「あらし」


15) Baby Blue

 取引は、無事にすんだ。
 恐ろしいほどスムーズに、何の邪魔も入らず、入って来た男は、にっこりと笑顔をさえ浮かべてアルベルトから"本"を受け取り、では、と背中を返して店を出て行った。
 不意に静かになった店の中で、アルベルトはうそ寒い空気に絶えられず、店を閉めてしまった。
 正確には、取引が終わったと連絡を受け取ったグレートが、店に顔を出すかもしれないと思ったのと、言われた通りにせずに、ジェットが店に現れるかもしれないと、思ったからだった。
 同じ自分の、別々の心の部分を占めている男がふたり、自分の前で鉢合わせをするのは、一度きりにしたかった。
 どんな泥水をかいくぐって来たにせよ、そこまで厚顔無恥に、無神経ではない。それなりの恥もあれば、動揺する気持ちもある。どちらに、どんな貌を見せればいいのかと、そう思っただけで、鬱陶しく胸が痛んだ。
 家に戻り、上着を脱いで、どさりとソファに体を投げ出した。
 手足を伸ばし、ひとりであることを、体と心のすみずみまで、実感する。
 自分の空間。物音はなく、気配は聞こえない。このまま動かなければ、この空気は、一生動かずに止まったままだ。澱んだ空気は次第に腐り、この肉体も腐らせるかもしれない。
 ソファに坐ったままの、自分の骨を想像した。
 身に着けた衣類が腐り、肉が腐り、体液が蒸発して、後には、白い骨だけが残る。それから、右腕の残骸の、金属のかたまり。
 想像した、自分の骨の白い清浄さが、なんだからしくなく、思わずふふっと、軽い笑みをもらす。
 骨は染まらない。どんなに肉体が穢れても、骨は、白いままだ。
 それだけが、今は救いだという気がした。
 目を閉じ、まるで眠るように、体の力を脱く。
 脳裏で、様々なことを、脈絡もなく考えた。
 グレートとジェット。
 恩人であり、恋人---それともより正確に、情人と言うべきか---であり、ある意味では、育ての親でもある、存在。愛しているかと問われれば、何の躊躇もなく、ああもちろん、と答える自信がある。それ以外に、言える言葉を思いつけない。
 出逢ったばかりの、本名すら知らない、若い男。この国で生まれ、まともな英語すらろくに使えない、付き合うことを、今まで避けてきた人種のひとり。何故魅かれるのか、アルベルトにさえわからない。
 このままではすまないだろうと、思った。
 グレートは、アルベルトを許すだろうか。
 軽蔑と失望を、アルベルトに投げつけて、もう、振り返らないのだろうか。
 それとも、そんなことは思いもせず、店で何かあったのさと、そんな程度にしか受け取ってないのだろうか。
 魔が差したと言えば、わかってくれるだろうか。
 どうしてだか、わからない、でも、ただ、起こってしまったんだと、正直に言えば、許してくれるだろうか。
 でも、とアルベルトは思った。
 許されて、それで、ジェットを忘れられるのだろうか。
 グレートの隣りで眠りながら、ジェットの腕を夢見る、そんなことを、続けるつもりなのだろうか。
 目の前に現れるたび、心臓を、握りつぶされるような、そんな感覚を味わう。
 呼吸が出来なくなって、眩暈がする。
 血の気が引き、足元が、おぼつかなくなる。
 絡んだ視線が、金色の光を放っているのが、見える。
 どうしてなのか、わからない。
 魅かれているとしか言いようはなかったけれど、恋をしているとは、到底思えなかった。
 あの体に惹かれているのかと思えば、それも、完全に正確ではないような気がする。
