アルベルトの知らないところでも、別の大きな取引があったらしく、上機嫌とともに、どこかぴりぴりしたところを、グレートは隠せない。
帰国してから、2晩続きでアルベルトと夜を過ごした---もっとも、眠りを貪るだけだったけれど---後、グレートは平常通りのスケジュールに戻り、それきり、電話だけで、会うことはなかった。
帰って最初と次の夜に、とにかくも自分の元へ来てくれたことに感謝して、アルベルトは、会いたいとは口が裂けても言わなかった。
口にしなくても、会いたいと思っていることは、きちんとグレートに伝わっている。1日に1度、素っ気なく短くはあるけれど、店に電話が入り、My Dearと呼びかけてから、元気かと訊いてくる。
3日目までは、声にまだ疲れが滲んでいたけれど、週末になった途端、取引がうまく行ったせいなのかどうか、突然声に張りが戻ってきた。
多少、まだ神経が張っているようなところはあっても、ようやくアルベルトは、グレートが、手の届くところへ戻って来たのだと、実感し始めていた。
戻って来たのは、グレートだけではなかった。
グレートが戻って来てから、2週間ほど経った頃、また、赤毛のジェットが店に現れた。
いつも通りの1日で、まばらな客の相手をし、朝からたった3杯目の紅茶をすませた時、店の表で、からんとドアの開いた音がした。
小さな事務室から顔を出すと、店の真ん中に、細いジーンズに両手の指を差し入れ、唇を引き結んで立っている、ひょろりとした長身があった。
「よォ。」
いつ会っても、あいさつと言えば、それしか知らないというように、唇を同じ形に歪める。
どんな表情をするべきか迷って、アルベルトは、無表情を選ぶことにした。
1日に、何度も思い出していた。繰り返し、反芻していた。もう、二度と会わないかもしれないと、思った。
気まぐれにえさを与えた野良猫が、こちら同様気まぐれに、ぷいと去ってしまうように、そんな些細な関わり方でしかなかったのかと、グレートのことを思うと同じ強さで、安堵と失望を味わっていた。
もう、会わない方がいいと、心に決めた夜、朝目覚めた時にはもう、ジェットのことを考えていた。
隣りで、まだ眠っていたグレートの寝顔を見下ろして、この男を愛していると思う同じ心で、けれど別のどこかで、ジェットを欲している自分がいることに、気づいた。
だからこそ、もう、会わない方がいいと思う自分と、それでも会いたいと思う自分と、ふたつの別の声を聞きながら、ジェットのことを考えていた。毎日。
心臓が、どくんと跳ね上がったのを、必死で隠すために、ことさら頬を硬くする。
唇を結んだジェットは、どこか怒りを抑えているようにも見えた。
「久しぶりだな、アンタ。」
ちらりと一瞥を返し、無表情を崩さずに---やっとの思いで---、カウンターの向こうへ入る。
ジェットの視線がそれにつれて動くのを、左肩の辺りに、痛いほど感じていた。
「あれっきりってことはねえだろ? しばらく来るなって言うから、おとなしくしてたんだぜ。」
低く、つぶしたような声。いきがっても、若い声に稚なさがまじる。そんなバランスが滑稽で、そして、懐かしかった。
「仕事でも、見つけたのか?」
世間話のように、アルベルトは、ジェットの言葉を引き取った。
ジェットが、ふんと言うように、肩をすくめる。
「アンタが雇ってくれるんなら、喜んでコキ使われてやる。」
「悪いな、こんなひまな店で、店員に払う給料はない。」
「ここで働くとは、言ってねえよ。」
にやっと、ジェットが笑った。
あごの位置を、少し横にずらし、眉を寄せて、アルベルトはジェットに斜めの視線を送った。
大またに、けれど静かにカウンターに寄って来て、そのあごの先に、手を伸ばしてくる。意図を悟って、首を曲げ、その指先を避けた。
「店では、よせ。」
それなら、ここでなければいいのかと、反駁されたらどう答えようかと思ったけれど、ジェットは、小さな拒否に軽くショックを受けたらしく、唇を突き出して、何も言わなかった。
この男に向かうと、どうしても視線が気弱になる。弱みを握られていると、思うせいなのか。
真っ直ぐにはジェットを見ずに、けれど視線は、こっそりと、ジェットの全身をくまなく滑っていた。
ジェットが消えてから、誰にも触れてもいなければ、誰にも触れさせていない皮膚が、ふと疼く。
他人の躯の熱さを、ふと恋しいと思った。
「で、一体、どうなんだよ。」
ジェットが、苛立ちをかすかに刷いて、そう言った。
肩を揺すり、胸を張って、虚勢を張る。威圧にもならないそんな仕草が、可愛らしくさえ見える。
「どうって、何がだ。」
上目に、ジェットを見て、それから視線をまた外す。
「オレとアンタのことだよ。オレとアンタは、一体まだ続いてるのかどうかって、訊いてるんだ。」
続く? アルベルトは左目の端を、ぴくりと上げた。
