「あらし」
17) Morning After
すっかり、夜は明けきっていた。明るい部屋の中の、乱れに乱れたベッドの上で目を覚まし、一瞬、ここがどこなのかわからずに、思わず怯える。
それから、隣りで、死んだように眠っているジェットを見つけて、ああ、とため息をこぼした。
このアパートメントの、ありとあらゆる場所で抱き合って、果てることもなく絡み合った後、ジェットに組み敷かれた下で、不意に襲われた睡魔に、目を閉じたことだけは覚えている。
むりやりねじ曲げた筋肉や関節が、ずきずきと痛む。同じほど、額の近くで頭痛がした。
何時だろうか、と思ってから、そんなことより、一刻も早くここを出て、自分のアパートメントに帰らなければと思った。
もう一度ジェットを振り返り、そっとベッドを降りる。
一体どこに服を脱ぎ散らしたのか、覚えてすらいなかった。
それでも、ドア近くの床に見つけた自分のシャツを羽織り、ボタンをとめながら、視線の先に、残りの服や下着を探した。
「帰るのか。」
不意に後ろから声を掛けられ、ぎくりと肩が跳ねる。
硬張った頬の線を、あえて無表情に保っていることを確かめてから、肩越しに、顔半分だけ、声の方へ振り向いた。
「起こしたか。」
わざと、優しいふりをした。
ジェットがだるそうに体を起こし、目元をこすった。
ベッドから降りて、まだシャツのボタンをとめているアルベルトの、傍へ来る。
「帰るなよ、まだ。」
昨日の夕方、ここへ来て以来、もう何度同じことを言われたのだろう。
テープの再生のように、ふたりはまた、同じ会話を繰り返している。
「ここに、いろよ。」
「いて、どうする?」
ジェットに背中を向けたまま、平たい声で訊いた。
その問いには答えないまま、首筋に、ジェットが唇を当てて来た。
その唇に、一瞬優しい気持ちになってから、それから、冷淡に肩を振って、やめろ、と短く言い捨てる。
降参、あるいは、皮肉を込めて、仰せのままに、という、両手をひじから曲げて、肩の線に上げる、そんな仕草をした。皮肉の方だと知っていて、アルベルトは、そんなジェットの仕草に、眉ひとつ動かさず、表情のない一瞥をくれる。
袖のボタンをとめる手つきを眺めていたジェットが、不意に、静かに、つぶやいた。
「アンタ、卑怯だな。」
ジェットの、言葉の真意ははっきりとはわからず、けれど、ジェットのつぶやきの意味は、わかる。
受け取った言葉の不快さに、アルベルトは、そうと明らかに見えるほど、強く眉を寄せた。
今度こそ、体ごとジェットの方へ振り返り、ふたりでまだ、絡み合った名残りのまま、決して優しくはない視線を交わす。
何も言わずに、黙ってここから消えようとしたことを、卑怯だと言っているのか、こんなになってもまだ、ジェットとは気まぐれに過ぎないというポーズを崩さないことを、卑怯だと言っているのか、それとも、ジェットとグレートの間を、ふらふらとさまよっていることを卑怯だと言っているのか、どれなのだろうか、それとも全部なのかと、そんなことを考えた。
どれにしても、あまり違いはない。自分が卑怯なことをしているのは、百も承知だった。
それでも、ジェットにこうして、面と向かって言われれば、腹も立つ。それが、真実だからこそ、余計に。
「なんとか、言えよ。わざわざここまで来て、散々好き勝手して、アンタが満足したら、ポイか?」
好き勝手は、そちらも同じだろうと、ジェットにそそのかされた姿態を、思い出しながら思った。
それでも、逆らわなかったのは、受け入れたと同じことだ。
ジェットがどう表現しようと、アルベルトがどう思っていようと、ふたりが共犯者であることには、変わりはない。
一緒に、グレートの目を、かすめている。
ふと、視界にジェットが遠くなる。グレートを思い出した途端に、ジェットの姿が、いきなり小さくなった。
目を細めたのを、小馬鹿にした仕草だと誤解したのか、ジェットの腕が伸びてきて、骨が折れるほど強く、左の二の腕をつかんだ。
そのまま揺さぶられ、がくがくと首を振りながら、こめかみに血管を浮かせ、首筋を赤く染めているジェットを、目の前に眺めていた。
「なんとか、言えよ、アンタ。オレを好きでも嫌いでも、オレとヤリたいでも、なんでも。」
人形のように、ジェットに揺さぶられるまま、アルベルトはただ、目の前で怒りを吐き出すジェットを眺めていた。
その怒りに、悲しさが混じっているのを感じながら、何を言っても、真実からは程遠いことを知っていて、アルベルトはわざと無言のままでいた。
沈黙に焦れて、ジェットが、アルベルトの体を引き寄せた。
引きずられ、放り投げられるように、またベッドに押し倒される。
