「あらし」
16) At Risk
ジェットが店の中に入って来た時、もう、アルベルトは、眉すら動かさなかった。
ジェットも奇妙に無表情で、いつものように抱えて来た、コーヒーと紅茶の紙カップの乗った紙のトレイをアルベルトに差し出し、短く、よォ、と言う。
「取引、うまく行ったのか。」
いつもよりは重い口調で、ジェットが訊いた。
「ああ、うまく行った。」
冗談とも本気とも、どちらともつかない声で、アルベルトは平然と答えた。
掌に、おそらく熱いのだろうカップを、アルベルトは右手で取り上げる。コーヒーの色のつもりなのか、沈んだ茶色を背景に、黒と赤で店の名前が印刷してあるその大きなカップで飲む紅茶を、実は美味いと感じ始めていることに、初めて気づく。
水が違うのかなと、わざと埒もないことを考えながら、熱いそれを、一口すすった。
「・・・オレ、アンタの何なんだ?」
まるで世間話のように、ジェットも、コーヒーをすすって、そう口火を切った。
「・・・どうしてだか、店にちょくちょく顔を出す、ギャングくずれのチンピラ。元強盗。腕はあんまりいいとは言えない。」
棒読みに、上目にジェットを見て、アルベルトは素直にそう言ってやった。
ふん、とジェットが言った。
「強盗の腕はまずくても、あっちはまあまあじゃないのか。」
下卑た形に、唇を歪めると、目の色まで下品に見える。アルベルトは、ふと眉をひそめた。
「・・・アンタにくっついてると、なんか、いいことありそうなんだよな。」
にやりと笑って、せいぜいいきがって見せるのが、いっそ可愛らしい。
今日は、ひどく落ち着いていた。ジェットを目の前に、取り乱すこともなく、胸がざわめくこともない。
夕べグレートに、ようやく抱かれたせいなのだとわかっていて、思わず口元がゆるみそうになる。
グレートとの、重ねて来た時間の長さと濃さに比べれば、突然現れて、時折心を乱す、この若い男など、取るに足らないと、心の中で思う。
いつも、誰に対してもそうするように、薄いカーテン越しに接しているような、そんなつもりで、アルベルトは、ジェットをふと遠いと感じていた。
近寄せるべきではない。理由はさまざまだけれど、あちら側に置いて、うっかり手など触れるものではない。
「疫病神かも、しれない。」
ははっと、ジェットがばかにしたように笑う。
信じてなぞいないと、その口元が言っていた。
いつもようには流れない会話に、それでもアルベルトは不満もなく、そうとは思わずに、目に映るひとつびとつを、まるで隠し事のように、グレートと比べていた。
唇の皮膚の温度も、指先の滑らかさも、骨の硬さも、筋肉の形も、何もかもが違う。
それなのに、自分を見る、ふたりの眼差しが、似ていると思うのは、どうしてなのだろう。ジェットのそれの方が、真っ直ぐで激しい。それでも、瞳の光の底に燃える、何か冷たく悲しげな色は、同じに見える。
その色を見きわめようと、ジェットの右瞳に向かって目を細めた時、ジェットが手を伸ばして、アルベルトから、紅茶のカップを取り上げた。
カウンター越しに首を伸ばして来て、そのまま唇を重ねる。
いつものような、奪うような激しさはなく、まるで風になぶられるような、軽く触れるだけのキスに、ふと、静かだった躯の中が、ごとごとと音を立てる。
もっと、と思った時には、唇は離れていた。
「その匂い、あのオヤジのコロンか?」
茶化すように言われ、アルベルトは、思わず頬を硬張らせた。
髪か首筋に、残り香があったのだろうかと、思わず左手を伸ばしそうになってから、語るに落ちる、とそんな声が聞こえる。
動きかけた左手を、カウンターの奥で握りしめて、アルベルトは、思わずジェットをにらみつけた。
ジェットの瞳の光が、ふと弱まる。
「店閉めるの、何時だ?」
目を反らして、そう尋いた。
「5時。」
ジーンズの、後ろのポケットから、小さな紙片を取り出して、アルベルトに差し出した。
「待ってるから、来いよ。」
読みにくい字で、住所と電話番号が書いてあるのを素早く読み取って、アルベルトは上目に、ふと眉を寄せる。
「オレのアパートメントだよ。待ってる。」
短く、まるで、怒ってでもいるかのような声で、ジェットはそう言って、アルベルトの返事も聞かずに、足早に店を出て行った。
しわの寄った紙片に唇を寄せ、アルベルトは、目を閉じた。ジェットの匂いが、染みついているような気が、した。