続くような関係なのか。お互いただの気まぐれで、楽しい時間を分け合っただけじゃないのか。戯れごとだ。一体、それ以上、何がある。続くも何も、始まったとさえ、思ってなかった。
そんな言葉が、次々に胸の中に押し寄せてきたけれど、そのどれをも、口にはしなかった。
建て前ばかりだと、知っていたので。
本音は、まったく別のところにあると、わかっているので。
会いたがっていたのだと、素直に言うわけには、いかなかった。いつもジェットのことばかり考えていたなどと、口にするわけにはいかなかった。
そんなことは、できない。
答えられない質問に、アルベルトは、沈黙を採用した。
「アンタ、どうせ恋人かなんか、いるんだろ。」
言葉の並びは問いだったけれど、口調は、断定だった。
何も言わず、うなずきもせず、首も振らず、アルベルトはずっと、店の正面の、窓の外ばかりを見ていた。
ジェットが、あきらめたように、ため息をひとつこぼし、肩を落とした。
「オレみたいな、アンタから見たら、てめえのケツもてめえで拭えねえようなガキ、生殺しにして、アンタおもしろいか。」
ジェットの、半ば哀願するような口調に、はっとなって、アルベルトは思わずジェットに視線を返した。
それでも、震える唇は固く引き結んだまま、滑る舌を必死で耐える。
ふん、とジェットが、誰にともわからない、軽蔑したような、あきらめたような、軽い笑いをもらす。
「まあ、いいさ。いいでも悪いでも、アンタが返事してくれるまで、ここに通うまでの話だ。」
「明日は来るな。」
思わず、考える前に、舌が動いた。
語尾にかぶせるように、慌てたようにそう言ったアルベルトを、ジェットが驚いて見返す。それから、ずるそうな光を瞳に浮かべて、唇の端をつり上げた。
「・・・・・・なんだよ、明日、ここで取引でもあるのか。」
冗談だとわかる口調だった。
冗談で否定して、すべて冗談にしてしまおうかと思ってから、アルベルトは気分を変えた。
「ああ、大事な取引だ。誰にも邪魔されたくない。」
露悪趣味な笑みを浮かべて、アルベルトはそう言った。
ほんとうのことは、冗談に混ぜて滑り落としてしまえばいい。そうすれば、どこまでが事実で、どこまでが真実で、どこまでが嘘なのか、言った本人にさえ、わからなくなる。
ジェットが、少しひるんだように、肩を引いてから、低い声で返した。
「アンタも、そうとうなワルだな。」
どういう意味なのだろうかと思って、ジェットの顔色を読み取ろうと、思いがけずふたりで見つめ合う羽目になった時、不意に表のドアが開いた。
店主の当然の仕草として、そちらに投げた視線の先に、半開きのドアに体を半分差し入れて立ち止まり、怪訝な表情で、けれどあまり尋常でない気配は読み取って、目つきを鋭くしているグレートが、そこにいた。
驚きと当惑を声に出せば、店の窓のガラスが、全部割れるかもしれないと思いながら、アルベルトは、血の引く音を、まるで滝の音のように聞いた。
「まずい時に、来合わせたかな。」
目元をやわらげ、優しげな声で、グレートが、静かにふたりの間に言葉を投げた。
ふたりの間の、硬張っていた空気が割れ、また、店の中でいつもの流れを取り戻す。
アルベルトは、ようやく我に返って、グレートに、やあ、と声を返した。
「いや、別にまずくなんかない。」
ジェットが、アルベルトとグレートを交互に見て、それから、盗み見るように、血の気の失せた、アルベルトの頬の辺りに視線を這わせた。
それを、痛いほど感じながら、アルベルトはあえてグレートの方ばかり見る。
「珍しいじゃないか、こんな時間に、ここに顔を出すなんて。」
「少しばかり、時間があったのさ。おまえさんに、しばらくゆっくり会ってなかったしな。」
当たり障りのない言葉のやり取り。
余計なことを言うなと、目くばせする余裕さえ失っているアルベルトの気配を、それでもグレートはしっかりと読み取っている。
ドアのところからは、一向に近づこうとはせず、グレートは、ふっと、消え入りそうに、アルベルトに笑いかけた。
「どうやら、邪魔をしたようだ。また、別の時にしよう。」
背中を見せて、立ち去ろうとするグレートに、アルベルトは、慌ててカウンターから飛び出して、小走りに駆け寄った。
「せっかく、来てくれたのに。」
帰国以来、声しか聞けなかった淋しさが、甘えになって、隠しようもなく声に滲む。
背中を向けているジェットに、それがわかるだろうかと思いながら、アルベルトは、表情が見えないことに安堵していた。
「また、来る。明日のことを確認に来ただけだ。後で、電話を入れる。」
素早く、そう小声で囁いて、もう一度微笑んでから、グレートは、アルベルトの肩越しに、ジェットを盗み見て、ゆっくりと店を出て行った。
どこに車を待たせているのか、左の方へ去ってゆくグレートの姿が消えるまで、アルベルトはドアの前に、立ち尽くしていた。
両腕を抱き、首をがっくりと前に折って、唇を噛む。
険しく見つめ合っていたふたりを見て、グレートがそれを見落とすはずがない。