腕をつかんだ手で、アルベルトを押さえつけ、上に乗ったジェットが、ほんの一言だけでも、自分に言うべきことはないのかと、すがるように、アルベルトを見下ろした。
その、怒りを浮かべながら、泣きそうに潤み始めている緑色の瞳を見返して、アルベルトは、無表情に、無言のままでいた。
いきなり、ジェットの掌が、首にかかる。
大きな両手が首に重なり、指で締めつけ、掌で押し潰した。
両手をベッドに投げ出したまま、まるで、ジェットがそうしやすいように、そっと喉を反らす。
ジェットの額に、汗が浮いているのが、少しぼやけ始めた視界に見えた。
そうか、こういう形も、あったのだと、思う。
グレートを失うことが怖いなら、自分が消えればいい。ジェットを切り捨てることができないなら、自分が去ればいい。そうすれば、もう、誰かを傷つけることも、それによって自分が傷つくことも、なくなる。すべてを、終わらせることができる。
ジェットの体の重みの下で、アルベルトは、自分が微笑んでいるような気がした。
ぎくりと、喉の奥で、骨が鳴った。
酸素の届かない首から上が、割れそうに痛む。知らずに胸を喘がせて、入って来る入り口が、今はない酸素を取り込もうと、少しだけあがいた。
もっと、残酷に扱われた。もっと無残に、殺されるはずだった。そこから救い上げられ、生き延びたのは、幸運だったのだろうか、無駄だったのだろうか。グレートは、自分を救ったことを、この長い時間の間、一度も後悔しなかったのだろうか。
グレート。
愛しい男の名を、消えようとする意識の中で呼ぶ。そこから先に続くのが、謝罪の言葉なのか、感謝の言葉なのか、わからないまま、自分を殺してくれるために、あらん限りの力を腕に込める、目の前の、若い男の顔を、ぼやけ始めた脳裏に、最期に焼きつけようとした。
ジェット。
唇が、その名を、形づくった。
ひどく、いとしげに。
それから、不意に、喉を締め上げる手が、遠のいた。
ゆっくりと広がる気管に、空気が大量に入り込んでくる。それにむせ、アルベルトは、体を丸めて咳き込んだ。
両手をまだ、首を締める形に宙に浮かせ、ジェットが呆然と、体を縮めているアルベルトを眺めている。
体を曲げ縮め、ぜいぜいと喉を鳴らして、アルベルトは、苦しさに涙を浮かべて、咳き込み続けた。
両手を、ようやく体のわきにぶらりと落とし、ジェットが、ひどく暗い声と表情で、アルベルトに言った。
「とっとと、帰れよ、アンタ。」
痛む喉をさすりながら、アルベルトはのろのろと体を起こし、ジェットの方は見ずに、ベッドを降りた。
ふらつく足元を、それでも必死に踏みしめて、外の明るさを求めて、部屋を出る。
自分のアパートメントに戻って、すぐに熱い湯で体を洗い流した。
ジェットの匂いが、あちこちに残っている。
服で隠せないところには、さすがに遠慮したのか---似合わない気遣いだと、思わず苦笑する---、それでも腿の内側や、二の腕の内側に残る紅い痕の上を、ごしごしと、力任せにこすった。
首に、うっすらと、指の跡が残っていた。
スカーフか何か、巻いて隠すかと、怒りもわかずに思う。
淡々と、起こってしまったことと、その痕跡を、何の感情の起伏もなく受け入れていた。
殺されかけたのだと、表面の事実だけを思って、それから、自分を殺させるために、ジェットを挑発したのだろうかと、自分の心の奥底を、ひどく冷静に覗き込む。
そうなのだろうか。殺してくれる誰かを、ずっと探していたのだろうか。
鏡を覗き込んで、自分の、水色の瞳を食い入るように見つめて、アルベルトは、そうなのかもしれないと、思った。
また、殺されそこねた。
右手で、顔の半分を覆って、鏡を見ながら、薄い笑いをこぼす。
ベッドにもぐり込んで、毛布を、きつく体に巻きつけた。今はただ、ひとりで眠りたかった。
傷ついた獣が、回復のためにそうするように、アルベルトは、静かに体を丸めて、眠り続けた。
店も無断で閉めたまま、部屋からは一歩も出ずに、そうして3日を過ごした後、突然グレートがやって来た。
白い薔薇の花束を抱えて、奇妙な明るさを振りまきながら、グレートは、部屋に入って来た。
「店が閉まってたから、風邪でも引いたんだろうと思ってたんだが・・・忙しかったのさ。悪かった。」
花は、見舞いのつもりなのかと、そう合点が行って、アルベルトは強く匂う薔薇を、とりあえずキッチンのシンクに置いておいた。
いれた紅茶には、まだ手もつけず、なぜかグレートは、伏せ目に、うかがうように、アルベルトを見ている。
きっちりと、首までボタンをとめていても、まだ、うっすらと残る指の跡を完全に隠せないのを、少しだけ気にしながら、そう言えば、言い訳を考えもしなかったなと、心のどこかでおかしく思う。
紅茶から立っていた湯気が消え、明らかにぬるくなってしまった頃、ようやく、グレートが口を開いた。