注文したコーヒーに、何を入れるのかと訊かれてから、ジェットがコーヒーに何を入れるのかを知らないことに気づき、アルベルトは、意味もなく頬を赤らめてから、ブラックに、砂糖とクリームを、別につけてもらった。
初めて入った、街のあちこちに店のある、コーヒーショップのチェーン店だった。
明るい店内には人があふれ、揃いの制服を来た女性たちが、注文を受ける。こんな騒がしいところでも、ジェットのあの長身と赤い髪は目立つのだろうと思いながら、アルベルトは、受け取ったコーヒーと紅茶を抱えて店を出た。
ジェットのくれた住所は、あの辺りかと見当をつけた通りの場所で、いきなり人通りが絶え、車の通りも少なくなる。車で来るなとは言わなかったということは、車に乗っていて襲われるほど、物騒ではないらしい。
それでも、昼間でも、ひとりでこんなところへ来ようとは、絶対に思わない。
来る前に、市内地図で確かめた、裏通りへの小さな通りを曲がって、それからまた、ジェットのアパートメントのある通りを探す。予想通りの場所に住んでいるなと思った時、目指す、小さな茶色い建物を見つけた。
紙片に記された番号をもう一度確かめてから、建物の裏にある、比較的大きな駐車場に車を入れ、周囲に人の気配がないことを確かめながら、車を下りた。
ここらにも、グレートはなわばりを広げているのだろうかと思いながら、重々しい鉄の扉を開ける。上に伸びる暗い階段を上がりながら、ふと、何をしているのだろうかと、思った。
友人を訪ねるように、見えるだろうかと思ってから、ジェットが言った、アンタの何なんだと言う声が、また聞こえる。
何なのだろう。近づくべきでない、触れるべきでない、そう思う端から、体が心を裏切る。グレートに会うたび、もうジェットと会うのはやめようと思うのに、会えば、こうして、まるで糸に引かれるように、ジェットに魅かれてゆく。
階段で、一度足を止め、それから、思わず垂れた頭をまた真っ直ぐに持ち上げ、アルベルトは再び足を前に出した。
ぽつんぽつんと、廊下の両側に並んだドアの番号を探して、ようやく目指す番号を見つけてから、アルベルトは、ゆっくりとドアを叩いた。
ばたばたと足音がして、確かめもせずにドアが開く。
本人がそうと見せたがるほど、危険な生活をしているわけではないのが、そんな仕草に現れている。アルベルトは思わず、ドアの中から顔をのぞかせたジェットに、微笑みかけていた。
「よォ。」
差し出したコーヒーの乗ったトレイに、素直にうれしそうな表情を浮かべる。
自分の場所に、アルベルトがいるせいなのか、ジェットはいつもよりくつろいで、子どもっぽく見えた。
中に入ると、散らかった狭いアパートメントの中は、いかにも若い男の住まいだった。
入ってすぐ左手に小さなキッチンがあり、ようやくテーブルと椅子が収まっている。その奥に、ドアがふたつ。おそらくバスルームと、ベッドルームに違いなかった。
奥に、小さな、リビングのスペース。目新しいものなど何もない、金のない人間たちが、ひっそりと住む類いの場所。
ここに、それなりの家具があるのが、そうとは口にはせずに、アルベルトには意外だった。
以前働いていたという、車の修理工場では、それなりに大事にされていたのかもしれないと、ふと思う。
思ったよりましな生活をしているのを目の当たりにして、アルベルトは、ほんの少し安心していた。
キッチンの椅子に腰を下ろして、自分のために持って来た紅茶を、目の前に置く。
ジェットは、そんなアルベルトを、観察するように、黙ったままで眺めていた。
「あのオヤジと、今夜は会わないのか?」
挑発するつもりか、ジェットがそんなことを言う。
アルベルトは、苦笑を刷いた表情を作って、ジェットを見た。
「どうしても、彼を、俺の恋人か何かにしたいらしいな。」
「アンタが、オレを、強盗呼ばわりしたみたいにな。」
意趣返しのつもりか、ジェットが、にやにやと笑ったまま、そう切り返してきた。
「アンタ、そう言いながら、オレがいきなりアンタのアパートメントに行ったら、困るんだろ?」
無表情を保ちながら、口元が歪むのを止められない。
ジェットがまた、にやりと笑う。
ベッドルームのドアの傍に立っていたのに、カップの飲み口の辺りを、歯で噛みながら、アルベルトの方へ近づいて来る。