尋常ではないと思えば、行き着く答えはひとつしかない。
まさかばれたのだろうかと思いながら、アルベルトは、まだ店の中にいるジェットのことなど、とうに忘れていた。
不意に近づいてきた足音に、振り返る間もなく、肩をつかまれる。
ジェットの長い腕がドアに伸び、鍵をかけた。それから、慣れた仕草で、ドアにかかっているサインをひっくり返し、物も言わずに、アルベルトを、店の奥に引きずってゆく。
事務室の中に押し込まれて、叩きつけるように、壁に押しつけられた。
「誰だ。」
短く、震える声で、ジェットが訊いた。
上目に見ると、淡い緑色の瞳が、金色になるほど、怒りに燃えていた。
「何のことだ。」
わかっていて、とぼけてみる。それが、火に油を注ぐことになるとわかっていて、アルベルトは、すいとジェットから視線を反らした。
「あのオヤジだよ、たった今、店に入ってきた。誰だよ。」
「常連だ。しばらくここに来てなかった------」
言葉が終わる前に、首に、ジェットの左手がかかった。
「アンタ、バカにするのも、いいかげんにしろよ。」
気管を押し潰され、苦しさに喘ぐ。あごを反らして、呼吸を求めて、唇が開いた。
それを狙ったように、ジェットの唇が、乱暴に重なる。
舌を差し込まれ、理性が飛んだ。
首にかかっていた手が、腰に回ると、答えるように、ジェットの首に両腕を回した。
舌を差し出し、互いの歯列を、ぶつけ合うように、接吻する。
まるで、舌に甘い酒のように、もっともっと欲しくなる。貪るように、ジェットの舌を絡め取り、唾液を行き交いさせながら、アルベルトは、自分から体をすり寄せていた。
唇を重ね合ったまま、ジェットが少しずつ、後ろへ下がる。ゆっくりと、たどり着いた先は、部屋の奥にある机の上だった。
そこに胸を押しつけられ、背中に重なってくるジェットを、もう拒めなかった。
躯を潤す仕草も何もなく、ただ、繋がるためだけに、最小限の服を剥ぎ取られ、ジェットがいきなり押し入ってくる。
痛みに声を殺し、腕を伸ばして、机の端を思わず握った。
まるで、罰を与えるように、ジェットが全身の重みをかけて、突き上げてくる。
シャツごと腕の肉を噛み、アルベルトは、必死で漏れる声を耐えた。
突き上げながら、ジェットが耳元で怒鳴った。
「アンタ、言えよ、オレが欲しいって。言えよ、オレが好きだって。言っちまえよ。」
体の揺れるリズムに合わせて、耳の中に入り込んでくるそんな言葉に、アルベルトは思わず、素直に答えてしまいそうになる。躯は、もうとっくに、唇よりも舌よりも、もっと正直に、ジェットに応えていたけれど。
あっけなくジェットが果て、激しさの去った体を、アルベルトの背中に、ぐったりと預けてくる。
ふたりで、机の上に重なって伏せたまま、しばらく呼吸を数えていた。
息がおさまった頃、ようやくジェットが体を起こし、支えるもののなくなったアルベルトの体は、そのまま床に向かって滑り落ちた。
机にぐったりを体をもたせかけ、剥き出しになった皮膚を、ジェットの視線から隠す努力だけは忘れずに、アルベルトは冷たい床の上に、惨めに坐り込んだままでいた。
ジェットが、そんなアルベルトを見下ろしながら、手早く服を直す。
布のすれる音を聞きながら、アルベルトは、うつろな視線を、どこにともなく漂わせていた。
「アンタ、オレとあのオヤジのこと、両天秤にかけるつもりか。」
両天秤、とジェットが言った言葉を、アルベルトは、ぼんやりと頭の中で繰り返した。
するりと、手元を見下ろしていた視線を、ジェットに向ける。
怒りも激しさも、もうそこにはなく、淋しさと、苦さが、その緑の瞳の中に浮いていた。
「関係ないだろう、そんなこと。」
声まで、うつろに響く。
「よく言うぜ、もの欲しそうに、オレのこと見るくせに。」
ひくりと、首筋が引きつった。
ゆっくりと、瞬きをする。
そんなにあからさまなのかと、またぼんやりと思う。
躯の中を駆け抜けていった激しさは、ジェットのものだったけれど、その激しさを欲したのは自分なのだと、アルベルトは知っていた。
ジェットが、部屋を出て行こうとした。
引き止めるつもりではなく、その背に声を掛ける。
「明日は、来るなよ。」
足音が止まり、けれど振り返った気配はない。
「来ねえよ。あさって、また来る。」
ジェットが、表のドアを開けた音を聞きながら、誰かが店に入って来る前に、立ち上がって、いつもの貌を取り戻さなければと思った。それでも、体は動かなかった。
掌で目元を覆い、アルベルトは、声を殺して泣き出した。
ジェットを欲しいと思う自分と、グレートをいとしいと思う自分と、ふたつに引き裂かれてしまった心が、痛かった。
どうしていいかわからずに、今はすがる肩も傍にはなく、アルベルトは、子どものように、ひざを抱えて泣きじゃくっていた。
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