 あのがむしゃらさと、こちらの意志などお構いなしの身勝手さに、翻弄されながら、自分を失くす瞬間は、確かに魅力があった。ただ、向こうの躯の動きに合わせて、意識のある人間ではなく、快楽だけを追求する肉塊になってしまうのは、楽ではある。
 相手に対する思いやりだの、いとしさから発する献身だの、そんなきれいごとは忘れて、そんなものが存在する世界からは完全に疎外されて、ただ、神経の通う肉体としてだけ、互いに絡まり合う。
 堕ちてゆく、感覚。自分を踏みにじって、軽蔑すべき存在に貶めているのだという、意識。
 背中の辺りが、ぞくりとした。
 思わず、両腕で、自分を抱きしめる。まだ革手袋を外していなかったことに気づいて、思わず苦笑をもらした。
 部屋が、いつの間にか、薄暗くなり始めている。
 アルベルトは、ようやくソファから立ち上がった。


 バスタブに湯をため、泡を立てるために、薄い緑色のボトルの中身を、湯の中に注いだ。
 リンゴの、甘酸っぱい匂いが、湯気の中にわき上がる。
 いつもなら、こんな匂いのものは使わないけれど、今日は何となく、すべてを冗談にしてしまいたい気分だった。
 湯をかき回し、まだ溶けずに漂っている、緑色の柔らかな固まりを細かく砕いて、湯の表面が、泡でいっぱいになるのを、またぼんやりと眺めていた。
 暖まったバスルームの中で、ゆっくりと服を脱ぐ。ドアにあるフックに服を掛け、下着から足を抜くと、一度だけ裸の肩を震わせてから、湯の熱さをうかがうように、バスタブの縁をまたいだ。
 体を沈め、目を閉じる。胸から首にかけて、血の色が上がるのが、皮膚の上に感じられた。
 こうしていれば、すべてを忘れていられるのに。
 泡が、時折膚をくすぐるのに、何となく懐かしさを感じながら、この感覚は何だろうかと、閉じたまぶたの裏で、ゆっくりと思考を沈める。
 静かな夜だった。
 水音とこもった熱---体温に、限りなく近い、温度---だけの空間で、アルベルトは、ゆっくりと、目を閉じたまま、膝を胸に抱き寄せた。
 羊水だ、と不意に思う。
 母親の、子宮の中。体を丸め、包まれ、守られ、眠る、空間。小さな、完結した宇宙。
 似ている、と思ってから、知らずに、唇を笑いに曲げた。
 以前、グレートに訊いたことがある。どうして、子どもをつくらないのかと。アルベルトとこうなってしまってから、知る限りでは、女と---他の誰とも---寝ることすらやめてしまったグレートに、ある夜、寝物語に、そう尋いたことがある。
 それとも、どこかにもう、子どもがいるのか。
 大した意味のある質問でもなかった。ただ、グレートのことを知りたいと、そう思っただけだった。
 グレートは、薄い闇の中で、ふと傷ついたような笑顔を浮かべ、アルベルトをじっと見た。
 いない。結婚なんて、考えたこともない。
 体を軽く起こし、グレートの胸に、重い右腕を乗せて、そのはしばみ色---暗くて、色はよく見えなかったけれど---の瞳を、のぞき込んだ。
 どうして? みんな、誰でも子どもくらい、欲しがるもんじゃないのか。
 My Dear、おまえさんはどうだ? 子どもが欲しいか?
 ふと、暗い声で、そう聞き返された。
 思わず黙り込み、思わず、子どもを欲しいなどと、考えたことすらない、自分の心の中に気づく。
 父親に売られ、家族に見捨てられた自分が家族を欲しがるほど、滑稽なこともない。捨てられた子どもが、子どもを欲しがるはずもなかった。
 ・・・・・・いや、いらない。
 静かに、闇と同じほど沈んだ声で、アルベルトは答えた。
 おれはロクでなしでね、自分そっくりの別の誰かを後に残すには、タネが悪すぎるのさ。ロクでなしのあふれた世の中に、どうしてまた、別のロクでなしがいる?