今日は、ひどく胸元や脇のあいたタンクトップを着て、皮膚にはりつくような、細いジーンズをはいていた。あらわになった筋肉や骨組みの形が、掌にさえ感じられるような気がした。
手が、首の後ろにかかる。髪をつかまれ、後ろに引かれる。
唇が近づいてくるのを見ながら、目を閉じた。カップを握ったままの手が、震えていた。
ことんと、小さな音に目を開けると、ジェットが、持っていたコーヒーのカップをテーブルに置き、空いた手を、シャツの襟元から中へ滑り込ませてくる。
それをシャツの上から押さえて、アルベルトは慌てて止めた。
慌てたふり、だったのかもしれない。ジェットが、唇を舐めながら、下卑た目つきで、アルベルトを見下ろしていた。
「気取るなよ、今さら。オレとヤリに、ここに来たくせに。」
また、唇が重なって、腰に回った腕が、アルベルトを椅子から引きずり上げ、そのまま、さっきジェットが立っていた辺りへ連れてゆかれる。
背中に壁が当たり、アルベルトは、思わずジェットの首に両腕を回した。
ジェットに触れながら、右手の革手袋を外す。金属の指先を、硬い肩に食い込ませた。
コートが肩からずり落ち、するりと袖を抜くと、足元に、くしゃくしゃと丸まった。
ジェットはまだ、服を脱がそうとはしない。
ぺろりと、アルベルトの唇を舐める。息がかかる近くで、ジェットが囁いた。
「オレとヤリたくて、ここに来たんだろ?」
視線を反らして、アルベルトは唇を噛んだ。
ジェットが、馬鹿にしたように鼻を鳴らして、手を下に伸ばす。
触れられ、長い指が、布の上から焦らすように絡みつく。
思わず後ろに引こうとした腰は、しっかりと引き寄せられたままだった。
また、ジェットが、唇をなぞるように舐めた。
その舌を絡め取ろうと、ねだるように舌を差し出すと、ジェットは意地悪な表情で、あごを引いた。
「いいツラだな。どっかの、安っぽい淫売みたいだ。」
またジェットが、指を動かした。
侮辱に反駁する前に、伸びた喉から、思わず声がもれる。ジェットの腕に指先を食い込ませ、アルベルトは、続けてもれそうになった声を、必死で耐える。
「・・・・・・さわって、ほしいか?」
からかうように、耳を噛みながら、ジェットが訊いた。
うなじに、ぞわりと鳥肌が立つ。全身から、針が吹き出すような感覚に、アルベルトは我を忘れて、ジェットにすがった。
「自分で服脱げよ。前、全部、開けろ。」
そそのかすように、ジェットが言う。口調は甘かったけれど、命令なのだと、わかっていた。
絶望のふりをした、期待の色を瞳に刷いて、アルベルトは、震える指を、シャツの前に伸ばす。ジェットから視線を反らして、どうしても羞恥に目元が薄く染まるのは止められず、ひとつひとつ、ボタンを外す。
シャツの裾をズボンから抜き、音を立てないように、ベルトを外した。
それから、数瞬、躊躇のために、指先を迷わせた後、ズボンの前を、ゆっくりと開く。
ジェットが、舌を鳴らした。
長い指が、胸に伸びる。腹を滑り、脇に迷う。アルベルトは目を閉じて、ジェットの指の腹の皮膚を、全身に感じようとした。
「ちくしょう、なんでアンタ、こんなに------」
その先を、ジェットは飲み込んで、床に向かって膝を折った。
全身が、いきなりたわむ。ジェットの、暖かな舌が、指よりももっと柔らかに、絡みついてくる。
体を折って、アルベルトは、ジェットの赤い髪を強く握った。
腰を抱え込まれ、意外なほどの優しさで、ジェットが包み込んでくる。
あまり慣れてはいないのだと、明らかにわかるぎこちなさだったけれど、触れられたくて、疼き続けていたアルベルトには、充分だった。
長く続けることはせず、唇を外して、アルベルトの体を裏返すと、壁に胸を押し付けて、ジェットがすぐに入り込んで来た。
激しさに、喉がとがった音を立てる。
躯を繋げる痛みよりも、押し潰される胸の方が、痛かった。
ジェットの形に、必死で添おうと、躯が勝手に開いてゆく。
体から滑り落ちた服が、腕や膝に引っかかり、あるいは床に、波線を描いて、小さな山をつくる。
壁に打ちつけられる肩の骨が、硬い音を立てた。
アルベルトを踏みつけにしたくて、ジェットが、激しく躯を動かすけれど、アルベルトの中で思うようにならずに、金属の方の肩に強く歯を立ててくる。
耳に届く、歯と金属の触れ合う、いやな音を消したくて、アルベルトは肩を振って、ジェットの歯を外した。