「どうやら、話をした方が、良さそうだ。」
静かに、穏やかに、そう言った。
言葉を受け取って、グレートを凝視した後、少しだけ、宙に視線を這わせた。
「話・・・?」
わかっていて、それでも、確かめるように、繰り返した。
「害はなさそうだ、それでも、悪い虫には、違いない。」
声は静かなまま、まるで、諭すように、グレートは言った。
「おまえさんは、どうしたい、アルベルト?」
ジェットという名前を、知らないのか、それともわざと口にしないのか---グレート自身の怒りのためかもしれなかったし、アルベルトへの気遣いかもしれなかった---、そこだけぽっかりと空のまま、グレートは話を続ける。
現実感のない空間へ、いきなり引きずり込まれて、アルベルトは、ただぼんやりと、そこに意識を漂わせていた。
どうしたいのだろう。一体。自分は、どうしたいのだろう。
ずっと、考えていたことだった。答えを引き出すつもりはなく、引き出せもせず、それでもずっと、心の底で、繰り返していた問いだった。
アルベルトは、ふわふわとした視線をグレートに当てたまま、ゆっくりと首を振った。
膝に肘を乗せ、両手を組んで、そこにあごを当てる。グレートが、小さくため息をこぼした。
「おまえさんが、あのボウヤに惚れてるってんなら、おれの方に、言うべきことはないさ。寝取られ男で、恥をかかされたコキュってだけの話だ。」
皮肉を押さえて、自嘲を込めて、グレートが唇を薄く開く。
アルベルトは、また何も言わずに、首を振った。
膝に乗せた手が、知らずに、そこに爪を立てていた。
「だから、おまえさんの口から、あのボウヤが何なのか、聞きたい。」
手が、震えていた。
答えが見つからずに、焦れた。
惚れてるのかと問われて、そうだとは、言えない。そんな気持ちがあると、考えたこともない。それでも、ジェットを失うと思っただけで感じる痛みは、何なのだろう。
卑怯だと、自分を罵ったジェットの声を思い出す。
ああ、俺は卑怯者だ。
どちらも選べない、選びたくない、選べるはずがない。
それでも。選ばなければ、それぞれが傷つくのだと、わかっている。
「・・・・・・わからない。惚れてるとか、そんなことじゃない。でも・・・」
そこから先が、続かなかった。そこから先に、何を言うつもりなのか、自分でわからなかった。
グレートから、うつむいて、視線を外した。でも、の先を、自分自身に問い詰めるのが、怖かった。
またゆっくりと、顔を伏せたまま、首を振る。
グレートが、深々と息を吐いた。
長い沈黙を、ふたりで分け合った後、グレートが、こめかみの辺りをもむような仕草をしながら、手の陰で言った。
「・・・・・・運の良いボウヤだ。」
ぼそりと、言葉を落とすようにそう言ってから、グレートはゆっくりと立ち上がった。
紅茶は、手もつけられないまま、テーブルの上で冷めてしまっている。
傍に置いたコートを取り上げ、立ち去ろうとしながら袖を通す。
アルベルトも慌てて立ち上がり、その後を追った。
いつもよりも、遠く見えるその背中を追いながら、アルベルトは、何か、言うべき言葉を探している。
グレートに、何か、伝えるべき言葉を、必死で探している。
グレートは、玄関のドアの手前で足を止め、思いついたように、キッチンの方へゆくと、シンクに横たえられた薔薇の花束から、一輪だけ、抜き取った。
いつもの、優雅な手つきと仕草で、白い薔薇の花弁に鼻先を寄せる。
「いい匂いだ。ゆっくり、楽しむといい。」
花の陰で、口元が、うっすらと優しく微笑んだように、アルベルトには見えた。
アルベルトは、思わず腕を伸ばして、叫ぶように、言った。
「俺は、あんたを、愛してる、グレート。」
グレートが、薔薇を口元に添えたまま、横顔だけでアルベルトを振り返る。
唇が、かすかに震え、それから、きしんだ音でも立てそうに、ゆっくりと開いた。
「ああ、知ってるさ、My Dear、だから、おれは、あのボウヤのことが、苦しい。」
言葉を絞り出すように、グレートが言った。
こちらに見える横顔が、苦痛に歪んでいた。
「おまえさんが、心のどこかで、あのボウヤとおれを比べてるのかって、そう思うだけで、死にたくなる。」
いきなり、頬を張られたように、思った。
グレートの言葉に、呆然としたまま、アルベルトはそこに立ち尽くした。
そんなアルベルトを、また苦痛を込めて見つめた後、グレートは、薔薇を手にしたまま、ドアの向こうに消えた。
まだ、宙に腕を伸ばしたまま、つかむ何もなく、去ってゆくグレートの足音を、アルべルトは遠くに聞いている。
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