 だから、男の自分と寝るのかと、唇の動きでだけ、アルベルトは問い返した。それはもちろん、グレートに見えるはずもなかったけれど。
 人はいつも、子宮に還りたがっている。あの暖かな、守護に身を委ねることだけの存在する空間へ、戻りたがっている。
 だから男は、女の中へ入りたがり、にせものの帰還を果たす。その結果として、その世界の中に発生する自分の子どもに、狂ったように執着する。
 女は、にせものの帰還さえできず、代わりに、自分が守護者となる。小さな宇宙を、体の中に抱いて、自分の子だとは、絶対に完全に確信することのできない男を尻目に、自分の血と肉を分けた、自分の子どもを、その中に抱え込む。
 そのどちらからも、疎外されている自分を、アルベルトは笑った。
 それでもこんなふうに、羊水の暖かさを、ふと思い出す。恋しいと思う。
 守られることの、受け身の心地よさ。考えることもなく、暖かさの中に漂って、眠るような時間を過ごせば、それでいい。それを、懐かしいと、アルベルトは思った。
 自分をろくでなしだと言ったグレートの幻に向かって、アルベルトも言った。
 「俺も、あんたと似たり寄ったりさ。」
 死んだ後に残したい何も、ない。人生は、限りなく空っぽだった。
 それを、虚しいとは思ったけれど、悲しいとは思わなかった。
 空虚さは、何より自分に似つかわしいと思う。
 空の体を丸め、にせものの羊水の中に浮かぶ、胎児の自分。この世に生まれるための陣痛が、あの、右腕を失った痛みだったのだろうか。
 埒もないことを考えながら、ぬるくなった湯を少し減らし、また、熱い新しい湯を注ぐ。
 湯の中に浸っていた、鉛色の右腕を持ち上げた時、玄関のドアが開く音がして、軽い足音が、キッチンの辺りで響いた。
 「アルベルト?」
 水音が聞こえたのか、バスルームのドアから顔を覗かせたのは、すっかり疲れの取れた表情の、グレートだった。
 「これはこれは、お楽しみ中かな、My Dear。」
 声に、慌てて湯を止めてから、ドアの方に首を曲げ、微笑んでいるグレートに、アルベルトも、つい笑みを返す。
 さっきまでの、ひどく後ろ向きな思考をどこかに追い払って、アルベルトは、ただ無邪気に、グレートに会えたうれしさを頬に浮かべた。
 外から入って来た、そのままの格好で、グレートがバスルームの中に入って来る。
 「随分と、おまえさんらしくもなく、子どもっぽい香りじゃないか。」
 カウンターの上に置いてある、薄緑色のボトルを取り上げてから、グレートがからかうように言った。
 「童心に帰りたい時もあるさ。」
 肩をすくめてそう返してから、アルベルトは、いたずらのように、水の上で両の掌を遊ばせた。
 「ワインを持って来たんだが、冷やした方がいいかな。」
 片手に持った、小さな、優雅な流線のボトルを、軽く持ち上げて見せる。
 「・・・・・・取引は、うまく行ったってわけか。」
 「もちろんだとも、My Dear。」
 にっこりと笑ったグレートに向かって、アルベルトは右腕を伸ばした。
 「じゃあ、今飲もう。ここにグラスを持って来てくれ。」
 「・・・・・シャンペンじゃないのが、残念だな。」
 唇の端を、ほんの少し上げてから、グレートは、静かにバスルームを出て行った。
 待つ間もなく、もう、上着を脱いで、ネクタイをゆるめてしまったグレートが、くつろいだ様子で、グラスをふたつ抱えて、バスルームに戻って来た。
 泡だらけの手に、グラスを受け取ると、グレートが、うっすらと金色の、柔らかく香りの立つワインを、そっと注いでくれる。
 一口飲んで、舌に転がして、乾いた味を楽しんでから、改めて、グラスの縁を、ちりんと触れ合わせた。
 「今のところ、取引は全部、うまく行ってるんだろう。」
 トイレのふたに腰かけて、背中を少し丸めたグレートは、いつもよりも儚く見えたけれど、疲れている様子はなかった。
 「ああ、全部順調だ。おまえさんのところから、来週またひとつ、今週末に、ある処で大きなやつがひとつ。」
 そこで言葉を切って、グレートはワインのために喉を反らした。
 「もっとも、少しばかり心配ごとが、ないわけじゃない。」
 小さな溜息とともに、湯気にまだ混じるリンゴの匂いより強く、ワインの香りが漂う。
 「なんだ、警察か?」
 「いや、警察はいつも通りさ。懐ろに入る金のおかげで、何事も見て見ぬふりだ。」
 ふふっと、グレートが笑う。
 「どうやら、新しい組織が、うろうろ根回しの最中らしい。」
 「新しい組織? 誰だ?」
 「まだ、よくわからん。張大人が、連絡をくれた。新参者が、市場に乗り込む時にいちばん手っ取り早いのは、商売敵を消すことだ。だから、気をつけろと、言われた。」
 取り越し苦労だろうがな、と最後に、消え入るように付け加えた。
 そうやって、グレートも、この街で組織を大きくしたのだと、アルベルトは知っている。