ジェットが、意地になったように、今度は、首筋に歯列を食い込ませてくる。
血が出るかと思うほど、きつく咬みつかれ、アルベルトは、痛みにうめいた。
ちくしょう、と、ジェットがまた吐き出した。
いきなり躯を外され、どうしたのかと肩越しに振り返るより早く、ジェットが首の後ろを強くつかむ。そのまま引きずられるように、半裸のままで、バスルームに連れ込まれた。
洗面台にはめ込まれた、壁いっぱいの鏡の前でまた、後ろから、躯を押しつけられる。
掌に、鏡が冷たい。息を吐くたび、目の前が、白く曇った。
ジェットに突き上げられるたび、体を支える腕が、鏡の表面をこすり、きゅっきゅっと、似合いもしない、かわいらしい音を立てる。
ジェットの容赦のない手が、髪をつかんで、うつむいていた顔を、鏡の前に、晒すように引き上げる。
「見ろよ、ヤラれて悦んでるぜ、アンタ。」
薄目を開けて、けれど視線の先に映したのは、後ろで、アルベルトを踏みつけにしようと必死になっている、ひどく追い詰められた表情の、ジェットだった。
追っていたはずなのに、いつの間にか、追われる立場になっている。
こうして、力いっぱいアルベルトを侵しながら、いつの間にか、取り込まれているのは自分の方なのだと、気づいて、慌てている。
もう、遅いのに。
アルベルトを屈服させて、引き止めるために、もっと激しく、もっとしたたかに、もっとみだらに躯を繋げ合う以外、ジェットは術を知らない。けれどもう、限界が近づいている。
まるで底なし沼のように、ジェットはどこまでもアルベルトの中に堕ちてゆく。侵入は、いつの間にか、捕縛に豹変していた。
ふと、音が消えた。自分の息遣いの音さえなく、ただ、ふたつの躯だけが、ゆっくりと、大きく動く。
掌の中に落ちてゆくのは、どっちなのだろうかと、激しさを増すジェットの動きに、折れるほど背骨をきしませながら、アルベルトは思った。
誰の掌になのだろうと、思った時に、不意にジェットが、アルベルトの両脚の間に、生暖かく果てた。
背中に体の重みを預けて来ながら、また首筋に咬みついてくる。
ろくに触れてももらえなかったアルベルトは、まだ内側に熱をこもらせたまま、背中で喘ぐジェットの胸の形に、焦れったそうに、肩を揺らした。
どんな形でもかまわない。けれど、隔てるもののないまま、正面から抱き合いたいと、唐突に思う。
そう思ったまま、体を回し、ジェットを正面から抱き寄せた。
近づくままに唇が絡み、ジェットは、アルベルトの足を抱え上げ、そのまま、洗面台の上に抱き上げた。
ようやく余裕を取り戻したように、またジェットが、にやりと笑う。
汗の浮いた額に、アルベルトは、引き寄せられるように、唇を滑らせた。
ジェットが、どこから取り出したのか、白い錠剤を、アルベルトの目の前に差し出した。
アルベルトが見ている前で、それを半分に噛み砕き、ごくりと飲み下す。
「何だ?」
不安になってそう問うと、残りの半分を、アルベルトの唇に向かって突き出してくる。
「アンタも飲めよ、ふたりで、楽しもうぜ。」
錠剤のぎざぎざの断面が、唇に触れる。ジェットから視線を反らさないまま、アルベルトは、ジェットの指ごと、錠剤を舌の上に乗せた。
おそらく、催淫剤の類い---エクスタシーと呼ばれる---の薬だろうと思いながら、苦味に顔をしかめてから、アルベルトはゆっくりとそれを喉の奥に運ぶ。
まだ熱い体をすりつけて、ジェットの腰に、両脚を絡めた。
薬が効いてくれば、理性も羞恥も失くして、粘膜と体液の中に浸り込むことばかりに夢中になれる。醒めた時には、自分の晒した醜態など、かけらも覚えていない。
その方がいい。これがもし最期になるなら、意識を失くして抱き合う方がいい。
言い訳だと、頭の中で、自分に向かって呟きながら、アルベルトは、せわしくジェットの背中に両手を回した。
虫けらのように、思考も理性も失くしてゆく自分を、どこかで醒めた目が見ている。
飽きるほど与えて、与えられれば、終わりにできるのかもしれないと、絵空事が、頭の隅をかすめた。
ふたつの、熱にただれてゆく躯の間で、まだ触れてもらえずに、今は痛みすら訴え始めている醜悪な器官に、アルベルトは、そっと冷たい右手を伸ばす。
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