 邪魔者は消す。速やかに。証拠を残さず。
 そうして、頭の部分を失った組織を吸収して、自分の組織を大きくする。
 誰もがそうして、生き残って来た。
 また、争いが起こるのだろうかと、アルベルトは、眉の辺りを曇らせる。
 「ジェロニモが、用心に、ガードをもうひとり増やすそうだ。しばらく、黒のボルボで外出も出来そうにない。」
 グレートが、おかしそうに笑った。 
 ごく私的な外出---つまり、アルベルトに会いに来る時など---の時に使うボルボは、ジェロニモが運転し、他にボディーガードはつけない。
 つまりしばらくは、アルベルトにこうして会いに来る時でさえ、外では、2、3人の護衛が周囲を見張り、ドアの外には、おそらくジェロニモが立っているということになる。
 部屋の中から、どんな声や音が聞こえようと、眉ひとつ動かさないだろうジェロニモを想像して、アルベルトは不謹慎だと思いながら、軽く微笑む。
 「で、おまえさんの方はどうだ。」
 いきなり話を振られ、アルベルトはさっと笑みを消した。
 「別に、何も、取り立てて話題にするほどのことも、ない。」
 不自然な部分で言葉を切りながら、口元を隠すために、ワインを一口飲む。
 「相変わらず、はやらない書店の店主だ。」
 「はやらない割りには、人が入ってるようじゃないか。」
 さり気なく、グレートが、凝視ではなく、アルベルトを見つめた。
 ふと、落ちる沈黙に、動揺を押し隠して、アルベルトも、グレートを真っ直ぐに見つめ返す。
 目を反らしたら、その瞬間に、舌が滑るままに、心の内にあることを、すべて言葉にしてしまいそうだった。支離滅裂に。
 「あの赤毛の坊やか、前におまえさんが、取引の時に店にいて、追い出せなかったとかいう。」
 覚えていたのかと、アルベルトは、思わず舌を打ちたい気分になる。
 空になったグラスを差し出し、またワインを注いでくれるように目顔で促す。
 会話のリズムを中断して、さり気なく、グレートから視線を反らした。
 「ああ、うちで雇ってくれって、また来た。断ったら、少しばかり怒らせた。そこにあんたが来合わせたわけだ。」
 あの時の、険悪な空気の言い訳のために、アルベルトは、素早く頭を巡らせる。
 半分は、ほんとうにジェットが口にしたことだと思いながら、グレートが、アルベルトの言うことをそのまま信じてくれるだろうかと、思った。信じるわけがないと、知りながら。
 こんな嘘でごまかせるほど、グレートは愚かではないし、愚かなら、小さくはあっても、組織を統べることなど、できるはずはない。
 それでも、自分のために、だまされることを選んでくれはしないかと、アルベルトは、心の底から祈った。自分のために、愚かさを装ってくれはしないかと、馬鹿げたことを思った。
 それは、俺を愛してるかと訊くことと同じだと、アルベルトは気づかなかったけれど。
 「しつこく戻って来るようなら、ジェロニモにでも、話をつけさせればいい。」
 まだアルベルトを見つめたまま、グレートが、そう言った。
 ふと、緊張の糸が、ゆるむ。
 グレートが、喉を大きく反らして、ワインのグラスを空にした。
 その、喉の辺りに寄ったしわを見ながら、アルベルトは、時間の長さを思った。
 一緒に過ごしてきた、気の遠くなるような、それでも、過ぎてしまえば一瞬の、長い長い時間を思った。
 グレートは、かたんと音を立てて、グラスをカウンターに置き、それから、床に下りてきた。
 湯の中につかっていた、アルベルトの右腕を持ち上げ、シャツの袖が濡れるのも構わず、バスタブの縁に置いてあったスポンジで、その腕を、洗い始める。
 「昔はよく、あんたに体を洗ってもらったな。」
 「まだ、腕が使えなかった頃だ。」
 ふたりで、声を合わせて笑う。
 「シャツのボタンも、止められなかった。」
 「靴紐を結ぶのが、いちばん大変じゃなかったか。」
 鋼鉄の腕に、柔らかなスポンジを滑らせ、泡を流す。
 グレートの手に、自分の掌を乗せて、アルベルトはその動きを止めた。
 「あんたも、一緒に入るか?」
 いとしさと、感謝を込めて、アルベルトは訊いた。
 上目に、笑みの浮かんだ視線を投げて、グレートが、なぜか照れくさそうに笑う。
 「いや、おまえさんが終わってから、ゆっくりシャワーでも浴びるさ。」
 その笑顔が、どこか痛々しく見えたのは、アルベルトの錯覚だったのだろうか。
 湯の中から立ち上がったアルベルトの前に、グレートが、大きなタオルを広げた。
 泡のついた体を包み、水滴を拭き取る。昔まだ、アルベルトがもう少し、小さかった頃と同じように。
 肩から羽織ったタオルで前を隠して、そのまま、アルベルトは、グレートに抱きついた。
 「・・・・・・会いたかった。」
 心を込めて、そう言った。
 何も言わず、グレートが、アルベルトの背中を叩く。
 熱くなる躯はない。それでもここには、変わらないぬくもりがあった。